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2010年10月17日 (日)

241~243 備忘録 「浮世絵から風俗を読む」

絵には必ず作画意図がある

どんな作品でも
その時代のその作者のイメージ環境内でしか制作できない

そういったことを深く掘り下げて作品の背後にあるものを
見出すことができれば素晴らしい

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241 『江戸浮世絵を読む』 小林忠 初版2002年

<概要> 急速に発展していく新興の大都市・江戸。浮世絵はその自由な気風の中で、庶民の娯楽として生み出された。やがて、豪商や大名にいたるまで、あらゆる階層の 人々に楽しまれるようになってゆく。当世きってのメディアであり、最新流行を伝える刺激的な江戸土産であり、豪商の集まりを盛り上げる座興の具であり、時に借金で首の回らぬ大名からの金貸しへの下賜品ともなった浮世絵。それは、繁栄し爛熟した社会の経済・流通・生活、そして喜怒哀楽の縮図ともなっている。 浮世絵で読む闊達な江戸の全姿。

242 『写楽 江戸人としての実像』 中野三敏 初版2007年

<概要> 寛政六年(一七九四)から翌年にかけて、浮世絵界に忽然と現われて消えた画号「東洲斎写楽」。その素性についての「誰それ説」は枚挙に暇がないが、実はこ の現象が加熱したのは、戦後のことに過ぎない。本書はまず、江戸文化のなかで浮世絵が占める位置を再考した上で、残された数少ない手がかりを丁寧に考証 し、写楽が阿波藩士斎藤十郎兵衛であることを解き明かす。それを通じて、歴史・文献研究の最善の方法論をも示す。    

243 『浮世絵は語る』 浅野秀剛 初版2010年

<概要> 名画の考証はおもしろい! 歌麿の遊女絵、写楽の大首絵、北斎の名所絵など、おなじみの名画に隠された、知られざる事実の数々。浮世絵をより楽しく、深く味わうための一冊。

fuji読むきっかけ&目的&感想

名古屋ボストン美術館で『錦絵の黄金時代 ― 清長、歌麿、写楽』が始まったので、その観賞をより楽しむために読んでみた。

さくら好み ★★★★☆

浮世絵展↓を観にいったら、その感想を合わせて追記しよっと。。。^^♪Im_nishikie201010_03

2010/10/23追記:

今日見てきた。人も多過ぎず少な過ぎず、ちょうどイイ感じだった。浮世絵は近くでじっくり見たいから、人の頭越しに遠くから、なんてのは避けたいからね。
 

間近で見る錦絵!・・・結い上げた髪の生え際の細やかさ、着物の柄の緻密さ、手紙にしたためられた流れるような文字の柔らかさ、とても版画とは思えない! ・・・・・夜の闇に浮かぶ漁火とその闇に沈む遠くの山々のグラデーション表現、細い輪郭線内にきっちり納まる多数の色彩、キラキラ光る白雲母の背景の美しさ、とても版画とは思えない! 彫師と摺師の技術の高さに感嘆しないではいられない。

美人絵や役者絵が良かったのは勿論だけど、個人的には煮炊きする水場の様子、年末に畳を上げて煤払いをする大掃除の様子、今で言うピクニックを楽しむ様子なども面白かった。あと、中国そして日本でも室町時代から尊ばれていた琴・碁・書・画を嗜む様子を描いた今様見立絵、戦国武将を嘲笑気味に描いたモノなども興味深かった。

目の前に展示してある錦絵と同じものが、当時は何百枚、何千枚、時には何万枚と摺られて、それを江戸の人たちが楽しんでいたんだね。その内の一枚をアメリカに持ち帰った人がいて、現代ではボストン美術館に収蔵されているんだね。そして、それを名古屋ボストン美術館で、私が眺めているなんて、何か感慨一入だ。
 

浮世絵は芸術か否かで色々と論議があるらしい。米英では否感が強く、認める場合でも一定の時代や特定の絵師といった狭い範囲に限る。仏では可感が強く、米英より広範囲を認めている。それぞれの言語圏(文化的背景)によって捉え方が違うみたいだ。米英が否定的な理由は三つ考えられ、一つは庶民の画であり上流階級が認めていなかったから、二つは一点モノではなく版画が主流だったから、三つは芸者を描くなど背徳的であることかららしい。成る程ねぇ、って感じだ。

