« 254~256 備忘録 「脳神経科医 オリバー・サックス」 | トップページ | 263 『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』 秋尾沙戸子 初版2009年 »

2011年2月16日 (水)

257~262 備忘録 「脳と心、身体と人格」

Folon_2

257『音楽嗜好症(ミュージコフィリア)~脳神経科医と音楽に憑かれた人々~』 オリバー・サックス 初版2010年

原題:Musicophilia: Tales of Music and the Brain 2007 U.S.

落雷による臨死状態から回復するやピアノ演奏にのめり込みだした医師、ナポリ民謡を聴くと必ず、痙攣と意識喪失を伴う発作に襲われる女性、指揮や歌うこと はできても物事を数秒しか覚えていられない音楽家など、音楽に必ずしも好まずして「憑かれた」人々を温かく見守りながら、時にしつこく人間の頭の中にまと いついて悩ませ、時に障害を治療する効果を発揮する、人間にとって不可分の存在であるように思われる音楽に共感を馳せる。脳神経科医サックスの待望久しい 本格的医学エッセイ。    

258『音楽好きな脳~人はなぜ音楽に夢中になるのか~』 ダニエル・J・レヴィティン 初版2010年

原題:This Is Your Brain on Music: The Science of a Human Obsession 2006 U.S.

音楽を聴く、楽器を演奏する…その時、あなたの脳に何が起こっているのか? 著者は1957年サンフランシスコ生まれ、マギル大学(モントリオール)心理学・行動神経科学教授。認知心理学者・神経科学者であると同時にレコード・プロデューサーとしてのキャリアをもつ異色の存在。『音楽好きな脳』でデビュー。

259『脳研究の最前線 上・下』 理化学研究所脳科学総合研究センター 初版2007年

第一線の脳科学者が語る脳科学の現在と未来脳研究のメッカ理化学研究所・脳科学総合研究センター創立10周年記念出版。上巻では、記憶や認知のしくみ、知性の起源、脳と精神疾患との関係について紹介。 下巻では、脳の情報伝達、こころと脳の問題、アルツハイマー病の治療法などを解説。

260『脳の栄養失調~脳とダイエットの危険な関係』 高田明和 初版2005年

糖分と脂肪を目の敵にし、肉より野菜という「ヘルシーな食生活」がかえって糖尿病をまねき、うつや能力低下をもたらすことがある。大脳生理学から見た、ホントは危ない健康常識。脳が栄養失調にならないためには?    

261『暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討』 河野哲也 初版2008年

脳研究によって、心の動きがわかるようになるのか。そもそも脳イコール心と言えるのか。脳を調べることで心の状態を読むことは可能か。人間の行動は脳によって決定され、自由などは幻想に過ぎないのか。脳研究が医療や教育、犯罪捜査、裁判などに応用されることは、どのような社会的インパクトを持ち、どのような倫理的問題が生じるだろうか。―“脳の時代”を生きる我々誰しもが持つ疑問に、気鋭の哲学者が明快に答える。現代人必読の“脳科学リテラシー”入門書。

262『生物と無生物のあいだ』 福岡伸一 初版2007年

分子生物学に関わる科学者やその功績を紹介しながら、「生命とは何か」という問いに迫る。

think読むきっかけ&目的&感想

少し前に読んだオリバーサックスの医学エッセイやTVメディアの影響もあって、「脳科学」や「脳と心」に関心を持つようになった。脳科学は90年代以降に飛躍的に進歩したらしいので、なるべく出版が新しいものの中からそれっぽい一般書を適当に選んで読んでみた。

さくら好み ★★★★

色々と面白かった。それも、心があるおかげ。heart

think覚書

259
◆脳科学の「こころ」

脳科学では「こころ」は、「自分の視点を自分から他人に動かし、他人の視点からモノを考える能力」とされます。おそらくはじめて聞いても、何のことだかさっぱりわからないのではないかと思います。

TOM(Theory of Mind)と呼ばれる「こころ」の理論は、このような定義を前提に行われているのです。TOMの典型的な実験は以下のように行われます。

被験者Aさんがいます。Aさんには紙芝居をみてもらいます。紙芝居では、BさんとCさんが登場します。CさんがBさんにクッキーを手渡します。Bさんは、今はお腹が減っていないので、クッキーをカバンの中にしまい、今いる部屋を一時的に出ます。するとCさんはいたずらをして、Bさんが中座している間に、Bさんがカバンの中にしまったクッキーを取り出して、冷蔵庫の中に入れてしまいます。そこで、その一部始終を見ていた被験者Aさんに、「部屋に戻ってきたBさんは、クッキーがどこにあると思いますか?」と聞くのです。

