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2011年2月26日 (土)

263 『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』 秋尾沙戸子 初版2009年

アメリカ追随を続けてきた日本のあり方に
多くの人が首をかしげ始めたいま、
あえて占領に光をあてたのは、
安直なGHQ批判で戦後を切り取る声に
疑問を感じたからだ。

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生まれてこの方、
当たり前だと思ってきたことのほとんどが
アメリカと無関係ではなかった。

event概要

占領期、明治神宮に隣接してひとつの「街」を作り上げた米軍と家族たち。フェンスに囲まれたそのエリアから、日本人の「アメリカ化」の波は広がっていった ―。焦土の中に降り立ったGHQは、東京をどうデザインし、我々の生活に何を埋め込んだのか。隣人として身近で接した市民は、その「戦略」をどのように肌 身で受け止めたのか。日米双方の新資料・貴重な肉声をもとに、占領を市民の目線から捉え直す。

event読むきっかけ&目的&感想

ポッドキャスト『ジブリ汗まみれ 2010.12.28』後半、『EnterJam 町山智浩のアメリカ映画特電 第103回 2011.01.16』、『ちょっきりこっきりヴォイニッチ 2011.01.29』終盤で、戦後の邦画と自身の経験に絡めて、軍国主義的精神がどう変遷していったかを話していて面白かった。でもって、その変遷の元には、GHQ政策が深く関わっているらしかった。

日本はアメリカ合衆国の49番目の州だと皮肉るコメンテーターの言葉の裏にある感覚の元、どのようにしてアメリカ占領政策が根付き親米感情が高い日本になったかの元、を知りたいと思った。

で、いつものように適当にあたりをつけて、まず一冊読んでみた。

さくら好み ★★★★☆

占領が視界から消えた時代しか知らず、GHQ政策といってもその言葉面しか知らず、そんな私は本書の内容に少なからぬ衝撃を受けた。私の生活がこんなにGHQ政策の影響を受け継いでいたなんて!、と「アメリカによる日本占領」という事実を実感した。良くも悪くもメディアで取り上げられる日米関係を見る感覚が変わった。

読み終わってから、手持ちの『井田由美で聴く「日本国憲法」』を散歩しながら聞きなおしてみたら、以前とは別の見方が出来て面白かった。その何日か後、NHK『ブラタモリ「六本木・完全版」』で江戸時代から戦前戦後の六本木の様子を取り上げていたのを観た後も、何か妙な感慨に耽ってしまった。catfaceflair

event備忘録

◆アメリカによる日本占領の準備

憲法を作成した民生局はGSと呼ばれ、日本国内では25人が働いていて。局長のコートニー・ホイットニーは弁護士出身の共和党支持者だったが、チャールズ・ケーディスなどのニューディーラーたちが、自分たちの理想を実現させようとしていた。彼らは日本の社会構造を根本的に変えることに熱心であり、憲法改正、警察改革、地方分権化、選挙制度改革など、占領初期の民主化を進めた。

「私に限らず、同僚たちは憲法九条には懐疑的でした。防衛を自分の手でしなくてもいいものかどうか、と。しかし、日本の戦争放棄も、マッカーサーの絶対命令だったのです」

戦争放棄はマッカーサー個人の意向だけではなかった。ワシントンが日本の非軍事化を早くから決めていたのである。

アメリカによる日本占領の準備は、真珠湾攻撃の直後から始まっていた。1942年には米国務省の中に東アジア課が誕生し、天皇制の廃止や戦後の日本経済について話し合われた。つまり、戦後、日本と中国のどちらを資本主義国として発展させるかというものである。翌年には、極東地域委員会ができ、具体的な政策が文書化されていった。そうした文書は、1944年に設立された戦後計画委員会で検討され、正式な国務省の見解としての文書となった。

このとき検討された占領は大まかに三段階。武装解除、軍事施設の破壊、軍事占領である。そこでなされるべきことは、軍事査察、経済統制、民主主義思想の普及、文民政府の樹立、そして日本の国際社会への復帰と計画されたのである。

初期には国務省の知日派で策定されていた方針は、やがていくつもの省庁が加わり、その思惑が交錯する過程で、ドイツ占領とのバランスも手伝って、ニューディーラー色の濃い厳しい改革案となっていった。

1944年12月に国務省・陸軍・海軍の三省調整委員会、通称「スウィンク(SWNCC)」が設置され、ここでの決定が占領軍の政策となった。国務省とは別に、陸軍と海軍もそれぞれ、早くから占領の準備に入っていた。

陸軍省は1942年にヴァージニア州シャーロットビルに陸軍軍政学校、翌年には省内に民事部を、44年、ハーバード、シカゴ、スタンフォード、ミシガン、ノースウェスタン大学に陸軍民事要員訓練所を置いた。また、海軍省には43年に地域占領課ができ、コロンビア大学やプリンストン大学に設けられた海軍軍政学校で、司令官などを養成した。いずれも、6ヶ月の養成コース、もしくは2ヶ月の訓練所もしくは軍政学校において、語学や日本研究以外に、国際法、心理学、民事行政、政治学について集中的に学んだ。この後、カリフォルニア州モントレーの民事要員駐屯所で1ヶ月を過ごし、日本に派遣された。

GHQスタッフの中でも、ニューディーラーたりは理想に燃えた改革者だった。根っからの軍人が敗戦国を占領したというのとは違っていた。彼らは、10年前にアメリカでとられたニューディール政策という社会主義的改革を日本にも当てはめられると確信していた。ケーディスはさまにその申し子で、ルーズベルト政権下で、公共事業局、財務省顧問、臨時国家経済委員会委員を歴任したユダヤ人である。彼は日本に自分の理想国家をつくりあげられると信じていた。