個人的には、その理由ゆえに私は魅かれるのだと思う。つまり、一つは庶民の画であるがゆえに楽しげでカジュアルな日常風景が描かれていて共感しやすいから、二つは版画であるがゆえにポスターのような気軽さと良い意味での単調さが魅力的だから、三つは芸者を描いているがゆえに艶やかさと甘酸っぱさがあるからだ。大衆が所有そして消費した大量制作の版画、そこには庶民(江戸っ子)の好みが反映される。そこに面白さがある、と感じる。

展覧会開催中にもう1回見に行ってもいいかも♪

fuji備忘録

◆241
◆憂世から浮世へ

浮世絵は、江戸時代の江戸で発達した庶民的な絵画である。ところで、この「浮世絵」という言葉が登場するのは、そう古いことではなく、浮世絵の開祖菱川師宣(~1694)の新しい画風が江戸で評判を呼ぶ天和年間(1681~84)の頃であった。

ちょうどその頃、大阪の井原西鶴によって浮世草子という小説のスタイルが開かれているが、この、東西軌を一にして流行し始めた浮世の絵、浮世の草子(小説)という場合の「浮世」とは、本来どのような意味内容を盛り込む言葉だったのだろうか。

すでに早く『浮世物語』(1665作・刊と推定)という小説の冒頭で端的に述べられているように、この世の中は思うことのかなうことがない辛気なものだからこそ憂世と言ってきたものを、一寸先が闇の世だからこそ「当座にやらして、月、雪、花、紅葉にうちむかひ、歌をうたひ、酒のみ、浮きに浮いてなぐさみ、手前のすり切り(無一文)も苦にならず、沈み入らぬこころだての、水に流るる瓢箪のごとくなる」と、この頃には逆に、明るく楽しむべき浮世と達観されるようになってきた。英語で「フローティング・ワールド」(floating world)と訳されたのも、この「浮きに浮い」た世の中というところからきているわけである。

◆平和の到来がもたらした浮世

江戸時代前期の約一世紀、すなわち十七世紀は、日本の歴史上も稀なほどの高度成長期で、統一政権下の平和の到来、土木、治水、農耕をはじめとする諸分野の技術革新、水路、街道や都市のの整備にともなう流通、商業の発達など様々な要因から、武家のみならず農民や町人等の庶民層までも、繁栄を謳歌し、享楽に酔い痴れることも許されるようになったのである。

もはやこの世は仏の導きによって厭い離れるべき憂き世の中とばかりも思われず、経済的な余裕の中で、つかの間の仮の世の中だからこそ浮き浮きと気楽に暮らそうという考え方が支配的になってきたのである。いま現在の世相や風俗を肯定的に評価するところから、浮世の言葉には、単なるこの世とか現世という以上に、さらに、いっときも休まずに流れ変化する中での今様、当世風(現代風)といった意識をも併せ持たせるようになったわけである。

この彼岸の思想よりも比岸の現実に即し、過去や未来よりもただ当世風を追う「浮世」の絵であることこそが、浮世絵のもっとも本質的な姿であったことは確かである。だからこそ、すべての浮世絵師たちは、つねに時代の先端をいく風俗や話題に対して旺盛な好奇心を抱き、敏感に反応したのである。また、その表現方法においても、新鮮な趣向をこらし、あるいは新奇な描法を積極的に試みるなど、鮮度を競い合ったものである。

要するに、武家たちが信じようとした不易(易わらない)の価値よりも、流行する(変化する)様相を示すことが重視されたのであった(この場合の不易と流行の言葉の使い方は芭蕉が俳諧で用いるところと異なっている)。

◆遊里と芝居町という浮世

ただし、「浮世」の語が、いつも無色透明の今、現在を意味するだけではなかったこと、いうまでもない。享楽主義的な人生観を背景に、好色の淫風がときに濃くあるいは淡く吹き渡る現実こそが、浮世絵の世界たるにもっともふさわしい「浮世」にちがいなかった。

そうした意味での当時の「浮世」としては、遊里と芝居町という二つの悪所(悪所場)が代表的な存在であった。厳格な身分制の枠組の下で、武士と町人の別もなく、それぞれがそれぞれにしばられている日常の倫理やしきたりから離れて、本音の情意や美意識を自由に解放できた空間が、この二大悪所であった。