当たり前ですが、正しい答えは「カバンの中」です。なぜならBさんは中座している間にCさんがクッキーの場所を移したことはわかるはずがないからです。ところが、Bさんの視点に立って考えることができないと、自分はCさんのいたずらを知っていますから、「冷蔵庫の中」と答えることになります。この実験課題のやり方だけを聞いて、「こころ」の問題を扱っているだとわかる人はほとんどいないのではないかと思います。しかしながら、現実の問題として「こころ」の科学的解明のために、上記のようなさまざまな実験が行われているのです。

(中略)発達障害にある3,4歳の幼児は、他人の視点に立って物を客観的に見るということができません。したがって上記のような課題では、「冷蔵庫の中」と答えてしまいます。つまり科学者がTOMという言葉を使って定義する「こころ」の機能がないとされてしまうのです。しかし、だからといって子どもには「こころ」がないと言って素直に同意してもらえることは少ないでしょう。

260
◆「辛味」は味覚神経ではない

味細胞は味孔という穴で舌の表面とつながっており、ここに味を感ずる味細胞の微絨毛が浮かんでいます。食べ物の味物質が唾液と混じり、味蕾の奥にある味細胞に触れて、はじめて味を感ずることができるのです。

それぞれの味細胞がもっとも反応する刺激の種類によって、甘味、塩味、苦味、酸味、旨味の五味に分類されます。旨味は、たとえばおいしい出し汁のような味のことです。

ちなみに「辛味」は味覚神経ではなく、三叉神経による感覚です。三叉神経は辛味の他に痛みや熱さも感じる神経です。辛味の代表のようなトウガラシを食べると、辛味だけでなく痛いような熱いような複雑な感じを受けるのはこのためです。また、ミントのようなさっぱりした味も、味覚神経ではなく三叉神経が感じています。

261
◆神経神話

疑似科学や似非科学は、ときに現代の神話として人々を欺くものになりうる。「三歳までに脳の基礎的能力が決まってしまう」とか、「脳の機能には“臨界期”があり、この時期に脳の基礎的能力が決まってしまう」とか、「脳の大部分は眠ったまま使われない」などといった、科学的根拠に乏しい風聞や誤解は「科学神話」と呼ばれる。

そうした神話が、健康や教育のような分野において科学的な言説として流布してしまっているのが現状である。

◆脳の高次機能研究が抱える哲学的な諸問題

脳の高次機能研究は、他のあらゆる科学の分野と同じく、その根本に哲学的な諸問題を抱えている。

たとえば、「心、あるいは意識と脳はどう関係しているのか」「心と脳は同一だと考えてよいか」「心が脳の産物であり、脳が自然法則に従っているとするならば、私たちには意思の自由はあるのだろうか」「物体である脳から、私たちの感じている感覚・知覚の世界がどのように生み出されるのだろうか」といった問いがそうである。

◆心は身体の内部のみならず

生物学では、ある生物の遺伝子型が形質として表現されたものを「表現型」と呼ぶ。それは、生物個体に実際に表れている特徴のことである。『利己的な遺伝子』で著名なドーキンスによれば、動物の身体とは、遺伝子が潜在的に自らを次世代へ続かせるための表現型上の道具としてみることができる。そして、動物の造作物もそうした身体の延長物に他ならないとドーキンスは大胆にも主張する。

つまり、クモの巣やビーバーのダム、シロアリの塚、ヤドカリの貝殻などの造作物は、それらの生物の身体器官とその行動様式の延長物であり、「延長された表現型」だというのである。

もちろん、動物の表現型は、遺伝子型だけでなく環境要因の表現でもある。動物の身体は、遺伝子と環境との共同制作物である。同様に、延長された表現型である動物の製作物も、生物の内在的要因と環境要因の共同の産物である。たとえば、クモの巣の形と大きさは、巣を張ろうとしている環境に相対的である。

これと似たような発想が、心に関しても適用できるのではないだろうか。すなわち、心は脳も含めた身体の内部器官のみならず、その全身の振る舞い、そして人間が作り出した造作物において実現していると考えるのである。心は、身体の内部のみならず、外部環境を含めたトータルなシステムの中に成立しているのであり、脳だけにあるのではない。

