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2010年12月20日 (月)

254~256 備忘録 「脳神経科医 オリバー・サックス」

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254 『色のない島へ 脳神経科医のミクロネシア探訪記』 初版1999年

原題: The Island of the Colorblind (1997)

概要: 先天性全色盲の患者が集団で暮らすピンゲラップ島、原因不明の神経病が多発しているグアム島…。「島」という環境ゆえに特異な風土病が残るミクロネシア。奇妙な病気とともに生きる島の人々の日常生活を心暖まる筆致で描く。

255 『火星の人類学者 脳神経科医と7人の奇妙な患者』 初版1997年

原題: An Anthropologist on Mars (1995)

概要: すべてが白黒に見える全色盲に陥った画家、激しいチックを起こすトゥレット症候群の外科医、「わたしは火星の人類学者のようだ」と漏らす自閉症の動物学者…脳神経科医サックスは、患者たちが抱える脳の病を単なる障害としては見ない。それらは揺るぎないアイデンティティと類まれな創造力の源なのだ。往診= 交流を通じて、不可思議な人生を歩む彼らの姿を描か出し、人間存在の可能性を謳った驚きと感動の医学エッセイ。

256 『化学と過ごした私の少年時代 タングステンおじさん』 初版2003年

原題: Uncle Tungsten: Memories of a Chemical Boyhood (2001)

概要: 「タングステンこそ理想的な金属だ」と、その根拠を力説してくれたおじ、遍在する数の法則を語るおば、真摯に働く医師の両親、発狂してしまった兄。強烈な個性がぶつかりあう大家族にあって少年サックスが魅せられたのは、科学のなかでも、とりわけ不思議と驚異に満ちた化学の分野だった。

banana読むきっかけ&目的&感想

メディカル・エッセイ集『妻を帽子と間違えた男』を読み、原作映画『レナードの朝』を見て、オリバー・サックスの世界をもう少し知りたいと思うようになり、何冊か読んでみる気になった。いずれ『音楽嗜好症(ミュージコフィリア) ― 脳神経科医と音楽に憑かれた人々』も読んでみたい。

さくら好み ★★★★☆

banana備忘録

254
◆グアムが本格的にアメリカ化されたのは一九四五年以降

一九〇一年の調査によれば、島の人口は九六七六人で、その中の四六人を除くすべてが自らをチャモロ人と認識していた。七〇〇〇人近くが首都のアガニャと近隣の村々で暮らしていた。道路網は貧弱で、ウマタックのような南部の集落は雨季になると孤立し、外界との唯一のつながりは船だった。

軍事的視点から見れば、島の大きさと太平洋に占める位置から、グアムは重要な戦略拠点である。それでも第一次世界大戦中は、日本とアメリカが同盟国だったことからグアムが紛争の焦点になることはなかった。しかし、一九四一年一二月八日に真珠湾攻撃のニュースが伝わると、島は緊張に包まれる。それから数時間も経たないうちに、グアムもまた日本軍のゼロ戦による攻撃を受けたのだった。戦闘機は前触れもなくアガニャの上空に現われ、街を機関銃で攻撃した。その二日後、ロタ島に集結した日本軍の歩兵隊がグアムに上陸したとき、グアムはほとんど無抵抗で日本軍に占領された。

日本軍による占領の下で、島民は大変な困難を強いられた。その悲惨さはスペインによる中南米支配に匹敵するものだ。多くのチャロモ人が殺され、あるいは拷問を受けたり軍用労働に駆り出された。そして数多くの島民が畑を捨てて丘やジャングルへ逃げ、何とか日本の支配を逃れて暮らそうとした。家族や村は離散し、畑の作物や食料は奪われ、飢餓が起きた。少なくとも二〇〇年間、ソテツの実は島民の重要な食料だったが、いまや一部の島民にとっては口に入るほとんど唯一の食料となっていた。戦争の終盤、特に日本の敗戦が避けられず、まもなくアメリカ軍によって島が「解放」されることが明らかになってからは、さらに多くのチャモロ人が無残に殺された。このように戦争中ひどく苦しめられたチャモロ人は、上陸したアメリカ兵を歓呼の声で迎えたという。