江戸時代には、こうした悪所を土壌として美術や文学、演劇や芸能などの豊かな実りがもたらされたことは周知のとおりだが、浮世絵などはその最たるものの一つであった。浮世絵が、遊女や芸者を主人公とする美人画と歌舞伎役者を描く役者絵を二本柱として展開したのも、当然の成り行きだったといえるだろう。

◆写楽、彗星のような浮世絵師

浮世絵師の「人気絵師に右へならえ」という悪しき風潮は絶えずはびこり、守られ続けたと見て良い。それもこれも浮世絵が、不特定多数の顧客の人気に頼る大衆相手の商品としての絵であり、現代の空気をいっぱいに盛った「生もの」の魅力こそが生命であったからで、ひとりよがりの癖の強い作風はなかなか評価されにくい世界だったのである。

しかしながら一方では、強烈な個性が時代の寵児の座をあっという間に奪い取ってしまう「浮世絵ドリーム」もしばしば実現した。人気は魔物であり、予期しがたい新星の登場に、時代の空気がたちまち一変することもあった。

Toshusai_sharaku_otani_oniji_1794_2 たとえば、寛政六年(1794)五月の江戸三座の歌舞伎狂言に取材した役者絵を一挙に二十八枚、それも大判(約37x26cm)の雲母摺(背地に雲母の粉を引いて加飾した豪華な錦絵)で発表した東洲斎写楽(生没年他不肖)は、それまで浮世絵の世界では全く活躍の形跡のない、正真正銘の新人であった。それからの正味わずか十ヶ月の間に現在分かっているだけでも百四十数点の役者絵や相撲絵を制作し、翌寛政七年の正月には早くも浮世絵界から永久に離れていってしまった。正に彗星のような浮世絵師であった。

あまりにも鮮烈なデビューと、あっけない退場の仕方とが、写楽の正体を誰か同時代の有名人の仮の姿かと疑わせ、謎めいた扱いをされるのが常だが、少なくともその役者絵の作風は、江戸の浮世絵界の伝統をおとなしく忠実に守り、わずかに修正して展開したという類のものでないことだけは確かである。浮世絵の役者絵といえば、それまでは鳥居派か勝川派かに独占されていたものだが、両派のいずれかのスタイルから素直に出てきたものでは決して無かった。

◆江戸~にわかづくりの大都市、その性格

浮世絵が木版画を優先することにより大きく発展したことは、今では自明の事実となっている。しかしよく考えてみれば、絵画としては邪道であり、変則的な版画をあえて主要な表現形式として選択したというあたりに、江戸という都市の特異な性格が透かし見えてくるのである。京都や大阪には、版元は発達したが、その挿絵が一枚絵の版画に独立していくことはなかった。たしかに十八世紀後半から上方役者絵の展開が始まり、十九世紀に入って以降盛んにはなるが、それも明らかに江戸の錦絵の影響によるもので、自主的な展開というわけでは決してなかった。

何事も上方の文化を移植して育てる傾向の強い江戸であったが、浮世絵版画のみは早くから自前で作り上げたもので、例外的な現象といってもよい。上方の人たちには抵抗があって一枚刷りの版画の鑑賞に満足しきれないものがあったのに対して、なぜ江戸の人々は早くからこれを歓迎し、むしろ肉筆画以上に愛好したのであろうか。

江戸の歴史を振り返れば、室町中期には太田道灌の居城も置かれてはいるものの、国内での主要な大都市として発展していく契機は、いうまでもなく天正十八年(1590)の徳川家康の江戸入りにこそある。豊臣秀吉に恐れられて遠い関八州に移封されたのを逆に好機とした家康は、海浜の寒村となった江戸を新しい城下町として大改造し、征夷大将軍となってからは幕府をここに置くこととして、諸大名の加勢を頼みいっそうの整備を急いだ。綿密な都市計画に沿って新設されたこの実質的な首都は、今は形式的な都と成り下がった京と比べて、町の性格や雰囲気がが対照的に異なっていた。都市としてのおよその姿を京都を手本として作ってはみたが、にわか作りの町、それも武家支配の総本山としての町の様相が、京の町の古く、落ち着いて、伝統文化が重く厚く堆積した深みのあるそれとは、おのずから大きく変わってしまったのも止むを得ない仕儀といえるだろう。