これが、90年代中頃から、心の哲学や認知科学やロボット工学などで盛んに唱えられるようになった「拡張した心(extended mind)」と呼ばれる考え方である。現在では、多くの支持者を得て、心の哲学や認知科学の分野でますます普及しつつある考え方だといって過言でない。

・道具は心の一部 ・技術的ツールと心理的ツール ・環境との関係性としての心 ・身体性

◆拡張した心の概念からみた脳の位置づけ

人類学・言語学・サイバネティックスなど幅広い研究活動を行ったグレゴリー・ベイトソンは、拡張した心の概念を提起した先駆者のひとりである。ベイトソンによれば、あらゆる心的活動を脳状態に還元することは誤りである。たしかに、脳の一部をなしている完結したサーキットを取りだして、そこに心が実現しているといってよい場合もある。たとえば、夢や想像がその例であろう。想起についても、ある場合については、脳内だけで成立するかもしれない。

他方で、脳-身体のシステム全体に心が実現する場合もある。さらには、もっと大きな身体-環境の循環的なシステムに、心が実現しているというべき場合もある。

この三番目のケースが、拡張してきた心である。詳論はしないが、知覚はこの三番目のケースであり、一番目のケースではない。拡張した心の概念では、そもそも「心」なるものは、人間が環境に対して積極的に働きかけ、環境とカップリングを成立させてゆく生存のあり方の一局面を指しているにすぎないと考えるのである。

この観点からみれば、脳は、心の働きの唯一の統御者ではありえない。生物のあらゆる活動は、環境との間で自己調整的な循環システムを形成している。そうしたシステムには、ごく単純な場合でさえ、全体論的(ホーリスティック)な特徴が現れる。つまり、システム全体の働きは、個々の部分の働きの足し算以上の全体的特徴をもつのである。

脳と身体、さらに固体と環境(あるいは、他の固体)とが作り出す循環的関係の中では、すべての部分がそれ以前の動きによって規制を受ける。いかなる部分も他のすべての部分を一方的にコントロールすることはできない。脳も、身体と環境を含めた全体的なシステムの一部をなしているのである。

拡張した心の概念からみれば、脳研究は心全体の研究とはなりえない。

「心」と呼ばれる身体-環境システムにおいて、脳活動がどのような位置づけをもち、脳内の変化がどのようにシステム全体に影響を及ぼすのか。またその逆に、システムにおける他の構成要素や全体的特性(機能と構造)の変化が、脳にどのような変化をもたらすのか。脳研究とは、これらのことについて研究する分野として理解されるべきなのである。

◆心を「内側」として表現することは比喩でしかない

私たちは、自分たちの心をしばしば「内面」と言い換えて、あたかも、自室のようなプライベートな空間としてとらえていないだろうか。自分の考えたことは、そのままでは他の人に知られることはないように思えるし、自分の観点からみた過去の風景は、他の人とたちには思い出せない。私たちにとって心とは、他人から隠された大切なものであり、人目に触れては価値が減じてしまうような内密なものである。そんな風に私たちは考えている。

しかし、心を「内側」として表現することは、本来、比喩でしかない。しかも私は、拡張した心の概念から、それは誤った比喩だと考えている。

◆社会的相互作用で形成される心の機能

心は環境へと広がったシステムであり、脳はその一部を担っているという「拡張した心」の考え方。

心は社会的環境にも拡張し、その中に組み込まれた本質的に社会的な存在であり、心的機能も社会的に構成される。ここでいう「社会的構成」とは、単に社会的に意味づけられたということではなく、社会的相互作用で実際に心の機能が形成されることをいう。

心的機能分類にかかる社会的バイアス

心理的なカテゴリーは社会的な意味を担っている。何が怒りであり、何が愛であるのか、何が記憶であり、何が言語表現であるのかは、私たちが主観的に判断する以前に、言葉の意味のように社会的に規範化(コード化)されている。私たちは、そのルールを学んで、それにしたがって自分の行動をある種の感情として分類し、判断する。心の機能を分類し、それを脳にらべりんぐする心理学者や脳科学者も、暗黙のうちにその社会的ルールにしたがっているのである。

心的機能分類に社会的バイアスがかかっていても、それは心理学者や脳科学者ひとりのバイアスではない。それは社会が共有しているバイアスであり、科学者もその社会に取り込まれているにすぎないのだ。

