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2010年11月 6日 (土)

244、245 備忘録 「浮世絵から時代を読む」

浮世絵は
可憐で美しい外交官として日本理解に貢献してくれ
いまもその大役を果たし続けてくれている

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244 『瀬木慎一の浮世絵談義』 瀬木慎一 初版2008年

<概要> 草創期の師宣、錦絵の始祖・春信から歌麿、北斎などの大スターへの論究はもちろん、版元や江戸の人々と浮世絵のかかわり、海外オークションの落札価格の推移まで浮世絵の魅力を幅広く紹介。

255 『浮世絵師列伝 (別冊太陽)』 小林忠/監修 2005年出版

<概要> 菱川師宣、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川国芳、歌川広重…。江戸の文化を創造した57名の絵師たちを年代順に紹介。浮世絵の見方に関するコラムも多数収録。主要浮世絵師276名を網羅した系譜年表付き。

fuji読むきっかけ&目的&感想

名古屋ボストン美術館での展覧会『錦絵の黄金時代 ― 清長、歌麿、写楽』が面白かったので、その観賞をより深めるために読んでみた。

さくら好み ★★★★☆

『浮世絵師列伝』のほうは年代順にカラーで浮世絵が紹介されていたので、彫りや摺りの技術発展をまざまざと感じ取ることが出来た。どちらの本も面白かった。

fuji備忘録

◆244
◆錦絵の技法を駆使した絵暦の流行

12 鈴木春信の絵師としての才能が俄然発揮されるのは、明和二年から流行する絵暦*の作者に起用されたときである。職人達の長年に及ぶ研究の結果、このときようやく整備された多色刷り、すなわち錦絵の技法を駆使して、この絵師は、これまでにない精緻で華麗な色彩版画を作り上げる。

*絵暦は、江戸時代に和暦の月の大小や暦注などを絵や記号等で工夫して表現した暦である。和暦は太陰太陽暦であるため閏月が追加される年や月齢の約29.3日を調整するため毎年30日の大の月、29日の小の月の該当月が異なっており、それを知る必要があった。

*右上画像は鈴木春信の絵暦「夕立」。この絵は、干してある浴衣の左上に「大」の文字が、その下に「二」その右に「三」、「五」、さらに「六」「八」「十」「メイワニ」とあり、明和二年の大の月が2,3,5,6,8,10月だと言うことがわかる。錦絵を生んだ絵暦

凝りに凝った絵暦の流行は、たちまち幕府の目にとまって二年後には禁止されるが、この絵師の手になる清冽な美人絵は独自の形で出版されて人気を集める。

それは、武家主導から町人主体へと急激に変化していく社会において、浮世絵を庶民のなかに浸透させ、重々しい肉筆画に代わる軽快な版画を親しいものにする一大契機となった。

◆浮世絵師、その本質的な無名性

鈴木春信の絵画が次代に与えた影響は極めて大きく、錦絵の元祖*であることの歴史的な評価は絶大である。(*「浮世絵」の元祖は菱川師宣。)

一人の絵師としても優れた作品を何点も持つことから、市場における評価も浮世絵師として最高で、《雪中相合傘》《鷺娘》のような作品は、歌麿、写楽の代表作をしのぐこともある。

それほどの大画家が伝記の面では未だに分明でなく、「謎の絵師」としても写楽をはるかに上回っている。

この事実は何を物語っているのだろうか。最大のことは、この画家の不明性というよりは、その本質的な無名性である。もっとも初期の、今日最高に評価されている諸作品に、そのスポンサーである旗本の名前はあっても、作者のそれがないという事実は、初めは単なる上等な印刷絵画だったものの性質と版下画工の地位を示すものにほかならない。

いったん、その華麗な版画が人々の眼に触れるや、ただちに需要が生じて、商業出版に移行することになって、初めて作者名が掲げられ、初期作品の再版も追いかけるようにしてそのようになるのが、その経緯である。この時代の区分においては、版画に携わるものを職人の一種である画工として扱い、絵師とは明らかに区別したその通念の現われにほかならない。それはかなり後期までつづく慣習だった。