徳川直参の旗本・御家人のほか、参勤交代の制度により原則として隔年の江戸在府が義務づけられた諸大名と、その江戸詰めの少なからぬ家臣団、さらには大量に発生した浪人が吹きだまるなど、江戸は両刀を腰に差す武家の人口比率が異常に高い町であった。その日常生活を維持するために必要な商工の民、すなわち町人も初めは諸国から強制的に集めなければならなかったから、ほとんどの者が他国からの流れ者で、町作りには協力してももともとこの町に生まれ育った者はきわめて少なかった。

さらに寺の数が多く、僧侶は原則として男性であったから、江戸詰めの藩士や上方を本店とする豪商の使用人、出稼ぎの季節労働者などと合わせて、独り身の男が目立って多い町でもあった。

もともと東夷とか坂東者とか、東国の人間は気性の荒い乱暴者と上方の人間にさげずまれてきたものが、武士が多く、女性よりも男性が多いというのだから、おそろしく殺風景で、剣呑な町であった。こうした江戸の町の基本的な性格は江戸時代を通して変わらず、あるいは現代の東京にまで受け継がれていると言ってもよいが、浮世絵が誕生しようとする江戸前期の頃は、とくに極端に偏ってしまったのであった。

そして、この新しい町は、過去の文化に学ぶこともできなかった代わりに、それにしばられたり抑圧されたりする不自由もなかった。ほぼ全員が他国者の住民によって、自分たちの望む好みの文化を新しく生み出せば良かったのである。

◆子供でも買えた浮世絵

明治の中頃の東京下町の状況は、江戸の昔の様子とさほど変わらなかったに違いない。絵とか美術品とかというものと縁の遠い町の人にとって、浮世絵の版画や版元を商う絵草子屋は、美しいものを身近かに、そして誰にも平等に提供してくれる気安い娯楽施設だったのである。

その店内には、右から左へ何本も引き渡した細い綱に、竹串で挟んだ版画が吊り下げられており、その下の床には、いまだ吊るさない分の摺り立ての版画が、端を揃えてうずたかく積み上げられていた。その下の方にこそより良い絵がひそんでいるように思えて、いくら抜き出してみたところで、どこの絵草子屋も嫌な顔を見せなかったそうだ。たとえ子供であっても、好みの錦絵を探して時の経つのを忘れることができたというのである。

買う物が決まれば、二、三枚の版画をまとめてくるくるとほど良く巻いて、その上に店の名が刷ってある懸紙をかけ、その上から正(奉書紙)の裁ち落しを軽くまわして、指先でちょっと捻って渡してくれたそうだ。

そのようなわけで、浮世絵に幼児や少年向けの主題の絵が多いことも事実だが、江戸時代の子供をあなどってはいけない。十二、三歳の男の子が草双紙の挿絵画家の評判ができるほど、おませだったからである。
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「今様見立士農工商 商人」 三代歌川豊国 <国貞>

◆長屋でも飾られた浮世絵

浮世絵版画の版型のの一つに、柱絵という、極端に細長い画面のものがある。縦が70cmほどもあるのに、横が12、3cmしかないのだ。一枚の版画としてはぺらぺらとして扱いにくく、いったい昔の人はどのように観賞したのだろうかと不思議に思われるだろうが、本来は簡略に表具をして掛軸に仕立て、売られていたものなのである。

裕福な家であれば、肉筆の浮世絵を掛軸や屏風で買い求めることもできたろうが、それもかなわない家では、版画による紙表具の掛軸で間に合わせねばならなかった。そのような顧客の家には、床の間などなかったろうから、掛けるところといえば柱か壁しかない。柱と言っても、上等な材木が使われたわけではないだろうから、節穴が目立って見苦しかったはずである。その柱に掛けるから柱絵とか柱掛けとか名付けられたものだが、粗末な柱の表面を隠すという意味合いから柱隠しの異名もまたあった。少し切ない響きをもつ名称であった。

とはいいながら、そのような底辺にある、おそらくは九尺二間の長屋住まいをする下層の庶民であっても、身銭を切って版画の絵を買い、家の内を飾って楽しもうとした心意気があったのだから、ゆかしいものではないか。