グアムが本格的にアメリカ化されたのは一九四五年以降である。戦前には島の人口の半分を擁していたアガニャは、アメリカ軍の再占領に当たって徹底的に破壊されたが、戦後再建された。背の低い伝統的な家々が並んでいた街並みは、今や舗装された道路が走り、ガソリンスタンド、スーパーマーケット、高層アパートなどが立ち並ぶアメリカ風の都会へと生まれ変わった。それと同時に、大規模な人口移入が起きた。その大部分はアメリカの軍人とその家族であり、島の人口は戦前の二万二〇〇〇人から二〇万人を超えるまでになったのだった。

グアムへの観光や移住は、アメリカ軍によって一九六〇年まで規制されていた。島で最も美しい浜辺や、古く美しいスメイ村(一九四一年に日本軍に占領され、一九四四年にはアメリカ軍により破壊された)がある北部や北東部には新しい基地が建設された。その結果、かつてそこに住んでいたチャモロ人すら、その一帯に立ち入ることができなくなったのである。一九六〇年以降、この島には大量の観光客や移民が押し寄せている。何万人ものフィリピン人労働者、そして広大なゴルフコースや豪華なホテルにやってくる何十万人もの日本人観光客が。

伝統的なチャロモ人の暮しはウマタックのような辺鄙な南部の村へと後退し、しだいに消滅しつつある。

◆筋萎縮性側索硬化症患者の終末医療

ジョン(医師)は少し間をおいて、こう続けた。「僕は筋萎縮性側索硬化症に何か、耐えられないものを感じるんだ。君も同じだろうと思うけれど、神経学者は皆そう感じているんじゃないかな。力を入れられなくなり、筋肉が動かなくなる。口を動かして話すことができなくなる人もいれば、ものを飲み込めなくて窒息死してしまう人もいる・・・・・。そんな人を大勢目にしながら、自分は何もしてあげられない。彼らを助けるために、何一つできないんだよ。特に耐えられないのは、彼らの知能は最後まで研ぎ澄まされたままで、自分に何が起きつつあるかを知っているということなんだ」

私たちは、ジョンがグアムに来て以来知っているというトマサ(チャロモ人)という女性を訪ねた。ジョンが初めて会ったとき、トマサはすでに一五年間もリティコ(筋萎縮性側索硬化症)を患っていたという。その後もリティコはゆっくりと進行し、手足ばかりでなく、呼吸したり話したり、ものを飲み込んだりする筋肉をも麻痺させた。

私たちが部屋に入ったとき、トマサの体は衰弱し、運動神経は麻痺していたが、知能はしっかりしていた。「トマサは数え切れないほど大勢の人に、この島の病気について教えてきたんだよ」ジョンがそう言うと、トマサは微笑んだ。「心配しなくても大丈夫。アンジーはリティコにかからないからね。ありがたいことに、若い世代の人たちはもう誰もこの病気にはかからないんだよ」ジョンは優しく付け加えた。

トマサの枕元にはいつも家族や友人、近所の人たちが誰かしらやって来て、新聞を読んで聞かせたり、ニュースを伝えたり、うわさ話をしている。クリスマスには、彼女のベッドの傍らにクリスマスツリーが飾られる。地元の祭やピクニックのときには、人々は彼女の部屋に集まる。トマサ自身はわずかしか動いたり話したりできないが、周囲の人々は彼女の人格を尊重しているし、彼らにとって彼女は家族やコミュニティの一員なのだ。彼女は自分の家で家族やコミュニティの懐に抱かれ、もう遠くはないであろう最期の日まで、完全な意識を保ち、誇りと人格を失わずに生きていくに違いない。

チャロモ人は非常に同情心の厚い人々である。・・・・・一家の主、あるいは妻や子供が病気になると、村に住むすべての親戚が手持ちの最高の食材を使って食事を用意し、病人の家に届ける。それは病人が死亡するか回復するまで続けられる。 一六〇二年/宣教師ファン・ポブレ神父

