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2010年12月11日 (土)

252 『妻を帽子とまちがえた男』 オリバー・サックス 初版1992年

「アイデンティティの神経学」

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clover概要

原題: The Man Who Mistook His Wife for a Hat (1985 USA)

病気について語ること、それは人間について語ることだ―。妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする男。日々青春のただなかに生きる90歳のおばあさん。記憶が25年まえにぴたりと止まった船乗り。頭がオルゴールになった女性…。脳神経に障害をもち、不思議な症状があらわれる患者たち。正常な機能をこわされても、かれらは人間としてのアイデンティティをとりもどそうと生きている。心の質は少しも損なわれることがない。24人の患者たち一人一人の豊かな世界に 深くふみこみ、世界の読書界に大きな衝撃をあたえた優れたメディカル・エッセイ。

clover読むきっかけ&目的&感想

目や鼻や口が見えているのに顔という全体を認識できない「相貌失認」という病気があることを知り、そういった「失認症」について書かれた一般書を読んでみたくて探した本。

さくら好み ★★★★★

視力があっても、バラという全体を認識できない、顔の右側しか認識できない、自分の脚を自分のものだと認識できないなどなど、認識するいうメカニズムの不思議と驚きに満ちていて、心身の境界を新たに考えさせられる本だった。

「認識する」には何らかの脳神経の働きが必要であり、働かなくなるとそれらを「失認する」に至るらしい。認識に身体メカニズムが関与しているという事は、本や映画や音楽や絵画などを良いとか好きとか思えるのは認識できる身があるおかげでもあるわけだ。そして、同じものを見て聞いたとしても感じ方が違うのは、人それぞれ心だけでなく身が違うせいでもあるのかもしれないと思うようになった。

本書にある症例を読むと、脳神経の病気というのは主体的な世界観を紡ぎだすため、個人のアイデンティティと密接に関っているというのがよく分かる。そして変な話だけど、脳神経症患者の世界観を少しでも知る事が出来ると、その異常さが軽減され(異常という感覚は、受け手側の無知・無理解が招いているに過ぎないという事なのかも)、病気を個性のように感じてくるから不思議だ。それは医者と患者という関係から見ただけではないオリバー・サックスの眼差しと筆致の賜物なのだろう。

*オリバー・サックス原作の映画『レナードの朝』をもう1回見てみた。

clover覚書

◆目次

はじめに

第1部 喪失

・妻を帽子とまちがえた男 ・ただよう船乗り ・からだのないクリスチーナ ・ベッドから落ちた男 ・マドレーヌの手 ・幻の足 ・水平に ・右向け、右! ・大統領の演説

第2部 過剰

・機知あふれるチック症のレイ ・キューピッド病 ・アイデンティティの問題 ・冗談病 ・とり憑かれた女

第3部 移行

・追想 ・おさえがたき郷愁 ・インドへの道 ・皮をかぶった犬 ・殺人の悪夢 ・ヒルデガルドの幻視

第4部 純真

・詩人レベッカ ・生き字引き ・双子の兄弟 ・自閉症の芸術家

訳者あとがき

◆精神(心理)と物質(肉体)が交差する場所

高度の神経学や心理学においては、患者の人間としての存在そのものがひじょうに問題となる。患者の人間としてのありようが根本的に関係してくるからで、したがってこの分野では、病気の研究とその人のアイデンティティの研究とは分けることができない。そこでこのような病気を叙述したり研究するためには、当然のことながら新しい方法が必要になってくる。あえて名づければ「アイデンティティの神経学」とでもいえようか。それは、人をその人たらしめている根本である神経の世界をあつかうものであり、古くからいわれている頭と心の問題をあつかうからである。