科学者が客観的であること(データに批判的に基づいていること)と、それがある特定の視点や関心から対象に関わっていることは矛盾せずに、両立する。いかなる科学であっても最初に扱う対象を一定の仕方で限定し、対象集合を確定する。このコレクションの仕方に、その科学が対象を扱う際の根本的な視点や関心が反映されている。その視点や関心が、特定の社会的関心を表現していることもありうるのだ。

◆社会的ラベリングがその対象を実際に形成してしまう現象

心的機能が社会的に構成されたものだということは、それらが無力な虚構だということでは決してない。知能や記憶などの心理的カテゴリーはいったん社会に受け入れられると、今度は、人々の心の理解の仕方や人間観に影響を与えるようになる。

知能とはこういうものだ、記憶とはこういうものだと規定されると、私たちはそれに合わせて自分の知的能力を作り上げ、想起の仕方を訓練していく。

「心とはコンピュータだ」という考えが社会的に広まれば、コンピュータをモデルとして人間の心を理解するだけではなく、それに近づけようと自分の心を改造し、それに合わせようとして子どもを教育するのである。正確で誤りのない、感情を交えない計算機であるように、自分たちをシェイプアップしてしまうのだ。

心は他人には決して分からない秘密の小部屋のようなものだという心の概念が社会的に共有されれば、心とはそうしたものであり、コミュニケーションは最終的に無力だという態度が生まれてくるであろう。

このように、社会的ラベリングがその対象を実際に形成してしまう現象を、哲学者のイアン・ハッキングは「ループ効果」と呼んだ。ブーメランが戻ってくるように、自分たちで規定した意味が、自分たちのあり方を規定するようになるのである。

この意味において、心は現実的に社会的に構成されるのである。

◆脳は臓器のひとつでありながら・・・

肺や心臓は臓器である。それらの機能は呼吸や血液循環に限定され、まったく社会性と関係のない自然的な環境のなかで、純粋に、身体的な機能をはたしている。

それとは異なり、脳は臓器のひとつでありながら、その機能が社会化・歴史化されている点に特徴がある。脳は来歴をもつ。それは個人的な来歴であるとともに、社会的な来歴である。

別の角度からみれば、心は社会によりコントロールされているともいえるだろう。私たちは、自分から社会を変革する手段をもたない限り、社会からコントロールされるだけの存在となってしまう。

◆心は機能の集合ではない

19世紀の機能概念批判の一般的な論点は、機能という概念が、人間や人格という全体的なものを断片化してしまうというものだった。これらは、少なくとも高次の心的機能に関してならば、今でも古びていない批判ではなかろうか。

私たちの心は、カウント可能な、弁別された機能の集合体なのだろうか。そのような区切りが、私たちの心に実在しているのだろうか。

言語習得の場面を思い出してほしい。ヴォキャブラリーをもつとは、相互に分離した単語を倉庫にしまいこんでいるような状態ではない。ひとつの言葉を学習するということは他の言葉の使い方にも影響を与え、大げさにいえば、私たちの言語使用の全体に影響を及ぼすものである。ヴォキャブラリーとは自己増殖するひとつのシステムなのである。

他の心的機能に関しても同様のことがいえるのではないだろうか。心的機能同士にも、そうした相互依存性があるのではないだろうか。つまり、心はひとつの全体をなしており、ある機能の変化は他の機能にも影響を及ぼすのではないだろうか、ちょうど、サッカーのポジショニングのように、である。

脳が、他の臓器よりもはるかに可塑的なシステムであることに力点を置いて理解するならば、これまでの研究方法と成果をふまえながらも、新しい脳のイメージが生まれるのではないだろうか。

それは、固定的な機能(モジュール)の集積としての脳ではなく、環境に適応的に自己を変化させ、自己を再組織化し、それにより固有の歴史をもつ臓器としての脳というイメージである。

・脳は最も可塑的な臓器

◆自己コントロールはいつも健全なものであるとは限らない

脳テクノロジーは、脳に働きかけることで個体をコントロールするものである。問題は、誰が、何を、何のためにコントロールするかである。

自己コントロールはいつも健全なものであるとは限らない。近年は、現代主義における心理主義が問題視されている。心理主義とは、自分の行動に関わる問題が生じたときに、つねに自分の内側へと注意が向き、自分の意識や心理的内容こそを改変しようとする傾向をいう。

心理主義の問題は、自分の目の前にある困難を生じさせたのが自分の心理(態度、性格、考え方など)であると考え、その心理を生じさせている環境因、とくに人間関係的・社会的・政治的な状況に目が向かないことである。