ここでは、トマサのように慢性に進行して何年も寝たきりになったまま治る見込みのない病人であっても、一個の人格として、社会の一員として受け入れられている。私はニューヨークにいる筋萎縮性側索硬化症が進行した患者のことを考えてみた。皆、病院や介護施設に入居していて、あらゆる医療技術でサポートされている。しかし、彼らは孤独で、その家族は意識してかせずにか、彼らを避けている。家族は患者の進行した病状に耐えられず、患者が人格を持った人間であると考えるよりは、むしろ終末医療の対象として現代医療により最高の「延命装置」を受けているのだと考えたがるのだ。こうした患者の多くは、医師からも敬遠され、救命患者リストから除外されてしまうことさえある。しかし、ここグアムのジョンとトマサの間には緊密な関係がある。そして彼女の最期のときには、家族と共にジョンも彼女の傍らで見守っていることだろう。

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◆全色盲で見る朝日

二月はじめ、多少落ち着きを取り戻したⅠ氏は、理性だけでなく、もっと深い部分で自分が全色盲であること、回復の見込みがないことを悟りはじめた。最初の絶望が一種の決意に変わった。色のある絵が描けないなら、白と黒で描こう。白と黒の世界でできるだけ生きてみよう。ある出来事によって、この決意はいっそう強くなった。事故から5週間ほどした朝、彼は車でアトリエに向かっていた。高速道路の向こうから朝日が昇るところだった。真っ赤な朝焼けは全て黒に変わっている。「太陽はまるで爆弾の様に昇ってきました。巨大な核爆弾のようでした」彼は後にそう語った。「あんな日の出を見た人がいるでしょうか」

◆色は絶対的で固有のものと考えられていた

Prism 大脳と色覚の関係についての研究は、複雑に揺れ動いてきた。ニュートンは有名な1666年のプリズムの実験で、白色光が色のスペクトルのすべてから構成され、分光したり、再び白色光をつくったりできることを示した。もっとも屈折率の高い光は紫色に見え、もっとも低い光が赤色に見える。残りはその中間にある。ものの色は、どの色がいちばん「多く」反射して、わたしたちの目に届くかによって決まるとニュートンは考えた。

1802年、トーマス・ヤングは、異なる波長の光それぞれに対応する無限に多くの受容体が目にあると想定する必要はないと考え(非常に限られた絵の具からどんな色でもつくりだせるではないか)、三種類の受容体があれば充分だという仮説をたてた。50年後に視覚について研究していたヘルマン・フォン・ヘルムホルツがよみがえらせ発展させ、現在はヤング‐ヘルムホルツ仮説と呼ばれている。色はそれぞれの受容体が受けとる光の波長によって決まり、神経系は波長を色に翻訳するのだと考えた。

ヘルム・ホルツは「色彩の恒常性」を強く意識していた。照明の波長が大きく変化しても、ものの色は同じだと感じるからこそ、ものを認識することができるし、なにを見ているのかを知ることができる。したがって、単純に波長を色に置き換えているだけではないのはたしかだ。なにか「光量を調節する」方法があるはずで、「無意識の推論」あるいは「判断行為」があるのだろうとヘルムホルツは考えた。色彩の恒常性は、わたしたちの概念が一般的に恒常性を持っていて、変化する混沌とした感覚から安定したそれ自身の世界をつくりあげていることの具体的な例だと彼は感じていた。感覚的に入ってくる不安定で変化の予測がつかない情報をただ受動的に受けとっているだけでは、そうした安定した世界は成立しない。

ヘルム・ホルツと同時代の大科学者クラーク・マックスウェルも、学生時代から色覚の謎に関心を持っていた。彼は、色の円盤を作って原色と混色という考え方を確立し(円盤を回すと、色が混ざりあって灰色に見える)、三つのくさび形の色紙を使った色のトライアングルで、どんな色も三原色からつくれることを示した。Tartan_ribbon こうした予備段階を経て、1861年に、感光乳剤は黒と白だけでも、カラー写真が作れることを証明するもっともめざましい実験が行われた。彼は色のついたリボンの写真を、赤と緑、紫のフィルターを通して三度写した。この三枚の「分色」写真(と彼は呼んだ)を撮ったあと、それぞれのフィルターフィルターを通して(赤いフィルターを通して撮った写真は赤い光で)スクリーンのうえに重ねて投影してみせた。すると正しい色のリボンが映しだされたのである。マックスウェルは、脳の中でもこれと同じ方法で色を感じているのではないかと考えた。神経が色を分けたイメージをつくり、それから魔法のスライドでやって見せたように重ねあわせているのではないだろうか。マックス・ウェル自身、この加法プロセスの難点に気付いていた。カラー写真では「光量を調節する」方法がなく、光の波長が変化すると無残に変色してしまったのだ。