浮世絵は実に、そうした質の高い、心豊かな庶民によって、支えられ、育てられたのだと、掛軸仕立てのまま保存されている柱絵の原型に接してつくづく実感させられ、誇らしく思えたものである。

この柱絵という異例の形式の版画が流行るのは十八世紀末の寛政年間頃までで、文化年間(1804~18)以降の幕末期には見られなくなる。代わって登場するのが、大判を縦に二枚継いだ掛物絵である。この方は名称通り掛物(掛幅、掛軸)の標準サイズに近く、縦が80cmほど、横も26、7cmと幅が広く、大型になった。庶民の暮しもより豊かになっていったのであろう。

この掛物絵の場合も、ヨーロッパの古いコレクションの中に原装のままの紙表具の軸を見出せることが稀にある。ゴッホはそのような一例の渓斎英泉の掛物絵を模写(もっとも雑誌の図版から間接的にだが)して、浮世絵への熱狂ぶりを今に伝えているのである。

◆北斎が将軍の御前で披露したパフォーマンス!?

時の将軍家斉が北斎の評判を聞き知り、鷹狩の途中に浅草の伝法院にお召しになって、席画を披露することになったのだという。その折一緒に召し出された谷文晁が先ず描き、次いで御前に出た北斎は、恐れる様子もなく花鳥や山水の作画を御覧に供した。

そして、おもむろに長い紙を広げ、そこに太い筆で藍の色の帯をひと刷きした上に、足に朱色の絵具を付けた鶏を放って、「龍田川の紅葉でございます」と申し上げたというのである。

谷文晁の話として伝えるのだが、将軍の前でこのように人を食ったパフォーマンスをすることは、いかに奇人をもって鳴る北斎でも無理であったと思われる。しかし、「火の無いところに煙は立たぬ」というように、まんざら種のない話でもなかったのではなかろうか。江戸の町で評判の絵師葛飾北斎の名が絵好きの将軍の上聞に達して、御前にお召しということも、あり得ないことではなかったように思われる。

◆黒船来航の半世紀以上前、アメリカに伝わっていた錦絵

オランダへ持ち帰られた浮世絵については多少従来から知られていたが、アメリカの東海岸にも開国以前に浮世絵版画が渡っていたことは、つい最近まで知らなかった。

寛政十一年(1799)に長崎に入港したアメリカのフランクリン号は、オランダ船として受け入れられたので、艦長のジェームス・デュプロー以下の乗組員も上陸し長崎市内を観光することも可能であった。その折、長崎の町で購入した歌麿や栄之、豊国といった当時現役の人気浮世絵師の錦絵五枚は、祖国のセーラムへそのまま持ち帰られ、設立されて間もないピーボディ・エセックス博物館に寄贈されることとなる。

ペリーが黒船で江戸湾に侵入して来る半世紀以上も前に、公式な交易の関係を持たないアメリカにまで錦絵が伝わっていたことは、目から鱗が落ちるような、驚きの新事実であった。

◆地球規模でも最高の大衆文化を享受していた江戸庶民

江戸時代の日本の庶民の識字率や知的水準は、想像をはるかに超えて高かった。そればかりか、絵や版画、工芸品などの審美眼や、音楽・演劇など諸分野の芸能への関心は、あるいは現代の日本の一般的な水準を超えていたかも知れないのである。

大仰に言うことを許されれば、その時代にあっては(少なくとも十八世紀半ば以降の一世紀ほどの間では)、江戸の町人(庶民)は、地球規模でも最高の大衆文化を享受していたように思われるのである。

仮名文字が主体とはいえ、現代の私たちにとってはよほどの専門家でなければ読めない草双紙類が、時には何千もの部数売れたのであり、広重の「東海道五拾三次之内」(1833・34刊)などの大当たりの版画ならば時には万の単位で摺り重ねられた。

日本の古典の和歌や物語、故事・伝承の類はもとよりのこと、中国の古今、また硬軟の別もない主題にまで及ぶ浮世絵版画が、年端も行かない子供から、長屋住まいの大人にいたるまで、しごく自然に楽しまれていたのである。和歌や漢詩、俳句や狂歌を画賛に載せる絵を歓迎して詩を味わう心根もやさしく、江戸ばかりでなく全国各地の風景や風俗、土産の珍しい品々を描く絵にも魅かれるようにその好奇心はまことにさかんであった。