こうしたGSのニューディーラーたちと徹底的に対立したのが、G2(参謀二課)のチャールズ・ウィロビーである。ドイツ貴族の血を引く彼は「ミニ・ヒットラー」と呼ばれたいほどナチスに共鳴し、後にスペインのフランコ将軍の顧問になる反共産主義者だった。彼がニューディーラーたちのやり方と相反するのは自明の理であり、保守派の総理大臣・吉田茂とウマがあったのも自然のことであった。GHQのこうした対立は、占領政策に、いくつかの矛盾を生み出した。

◆「日本の婦人参政権

マッカーサーが日本にくる飛行機の中で歩き回りながらホイットニーに伝えたといわれている「五大方針」のひとつにも、婦人参政権が含まれている。アメリカ国内でも日本の婦人参政権は逆効果とする意見が多かったのだが、マッカーサーには信念があったとホイットニーは自著『日本におけるマッカーサー』で明かす。

<総選挙で婦人参政権を要求した当初から、彼の意見に対しては、米国や英国の日本に関する“専門家”の多数が反対した。彼らの意見によると、日本の婦人は夫への服従という伝統にはまりこんでしまっていて、政治的に独自の行動など少しもとれない。したがって婦人に一票を与えるのは、その夫に二票与えることにすぎないというのである。しかし、マッカーサーはそんな言葉には動かされず、依然として婦人参政権は日本の政治に安定と道徳性を与えるに役立つと信じていた>

彼が婦人参政権にこだわったのは、男女平等のためではなかった。婦人が政治に口を出せば、戦争抑止につながると考えたからに違いない。日本の非軍事化に有効な策として、女性の一票が彼の頭に浮かんだのだろう。

◆GHQとの仕事で「アメリカ式」を身につけていった日本の建設業者

<進駐軍工事は、かつての軍工事と同様、至上命令として行われ、工期の延期などはゆるされず、ときには銃剣で督励された。言語や風俗習慣の相違により、意思が疎通しないまま命令をおしつけられ、業者が苦しめられた多くの秘話が伝えられている。その意味では、旧陸海軍の場合より様相はきびしく、建設業者にとって、終戦は戦時状態の終わりではなかった> 『大林組八十年史』

GHQとの仕事は、短い納期の厳守を命じられたり、資材の入手に苦しんだりという厳しさはあったものの、しかし一方で日本の建設業者はメリットも享受していた。日本当局を飛ばして直接現場から口頭命令されることもあり、費用を問わずに現場で設計変更や手直しが求められた。日本官庁の監督検査機構は有名無実化し、資材や物資、食料までもが優先的に特別配給された。闇物資の調達・輸送も警察の取り締まり対象とならず、GHQの証明書で見逃された。GHQと組むかどうかが運命の分かれ目だった。

また、そうした仕事を通して、建設業者も「アメリカ式」を身につけていった。「一連の進駐軍工事で、ダンプカー、ブルドーザー、ショベルカーなどの大型土木機械を駆使した米軍の工事現場に触れ、建設業界の機械化施工を習得し」(『間組百年史』)、また「契約書の書き方にアメリカ式を取り入れた」(『清水建設百八十年』)。

◆「日本に持っていったのはスーツケース2個だけ」

日本政府のバックアップで資材が調達でき、30パーセント前払い、融資付き、納品後の支払いは24時間以内という好条件で仕事ができた。しかし実際には、設備は空襲で破壊され、技術者もいない、電力もないという悪条件の中で短期間に大量受注することには、誰もが前向きになれたわけではなかった。

台所用品や電気機器もその範疇だった。しかも、日本人には馴染みのない品も多い。大小の鍋やフライパンはもちろん、グラス、ディナーセットのほかに、チーズおろし、ポテトマッシャー、レモン搾り器、アイスピック、調味料容れまでGHQでは用意しようとしていた。電気機器においては、電気冷蔵庫、扇風機、電気温水器、電気ストーブ、電子レンジ、電気掃除機、電気洗濯機、トースター、バーコレーターである。最も困難を極めたのは、電気ストーブだった。居間、食堂、トイレ、バスルームそれぞれに必要とした。バスタブに入らないアメリカ人にはバスルームにも電気ストーブを要求した。

「日本に持っていったのはスーツケース2個だけ。最小限の衣類と大切なものだけを詰め込んで、船に乗った」。ワアシントンハイツで暮らしたアメリカ人は一様にそう証言する。ワシントンハイツではそこで生活するにあたって、何もかもがお膳立てされていた。

◆ラジオ番組「真相はこうだ」

日系2世のフランク・ババが担当したのは、昭和20年末から始まったラジオ番組「真相はこうだ」の制作現場だった。そのころ、NHK放送会館はまだ千代田区内幸町にあった。「真相はこうだ」はGHQの指導で制作された。

<日本軍部や旧政府の実態暴露を行い、軍国主義打破を掲げた。米軍が各国の戦場で集めた証言情報をCIEへ送ってよこし、それをもとにウィンドがドキュメンタリードラマ風にストーリー化した。それをまた、日本人の浜田健次が日本語に翻訳、最終的に馬場が目を通してOKを出した。日本の戦場での暴虐の調査結果が世界各地からワシントンへぞくぞくと集まってきた>(『日本の放送をつくった男 フランク馬場物語

日本人に戦争への罪の意識を刷り込むのが目的で、大本営の発表と百八十度違う内容が放送された。日本人スタッフや声優の動揺も反発も相当なものだったが、ババはそれを日本語でなだめすかした。

◆日本政府の調達庁役人によって米軍に供された芸能

ジャズ・トランペッター日野氏の証言にある「審査」とは、いわゆるオーディションのことであり、将校クラブなどの軍施設で演奏する資格があるかどうかを見た。これにより、審査証が発行された。格付けについては、軍の係官によって、「エクセレント」「グッド」「フェア」「プア」と、その出演成績を四標語を記した印で押され、これが実績となって、米軍からのリクエストが決まっていた。