◆色は相対的な関係で決まる

マックス・ウェルの有名な実験から約90年後の1957年、インスタント・カメラとポラロイドの発明者であるだけでなく、天才的な実験家、理論家でもあったエドウィン・ランドが、さらに驚くべきカラー写真の実験をして見せた。マックス・ウェルとは違って、彼は、スプリット‐ビームカメラを使い、同じレンズを通して同じ始点から同時に撮影した二枚の白黒写真を使って、これをダブル‐レンズのプロジェクターで映し出した。撮影に使ったのは波長の長い光を通す赤いフィルターと、波長の短い光を通す緑のフィルターの二枚である。一枚目の写真は赤いフィルターを通して映写し、二枚目はフィルターと押さず普通の白色光で映写した。これだと全体が薄いピンク色に映ると予想するのが当然だろうが、「ありえない」ことが起こった。「金髪、薄いブルーの瞳、赤いコート、青緑の襟、そして驚くほど自然な肌色」の若い女性の写真が映しだされた、とランドは後に書いている。いったいこの色はどこから来たのか、また、どのようにしてつくられたのだろうか。この色は写真の「なか」にも、照明光にもなさそうだった。単純で衝撃的なこの実験は、ゲーテの言う色の「幻」が脳神経学的真実である事を示したのである。色は「外界に存在する」のではなく、又古典的な理論で言われたように、波長がそのまま色に還元されるのでもなく、脳の中で組み立てられるものだった。

どんな色が見えるはずかを観察者が知っている事が影響していることも考えられた。そこでランドは、見慣れた自然物のイメージではなく、色とりどりの紙で作った幾何学的な図形を使うことにした。これなら、どんな色が見えるか予想できない。この抽象的な図形はモンドリアンの絵に似ていたので、「モンドリアン図形」と呼ばれた。このモンドリアン図形を長い波長(赤)、中間の波長(緑)、短い波長(青)の三枚のフィルターをかけて映写することで、ランドは、物の表面が複雑な色から出来ているとき、反射される光の波長と知覚される色とは単純に対応してはいないことを証明した。

又、一つの色、(例えば、最初は緑に見えた色)をまわりから切り離すと、どんな色の光線を使っても白や薄い灰色にしか見えない。緑の神は緑という固有の色を持っているのではなく、ある意味ではモンドリアン図形の周囲との関連で緑という色を獲得していることをランドは示したのだ。

ニュートンや古典的な理論の考え方では、色は各点から反射される光の波長によって与えられる絶対的、固有のものだったが、ランドはそれが絶対的でも固有でもなく、全体の印象と、各点及びその周囲から反射される光の波長との相対的な関係で決まることを明らかにした。視野内の各点とその周辺との関係が次々に連続していって、世界の全体像が出来上がる。ヘルムホルツの言う「判断行為」である。ランドは、この計算あるいは関連づけには一定の法則があると考え、条件が変わったらどんな色に見えるかを予言してみせた。彼はその法則を分かりやすく示す「カラー・キューブ」を発明した。これは異なる波長の光の下で、脳が色とりどりの面の各点の明暗をどんな風に比較しているかを示すモデルでもあった。

マックスウェルの色彩論と色のトライアングルが色の足し算を基本としていたのに対し、ランドのモデルは比較論だった。実際には次の二つの比較が行われていると彼は考えた。第一は、一定の波長の光の元で各点から反射される光全ての比較(ランドの言葉を借りれば、その周波数での「明るさの記録」)で、第二は、三つの波長(ほぼ赤と緑と青の波長)の光のもとでの明るさの比較である。この二つ目の比較によって、色が生まれる。ランド自身は、脳のどの部分でこの作業が行われるかを推察することはせず、網膜と大脳皮質とが何ヵ所かで連携しているという意味で、自分の色彩論をレティネックス理論と呼んだ。

◆色を「判断」している場所

ロンドンのセミール・ゼキは生物学レベルで、すなわち麻酔をほどこしたサルの視覚野に微小電極を差し込んで、色の刺激に対する神経の反応を測定することを試みた。1970年代はじめ、ゼキは画期的な発見をした。サルの脳の両側にある有線前野(V4と呼ばれる)という小さな部分が、特に色に反応するらしいことをつきとめたのである。ついにゼキが色覚中枢の存在を証明したのだった。