社会学者の森真一によれば、心理主義とは、「心理学や精神医学の知識や技法が多くの人に受け入れられることによって、社会から個人の内面へと人々の関心が移行する傾向、および、『共感』や相手の『きもち』あるいは『自己実現』を最重視する傾向、である」。

心理主義は、心理学だけがもたらした社会的傾向ではないが、心理学は、暗黙のうちに、それに加担し強化してきたといわれる。それは、内面化という手段によって、それと気づかずに人々を統治する支配方法なのである。

心理主義は、あらゆる問題を内面の問題として、不健全な形で人々を自己コントロールに向かわせる。私たちは、それが、誰かに、社会的・政治的な何かに強いられた内面化であることに気づかないままに、自己を操作しようとする。

たとえば、数年前、ニートが社会問題となった。無就学・無就労状態の若年層が増えるとその原因は、若年の怠惰、やる気のなさ、コミュニケーション・スキルの不足などに原因が求められた。これは典型的な心理主義の発想である。多くの若者は就職しないのではなく、就職のポストがないのであり、その主たる原因は、不況下で中高年の雇用を維持し、新規採用を増やさなかった経済運営にある。

心理主義の発想にとらわれた人々は、眼前の問題に立ち向かい、社会的現実に働きかけるべきときに、自分のなかに閉じこもって自分を責め、意味のない消耗を繰り返してしまう。

たしかに、自己をコントロールすることによって解決すべき問題は存在するだろう。たとえば、友人と対等な関係で付き合い、結果、自分の態度が相手を傷つけたなら、変えるべきは自分の態度である。

しかし、先のニートの場合には自分の問題としてはならない。変えるべきは環境や組織、政治の力である。何を変化させるべきか、その基準を与えるのは、心理学ではなく、倫理であり道徳でなければならない。正義や平等、人権、他者への配慮といった倫理的・道徳的な基準に立って、自己と社会環境のどちらを変えるのが正当であるかを問うべきである。

しかし、心理主義は、どのような問題であっても、心理的な対処法を求め、結局は、環境や社会を変革する機会を失わせてしまう。これは人々を管理しようとする側にとって、とても都合の良いことだろう。そして、外部からの管理と監視に適応して自己コントロールを行うようになった人々は、その外部の権力を自己自身に内在化させることになる。権力側の要請に応えることに成功した人々は、そのことで権力に従順な自己へ陶酔する傾向を深めていき、他人にも心理主義を押し付けるようになるのである。

◆行動をいきなり脳で説明しようとする社会全体の傾向に

精神科医の斉藤環は、近年の脳ブームに心理主義以上の危機を感じている。著名な脳科学者や精神医学者、科学ライターが、まったく科学的な根拠がないにもかかわらず、さまざまな社会問題の原因を脳に求める放言や俗信をメディアに流している。それが社会に一定の反響と影響をもってしまっている。

斉藤はもはや「心」を問うことなく、行動をいきなり脳で説明しようとする欲望が高まりつつある社会全体の傾向に強い警戒心を表明する。「個人的には、より固定的なレッテルにつながりやすく、また場合によっては安易な薬物治療につながりやすい。こうした『汎脳主義』のほうが、心理学以上に危険なものではないかと危惧している」。

「拡張した心」は、心理主義に陥らない新しい心の概念である。それは、心をつねに身体性と環境との関係によって理解する。繰り返しになるが、脳は、環境と身体のシステムに部分として組み込まれ、その範疇において全体に影響を及ぼすことができる。それ以下ではないし、それ以上でもないのである。

◆科学技術リテラシーを

私はこれまで、脳研究が、本人の意図と利益に反して個人をコントロールするテクノロジーになってしまう危険性を指摘してきた。脳科学それだけがこうした傾向をもつというのではなく、個人の行動をコントロールしたいという権力が優勢な社会の中では、そうしたテクノロジーの使用がなされがちだといいたいのである。

科学技術リテラシーとは、最低限の科学の基本原則と思考方法を習得し、科学的成果を理解できるようになるということだけではない。科学とテクノロジーが人間の営みであり、そこには有効性とともに仮説性や限界があること、責任ある市民として関与できるようにすることをいう。