芸能という範疇に入るのは、日野氏が担ったような音楽演奏だけではなかった。日本の伝統文化にも及んだ。その一覧を見ると点茶、文楽、獅子舞や十二単のショー、他に扇や金太郎飴作りの職人たちの製作実演といったものまで入っている。

ギャラは一時間、二時間、三時間以上とステージでの拘束時間で分けていた。時間の短いものから並べると、合唱団、柔道、剣道、薙刀、茶道、チェス、占い、画家、彫刻家、軽音楽の声楽家および演奏者、舞踊家、奇術家、曲芸家、軽音楽団および指揮者といった具合である。これらの芸能が米兵たちのために、調達庁の役人によって供された。

歌舞伎や浄瑠璃は内容を英訳してプログラムを作成したこともあり、米兵たちに人気があった。歌舞伎は日本人の戦意を高揚させた戦記ものが含まれているという理由でGHQによって廃止されるところであったが、マッカーサー側近の通訳フォビアン・パワーズ歌舞伎に造詣が深かったために生き延びたといわれている。

興味深いのは「占い」の引きが多かったという記録である。手相観や人相観の鑑定士を会場に呼ぶと、米軍将校たちの人気が集まり、「自分が何回結婚するか、どんな相手がよいか、どんな職業につくのがよいか」などの質問をぶつけたという。「日本人は親兄弟の心配事を聞くのに、米兵は自己中心の質問だった」と、『占領軍調達史』には記されている。

◆「月々数千円という高額を手にすることができた」

犬丸一郎氏が著した『「帝国ホテル」から見た現代史』によれば、当時の格付けは「SAからA、B、C、Dまで」の五段階。それが出演料に反映されたという。SAクラスには、歌手の森山良子さんの父である森山久、かつやまひろし氏の父ティーブ・釜萢、「バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ」、石井好子さんが歌っていた「ニューパシフィック・オーケストラ」などが入っていた。

<われわれ、サーフライダーズはAをもらい、それでも月々数千円という高額を手にすることができた。GHQによって預金が封鎖され、通常は月に五百円までしか、銀行から下ろせなかった時期である>

◆占領を機に空前のジャズブーム

ジャズもウェスタンも含め、アメリカの音楽を演奏することになった日本人バンドにとっての苦労の種は、米軍からのリクエスト曲の譜面やレコードが不足していたことだった。日系二世の兵士として日本に駐在していたジミー・アラキは、日本のジャズメンたちにアメリカのレコードを貸し出した。

現在、カリフォルニア・トーランスにクラスアラキ夫人は懐かしむ。「主人と最初に知り合ったのは戦後ですが、送られたのは同じアリゾナのヒラリバー収容所でした。彼はその収容所で高校に通っていましたが、サックスはそのころから演奏していました」。カリフォルニア育ちのアラキもまた、日本の真珠湾攻撃後、適性外国人として家族とともに強制収容所送られていた。他の日系二世がそう選択したように、アラキも志願してアメリカ軍に入隊した。

占領軍として来日したアラキは日本人たちにレコードを提供するだけでなく、一緒に演奏もしている。彼自身、玄人はだしのサックス奏者であり、日本に自分のコレクションを持ち込んでいた。日本のジャズメンたちは、貪るようにしてレコードを聴き、アラキとの演奏を望んだ。

占領を機にこれ以降、日本では空前のジャズブームが起きていく。昭和28年になると、テレビの誕生に合わせ中継用に作られた有楽町の「ビデオホール」で、定期的にジャズコンサートが演奏されるまでになっている。

コンサート制作に携わり、翌年から文化放送で始まった人気ラジオ番組「トリスジャズゲーム」も担当した藤田潔氏は、アラキについてこう語る。「ホールでは大橋巨泉や久保田二郎がトークして、終電から始発までオールナイトでジャスセッション。みんなジャズが好きでね。大当たりでした。でも、ジミーがいなかったら、日本のジャズの質がここまで高くはならなかったでしょうね。いくら米軍キャンプという演奏の場が与えられても本物聴かないと一流にはなれない。ジョージ川口なんか、一緒にセッションしながら、ものすごく影響を受けたと思いますよ」。サックス奏者の渡辺貞夫氏もアキラの演奏を目の当たりにして、刺激を受けた一人である。

・日系二世のジャニー喜多川はワシントンハイツに住んでいた
・米兵に恋文を送りたい日本女性(真剣に結婚したがっていた)のために翻訳・代筆していたのが「渋谷・恋文横丁」の由来。

◆日本政府が公募運営した慰安所

<保障占領とはいいながら、戦後には略奪や暴動がつきもの、どんな事態が起こるかわからない。そこで四千万の大和撫子の純潔を守るための“防 波堤”をつくることが、ぜひ必要である。そのためには芸娼妓・酌婦など商売女をかり集め、アメリカ兵のセックスの欲望を“組織的に解決”する慰安施設を作 らなければならない> (『みんなは知らない国家売春命令』)

その後、公然と慰安婦募集がなされている。銀座通りなどに看板を掲げて堂々と女性を集め始めたのだった。

「新日本女性に告ぐ。戦後処理の国家的緊急施設の一端として進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」
「女事務員募集。年齢十八歳から二十五歳まで。宿舎・被服・食料など全部支給」

そのトリッキーな文言が、住居も食料もない女性たちを騙したといっても過言ではない。この募集広告を誤解して応募した素人も含め、集められた女性た ちが慰安所第一号である大森の「小町園」に送り込まれたのは、八月二十六日、占領軍の最初の部隊が厚木に到着する二日前のことである。(略)。オープンし た店には初日から、兵士が列を作った。日本上陸を覚悟して、アジアの島々で待機させられていた最前線の兵士たちである。