1960年代に、サルの第一次視覚野(V1と呼ばれる部分)には、波長に反応するが色には反応しない細胞があることがつきとめられていた。1970年代初め、ゼキは、V4に波長には反応しないが色に反応する細胞がある事を発見した(このV4の細胞はV1の細胞からV2という中間構造を介して信号を受けとっている)。V4のそれぞれの細胞には視覚の多くの部分に関する情報が入ってくる。

ランドの理論で想定されていた二つの段階に、解剖学、生理学の裏づけが与えられたのである。各波長の明るさはV1にある波長に反応する細胞によって検知されるが、V4にある色の記号化細胞によって比較されるか関連づけられて、はじめて色が感じられる。これがランドのいう関連づけ、アルイハヘルムホルツのいう「判断」にあたるものと思われる。

色覚はほかの初歩的な視覚のプロセス、つまり動きや奥行き、形の認識などと同じで、前提となる知識を必要とせず、学習や経験によってではなく、神経学者の言うように「積み上げ(ボトム・アップ)」プロセスによって得られるものらしい。実際に、V4を電気的に刺激する実験を行なうと、色の輪とそのまわりの暈が「見える」。色の幻覚である。だが、実生活における色覚は経験の中で重要な部分を占め、ものの分類や価値観とつながっており、個人的な世界観を形成する要素のひとつとなっている。色を生みだす器官はV4かもしれないが、色自体は脳と心のほかのたくさんのシステムに信号を送り、変換され、同時にそちらからも信号を送り、変換され、同時にそちらからも信号を受けとって影響される。こうして、記憶や期待、連想、それに世界を共感できる意味のあるものにしたいという願望と色を結びつける統合がなされるのは、もっと高いレベルの働きによる。

◆忌まわしい異常なものに変わってしまった視覚的世界

Ⅰ氏は最初、自分の視覚的世界が忌まわしい、異常なものに変わってしまったと感じた。これもまた、彼のような障害をもったほとんどのひとが感じている。ひとは、大脳性色盲の患者がどうしてこうした言葉を使うのか、どうして、それほど異常だと感じるのかと首をかしげるかもしれない。Ⅰ氏は錐体で、また波長を感知するV1の細胞でものを見ているが、それより高次の色をつくりだすV4の細胞が働かない。ふつうはV1がつくる像は、それ自体としては経験されず、すぐにより高次のレベルに送られてしまい、さらに処理されて色の知覚になるので、わたしたちには想像がつかない。V1の生の像は意識されないからだ。ところがⅠ氏は、これを見ている。脳の障害のために、色をつくるべき刺激が色を構築するまえのV1の不気味な世界、言ってみればどっちつかずの奇妙な、色があるともないともいえない世界に閉じ込められてしまったのだ。

◆新しい世界への扉を開いてくれた奇妙な贈り物

Ⅰ氏は喪失感を否定しないし、いまでも悲しんでいることは事実だが、色に煩わされずに、純粋な形を見られるようになった自分の視覚が「高度にとぎすまされて」「恵まれた」ものだと感じるようになった。色があるためにふつうは感じとれない微妙な質感や形が、彼にははっきりとわかる。彼は、色に惑わされるふつうのものにはわからない「まったく新しい世界」を与えられたと感じている。もう、色のことを考えたり、焦がれたり、喪失を嘆いたりはしなくなった。それどころか、色盲を新しい感覚と存在の世界への扉を開いてくれた奇妙な贈り物だとすら考えるという。これは、二、三年、視力喪失に苦しみ、呪ったあと、「暗い、逆説的な贈り物」「人間の凝集された条件・・・・・人間の秩序の一つ」と考えるようになったジョン・ハルの変化によく似ている。

事故から三年ほどたったころ、イスラエル・ローゼンフィールドが、Ⅰ氏は色覚を回復できるかもしれないと言った。波長を比較するメカニズムは損なわれず、Ⅴ4(あるいはそれと同等の部分)だけが損傷しているのだから、少なくとも理論的には、ランドのいう関連づけを脳のほかの部分で行なえるよう「再訓練」できるはずで、そうすればいくらか色覚が回復するのではないかというのである。