◆マス・コミュニケーションの媒体としての浮世絵

教育に熱心な親たちは子供の後押しをして家計に無理をしてでも手習所や寺子屋に通わせたので、文字の読める子は多く、文盲の大人が嘲笑の対象となるのが江戸の町人文化の一般的な水準だった。

浮世絵は、そうした受け手の庶民の水準の高さによって支えられ、育てられたわけだが、逆に浮世絵が庶民の教養を高める教育的なメディアとしても機能したことを、忘れてはなるまい。先にも触れたように、絵を通して和漢の古典と親しみ、和歌や俳句をはじめ各種の詩歌を味わって情操教育を養い、外国や国内の情報に通暁するなど、浮世絵から知ったり学んだりすることは多かった。

かつて吉田暎二氏が浮世絵を現代の新聞になぞらえ、浮世絵版画の多様さを政治・国際・経済・文化学芸・演芸・家庭・子供・娯楽・スポーツ・社会・地方等の諸欄に仕分けしてみせてくれたことがある(『浮世絵談義』所収「浮世絵と新聞」)が、正に今日の新聞や雑誌、テレビなどに近いマス・コミュニケーションの有能な媒体として、庶民に奉仕していたのである。

◆四季の行楽を楽しんだ江戸の人々

江戸の人々は実に健脚で、よく市内、郊外へと足を運び、四季の行楽を楽しんだようである。そのことは、様々な詩歌、俳諧、文章によって確かめることができる。

たとえば親・子・孫三代をかけてまとめた膨大な江戸の絵入り地誌『江戸名所図会』(1834~36刊、20冊)や、文化四年(1807)から天保五年(1834)までに村尾正靖という人が江戸の郊外を旅した記録『江戸近郊道しるべ』(自筆本26冊)などはその代表的なものである。花や鳥、蛍や雪の名所を探勝するのにたよりとなる案内記も、『江戸名所花暦』(1827刊、3冊)をはじめとして各種の本が刊行されているのである。

それらのガイドブックに誘われて、軽食を携え、酒や湯茶を瓢箪に収めて、諸方に枕を引いて逍遥する楽しみは、いかばかり大きかったであろうかろ察するに余りあるものがある。

◆風景版画が一分野として確立するには都市の成熟が必要だった

こざっぱりと整備されて美しい江戸の市街地と郊外の風光が、その住人たちに格別に意識されて愛されるようになるには、都市としての成熟が一定の水準に高まるまでの十分な時間が必要であった。その機がようやく熟したのは十九世紀の初頭のことで、幕府がこの地に開かれてから二世紀を経過して以後のことであった。

そもそも、この世の風俗を主な関心事とした浮世絵が、遊女や芸者、役者や力士など、浮世のスターを主な対象とする人物画に関心を集めたことは言うまでもない。美人画や役者絵、相撲絵が浮世絵の事であった。やがて市井の一般人を生活の場の中において扱う風俗画が、春信以後の錦絵時代に入って大きく取り上げられるようになると、鳥居清長の二枚絵、三枚絵の続き絵に典型的に見られるように、背景の風景表現に現実感のある描写が求められるようになってくる。

そうして、本格的に風景画が浮世絵版画の一分野として独立し、定着するようになるには、天保年間、1830年代以降の幕末期まで待たなければならなかったのである。

その画期を告げる記念的な連作が、葛飾北斎と歌川広重とによってほぼ同時に出版されている。天保二年(1831)のことで、北斎は「富嶽三六景」を、広重は一幽斎の号で「東都名所」(いわゆる一幽斎がき)を、それぞれ横大判(約25cmx37cm)という本格的な形式によって発表したのであった。

◆葛飾北斎と歌川広重の風景版画

800pxhokusai39_teahouse_2 北斎の「富嶽三六景」は、「藍摺一枚、一枚に一景づつ追加出版、此絵は富士の形のその所によりて異なる事を示す」版元西村永寿堂の広告文)連作で、好評による追加十図を合わせた四十六図を翌々年までに刊行している。

「藍摺」とは、舶来の化学染料ベルリン・ブルー、通称ベロ藍を多用した新鮮な色刷りで、洋風の遠近法を活用した風景表現の斬新さとともに、異国趣味を刺戟するその試みは大いに成功した。これ以後、風景画のみならず幕末の浮世絵版画にはベロ藍の使用が不可欠のものとなるのである。