この一件が女性の立場からどういう意味を持つかについては、カメラマンの大竹省二氏が取材した「夜の女」の言葉から推し量ることができる。短いながら、彼女たちの置かれた立場を如実に語っている。

<日本の男は戦争に負けたら、アメちゃんに媚びへつらい、魂を売った。あたしたち、日本の役人に身体を売らされた。お前たち、これが最後の国 のためのご奉公だ、と言って、九段で芸者をしているのに連れだされ、大森の悟空林という所で、アメちゃんの相手をさせられ、そしてポイと捨てられた。あた したち、肉体を売ったけど、魂は売らないよ。もう元の芸者には戻れないし・・・・・。> (『遥かなる鏡』)

このRAAは、占領軍には「ゲイシャハウス」という言葉で認識されていた。昭和二十一年三月二十七日、結局、RAAは七ヶ月で米軍兵士の利用が禁じられることになる。性病の蔓延と、メディアを通じてRAAのことを知った兵士の家族から批判の声があがったためである。「日本の公娼制度はデモクラシーに反する」として、一月二十一日に公娼制度否認の覚書が出された。しかしGHQ公衆衛生福祉局長クロフォード・サムスが記したところによると、アメリカ軍幹部の間でもRAA容認派がいたことがわかる。

◆政教分離 ~神社の民営化

箱根強羅で疎開療養中だった駐日使節マレラ大司教から任務代行を委任されていたビッテル神父に、マッカーサーからのある問い合わせが入ったのは昭和二十年十月のことだった。「靖国神社は焼き払うべきだ」とGHQ将校たちの大半が主張しているから、キリスト教会の意見をまとめてほしいというのである。翌月二十日には靖国神社の招魂際が控えていた。

神道は二つの側面を持っているとワシントンでは分析していた。ひとつは原始的アニミズム的側面で、これは宗教の自由に照らして問題ない。だが、天皇崇拝と結びつけ侵略的戦闘的精神を高揚させるのに利用されたカルト的側面、国家神道が領土拡張の思想的な地盤となり、古事記の神話を使って侵略の運動が起こってきた事実は看過できない。とりわけ靖国、乃木、東郷などの神社のように軍国主義鼓吹の道具となった神社は閉鎖せねばならない。

GHQにとってワシントンからの指令は絶対だったが、こと神道についてのワシントンの見解は明確でなかった。だからこそ、日本のGHQ内の強行派による、靖国神社の全廃や神道神社の撲滅といった声が大きくなり、マッカーサーも決めかねたのであろう。くわえて日本国内でも、陸軍省直轄だった靖国神社への風当たりも強かった。「日本の仏教会、神道系の諸宗派、外務省、文部省などの官僚たち、などなど、多数の日本側関係者も、神宮撲滅に賛同しそうだった」(『マッカーサーの涙』)。江戸幕府によって優遇されてきたのに明治維新以降、廃仏毀尊政策で力を弱めていた仏教会には、少なからず神道への遺恨があった。

だが、靖国神社焼却の声に対してビッテル神父の出した結論はこうだった。

<いかなる国家も、その国家のために死んだ人々に対して、敬意をはらう権利と義務があるといえる。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。(中略)もし靖国神社を焼き払ったとすれば、その行為は米軍の歴史にとって不名誉なる汚点となって残ることであろう。歴史はそのような行為を理解しないにちがいない。はっきりいって、靖国神社の焼却、廃止は米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根元であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである>(『マッカーサーの涙』)

ビッテル神父の伝えた見解で存続することとなった靖国神社では、翌月二十日の招魂際が無事に執り行われ、昭和天皇が参拝した。

しかし、政教分離は免れなかった。『明治神宮五十年史』は嘆きを隠さずに、こう記述する。

<神道指令が命じた「国家と神道の分離」は、既に各地に於いて次々と実行され、神社界を攪乱した。神社に対する占領軍の反感はそのまま心なき日本人、特に地方官公署などの心理に影響し、神社に対する軽視・侮蔑の行為が頻発しはじめていた>

昭和20年12月15日、「神道指令」が出され、神道への「政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布」が廃止された。それは内務省神祇院の廃止、すなわち神社の民営化を意味した。それまで官吏待遇にあった神職は公務員ではなくなったのである。この事態に危機感を抱いた全国およそ八万の神社は、伊勢神宮を本宗にして「宗教法人神社本庁」を組織した。神社本庁の建物は明治神宮に面した北参道におかれた。

明治神宮では神道指令が出た当日、「明治神宮の将来に関する懇親会」を開き、意見を交換している。その運営費について、都の予算から出してはマッカーサー指令に違反することになる。それならば「都議会議員が発案し予算が成立、献金にすればいい」との意見も出た。すると都の公園課長は管理を都に任せることを提案している。この後、明治神宮外苑は「民主的かつ公共的な管理運営」をされる施設となったのだ。

こうしてGHQは信教の自由と政教分離を謳って、国家神道を廃止させた。しかしその舌の根も乾かぬうちに、クリスマスがやってこようとしていた。

◆クリスマスは「宗教的なものではなく季節的なものだ」

「神道指令」からわずか九日、この年、一番立派なデコレーションは、マッカーサーのいた第一生命ビル正面玄関であった。

皇居に面した大理石造りの入り口には、ネオンサインに匹敵するほど大きな「Merry Xmas」のアルファベットが踊っていた。花と常緑樹で編まれたリースが掲げられただけでなく、両側にはきらきら輝く二本の大きなクリスマスツリーが番兵のように立てられた。そして拡声器からは、クリスマスキャロルが流される。占領軍が接収した事務所ビルにも宿舎にも、それぞれ色鮮やかな飾りつけがされた。