それが現実であった以上、この一人の画工がいかに優れて、人気を博していたとしても、土佐派や狩野派の御用絵師のように系譜化し、特別に研究するものもなかった。

◆出版者「蔦重」は歴史に残る価値がある

江戸の地本問屋(今日の出版社)のなかで、たしかに大手の一つにはちがいないが、その名前を聞いて、ただちにその人物像が鮮やかに思い浮かぶという点では、蔦屋重三郎に優るものはないだろう。略称蔦重が、なぜがこれほどまでに有名になったからである。出版者自身が有名になるというのは滅多にないことで、かれが売り出したスターによって評価が決まるのである。

試みに、この人が版行した絵師の名前を並べてみよう。

鳥居清長、勝川春英、勝川春潮。勝川春朗、窪俊満、北尾政美、喜多川歌麿、英松斎長喜、歌川豊国、東洲斎写楽、葛飾北斎など。

以上の顔ぶれは、天明から寛政期に活躍した、もっとも人気の高い絵師の大多数といってよく、洩れているのは若干にすぎない。戯作や狂歌本に挿絵を描いている人を加えれば、もっと多くなろう。なかでも、当時の大家清長、寛政期に人気が絶頂に達する歌麿、彗星のごとく出現した写楽、次代の大物豊国と北斎を擁したことによって、出版者としては極めて華々しい。さらにそのなかでは歌麿、写楽の二人はかれが育成したと言え、北斎もそれに近い。これら三人の版元*だった、というだけでも、蔦重は歴史に残る価値がある。

*浮世絵版画は、出版社にあたる版元の統括のもと、絵師が絵を描き、職人である彫師・摺師が彫り・摺りを担当した。いわば分業の産物なのである。制作資金源は、版元の資本である。総合プロデューサーの立場にある版元は、作品を企画し、その作品や予算に見合った絵師・彫師・摺師に制作を依頼する。まれに絵師の方からアイデアが出たり作品を売り込まれたすることもあっただろうが、多くの場合主導は版元にあったと考えてよい。

◆葛飾北斎は長身であった

何時のころからの禁煙禁酒の粗食と、気儘な生活が健康に良く作用したに違いない。かれはこの時代の人間としては巨人に属する、六尺(約182cm)豊かな長身であった。

◆江戸時代最末期、明治維新期、明治期の画壇

幕政が衰退し、御用絵師ですら生活に困窮するその社会で、たとえ才能があろうと、若い画家が生きられるわけはなかった。河鍋暁斎はその前半生、実に多くの出来事に直面し変転に留まることがなかった。

それでは、維新後はどうだったか、と言うと、明治となったその途端の三年に、早くも、新たな災難ががこの乱世の荒武者のような画家に降りかかる。十月六日、其角堂雨雀主催の不忍池の長酡亭における書画会で、一枚の戯画を描いたところ、それを高官を風刺したものと見咎めた官憲によって逮捕、投獄され、翌年一月十日にようやく放免される。

それまで洞郁を主号としていたかれが「暁斎」に変わるのは、この一件以来であり、それは以前に戯画の類に手を染めたときに、一種の変名として使用した「狂斎」の踏襲であり、その発音もまた、一般的であるギョウサイよりは、キョウサイであるべきという考えが有力である。

それでは、明治という新時代になってからの暁斎の活動はどうだったか。社会が落ちつくとともに、各方面から各種の制作依頼が続き、来日外国人をも引きつけて極めて盛況であり、生活も安定し、ある面での人気絵師の地位を占めるに至った、と言っていい。