欧州列強の軍事力と文化・文明とが日本を圧倒してくる不安と、それとは裏腹の憬れとが、共にこの自然界にはない化学染料の藍の色(実は錬金術の副産物であった)に託されていたと思えるほどでさえある。ともあれ、当時の人々は、ベロ藍の鮮烈な青に、欧米そのものを感じていたことは間違いない。

北斎はそうした、流行色が人々に特別の感情を喚起させずにおかないあなどりがたい力を信じ、意識的に活用した、日本で最初の人であったかも知れない。

洋風の風景手法という新しい魅力を開発することに貢献した北斎に対して、広重は、江戸の町の美しさ、慕わしさを詠嘆的といって良いほどにしみじみと描いて、大衆の関心を誘うことに成功を収めたものであった。そこには行楽を楽しむ江戸人の姿がしばしば登場させられ、そうでなければ、このように見たい、眺めたいという人々の願いを代わってかなえる視線が実に効果的に働いているのである。

◆錦絵、版画制作のシステム

浮世絵の歴史は、歌麿や写楽、北斎や広重など、下絵を描いた絵師の名によって語られるのが常だが、木版画制作の実際は、彫師や摺師の技術に頼るところが大きかった。彼ら彫刻刀や馬連と呼ばれる摺り道具をあやつる技術者の名前は、錦絵技法の開発期や爛熟期の短期間のみ画面に記されることがあったが、多くの場合は縁の下の力持ちという役割に甘んじて、功を誇る機会を得なかった。

錦絵の美しさは、絵師による下絵の提供と色分けの指示で終わるのではなく、仕上げの良し悪しは協力する彫師や摺師の腕次第だったのである。

◆錦絵が出来上がり客の手に渡るまでの工程

錦絵が出来上がり客の手に渡るまでの工程を、二組の三枚続、合計六図によって順序良く図解した歌麿の版画連作がある。「江戸名物錦絵工作」と題するこの作品は、稲を育て米を作るまでを描く耕作図になぞらえたもので、以下のような順に描き出されている。

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「江戸名物錦画耕作 画師・板木師・礬水引」 喜多川歌麿

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「江戸名物錦画耕作 摺工・店先・新板くばり」 喜多川歌麿

(一) 「画版下を認(したため)種おろしの図」 絵筆を手にして文机による絵師の前では、版元とおぼしき人が墨描きのみの版下絵を広げて検分している。版元の許可が無ければ、どれほど絵師が望んでも出版がかなわなかったこと、いうまでもない。

(二) 「板木師彫刻して苗代より本田へうつしう(移し植)ゆる図」 間鋤(線や面の間をすき取るもの)らしい彫刻刀を砥石で研ぐ人、小刀で輪郭線を掘り始めようとする人、そして、木槌でのみを打ち余分な地の部分を削り取る人の三人が描かれている。板木師すなわち彫師の主要な仕事を単純明解に伝えてくれる。

*彫師は、絵師が書いた下絵を中表にして板に貼りつけ、紙ごと輪郭線を彫り上げた「主版」を作る。次に主版を使って輪郭線だけの下絵を摺り、その下絵を板に貼り付けて同色部分だけを残して彫り上げた「色版」を作る。つまり一色一版になるので、色数が多いほど色板の枚数も多くなる。重ね刷りの色がずれないように、主版や色板には「見当」(位置を決めるための目印)が付けられた。

(三) 「礬水引(どうさびき) 田ならしの図」 摺る前の紙に礬水というにじみ止めの液(膠に明礬をを加えた液)を刷毛で引き、その濡れた紙を紐にかけて干す作業は、摺師の仕事である。版木と紙が整えば、あとは摺るばかりである。

(四) 「摺工田植の図」 大きな硯と各種の絵具皿を傍らに置き、摺り道具の馬連をこしらえている人と、その馬連で版画を摺っている人の、摺師二人を登場させる。版木と紙の束を持って後方に立つ女性(絵師あるいは彫師からの使いか)、それに通い帳を持ってやってきた絵具屋(?)の小僧とが脇役として参加している。