しかしこうした動きは、GHQの公式宣言と実際の行為との矛盾を如実に現していた。クリスマスの飾り付けや賛美歌の斉唱や礼拝などの行事は、アメリカ社会におけるキリスト教と国家との親密な関係を堅持していたからである。

GHQのCIE宗教課には当初、戸惑う日本側から多くの質問が出された。後にGHQでは、クリスマスは「宗教的ではなく季節的なものだ」と位置づけた。よって、釈迦の誕生日である4月8日に特別の花を使って学校を飾ることもできるし、新年の飾りとしてしめ縄を張ることも、民間の習慣とみなすほどに世俗化しているという見方を示したのである。こうして日本人の間ではクリスマスツリーは単なる季節の風物詩として刷り込まれていった。

◆「GHQによる接収」から「駐留軍に対する提供」へ

「サンフランシスコ講和のニュースを新聞で読んで、僕はワクワクしたよ。これで日本は独立するんだ、米軍がいなくなるんだって」

現在も米軍基地反対運動を続ける平山基生氏は、当時の興奮を思い出したかのように語った。彼は渋谷の公園通りで暮らし、青山学院中等部に通っていた。父はアメリカ大使館近くにある霊南坂教会の牧師だったが、その数年前、渋谷に「山手教会」を開いたのだった。「占領の象徴」であるワシントンハイツはそこからすぐ目と鼻の先。平山少年にとっては「目障りだった」という。

「でもさ、当然なくなると思っていたワシントンハイツが、いつまで経ってもあるんだ。中学生にはそのことが理解できなくてね」

昭和26年9月に帰結されたサンフランシスコ講和条約は、翌27年4月28日に発効された。これによって、7月26日までに占領軍は日本から撤退することが決められていた。撤退するその日、官報は号外を出している。全20ページにわたるそれは、外務省告示第33号と第34号を掲載したものだった。

<日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定第二条第一項に基き日本国がアメリカ合衆国に対して提供する施設及び区域に関して昭和二十七年七月二十六日両政府間に次の協定が著名され、同日効力を生じた。> (第三十三号、傍点は引用者)

「GHQによる接収」は、この時点から「駐留軍に対する提供」へと意味づけが変えられたのである。

続く第三十四号では、「一般施設」として、米軍における名称、その所在地、日本での旧名称の順で北海道から羅列されていく。三百件の「無期限使用の部」のうち東京都内には十の施設名が並び、その七番目にはこうあった。

<ワシントン・ハイツ住宅地区 渋谷区代々木 旧代々木練兵場>

他に「ハーディバラックス」「東京造兵廠地区」「東京兵器補給松竹廠地区」「グラントハイツ」「リンカーンセンター」「ジェファソンハイツ」「パーシングハイツ」「世田谷QM倉庫」「前田邸」が、この項には入れられている。また立川や横田の飛行場も「無期限使用の部」となっていた。

第三十四号では「無期限使用の部」に続き、「一時使用の部」が設けられていた。全国に三百十一施設、都内で見れば、「パレスハイツ住宅地区」「東京PX(松屋デパート)」「東京陸軍病院(聖路加国際病院)」「アーニーパイル劇場」「羽田飛行場」「調布水耕農園」、築地の「洗濯工場」など百八の施設が挙げられている。また全国では六百五十三、東京では二百三十九の個人住宅が所有者の名と名とともに羅列され、接収されていたことがわかる。

全千二百六十四件にも及ぶ物件が並べられたこの号外を見て、日本人は初めてその全貌を知った。それまで七年間にわたり行われていた接収の規模は、このときまで明かされていなかったのである。

これに先立つこの年一月、GHQは接収建物の返還について声明を出していた。<米極東司令部の使命達成に支障を来たさない限り、できるだけ速やかに縮小、再編、整理、配置転換によってあらゆる種類の施設を返還する政策をとってきたし、現在も同様である。この政策の一部として休養ホテル、娯楽施設を漸次開放する予定である。(中略)“USハウス”とされている日本全国の私有住宅は平和条約発効後所有者の要求により、占有者が立退き次第、できるだけ速かに引き渡される>(「読売新聞」昭和二十七年一月二十五日)

この声明通り、四月一日には帝国ホテルが、七月七日には第一生命ビルがアメリカから返還されていた。日本人がジャズを奏でた「ユニオンクラブ」の入る東京會舘は六月二十七日に、八月十五日にはPXとなっていた松屋デパートが接収解除された。「アーニーパイル」は昭和三十年、宝塚劇場に戻った。「49th General Hospital」聖路加国際病院が完全に返還されるのは三十一年のこととなる。

帝国ホテルの河西幹夫取締役は、接収解除の声明を聞いてこう喜んでいる。<実に感慨無料です。昭和廿年の接収後あしかけ七年です。軍管理下では賃貸料は一月三百万円足らず、坪三百-四百円の安さで実は弱ってました。ただ衛生の厳格さ、サービスのスピード化、消火よりも防火などと色々教えられることも多くありました>

こうして七年間に及ぶ占領は終わった。しかし五十七年後の現在も米軍基地が占有している土地がある事実からもわかるように、期限を区切らず提供されることになった施設があった。官報にあった「無期限使用の部」がそれにあてはまる。前記したようにワシントンハイツもまた、そのひとつだった。そしてそこの中での生活は、特に変わることなく続いていた。

・東京オリンピックと道路計画とワシントンハイツ返還

◆世論調査というのはGHQが日本に持ち込んだ概念

ロバート・スカラピーノ氏は、カリフォルニア大学バークレー校の名誉教授として、大学のキャンパス近くに居を構えている。リビングの中は日本やインド、東南アジア諸国の彫刻など調度品で埋め尽くされている。