意外だったのはⅠ氏の返事だった。いまでは世界をべつの見方でみているし、調和のとれた完全なものと感じているから、治るかもしれないといわれてもぴんとこないし、むしろ反感を覚えるという。もう、色は以前の意味や観念を失ってしまったので、色覚が回復したらどうなるのか想像もつかない。たぶん、ひどく混乱するだろうし、自分には理解できない感覚に当惑して、せっかくつくりあげた視覚的世界の秩序が乱されるだろう。しばらくは煉獄(リンボ)をさまよったあげく、ようやく彼は――神経学的にも心理学的にも――色盲の世界に落ち着いたのだ。

絵のことでいえば、一年あまりの実験と模索のすえに、Ⅰ氏はそれまでの芸術家としての経歴に勝るとも劣らない力強い生産的な段階を迎えた。白と黒の絵は非常に好評で、創造的な再生を果たして驚くべき「白と黒の時代」に入ったと言われた。この新しい段階が、芸術的な展開だけではないこと、悲劇的な喪失によってもたらされたものであることを知っている人は少ない。

◆精神外科ロボトミー手術でノーベル賞受賞

1880年代、前頭葉の腫瘍がさまざまな症状を引き起こすことが明らかになった。ときには無関心、遅鈍、精神活動の遅滞、ときには極端な性格の変化や自制力の喪失、またときには(ガワーズによれば)「慢性的な狂気」すら起こることがある。前頭葉腫瘍の最初の手術が行われたのは1884年で、精神病の症状だけを理由に初めて前頭葉が除去されたのは1888年だった。このときの理由は、精神分裂病だったと思われる患者の強迫観念や幻覚、妄想性興奮などが前頭葉の活動過剰あるいは病的活動に起因するということだった。

それから45年間は、こんな無謀はくり返されなかったが、1930年にポルトガルの神経学者エガス・モニスが「前頭葉白質切截術」と名付けた手術を考案し、不安神経症や鬱病、慢性的な分裂病などの患者20人に施された。1936年に彼の論文が発表されると、彼が主張した手術の成果に大きな関心が集まり、治療への熱い期待のかげで彼のずさんさや不注意、それにたぶん不誠実さが見過ごされた。モニスの手術に続いて(彼が名付けた)「精神外科」がブラジル、キューバ、ルーマニア、イギリス、そしてとくにイタリアなど、全世界に爆発的に広まった。だが、どこよりも影響が大きかったのは、アメリカだった。神経学者のウォルター・フリーマンは経眼窩ロボトミーと名付けた恐るべき外科手術を考えだした。その手順を彼はつぎのように説明している。

患者に衝撃を与えて意識を失わせ、「麻酔」下で眼球とまぶたの間から眼窩上辺の奥の前頭葉部分にアイスピックを差し込み、これを左右に動かして水平に切りこみを入れる。ふたりの患者には左右両半球、ひとりはいっぽうだけに手術を施したところ、一名の片目が黒く痣になった以外は合併症もなかった。今後、問題が出てくるかもしれないが、一見抵抗を覚える方法ながら、非常に平易である。これらの症例については今後の経過を待たなければならないが、ロボトミー後の行動にわずかな困難があるだけで、症状は大幅に緩和している。患者は術後一時間ほどで起き上がって帰宅したほどである。

アイスピックを使って診療室で簡単に処置するというこの精神外科手術は、驚きと恐怖を巻きおこして当然なのに、追随する者が続出した。1949年にはアメリカで1万人が手術を受け、その後の二年に患者はさらに1万人増加した。モニスは「恩人」と称えられて、1951年にノーベル賞を受賞した。受賞は、マクドナルド・クリッチェリーの言葉によれば「この恥ずべき物語」のクライマックスだった。

もちろん、手術で「治癒」するわけがなく、患者はただ無気力で従順になっただけで、もとの顕著な症状と同じくらい、あるいはそれ以上に「健康」とはほど遠い状態で、しかも(もとの病気とちがって)もはや回復の可能性はなかった。

1966年から90年まで州立病院に勤めたわたしは、ロボトミーを施された哀れな患者をおおぜい見たが、レプケよりもひどくて精神的には死んだも同然の者も多かった。彼らは「治癒」したといわれたものの、じつは殺害されたのである。