精神(心理)と物質(肉体)とはたがいに別の領域であって、両者のあいだには越えがたい溝が必然的に存在するにちがいない。だが、その両者に同時にかつ分かちがたく結びついた研究や話がもし書けるとすれば――私がとくに関心をもちこの本でめざしたのは、概してそうしたものであるが――カテゴリーがちがうその両者を近づけるのに役立つかもしれない。それが書けたなら、われわれはメカニズム(機構)とライフ(生命)が交差する場所に近づき、病理的記述と伝記との接合部にもっと目が向くようになるかもしれないのである。

◆視力があるのに見えない

私は、音楽家で音楽学校の先生であるPの家へくるまえに花屋に寄り、大きなバラの花をひとつ買って、襟のボタン穴にさしていった。そこでそれをぬきとって、Pにさしだした。それを受けとったときの彼ときたら、とても花をもらった人間とは思えぬ態度で、標本を見せられたときの生物学者か形態学者のような感じだった。

「約3センチありますね。ぐるぐる丸く巻いている赤いもので、緑の線状のものがついている」、「その通り」、私ははげますように言った。「で、何だと思います?」、「なかなかむずかしいな」彼は当惑顔だった。「単純な対象性はありませんね。もっとも、別の意味でもっと高度の対象性があるのかもしれないけれど・・・・・これは花といってもよさそうですね」。「その可能性ありますか」、「ありえますね」Pはきっぱり言った。

「匂いをかいでごらんなさい」私が言うと、Pはおとなしく言うことを聞いて、それを鼻のところにもっていった。とつぜん、Pは生き返ったように元気になった。「なんときれいな!」、Pは声をあげた。実体の認識は、視覚でなく嗅覚によっておこなわれているかのようだった。

さらに内奥の世界にはいった場合はどうなのだろうか。トルストイの小説では、作中人物がじつに生き生きと視覚的に描かれている。それを思い出したので、『アンナ・カレーニナ』について質問してみた。Pは小説のなかの出来事をよくおぼえていた。物語の筋もみな思いだせた。だが、視覚にうったえる特徴や、視覚的な挿話や情景は、完全にぬけ落ちていた。作中人物が口にすることばはおぼえているが、顔は思い出せなかった。Pはおどろくべき記憶力の持ち主で、ある一節を逐一暗唱することさえできたけれど、そのなかに視覚的な表現があっても、Pはなにも感じておらず、感覚的・情緒的にもリアリティは認識できないのだった。かくしてこれもまた一種の失認症ということになるのだった。

しかし、視覚化がどんな場合でも不可能なわけではないことが、やがてわかってきた。顔とか情景、具体的イメージをともなう話やドラマの場合にかぎり、視覚化能力の欠落を見せるのだった。こと図式にかんすることになると、能力はちゃんとある。むしろ増大するくらいだった。頭のなかでチェスをやらせてみたところ、チェス盤や駒の動きは難なく思い浮かべることができ、ゲームはおそろしく強くて、私など打ち負かされてしまうのだった。

◆ヘレン・ケラーの不思議

生後19ヶ月で聴力・視力・言葉を失ったヘレン・ケラーが視覚的な叙述表現ができるのを、私はしばしばふ しぎに思ってきた。雄弁ではあるけれど、ほんとうに空疎でなく実体の裏づけがあるのだろうか、と。それとも、触覚によって得たものを視覚的心象へ転換させ ることをくりかえしているうちに――さらにこれは驚くべきことだが――言語または形而学的世界のものを感覚的・視覚的なものへとイメージ転換をくり返して いるうちに、目がそれを見てそれが大脳の視覚皮質を直接刺激するということなどなくても、視覚的イメージの創造能力を獲得してしまったのだろうか、と。

しかしPの場合は、画像をつくる上で重要不可欠な視覚皮質に、まさしく欠損があった。興味をひかれることだが、彼はもはや夢を視覚的に見ることができなかった。夢が告げるものは、すべて非視覚的なかたちで伝えられたのである。