*TBS RADIO 954kHz/サイエンス・サイトーク/2010年02月14日:科学と哲学の間

262
◆生命という系固有の現象

タンパク質分子の部分的な欠落や局所的な改変のほうが、分子全体の欠落よりも、より優位に害作用(ドミナント・ネガティブ)を与える。部分的に改変されたパズルのピースを故意に導入すると、ピースが完全に存在しないとき以上に大きな影響が生命にもたらされる。ドミナント・ネガティブは、分子生物学の現場でも広く知られるようになってきた生命という系固有の現象である。

◆生命には個別の時間が折りたたまれている

ケヤキの裸樹は美しい。ケヤキの樹には、二本として同一の形はない。枝分かれは、その地点、地点で、ある一回限りの選択によってなされ、ひとたび分岐すればそれがやり直されることも、逆戻りすることもない。ケヤキの内部で行われる細胞の分裂とネットワークの広がり、つまりその動的な平衡のふるまいは、時間に沿って滑らかに流れ、かつ唯一一回性のものとしてある。

しかし、私たちは、ケヤキはどれを見てもケヤキの姿をしているがゆえに、一本のケヤキのあり方の一回性を、しばしばある種の再現性と誤認しがちなのだ。しかしそこには個別の時間が折りたたまれている。

遺伝子をノックアウトしたこと、あるいはノックインしたことによって引き起こされるすべてのこともまた時間の関数として起こっている。

ノックアウトされたピースは、完成された全体から引き抜かれたわけではない。時間に沿って分岐し、そしてまた組み上げられていくそのある瞬間に、たまたま作り出されなかったのである。ノックインされた不完全なピースは、全体が完成されたのち、部分を切り取られたわけではない。これもまた時間軸のある地点で、出現し、その後の相互作用の内部に組み込まれていったものである。

遺伝子産物としてのタンパク質が織り成すネットワークは、形の相補性として紡ぎ出されるから、それらは枝の分岐というよりは、角々をあわせて折りたたむ折り紙のようなものとたとえたほうがよいかもしれない。

時間軸のある一点で、作り出されるはずのピースが作り出されず、その結果、形の相補性が成立しなければ、折り紙はそこで折りたたまれるのを避け、すこしだけずらした線で折り目をつけて次の形を求めていく。そしてできたものは予定とは異なるものの、全体としてバランスを保った平衡状態をもたらす。もしある時点で、形の相補性が成立しないことに気づかずに、折りたたまれてしまった折り紙があるとすれば、その折り目のゆがみはやがて全体の形までをも不安定なものにしうる。

機械には時間がない。原理的には部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことができない一回性というものがない。

生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度折りたたんだら二度と解くことの出来ないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる。

◆生命という動的平衡

今、私の目の前にいるGPノックアウトマウスは、飼育ケージの中で何事もなく一心に餌を食べている。しかしここに出現している正常さは、遺伝子欠損が何の影響をももたらなさかったものとしてあるのではない。つまりGP2は無用の長物ではない。おそらくGP2には細胞膜に対する重要な役割が課せられている。ここに今、見えていることは、生命という動的平衡が、GP2の欠落を、ある時点以降、見事に埋め合わせた結果なのだ。正常さは、欠落に対するさまざまな応答と適応の連鎖、つまりリアクションの帰還によって作り出された別の平衡としてここにあるのだ。

私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに何事も起こらなかったことに落胆するのではなく、何事も起こらなかったことに驚嘆すべきなのだ。

結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである。

生命という名の動的平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。それが動的な平衡の謂いである。それは決して逆戻りのできない営みであり、同時に、どの時間でもすでに完成された仕組みなのである。

これを乱すような操作的な介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける。もし平衡状態が表向き、大きく変化しないように見えても、それはこの動的な仕組みが滑らかで、やわらかいがゆえに、操作を一時的に吸収したからにすぎない。そこでは何かが変形され、何かが損なわれている。生命と環境との相互作用が一回限りの折り紙であるという意味からは、介入が、この一回性の運動を異なる岐路へ導いたことに変わりはない。

私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。

*TBS RADIO 954kHz/サイエンス・サイトーク/2007年11月18日:科学的な判断力を身につけるには /2007年11月25日:生きているとはどういうことか

*2010/08/24 ある日、ジブリで行われた、ある科学者の講演会!

|

« 254~256 備忘録 「脳神経科医 オリバー・サックス」 | トップページ | 263 『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』 秋尾沙戸子 初版2009年 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 254~256 備忘録 「脳神経科医 オリバー・サックス」 | トップページ | 263 『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』 秋尾沙戸子 初版2009年 »