◆前頭葉の抑制から逃げ出して

1880年代に単純に考えられていてモニスも同調したように、前頭葉の回路の大きな異常が精神病の原因かどうかはともかく、この部分の優れた偉大な機能には裏面があることもたしかである。人間はときには意識や倫理観、良心、それに義務や責任感の重さに耐えられず、この重圧から、正気と健全さから解放されたいと願う。前頭葉の窮屈な文明社会にはそうした欲求があることを、いつの時代、どこの文明も気付いていた。

わたしたちはみな、ときには少し前頭葉から離れて休暇を取る必要がある。だが、病気や怪我のためにその休暇から戻れなくなるのは悲劇である。

◆再構築される記憶、再生される記憶

過去の記憶が脳に貯えられているという考え方には多少ニュアンスのちがいがあるし、それほど機械的に解釈されているわけでもないが、精神分析の分野にはつきもので、優れた自伝を書いた作家たちもそう考えてきた。フロイトが好んだ心のイメージは、何層にもわたって過去が埋もれている(だが、いつ古い地層が意識の上にまで上昇してくるかわからない)考古学調査の現場だった。プルーストの人生のイメージは「瞬間の集積」だった。「その後に起こったすべてのことと無関係」で、心のなかの食料庫にしまわれたジャムの壜のような「密封された」思い出である(記憶について考えた偉人はプルーストだけではない。記憶の不思議さを考えながら、結局、記憶とは「何なのか」わからずじまいになった思想家は、少なくともアウグスティヌスにまでさかのぼる)。

記憶は記録あるいは貯蔵庫であるという考え方はよく知られていて、わかりやすいので、つい鵜呑みにしてしまい、こうした考え方がどんな問題をはらんでいるかに気づかない。ところがいっぽうでは、「ふつうの」記憶、毎日の記憶が固定されたものにはほど遠いという、まったく反対の経験を誰もがしている。記憶は思い出すたびに、欠けたり、変化したり、修正されたりしている。証人がふたりいれば必ず言うことがちがうし、どんな物語も記憶も同じままではいない。物語はくりかえされるたびに変化していく。1920年代から30年代、語り継がれる物語や映画の記憶などを考察したフレデリック・パートレットは、「記憶」というまとまったものはなく、「思い出す」という動的なプロセスがあるだけだと確信した。彼は『想起の心理学』という優れた著作のなかでも、決して記憶という名詞を使わず、思い出すという動詞を使うほど気を使っている。彼はつぎのように書いている。

思い出すということは、生命のない固定された無数の断片的な痕跡を再活性化することではない。それは想像的な再構築、あるいは構築であって、過去の反応や経験の活動的な総体に対する自分の姿勢をもとに、ふつうはイメージや言葉というかたちで現われる際立った細部をつくりあげていくことだ。したがって、どれほど機械的な反復であっても、ほんとうに正確であるはずはないし、たいして重要でもない。

現在、バートレットの結論に対する強力な支持者が現われている。ジェラルド・エーデルマンの神経学研究の成果や、脳とはつねに変化のプロセスにある偏在的な活動システムであって、すべてはつねに改訂され修正されているという見方は、パートレットの結論と一致する。エーデルマンが考える心には、カメラも機械的な働きもない。すべての記憶は関連づけ、一般化し、再分類するプロセスである。こうした見方をすれば、固定された記憶も、現在の色づけのない「純粋な」過去も存在し得ない。パートレットと同じくエーデルマンも、つねに動的なプロセスが働いているのであって、記憶とは再生ではなく再構築であると考えている。

しかし、記憶にはこうした見方が通用しない異例なかたち、あるいは病理的なかたちがあるのではないか。たとえば、ルリアの「記憶術者」にみられる一見したところでは再生可能な不変の記憶、固定し硬直した過去の「人工的記憶」に似たものがあるのではないだろうか。口承文化にみられるきわめて正確で記録的な記憶、何世代も何世代も忠実に伝えられる部族の全歴史、神話、叙事詩はどうか。本や音楽、絵、言葉をまるごと暗記し、何年もたってから文字どおりわずかなちがいもなく再生する、限られた面で特殊な才能を示す知的発達障碍者たち「イディオ・サヴァン」の能力はどうなのだろう。心的外傷(トラウマ)を負って何年も何十年もたってから、どんな細部もそのままに、何度もくりかえしてよみがえる辛い記憶、フロイドが「反復脅迫」と言った記憶はどうなのか。時の経過にもびくともしない神経症的な、あるいはヒステリー的な記憶はどうか。これらの記憶では、再構築ではなく非常に大きな再生の力が働いているように思われる。ここでは固着、あるいは化石化、石化といった要素が働き、再分類や見直しという通常のプロセスと切り離されているのではないか。