彼は占領期の日本で大阪に配属され、戦後初の世論調査をしている。設問は、アメリカ人、日本人にそれぞれ、相手のいいところ、悪いところを三つずつあげさせるというものだった。調査結果をこう話してくれた。「日本人がアメリカ人を好きなところは、1物質がある、2フレンドリー、3よく働く。嫌いなところは、1無駄が多い、2躾がなっていなくて騒々しい、3人種差別をすることでした」。一方、アメリカ人が日本人を好きなポイントは、「1勤勉、2従順、3几帳面」。嫌いなところは、「年齢と性による差別があること」がトップ、「人種差別」が3番目の理由であったが、2番目はスカラピーノ氏が失念してしまった。「日本人から受けた差別を強調したのは黒人でした。信じられないでしょうが、あのころ日本人の黒人への差別は、アメリカ人よりひどかったですからね」

世論調査というのは、GHQが日本に持ち込んだ概念だった。上手に導かないと、日本政府に悪い方向に利用され、また軍事化しかねない、だから指導するのだ、というのが彼らの言い分であった。最近の日本では世論調査の結果や政権支持率というものの信憑性に疑問を呈する声もあるが、当時の日本社会では、確実に国民の側にも需要があった。戦時中は厳しい言論統制の下、国論はあっても世論はなかったのだから、人々は情報そのものに飢えており、「多数意見は何か」という世論への欲求があった。世論調査はたちまち日本社会に浸透していった。

◆CIAが「親米」指導者にするために選んだ政治家

2008年に出版された邦題「CIA秘録」は公開された文書資料とCIAの「元長官を含む三百人以上に」インタビューしてまとめられたものである。

<岸は当初は舞台裏で仕事をし、先輩の政治家に首相の地位を譲っていたが、やがて自分の出番がめぐってきた。岸は日本の外交政策をアメリカの望むものに変えていくことを約束した。アメリカは日本に軍事基地を維持し、日本にとっては微妙な問題である核兵器も日本国内に配置したいと考えていた。岸が見返りに求めたのは、アメリカからの政治的支援だった>

著者のNew York Times 記者ティム・ワイナー氏によれば、岸はCIAが「親米」指導者にするために選んだ政治家であり、戦犯を免れさせてすぐから、CIAが金とアメリカ人脈を提供しながら親米に「育てた」日本の総理候補だったという。各国で親米為政者を育てるのは、アメリカ外交の常套手段である。

つまり、新安保条約締結は岸の執念というより、それを締結するために送り込まれた政治家としての使命であったということになる。彼には民衆の命を犠牲にしてでも締結する以外に道はなかった。当時、岸がテレビカメラの前で「私には声なき声の支持がある」と述べる有名なシーンがあるが、CIA文書が正しければ、それは民衆ではなく、まさにCIAをさしていたことになる。もっとも、CIAの「あやつり人形」のフリをして、日本により有利な安保条約締結を目論んでいたなら、さらに話は面白いが、真相はあきらかにされていない。

おそらくアメリカは驚いたはずだ。戦後、どんなに激しい抵抗をも覚悟して日本占領を始めたのに、日本国民は大人しく、アメリカに従順で友好的だった。にもかかわらず、六十年安保では、人々がはっきりとNOをつきつけた。反安保デモは反米デモになりかねない。その延長で日本の共産化も危惧される事件だった。結果、アイゼンハワーが来日を断念せざるを得なかった。

◆日本人の多くはマッカーサーのことが大好きだった

戦後占領期前期、日本人の多くは、マッカーサーのことが大好きだった。天皇に代わって、日本の未来に新しい風をもたらしてくれると信じて疑わなかった。彼にあてられた手紙の総数は五十万通。期待あふれるラブレターに近い内容ばかりである。1951年、彼が解任されて離日するときも、それを悲しんで記念館を創る計画まで持ち上がっていた。

ところが、ある日、そんな思いが一気に吹っ飛んでしまう。

帰国後初めてアメリカ議会で行ったマッカーサーの長い演説の一部が切り取られ、「ドイツ人は四十五歳で、日本人は十二歳の少年のよう」と語ったと報じられたからである。自分たちがこれほど愛し、アメリカ的なるものを吸収したというのに、腹の中ではこんなに日本人を見下していたのか。その瞬間、麻酔薬が切れたかのように、日本人の心はマッカーサーから離れ、アメリカの存在が絶対ではなくなっていった。しかし、これは彼なりの賛辞だったと私は考える。

◆世界地図を「由緒正しい」デモクラシー色で染めるのが米国の使命

1990年6月。共産党独裁政権を倒して初めての自由選挙の後、それを祝うコンサートが開かれた。ステージ裏で待ち構えてポール・サイモンをカメラに収めようとした私に、傍らにいた中年の紳士がこう話しかけてきた。「我々は夜ディスコに行く。君もそこへ来ないか」。その言葉を真に受けてでかけてみると、約束どおり、彼らはそのクラブにやってきた。サイモン氏のマネージャーに思えた紳士は米国の某上院議員で、その一行は米国民主党の選挙監視団だったのだ。

踊りながら、その中の白髪まじりの弁護士が、私の友人のチェコ人にこう語った。「君たちはデモクラシーをわかっていない。まだゼロ歳のベビーだ。僕たちが教えてあげるよ。なにせ二百年も生きた大先輩だからね」。これがアメリカ人の間で共有されている眼差しだ。世界地図を「由緒正しい」デモクラシー色で染める。それこそ自分たちの使命と考えている。

そうしたデモクラシー推進が外交政策と位置づけられ、国家予算がつくようになったのは1983年、レーガン政権からである。共和党、民主党、商工会議所、労働組合の下に民主化推進の組織が作られた。NED(全米民主主義基金)という組織を通して外交予算が配分され、世界各地を民主化していった。