◆自分の脚を自分の脚と感じられない

「これ見てください!」と彼は嫌悪感を顔いっぱいに浮かべて叫んだ。「こんな気味の悪い、恐ろしいもの見たことありますか? これ死体についてた足ですよ。気味が悪いったらありゃしない。こわい話です、いやしいったらありゃしない。私にくっついちゃったみたいなんです」。彼はそれを両手でしっかりつかまえると、がむしゃらな勢いで、それを自分のからだから引き離そうとした。それができないとわかると、今度は怒り狂ったようになぐりつけた。

「まあまあ、静かに。落ちつきなさい」と私は言った。「そんなふうに足をなぐるもんじゃありません」、「なぜです、なぜいけないんです?」と彼はいらいらと喧嘩腰で言った。「だって、それはあなたの足だからですよ。自分の足だということがわかりませんか?」。彼は私をじっと見つめた。その顔には、呆れと不信感と恐怖と嘲笑と猜疑とがいりまじっていた。「ああ先生、私をばかにしているんですね、あの看護婦とぐるになっているんですね。患者をばかにするなんてひどい!」、「ばかにしていませんよ。それはあなたの足ですよ」

私の顔つきから、彼は私が大まじめでいることを知った。まったくの恐怖が彼をおそった。「私の足ですって? 自分の足なら自分でわかるはずでしょう?」、「その通りです」私は答えた。「自分の足だということは当然わからなけりゃ。自分の足だということが分からない人がいるなんて考えられませんね。ふざけているのはあなたのほうだ、ということになりますよ」。「とんでもない。誓ってもいい、絶対ちがいます。誰だって自分自身のからだはわかりますよ、自分のか自分のでないかってことは。だけどこの足は、こいつときたら――彼はそこでまた、嫌悪感をあらわに身震いした――へんなんです、おかしいんです、私の一部でないように思えるんです」

「ではどんなふうに思えるんですか?」私はどうしていいかわからず、たずねた。ここまでくると、私も、彼と同じようにとほうに暮れていた。「どんなふうに思えるかですって?」彼は、私のことばをゆっくりとくり返した。「じゃ、どんなふうか言いましょうか。存在するはずないものみたいに思えるんです。だから、そんなものが、どうして私にくっついているんです? どこにあったものなんでしょう」、彼の声はしだいに小さくなっていった。彼は、恐怖とショックでたまらないようすだった。

「いいですか」と私は言った。「あなたは具合がよくないようだ。どうかベッドへもどって下さい。最後にもうひとつだけ聞きますよ。もしこれが、もしこの物が、あなたの左足でないとしたら、あなたの足は、いったいどこにいったのですか?」。これを聞くなり、彼はふたたび青ざめた。「わかりません」と彼は言った。「ぜんぜんわからないんです。消えうせたんです、なくなったんです、どこにも見あたらないんです」

◆過去が今、「今」の消失

この底なしの忘却、この痛ましい自己喪失を、ジミーは知っていたとも言えるし、知らなかったとも言える(もしわれわれが足とか眼を失ったとしたら、われわれは足や眼がなくなったことに気づく。だが自分自身を失ったとしたら、そのことを知ることができない。なぜならば、それに気づく自分というものがいないのだから)。それゆえ私は、こうした問題を彼に質問することができなかった。

◆盲目になったことに気付く能力の喪失

私が診ていたある患者は、後頭葉への血管の塞栓のために、脳の視覚をつかさどる部分が死んでしまった。たちどころにこの患者は完全に盲目となったが、本人はそれを知らなかった。見たところ盲人なのに、彼はひとつも不平を言わない。質問や検査をしてみてわかったことだが、彼は盲目となった―脳の皮質の上でそうなってしまった―ばかりでなく、およそ視覚的な想像力も記憶もいっさい失ってしまったのである。それでいて、失ったという意識もないのだった。「見る」という観念そのものが存在しなくなり、なにひとつ視覚的に叙述することができないばかりでなく、私が「見る」とか「光」といったことばを口にすると、それが理解できずに当惑してしまう。すべての点で視覚と無縁な人間になってしまったのである。彼のこれまでの人生のなかで「見る」ことに関係あった部分いっさいが抜けおちてしまった。発作がおこった瞬間から消え、二度ともどらないのだった。

