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2010年11月18日 (木)

248 『伝奇集 <八岐の園>』 J.L.ボルヘス 初版1975年

夢みていた男の夢のなかで 夢みられた人間が目覚めた

そして彼がきみを夢みることをやめたならば・・・・・

時空の円環

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pen概要

原題: Ficciones(1944/スペイン語)

1944年刊行。元は1941年の『八岐の園』(やまたのその)と1944年の『工匠集』(こうしょうしゅう)の2篇だったものをまとめたもので、全17篇の作品からなる。

pen読むきっかけ&目的&感想

映画評論家の町山智浩さん配信のポッドキャスト『アメリカ映画特電』で知った本。映画『インセプション』のクリストファー・ノーラン監督が、「円環の廃墟」から発想を得たと聞いて興味を持った。

さくら好み ★★★★★

時空を様々な角度から見据えたスルメのような本だった。今まで自分が読んだ本が色んな場面でオーバーラップしてくるので、短編なのに長編を読んだような妙な気分に陥った。何回読んでも面白いけど、内容を噛み締めるのが大変で疲れちゃった(笑)。理解できないことも沢山あったので、またいつか読み直して見たい。

 
◆プロローグ

この短いプロローグが、八つの短編を読み込むのを助ける道標になっている。順番に読んだ後に、プロローグで上がった題名の順――「八岐の園」、「バビロニアのくじ」、「「バベルの図書館」、「円環の廃墟」、「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」、「ハーバード・クエインの作品の検討」、「アル・ムターシムを求めて」――に読んでみたら、より濃縮されて感じられるものがあり面白かった。一つ一つの作品は独立しているけど、<八岐の園>として一つの作品なんだな、と思わせてくれる。
 

◆トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス ~現実と仮想~

多数の賢者が長い年月をかけて創作した物語世界が、あろうことか現実世界に出現していくというくだりでは、聖典や宗教を揶揄しているのかな~なんて思いながら私は読んだ。

知識としてうろ覚えの単語を披露し、その信憑性が明らかになる過程で仮想だったことが分かり、そして仮想だったはずの知識が現実を侵食していくという過程からは、色々なことを連想した。メディアが発達した現代事情に置き換えてみると、情報の伝達過程で物事が変容して、虚実が判然としないまま情報の海を漂い、時に、虚が実にあるいはその逆に様変わりしたまま信じられてしまう、なんて事はよくある。

1941年作の物語なのに追記が1947年に記されている、という仕掛けも面白いと思った。「わたし(著者ボルヘス)」までも虚実が曖昧になってしまう。もう何が虚で何が実なんだか・・・、と思わせるのが狙いなんだろうな。

インターネット世界のメタファーと仮定して読むのも面白い。知識へのアクセス、その信憑性、ネットがリアルを侵食する現状、匿名による仮想人格、・・・・・世の中トレーンで溢れているから情報リテラシーを身に付けることって大切よね。
 

◆アル・ムターシムを求めて ~求める者と求められる者~

架空の小説『アル・ムターシムを求めて』とその改訂版『アル・ムラーシムと名のる男との対話 ~動く鏡のたわむれ~』の書評という形式を取っている。書評という形を通して、読んでもいない小説の主題を想像してしまう。主人公は「求める者」である。アル・ムターシムは神であり自己ではなく、神ではなく自己であり、神でもあり自己でもあり、そして「求められる者」である。それを小説の題名に当てはめると、色々と見えて来るものがある。そしてそれが「書評」に書かれている。

当然だけど、ボルヘスの「書評」の主題も考えてしまう。小説を読み、参照本と思える本を読み込み、その主題を探っていく、という書評中に書かれた読書姿勢そのものが主題なのかもしれないと思った。つまり読書というのは、一冊単独で楽しむものではないと。そうするとアル・ムターシムを求めるというのは、読書遍歴を表しているのかもしれないと思えてくる。とすると、読者が「求める者」になり、「求められる者」との関係性も色々と想像することが出来る。