◆新憲法の第九条を覆す形で警察予備隊が誕生

昭和39年、ワシントンハイツが東京の真ん中から消えたからといって、アメリカは何一つ困らなかった。一見、共産党に裏打ちされた学生運動が米軍基地を追い出したかに思えて、その実、米国はもっと巧妙に、水面下で親米政策を行うことになる。結果、庶民には見えにくい形で親米化が進んでいった。否、占領末期、すでにその布石は打たれていた。

サンフランシスコ講和条約に先立って、後の国務長官ジョン・フォスター・ダレスが日本にやってきた。独立しても、日本人の「アメリカ好き」を磐石にするためだった。

朝鮮特需に味を占めた財界は、経団連としてダレスに文書を送り、単独講和全面支持を伝えていた。その後の不況を恐れ、アメリカに擦り寄ることで業績を伸ばそうとした。

新憲法の第九条を覆す形で、警察予備隊が誕生していた。再軍備を担当したGHQ民事局長副官のフランク・コワルスキは自著にこう書いている(「日本再軍備」)。「われわれは、日本の幹部たちに、予備隊が将来日本の陸軍になるものであることを言ってはならなかった」。

GHQで憲法草案を書いておきながら再軍備しろとは、マッカーサーとて自らの威信に関わる。日本の世論も黙っていない。反政府運動が盛り上がれば、共産党が勢いづく。吉田茂も後ろ向きだった。だが、朝鮮戦争を機に日本を反共の砦にするというワシントンの方針は決定的だった。返り咲きを考えていた元軍人たちによる働きもあり、最終的には警察予備隊に何人かの元幹部が加わって、保安隊へと格上げされていった。

余剰小麦がさらに再軍備に拍車をかけた。戦後すぐは日本の飢餓を救ってくれたアメリカの小麦だったが、兵士の胃袋が支給先だった朝鮮戦争が休戦すると、単なる余剰作物となった。途上国が市場として浮上した。米国の食糧援助と軍事増強とをバーターにしたMSA協定が制定された。日本政府も小麦を受け入れ、あわせて自衛隊が誕生した。

◆研究者を左傾化させることなく、親米にしておくための文化政策

これで日本政府は念願どおり給食を全国の小学校に普及させることができた。厚生省主導で、小麦を用いた調理法を主婦に教えるキッチンカーが全国を走った。米を食べると頭が悪くなるという説を唱える医師が誕生した。結果、子供たちだけでなく、日本の大人たちの米離れも進んでいく。

最も心を砕いたのは文化政策だった。占領時代には堂々と検閲を行い、他方、アメリカ映画、ジャズなどを浸透させ、庶民はすっかりアメリカ文化の虜となっていた。しかし、怖かったのは大学だった。占領が終われば、直接手は下せない。研究者を傾化させることなく、親米にしておかねばならない。

そこでダレスはロックフェラー三世を連れて来日した。彼は親日家の母の影響で、NYにありながら、日本庭園と日本美術に囲まれた中で育った。日本文化に造詣が深く、ロックフェラー財団の采配をふれる彼は、文化政策の担い手としてまさに適任だった。

日米知識人交流の場として、昭和30年、六本木に国際文化会館が誕生した。これには日本国内でも寄付を募ることが条件だった。親米研究者を育てるため、同財団が財を投じて米国留学を促した。江藤淳、安岡章太郎、有吉佐和子などの作家たちもその奨学金を受け取り、現地で「アメリカ的価値」を学んでいる。六〇年安保で鬱憤晴らしをした多くの左翼知識人たちも米国に渡り、親米保守になって帰ってきた。さらに米国留学を果たした官僚たちもアメリカ信者になっていった。結果、彼らのボスは日本政府ではなく、ホワイトハウスにあるかのような昨今である。こうして日米蜜月は、政府レベルでより磐石になっていった。

◆茶の湯、「一眢(わん)から平和(ピースフルネス)を」

占領は日本の伝統文化の普遍性も示唆することとなった。将校夫人の「学び」によって日本の伝統文化が輸出されたが、茶の湯はまた、別の形で世界に普及していき、日本外交に大いに貢献するまでになっている。

その功労者は裏千家前家元・千玄室氏である。日本国連協会会長でもある千氏は、「一眢から平和(ピースフルネス)を」と平和外交を展開している。「茶の緑は自然を表す。こんな小さな眢の中に地球がある。しばし緑と相対すれば、心がやすらぐ。ありがたいと思う。結果、平和の心があふれてくる」。こう説明すると、外国人にも素直に受け入れられるという。

きっかけは、占領期に早稲田大学で行われた講演だった。「アメリカから学ばなくても、日本には昔から民主主義があるではないか。茶道である。武士も刀をあずけて丸腰で茶室に入り、身分の上下なく茶を飲む。これこそ民主主義である」と民間情報局のダイク代将が語ったと聞いた。千氏は手紙を書き、軍用機でアメリカに渡った。

そのころの千玄室氏はアメリカに対して複雑な気持ちを抱いていた。彼は海軍特攻隊で死を覚悟していたが、終戦。京都に戻ると、自宅である「今日庵」の前に占領軍のジープが並んでいた。中を覗くと、第十四代家元の父がGIたちに稽古をつけている。畳に寝そべったり床の間を枕にしたりして行儀は悪いが、学ぶ姿勢は前向きだった。父・淡々斎に叱責されると、昨日までの敵が素直に従う。千氏は「茶の湯は万国に通じる魅力がある」と気づいた。

占領期の渡米を機に、千氏は自ら世界各地を巡り、支部を開いた。留学生も受け入れ、茶の湯を学ばせた。とりわけ1960年代末、ベトナム戦争で心の渇きを癒そうとした米国の若者たちが、裏千家の門を叩いた。