とはいえ、最大の問題はその画風が新政府の美術観とどの程度交叉するところがあったか、という点である。岡倉天心フェロノサは、明治中期からの一国の美術行政を主導した気鋭の官僚と顧問であり、かれらがこの過渡期の画家をどう評価したかは、史的に位置づける場合の一つの重要な鍵になる。具体的に言うと、この二人の主導者が美術界の再出発にあたって、主軸としたのは、狩野派の主流の一つである木挽町家の二人の有力絵師、芳崖と雅邦だった。そして東京美術学校を設立するに当たっては、前者は直前に病没した後、後者が中心となって指導が始まり、やがて横山大観、菱田春草、下村観山らが育ち、新しい画壇が形成されることになる。

この大きな流れに対して、暁斎は、狩野派出身とはいえ、傍流の駿河台家から出た雑多な絵画の作者と見られて、明らかに区別された。明治十七年、完全に消滅する同家の最後の生き残りとして、画技伝承のために木挽町家の永悳に入門する形式を取って、関係は維持されたということで、その系統の一人として一目置かれたものの、あくまでもエキセントリックな存在だった。

◆浮世絵の終焉

美術史上の浮世絵の終焉は、明治期の後半で、具体的には、日清戦争を最後の盛況として、日露戦争とともにほそぼそと姿を消す。その最大の理由は、主力だった木版画が欧米からもたらされた写真金属印刷に追いやられ、それ以前から肉筆画や挿絵で辛うじて生き延びてきた画家たちも、東京、京都の美術学校出身の新派の画家たちに圧倒されて、市場を失った、ということである。

特に、東京では、大正三年に再編成された日本美術院が急速に日本画の主流を占めるに至って、状況は根本的に変化し、その後、新時代の要求に応えて、柔軟に自己脱皮することができた画家は何人もいない。

◆今日の浮世絵

浮世絵版画に一点一万ドルを超える高値が出るようになったのは、一九七〇年代の初頭からである。ちょうどこのとき、日本の高度経済成長が進んで、その勢いから美術品への投資熱が高まり、第一次絵画ブームが起こる。その動きに乗って、長年にわたって国外に置かれたままになっていた浮世絵を買い戻す里帰りが実現して、価格は一気に上昇した。

その後、世界的に美術史上が発展して、他の美術品とともに、浮世絵版画の全般的な価格上昇も続く。その頂点で異常な美術ブームが発生するが、一九九〇年を境に変動が収まり、安定すると、間もなく、ふたたび、優れて希少な作品のいっそうの高騰が始まる。今や、一桁万ドルはざらであり、二桁万ドル台の作品が続出している。作者単位に言うと、突出しているのは、春信、歌麿、写楽、北斎の四人である。

かれらが生きた江戸時代には、終始、大衆向けの廉価な代用アートとして見られ、扱われた浮世絵版画であり、価格は最高のもので、一万円以上することはなく、平均二〇〇〇~三〇〇〇円だったことを考えると、たとえ、それが高く芸術的に評価される今日であっても、たった一枚の紙に刷られた画像に数千万円の価値が生じているそのギャップの大きさには驚嘆せざるをえない。ヨーロッパの巨匠の版画が高値であることは昔からだとはいえ、この価格水準に達する少数の傑作を持つものは、デュ―ラー、レンブラント、ロートレック、ピカソなどの数人にすぎない。

かれらに伍して、十八~十九世紀のわが日本の「キッチュ」が欧米の美術史上を堂々と巡り歩いているという光景は、文化の歴史でもまことに稀有な事例と言っていい。

◆245

◆可憐で美しい外交官

開国したばかりの近代日本が欧米の文化や美術に目を奪われて、日本や東洋のそれを顧みないでいる間に、浮世絵の版画や絵画(肉筆絵)はその多くが海外に流出してしまった。したがって、欧米の主要な美術館や博物館、図書館には、ほとんど例外なく浮世絵が収蔵されている。たとえばアメリカのボストン美術館は、公称五万点の浮世絵版画と七百点以上の肉筆浮世絵、そしていまだ総数を把握しかねている大量の版本類を保存しているのである。

しかしながら、そうした浮世絵の流出をいたずらに惜しんだり、悔やんだりすることもないように思われる。なぜならば、それらの在外浮世絵作品は、展覧会や画集を通じて多くの人々の目に触れ、日本と日本人のより良い理解に一役も二役も買ってきてくれたからである。