同じ主題を扱っていれば、影響を受けていても受けていなくても必然的に重なる部分が出てくる、と言いたいのかもしれない。それは、小説『アル・ムターシムを求めて』よりも過去に書かれたものの中にだけでなく、それより未来に書かれたものの中にも存在するに違いないと。私はこの架空小説に、インドの外交官が書いた実在の現代小説『ぼくと1ルピーの神様』との部分的な重なりを感じながら、この「書評」を読んだ。『ぼくと1ルピーの神様』の書評を書くとしたら、『アル・ムターシムを求めて』は参照本の一冊になるんじゃないのかな、なんて思った(笑)。
 

◆『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール ~作家と読者~

『ドン・キホーテ』の著者といえばミゲル・デ・セルバンテス。その作家との完全な同一化によって小説家ピエール・メナールは『ドン・キホーテ』そのものを書こうとした(書いた)、というお話し。それを「究極の読書法」と表現し、その応用編も示していて面白い。そして、本を読むということは、取りも直さず著者を理解することに他ならないと言っているのだろう。そして著者を理解するということには、そのイメージフレーム、つまり言語特性や時代背景の理解も含まれると。

話が変わるようで繋がっているけど、ファン心理って究極に近いかもしれない。例えば、邦訳に満足できなくて英語が出来ないのにもかかわらず原本を苦労して完読したとか、物語のモデル地に行ってみたとか、作品背景を調べてみたとか・・・、作品を根っこにして幹を伸ばし枝を広げ葉を茂らせていくことになる。ファンにとってはどれも楽しくて仕方のない作業だ。この過程そのものが、作品を読むという行為に他ならない。
 

◆「円環の廃墟」 ~主体と客体~

『円形の廃墟』と映画『インセプション』で共通しているのは、意識的な夢のなかで夢を見るという多重構造(あるいは円環構造)になっていること、あと意識的な夢を見るという行為が創作行為のメタファーになっているということだ。

つまり客体的に見れば、作者は創造主として世界を夢見、その作者が創った世界を読者が夢見ることを指し示している。そういえば、ちょっと前に読んだ『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』内でも、村上春樹が言ってたな。小説家というのは意識的に「夢」を見続ける事が出来る人なのだと。

そして主体的に見れば、その小説を読んでいる間は私の視線は作中の人物と共にあり、読み終えれば私の視線は作者と共にあることを指し示している。何をして「現実」とするかという点に注目した荘子の「胡蝶の夢」を思い出す。人間である以上、自分が認識している世界が現実、現実は主体的にしか把握できないモノであると。

◇ そして彼がきみを夢みることをやめたならば… 『鏡をとおって』IV

「円環の廃墟」冒頭にある引用は、ルイス・キャロル『鏡の国のアリス第四章「トゥィードルダムとトゥィードルディー」からのもの。

 「おいで、ごらんよ!」と兄弟たちは叫んで、それぞれがアリスの手を一つずつにぎると、王さまの眠っているところまでつれてきました。

 「なんて美しい姿だと思わない?」とトゥィードルダム。

 アリスとしては、これに心底賛成はできませんでした。長い赤いナイトキャップをかぶって、王杓を持ち、みっともない山みたいに丸まってねっころがり、大いびきをかいているのです――それもトゥィードルダムが言ったように「頭がはずれそうなくらいの大いびき」です。

 「湿った草の上に寝てるなんて、カゼひいちゃうんじゃないかしら」アリスはとても配慮のいきとどいた女の子だったので、こう申しました。

 「夢を見てるんだよ。それで、なんの夢を見てると思う?」とトゥィードルディー。

 アリスは答えます。「そんなのだれにもわかんないわ」

 「いやぁ、きみのことだよ!」とトゥィードルディーは、勝ち誇ったように手を叩きながら叫びました。「そして王さまがきみのことを夢見るのをやめちゃったら、きみはどうなっちゃうと思う?」

 「別にいまのままここにいるわよ、もちろん」とアリス。

 「きみはちがうね!」とトゥィードルディーがバカにしたように切り返します。「きみはどこにもいなくなっちゃうんだよ。だってきみなんか、王さまの夢の中にしかいないモノじゃないか!」

 「あそこにいるあの王さまが目をさましたら、きみは――ボーン!――ロウソクみたいに消えちゃうんだよ!」とトゥィードルダムがつけくわえます。

 「消えるわけないでしょ!」アリスは怒って叫びました。「それにもしあたしが王さまの夢の中にしかいないモノなら、そういうあなたたちはなんなのか、ぜひとも知りたいもんだわ!」