このような視覚面健忘、盲目であることに盲目、喪失を感じる能力の喪失は、結局のところ「全面的な」コルサコフ症候群と同種であって、視覚に特定されている点だけがちがうにすぎない。

◆「知恵遅れの天才」~双子の兄弟

二度目にこの二人を見たとき、彼らはいっしょに部屋の片隅にすわっていた。二人の顔には、謎のような微笑がうかんでいた。それまで見たことがないような微笑で、どうやら二人だけで奇妙な喜びと平和でを味わっているようすだった。二人の邪魔をしないように、私はそっと近づいていった。彼らは二人だけで、数そのものに関係したふしぎな対話をやっているらしかった。ジョンがある数を言う。六桁の数だった。マイケルはそれを聞くと、こっくりとうなずく。にこにこして、いかにもそれをとくと味わっているようすである。それから今度は、彼が別の六桁の数をまるでワイン通が、めずらしいワインを舌の上にのせ、その味と香りに二人そろって悦に入っているかのようだった。

彼らは何をしていたのだろうか? いったい何がおこなわれていたのだろうか? 私にはぜんぜんわからなかった。一種のゲームらしかったが、普通のゲームの場合にはけっして見られないような重々しさと緊張がみなぎっていた。二人はじっと沈思黙考にふけり、なにやらおかしがたい神聖な雰囲気だった。

しかたなく私は、二人が口にした数をメモするだけにした。彼らにとって大きな喜びの源となっていた数。それらの数はなにか意味をもっているのだろうか、と私は家へ帰りながら考えた。まともな意味、万人に理解できるれっきとした意味があるのだろうか? それとも、兄弟姉妹が自分たちのあいだで考え出して言い交わしているたわいないことばのように、ただ気まぐれな、特殊な意味だけをもった数なのだろうか? ジョンとマイケルは、ことばさえ、片言すら使っていなかった。ただ相手に数を投げかけるだけだった。これらのボルヘス的あるいはフネス的な数は、この双子だけにわかる葡萄の木なのか、種馬の荒々しいたてがみなのか、空の星なのか?

家に着くとすぐに私は、累乗、約数、対数、素数などがのっている数表をひっぱり出してきた。数表を見るまえからすでに私は予感していたが、やっぱり思ったとおりだった。双子の兄弟がやりとりしていたあの六桁の数は、どれもみな素数だったのである。彼らは、百十一という数が(あるいは三十七が三つあるのが)見えたのとおなじように、素数が――どうやってか想像もつかないが――見えていたのだろうか? 計算の結果ということはもちろんありえない。なぜなら、彼らは数の勘定はぜんぜんできないのだから。

沈黙。いぶかしげな、前よりずっと長い沈黙がつづいた。やがてジョンが、驚異的な精神集中のすえに十二桁の数を言った。私としてはもうたしかめようがなく、何も答えることはできなかった。私の本には――当時これ以上の本はなかったはずだが――十桁より上の素数はもうのっていなかったからである。しかしマイケルは挑戦にこたえ、五分間かかったけれど、それについてきた。こうしてその一時間後には、この二人は二十桁の素数をやりとりするようになっていたのである(それらは素数だったのだろうと思う。私にはたしかめようがなかったけれど)。一九六六年の当時、コンピューターを使わないかぎり、二十桁の素数などわかる方法はなかった。いや、使ってもむずかしかったろう。ここまで大きな素数になると、簡単な方法はまずありえなかった。それなのにこの二人は、それをやってのけていたのである。

◆観念が視覚化されている?