いわば浮世絵は、可憐で美しい外交官として日本理解に貢献してくれ、いまもその大役を果たし続けてくれているのである。

◆当時にあっては浮世絵はあくまでも「商品」

一作品あたり当時何枚くらい摺られたのだろうか。確かな記録は残っていないが、一般に1日に摺れるのは二百枚ほどだったと言われている。この最初に摺られた二百枚、あるいはそれを含めた絵師の監督のもとで摺られた分を初摺と呼ぶ。絵師の意図が色や摺に反映されている上、彫りたての板で摺るので線が大変シャープであり、色面の摺りも鮮やかで、面積の大きな部分には木目も見られて大変美しい。

初摺の売れゆきが好調であれば、摺り増しが行われる。これを後摺と呼ぶ。後摺では、初摺の段階で見つかった彫り残しや文字の間違えなどが修正されるほか、買い手の評判や要望に従って、絵師の指示した配色がより一般受けする色味に変更されることがある。

その上、在庫に穴をあけないことが大事であるから、急ぐあまり摺りの作業は雑になり、色版がずれるばかりか、色数が減らされたり、ぼかし摺や空摺など手間と技術を要する摺りが省略されたりする。コストを減らしたい版元は、手間賃が安くすむならそのくらいのことには目をつぶったようである。

さらに、板はだんだんと摩滅してくるので、当然線の切れは損なわれ、色版の色付きもベタッとした感じが強くなる。結果、後摺は、初摺と同じ板で摺られていても趣を異にする作品に生まれ変わってしまう。

当時にあっては浮世絵はあくまでも商品であり、売れることが最重要視されたのである。

◆ヨーロッパ社会で巻き起こった日本美術ブーム「ジャポニズム」

パリを中心とする十九世紀末期のヨーロッパ社会で巻き起こった日本美術ブーム「ジャポニズム」。当時のヨーロッパで日本美術が熱狂的な流行を見たのは紛れもない事実であり、それに浮世絵が果たした役割は決して小さなものではなかった。

日本がまだ鎖国していた江戸時代から、日本美術は少しずつではあるが西欧に紹介され始めていた。そして鎖国が解けた一八五四年以降は、工芸品、書物、版画といった美術品がこれまでにないほど大量に流出した。

折りしもヨーロッパでは、一八五一年以来、万国博覧会が盛んに開催されており、江戸幕府が最初に正式参加した一八六七年のパリ万国博覧会では、日本の文化が大々的に紹介されて、ジャポニズム熱に拍車をかけた。前後して、パリの街には日本美術を専門に扱う美術商が現れ、逆に日本側にも美術品輸出会社が設立されるなどして、更に多くの作品が海を渡ることになった。

いわば複製芸術である浮世絵は、日本美術品の中でも西洋人が比較的容易に本物を手にすることのできたメディアのひとつであったといえる。ジャポニズムはヨーロッパに多くの浮世絵コレクターを生み、その中には、エドゥアール・マネ、クロード・モネ、エドガー・ドガといった当時の前衛的な画家たちも含まれていた。そして彼らは、ただ収集しただけでなく、そこからさまざまな表現方法を学び取って、自らの作品に応用させたのである。

◆「改印」によって浮世絵版画の制作年代を知る事ができる

私たちが現在、浮世絵版画の制作(版行)年代を知る事ができるのは、改印の存在と、それを考証、研究した先学の偉業によるものである。本来、改印は版行の際の検閲の証として捺されたもの。現体制批判や風刺序良俗をおかす出版物は、厳しく取締りを受けたのである。改印が捺された現存作例としては、寛政三年(一七九一)刊の錦絵等が初出で、制度はその前年に発足したものとされる。版元が版下絵の段階で検閲を受けるのが通例。明治八年(一八七五)九月、明治政府によって新出版条例が出されるまで、八十六年続いた。

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