 「それはこっちのせりふ。知りたいのはこっちだよ!」とトゥィードルダム。

 「こっちのせりふ、こっちのせりふ」とトゥィードルディーも叫びます。

 その叫び声がすごく大きくて、アリスはつい言ってしまいました。「シーッ! そんなに大声だしたら、王さまが目をさましちゃうでしょう」

 「ま、きみが王さまを起こすの起こさないの言ってもしょうがないよ。きみなんて、王さまの夢に出てくるものの一つでしかないんだもん。自分だって、自分がほんものじゃないのはよーくわかってるんだろ」とトゥィードルダム。

 「あたし、ほんものだもん!」とアリスは泣き出しました。

 「泣いたって、ちっともほんものになれるわけじゃなし。泣くことないだろ」とトゥィードルディー。

 「もしあたしがほんものじゃないなら」――アリスは泣きながら半分笑ってました。なんともめちゃくちゃな話だと思って――「泣いたりできないはずでしょう」

 「それがほんものの涙だとでも思ってるんじゃないだろうねえ」とトゥィードルダムが、すごくバカにした調子で口をはさみます。

 「でたらめ言ってるに決まってるわよね。こんなことで泣いてもしょうがないわ」とアリスは思いました。

◇ 荘子「胡蝶の夢

以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。

自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。

ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。

荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。

◇ 『コッポラの胡蝶の夢』(youth without youth 若さなき若さ)

映画『コッポラの胡蝶の夢』、フランシス・フォード・コッポラ監督インタビュー。

──物語の大筋は、中国の古典「荘子」の「胡蝶の夢」をモチーフとしていますね。初めて「荘子」を読んだとき、率直にどう感じられましたか?

「私が荘子の『胡蝶の夢』の話を初めて聴いたのは、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの講義の時だった。だから、ミルチャ・エリアーデ(原作者)の小説で再びこのエピソードを目にした時、どうしてもこのアルゼンチン出身のボルヘスとルーマニア出身のエリアーデの短編における共通点に強く惹かれたよ」

この映画、いつか見てみたい。原作も気が向いたら読んでみたい。catface

◇ ミッシェル・フォロンの『円環の廃墟』

私の大好きな画家ミッシェル・フォロンは、1974年に『円環の廃墟』のためにエッチングとアクァティントを10点制作している。パリのラ・ユヌ画廊で版画を展示した。この絵、『円環の廃墟』を読んでいると、より楽しむことが出来るheart

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◆バビロニアのくじ ~偶然と必然~

「くじ」の描写から古代ギリシアの都市国家で行われていたくじ選挙を連想しながら、アルゼンチンの政治浮沈を風刺したのかな~、なんて思いながら読んだ。で、バビロニアって何処だっけとか、執筆当時(1941年)ボルヘスが住んでいたアルゼンチンの社会情勢はどんな風だったかというのをネットでざっと読んでみたりした。

政情が不安定なアルゼンチンのような国を想像するだけでなく、ディストピア小説『一九八四年』のような全体主義社会である一昔前のソ連や中国も連想した。そして特に、中国近現代史を背景にした自伝『ワイルド・スワン』を思い出した。“先の見えない偶然”によって煽られる人間の希望と恐怖、そこから派生する不条理や暴力・・・。嫌だ~!

 
◆ハーバード・クエインの作品の検討 ~プロローグ前のプロローグ~

実在しない「ハーバード・クエインの作品」(『迷宮の神』、『エイプリル・マーチ』、『秘密の鏡』、『声明 <昨日のバラ>』)の検討という形を取っている。そしてハーバード・クエインの『声明』と、ボルヘスの『八岐の園』が重なり合っていき、ハーバード・クエインとボルヘス自身が重なっていく。ボルヘスの考え方や創作姿勢を知る事が出来るのと同時に、短編集<八岐の園>を読み解く手掛かりになる。

本作はボルヘス初期の作品なのだが、読んでいると晩年の作品のような錯覚を覚えてくる。つまり、ボルヘスが世に認められて俎上に載せられている様子を、パロディ化して書いているような気がしてくるのだ。そのせいで、なんとも不思議な読後感を持った。
 