二種類の概念を考える必要があるのかもしれない。動的で、つねに見直され、新しいかたちで提示される記憶もあるが、同時にもとのかたちで存在し、その後の経験のなかで何度も何度もなぞられ、書き直されてもなおそのままのかたちで存在する記憶もある。

◆「わたしたちは、転送装置で一緒に地上に下ろされたんです」

ミセスBは自分のことを「正常とのボーダーライン」にいると言い、その「ボーダーライン」とはなにを意味するかを明確に説明した。「わたしたちは、『正常な』ルールやしきたりを知っていますが、そちらの世界へ移ったのではありません。正常に行動し、ルールを学び、それに従いますが、でも・・・・・」、「人間行動の模倣を学習するのです」と彼女の夫が口を挟んだ。「わたしにはいまでも、社会的なしきたりの奥になにがあるのか、理解できません。表面的には従いますが、しかし・・・・・」

B夫妻は正常な見かけを学びとった。仕事をし、郊外で暮らして、車を運転し、息子をふつうの学校に通わせるには、それが必要だった。だが、彼らは自らに幻想を抱いてはいなかった。自分たちが自閉症であることを認識し、だからこそ大学時代に互いに親近感を抱いて嬉しくなり、結婚せずにはいられなかった。「わたしたちは何百万年も前から知りあっていたようです」とミセスBは言った。ふたりは自閉症にからむいろいろな問題をよく知っていたが、互いにひととちがう面を尊重し、誇らしくさえ思っていた。じっさい、自閉症の人たちの一部は、緩和できない異質感をもつあまり、なかば冗談に自分たちは別の種なのだと思うと言う(「わたしたちは、転送装置で一緒に地上に下ろされたんです」というのは、B夫妻のお気に入りの台詞だった)。彼らに言わせれば、自閉症は特殊な医学的状態で、症候群として病理現象扱いされるとしても、それと同時にある全的なあり方、まったく異なった存在の様態あるいはアイデンティティとして見るべきであり、そこを意識し、誇りをもつ必要があるという。

テンプルの姿勢もこれに近かった。彼女は(単に知的操作、あるいは推論を通してであっても)自分の人生にはなにが欠けているかをよく知っていたが、同じく(直感的に)自分の強みも知っていた。集中力、密度の高い思考、ひとつの目的へのこだわり、頑固さ、それから偽りを知らない率直さ、誠実さである。彼女はこうした強みが自閉症の短所と表裏一体の長所ではないかと考えていた。わたしも、だんだんその思いが強くなっていた。だが、彼女もときには自分が自閉症であることを忘れ、ひととちがう世界にいるのではない、仲間なのだと感じたくなることがあった。

banana著者 

684px91309oliversacksbyluiginovi オリバー・サックス (1933年7月9日 - )は神経学者。2007年7月よりコロンビア大学医科大学院教授。自身の扱った患者について記した一般啓蒙書を多く記している。彼自身は、これら著作につ いて、19世紀の医学秘話(文芸的筆致の非公式な傷病録)的な性質のものであると考えている。

ロンドンで生まれ、オックスフォード大学クイーンズ・カレッジで医学の学位を取得し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で神経医学の研修医となる。 1965年以来ニューヨークに居住している。アルバート・アインシュタイン医科大学の神経科臨床医学の教授であり、ニューヨーク大学医学部の非常勤の教授 である。また、貧民救済修道女会の顧問神経学者でもある。ニューヨーク市内で開業している。

彼の代表作『レナードの朝』(同名の映画の原著、映画は実話である原著に基づく創作)では、彼が1920年代生まれの嗜眠性障害の患者に新薬のL-ドーパを投与した経験について書かれている。

オリバー・サックス: 幻覚が解き明かす人間のマインド 全18分48秒 (日本語)
>シャルルボネ症候群

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