マッチ棒を見て「百十一  ――三十七の三倍」と彼らが言ったことに注目しよう。彼らは三十七という素数をとりあげ、それを三倍しているのである。実際には素数だけが「見える」ものだったのである。素数がちがえば、そのつどパターンはちがってくる。相手が言った素数をくり返すとき、彼らのあいだで視覚的な情報が伝達されている、と考えるならば、パターンが情報の断片だったかもしれないのである。要するに、合同を用いるモジューラ・アリスメチックは、彼らが過去をとりもどすのに役立っていた。そしてそのさいに出てくるパターンは――素数のときだけに生じるのだが――二人にとっては特殊な意味をもつものだったにちがいない。

こうした合同を用いるモジューラ・アリスメチックだと、非常に大きな素数から生じるパターンにうまくはめこむことによって、ふつうの四則計算では歯が立たない場合でも、すばやく答えが出てくることがある。これが、イアン・スチュアート(数学者)の指摘するところだった。

もしもこのような方法、つまり視覚化がこの場合のアルゴリズムだとするならば、それはなんとも非常にめずらしい種類に属する。代数学的ではなくて、空間的ひろがりをもつものだからである。木々や、らせん状のかたちや、建造物などと同類だからである。ちがう点はただ、見えているのが「ランドスケープ(地上の風景)」でなくて、むしろ「ソートスケープ(思惟の風景)」と言いたいものだということだ。とにかくその空間は、明らかに観念上のものとはいえ、なかば感覚的でもあるのだ。

クルト・ゲーテル(数学者・論理学者)は、ごく一般的なかたちではあるが、数とくに素数が、多くの観念、人間、場所をさす「マーカー(標識)」となっているのではないか、という説をのべている。もしそうであれば、ゲーデルのいう「標識」説は、この世界の「算術化」あるいは「数字化」へむかって道をひらくものといえよう。もしゲーテルが言うとおりのことがおこっているのだとすれば、双子の兄弟やそれと同類の人たちは、数の世界に住んでいるばかりでなく、世界の中で数としていきている、ということが考えられる。彼らが数で遊んだり、数を出してくることは、人生そのものを生きようとしていることではないだろうか。そして、われわれにはよくわからず、鍵が見つからないでいるけれども、彼らのそうしたふるまいは、奇異に思えるけれども、精確なコミュニケーションでもあるのかもしれない。

clover著者

684px91309oliversacksbyluiginovi オリバー・サックス (1933年7月9日 - )は神経学者。2007年7月よりコロンビア大学医科大学院教授。自身の扱った患者について記した一般啓蒙書を多く記している。彼自身は、これら著作について、19世紀の医学秘話(文芸的筆致の非公式な傷病録)的な性質のものであると考えている。

ロンドンで生まれ、オックスフォード大学クイーンズ・カレッジで医学の学位を取得し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で神経医学の研修医となる。1965年以来ニューヨークに居住している。アルバート・アインシュタイン医科大学の神経科臨床医学の教授であり、ニューヨーク大学医学部の非常勤の教授である。また、貧民救済修道女会の顧問神経学者でもある。ニューヨーク市内で開業している。

彼の代表作『レナードの朝』(同名の映画の原著、映画は実話である原著に基づく創作)では、彼が1920年代生まれの嗜眠性障害の患者に新薬のL-ドーパを投与した経験について書かれている。

オリバー・サックス: 幻覚が解き明かす人間のマインド 全18分48秒 (日本語)
>シャルルボネ症候群

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コメント

>>そして、同じものを見て聞いたとしても感じ方が違うのは、人それぞれ心だけでなく身が違うせいでもあるのかもしれないと思うようになった。
あ!この表現、言い得ている。^^

投稿: nono1 | 2010年12月12日 (日) 00時22分

他人の体を「借りる」ことが出来れば、比較できるのにね。
文字通り、世界が違って見えたりして.....ヽ(*≧ε≦*)

投稿: さくらスイッチ | 2010年12月12日 (日) 09時25分

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