◆バベルの図書館 ~無限と有限~

最初は「図書館」を宇宙(万物が存在する時空間)と捉えて読み、次は「図書館」を知の集積空間と捉えて読み、最後にパラドックス的物語として読んでみた。

◇ 図書館は宇宙、司書が居る場所が現在の地球、本は物質、文字は原子、司書は研究者・・・といった具合に捉えてみた。特に図書館は無限の階層からなっているという老司書からは、静的宇宙論(永遠の宇宙)を唱えていたアインシュタインを連想した。そして、図書館の階層には限界があるという考え方からは、動的宇宙論(ビッグバン)を連想した。

ところで、プロローグに下記のように書いてある。

『バベルの図書館』の物語を扱ったのはわたしが初めてではない。その歴史及び前史に興味のある向きは、「スール」誌59号のあるページを当たってほしい。そこにはレウキッポスとラスヴィッツ、ルイス・キャロルとアリストテレスといった異質な取り合わせの名前が記されている。

宇宙を階層構造に見立てた最初の人はアリストテレスのようだ。アリストテレスの宇宙論は、同心円状の階層構造として論じられている。世界の中心に地球があり、その外側に月、水星、金星、太陽、その他の惑星などが、それぞれ各層を構成している。

すべての本は25字のおなじ要素からなっているという表現からは、万物は原子を起源とし、原子が物質を構成する最小単位であるという原子論を連想する。最初に唱えた人がレウキッポスだ。

ボルヘスの死後である私自身が生きる現在に照らし合わせれば、インフレーション宇宙論量子宇宙論を想いうかべることも多々あった。全ての大元になる一冊の「全体的な本」というのは、超大統一理論の事だと思った。

ちなみに、ラスヴィッツはサイエンス・フィクションの祖らしい。

◇ 次は図書館を知の集積空間と捉え、その空間を人の内的世界、あるいは外的世界として想いをめぐらせながら読んでみた。

司書の姿に、最大限の意味を最小限で表現しようと苦心する著者ボルヘスがだぶる。芸術創作活動の基本的原理は模倣(ミメーシス)、文学は言語を用いての模倣・・・であるとしているアリストテレスもだぶる。そして、真理を知りたいと願う全ての人間の姿に重なっていく。

混沌とした「図書館」の現状を、題名にあるバベル(=バベルの塔)が表現している。もともと人々は同じ1つの言葉を話していたけど、神はこの塔を見て、言葉が同じことが原因であると考え、人々に違う言葉を話させるようにしたと旧約聖書にある。

・・・・・今時、外的空間にある知の集積空間の代表格といえば、インターネットかしらん。catfaceflair

◇ 本文中では、プロローグに名前の上がっていたルイス・キャロルを連想する不思議な論理が展開されている。パラドックスだ。

書棚は二十数個の記号のあらゆる可能な組み合わせ――その数はきわめて厖大であるが無限ではない――を、換言すれば、あらゆる言語で表現可能ないっさいをふくんでいると推論した。

この着想の元は、冒頭部分の引用にあるロバート・バートン『憂鬱症の解剖第二部第二節第四項からだろうな。こういう本の元になっている本を辿れる仕掛けが、“バベルの図書館の本”っぽくて面白い。でもって、やっぱりインターネット的だな。今度は、「図書館」をインターネットと捉えて読んでみるかな(笑)。
 

◆八岐の園 ~絶対的な時間と並行する時間~

崔奔『八岐の園』の時間の概念は、

均一で絶対的な時間というものを信じていなかった。時間の無限の系列を、すなわち分岐し、収斂し、並行する時間のめまぐるしく拡散する網目を信じていたのです。たがいに接近し、分岐し、交錯する、あるいは永久にすれ違いで終わる時間のこの網は、あらゆる可能性をはらんでいます。

とある。ここから『ハーバード・クエインの作品の検討』の中に登場した架空の小説『エイプリル・マーチ』を連想し、その検討部分を読み返してみたりした。で、分かったような分からないような(笑)。ボルヘスが時空にとても興味があったという事は、全編を通してひしひしと感じるけどね。

分からないことはとりあえずスルーして、このような時間のなかの分岐のイメージを示唆した小説というと、村上春樹『1Q84』や東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』のような量子論的小説を連想する。
 