「戦争は勝っても負けても惨め。人殺しは愚かなことです。それを何とかして止めることが、生きて帰ってきた私に課せられた使命だと考えています」。堂々と平和を訴え、訪れた国は62国。2006年には米国ワシントンDCの「ナショナル大聖堂」でも献茶式を催している。

◆あとがきから

私は戦後の日米関係を約二十年単位で三期に区切ることができると考えている。第一期は本書で考察した占領から東京オリンピックまで、第二期はアメリカから自立しようと日本の政治家たちが足掻いた時代、第三期は豊かになった日本の国富をアメリカに献上するシステムが確立された時代である。中曽根政権以降アメリカ国債を買い続け、宮沢政権で始まった「年次要望報告書」によって構造改革を迫られる日々を我々は送っている。この三期にかけられた呪縛の解明こそ、私たちが突きつけられている「自立」へのプロセスの鍵を握ると思うのだが、それを論じるのは別の機会に譲り、本書には「馴れ初め」を紐解くことに集中した。

eventメモ

「赤坂プレスセンター」 ~「無期限使用」で駐留米軍へ提供

公称「赤坂プレスセンター」、米軍は「ハーディー・バラックス」、私たちは「麻布米軍ヘリ基地」と呼んでいるこの基地には、3万㎡ものへリポートのほか、 米軍の準機関紙「星条旗新聞」の極東支社、独身将校宿舎、自動車修理工場、ガソリンスタンド、PX(売店)などがあります。また米陸軍諜報機関の事務所も置かれています。(麻布米軍ヘリ基地撤去実行委のホームページ


大きな地図で見る

「U.S.ARMY AREA」 入り口 ↓Stop_2

Stop2_3

▽都庁のウェブサイトから

・報道発表資料 [2007年1月掲載]
赤坂プレスセンター臨時へリポート問題の解決について
平成19年1月12日
知事本局

 米軍基地・赤坂プレスセンターの臨時へリポートは、昭和59年に環状三号線の工事に伴い、隣接する都立青山公園の一部に設置されましたが、平成5年の道路工事完了後も原状回復がなされず、公園の面積が減少した状態が継続してきました。
 東京都、東京防衛施設局及び在日米陸軍の三者で調整した結果、このほど下記の対応によりこの問題の解決を図ることが確認されました。これに基づき、今後、具体的な手続きを進めていきます。

1 代替地返還による公園整備

(1)臨時へリポートのために提供された公園用地(約4,300平方メートル)を上回る代替地(約4,700平方メートル)の返還を受ける(別紙参照)。
(2)代替地を公園として整備し、公園機能の回復・向上を図る。
(3)政策研究大学院大学や国立新美術館の建設など、周辺状況の変化を踏まえ、ヘリポートの位置は現状のままとする。

2 緊急時及び災害時のヘリポートの共同使用

 緊急時及び災害時における傷病者や救援物資等の搬送を可能とするため、都がヘリポートを共同使用する。

※なお、この対応は、臨時へリポートの問題を解決するためのものであり、都は今後も引き続き、赤坂プレスセンターの返還を国に対して求めていきます。

0001_2

・報道発表資料 [2008年11月掲載]
赤坂プレスセンターヘリポートの災害時使用に係る協定締結について
平成20年11月10日
総務局
知事本局

・報道発表資料 [2008年3月掲載]
赤坂プレスセンターを使用した救急患者搬送の開始について
平成20年3月21日
知事本局
福祉保健局
東京消防庁

都庁のウェブサイトで“赤坂プレスセンター”を検索

都内の米軍基地

○都内には8つの米軍基地があります
○在日米軍基地ってなに?
○米軍基地の歴史

日本の近代化 wiki ~敗戦後に受けた援助

明治維新以降の文明開化により、日本にとっての国家目標は欧米先進国の文物や制度を導入し、独立を保ちながらも条約改正の努力をおこない、国際的地位の上昇をはかりつつ不平等条約を改正していくことを目指した。

開国直後の江戸時代末期に幕府や雄藩が近代化の取り組みを始め、明治政府の主導により「上からの近代化」が推し進められた。官営工場を建設し、江戸時代から継続する三井・三菱・住友などの商業資本を土台にしつつ、日清戦争期に軽工業を、日露戦争期に重化学工業を発達させた。

非ヨーロッパ国として憲法を制定し、日露戦争に勝利したことで、列強の一つ(五大国)と呼ばれるようになった。しかし、原料の補給と商品の販売は植民地に依存せざるを得ず、第二次世界大戦終結までアジアへの進出が行なわれた。

第二次世界大戦によりいったんは日本の工業は壊滅状態に陥ったが、敗戦後の1946年から1951年の間に、アメリカの「占領地域救済政府資金」 (GARIOA) と「占領地域経済復興資金」 (EROA) から約50億ドルのODAが援助された。このときはカナダ、メキシコ、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ペルーなどからも生活物資や食料などが援助されている。朝鮮戦争の軍需により復興の糸口を掴み、1953年には、世界銀行から多国間援助である有償資金を使用して東海道新幹線、東名高速道路などを建設開始し、高度経済成長を実現した。1968年にはアメリカに次ぐ経済大国となり、先進国入りを果たした。

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・外務省
日米関係 平成21年10月

・『ニューヨークの遊び方』
日本人は信頼できる 2005-03-10
日本人はますます信用できる 2009-05-30

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コメント

これ、面白そーだね。
図書館ネットで検索だeyehappy01

投稿: nono1 | 2011年2月27日 (日) 05時53分

わたしの数倍面白く感じるかも。
nono1なら、
具体的な場所をあれこれ思い浮かべられるから。

投稿: さくらスイッチ | 2011年2月27日 (日) 08時33分

うん!ほんとだね ! happy01

投稿: nono1 | 2011年2月27日 (日) 08時57分

shinebook

投稿: さくらスイッチ | 2011年2月27日 (日) 09時03分

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