 

時空について考え始めると、ボルヘスじゃなくとも八岐の園に迷い込んでしまう。いっとき私は宇宙論の一般書(下記リンク)を続けて何冊も読んでみたけど、人類が時空の迷宮の限り無くゴールに近づくことは出来ても、抜け出すことは出来ないのではないかと思った。

時空に対する疑問の延長線上で、時間の概念の変遷をざっと知りたいと思い『暦の歴史』という本を読んだことがある。そこで特に印象的だったのが「循環的な時」と「直線的な時」の記述だ。以下引用して、ボルヘス的なセンスとは対極にある長々とした感想おわり。

時は一年を超えて長期的にも数えられる。その方法は文明によって異なり、循環的に数えられることもあれば、ある年を起点として直線的に数えられることもあった。

初期の暦はある大きな周期の中に組み込まれていた。マヤのハアブ暦では、360日でトゥンと呼ばれるひとつの周期をなしていた。トゥンが20集まってカトゥン(7200日)となり、カトゥンが20集まってバクトゥン(144000日)となる。大周期は13バクトゥン(1872000日)からなり、年末の五日を含めたハアブ暦の約5128年に相当した。大周期は、創生、磨耗、崩壊という三つの過程をたどった(これはマヤに限らず、大周期を用いていた大方の宗教に共通している)。マヤの人々は、前3114年に始まった自分たちの大周期が終わると、新たに同じ長さの大周期が始まり、新しい世界が生まれるのだと思っていた。

仏教やヒンズー教の暦も、やはり長い周期の中に組み込まれていた。中国の時の区分法は60進法的なサイクルにもとづき、年にも日にも適用された。年も日もそれぞれ「十干」と「十二支」から作られた60通りの組み合わせの一つであらわされる。同じ組み合わせの年があらわれるのは60年後である。〔十干と十二支を機械的に組み合わせると120通りだが、それぞれの干と支に陰または陽が配されており、陰と陽の組み合わせは排除されるので60通りになる〕。

古代地中海世界では、王朝の創始や王の即位などの出来事が起こるたびに、そこを起点として年を数えていた。短い周期も用いられた(ギリシアならオリンピック、ローマなら執政官の任期)。

時の概念の一大刷新は、ユダヤ教からやってきた。ユダヤ人の考えでは、時はある方向をめざして進んでいく。世界は神によって創られ、メシアの到来で終末を迎えるのである。それは史上初めて現れた直線的な時の概念であり、のちにはキリスト教がこれを強制した。イスラム教徒は独自の紀年法を定め、ムハンマド(モハメッド)がメッカからメディナに逃れた年(西暦622年)をヘジラ元年とした。

これらの例を通して、年を数える際の基準は、天体ではなく人間だということがわかる。紀年方の出現とともに歴史時代が始まった。連綿と続く時の流れの中に出来事を発生順にならべ、それらを記憶することが可能になったのである。

 
pen著者

◆ホルヘ・ルイス・ボルヘス

ホルヘ・ルイス・ボルヘスJorge_luis_borges_hotel Jorge Luis Borges、1899年8月24日 - 1986年6月14日)は、アルゼンチン ブエノスアイレス生まれの小説家、詩人。

1899年ボルヘスは中流階級の家庭に生まれる。父ホルヘ・ギリェルモ・ボルヘス・ハズラムは弁護士で心理学教授、母レオノール・アセベド・スアレスはウルグアイの旧家の出で敬虔なカトリックであった。父方の祖母はイングランド人であり、ボルヘス自身はとりわけイングランドの血を誇りにしていた。家庭では英語とスペイン語の二カ国語が話され、ボルヘスはこの二つの言語を母語とした。ただし、スペイン語より先に英語を習得した。

後に「私の人生における最も重要なこと」と記すととなる豊富な父の蔵書に親しみ、幼くから執筆を行っていた。1909年ワイルドの『幸福な王子』をスペイン語に訳して新聞に発表。あまりに見事な訳だったため誰もが9歳の少年の仕事とは思わず、同名の父による訳文と誤信した。

父が眼の手術を受けるため、1914年に一家でスイスのジュネーヴに移住。カルヴァン学院に学ぶボルヘスはバカロレアを取ったが、大学には進学しなかった。

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