(五)(六) 「新板くばり出来秋の図」 「出来秋」とは稲の実った秋の頃をさし、版元鶴屋喜右衛門の店先で摺り上がったばかりの錦絵や版本が客の手に渡って行くという、目出度い場面で終わっている。

絵師や摺師がすべて女性に擬せられているのは、美人画家歌麿ならではの虚構であり、もちろん現実には男だけの職場であった。

錦絵は、いくつもの工程を経、多くの人の技術を結集してはじめて成った、美術的な印刷物であった。

◆注文画と仕込絵

絵画には、注文画と仕込絵という、制作のあり方を異にした二つの種類がある。注文画の方は、特定の注文があり、彼らの指示に従って御用を受けた画家が制作にあたるというものである。一方の仕込絵というものは、不特定多数の客の求めに備えて注文なしに制作しておく、商品としての絵のことである。出来合いの絵、既製品の絵といってもよい。

仕込絵としての成功の条件は、大量生産による廉価販売であること、他の商品の場合と同様である。その大量生産の要請に応えるために、絵屋の主催者による原画を徒弟たちが模写的に描く工房制作が効率的に行われたものであった。

◆ブランドものとして流通した肉筆浮世絵

浮世絵が、版画という複製手段によって、より大量に、より安く、絵を見る楽しみを数多くの人々に許した庶民向けの美術であったこと、いうまでもない。しかしその一方で、紙や絹に一筆一筆絵筆を振るう肉筆画も描かれ、観賞されていたことを、忘れてはいけない。先にも述べてように浮世絵の歴史は、その初めから常に、版画と肉筆画が車の両輪のようにそれぞれの歩みを刻み続けたのであった。

身分の高い人々や裕福な上流町人から受けた特別注文を除けば、一般に肉筆浮世絵が版画にも似た工房制作を特色としていたこと、先述した通りである。少しでも廉価に、ほぼ等質の内容の肉筆画を提供するには、一人の人気絵師の作品を手本に、ほぼ同様の絵をその弟子たちが仕込絵として量産したほうが効率の良いこと、いうまでもないからである。師宣や北斎の落款が入っていても、それが彼ら指導的な画家その人自身にによる作画によるものと直ちに信じられないのが、普通なのである。

「師宣」や「北斎」の絵は、「イッセイ・ミヤケ」の服や、「フェラガモ」のネクタイなど、現代のブランドものと、規模の大小は別として共通する性質のものなのであった。個人作家の作品というよりブランドものとして流通したのが、一般の肉筆浮世絵だったのである。

◆名古屋という一地方都市から発信されたベストセラー『北斎漫画』

『北斎漫画』を全編出版した版元は、江戸から遠い名古屋の永楽屋という本屋であった。もちろん、名古屋で印刷、製本された『北斎漫画』は、日本の各地に送り出され、販売されたわけだが、その頃は実質的に政治、経済、文化の中心となっていた江戸の産物ではなかったのである。明治以前に、江戸、京、大坂のいわゆる三都以外の土地で出版された本が、全国的に流布していくことはきわめて珍しい現象であったが、『北斎漫画』は、江戸の浮世絵師が下絵を描いていたものの、名古屋という一地方都市から発信された、そうした例外的なベストセラーであり、ロングセラーだったのである。

『北斎漫画』がなぜ名古屋の版元永楽屋から出版されることになったのか、その事情ははっきりとはしない。

北斎が名付けたこの「漫画」という言葉は、現代の日本語でいうところの「ユーモラスな略画」の意味とは違って、「漫然と描いた略画」、あるいは「筆にまかせて取りとめもなく描いた略画」、というような語感で使われているようである。文章でいう「随筆」の語に近いと思えばよい。

◆型による美人表現

浮世絵の美人画にあっては、モデル女性がいかなる顔立ちをしているかということよりも、どの浮世絵師の美人の型で表されているということの方が大切だった。寛政年間(1789-1801)の美人画の第一人者と、自他ともに認めていた歌麿にとっては、自分の「歌麿型」こそが売り物なのであって、事実「錦織歌麿形新模様」などというタイトルを付けた揃物すら発表しているほどである。

いったいに我が国では、古来風貌の個別的な違いを云々したり、表現したりすることに興味がないようだ。要は、能面や文楽人形の使いまわしのように、人物表現を類型にあてはめるのみで、個別的な肖似性や表現の機微を求めようとしなかったのである。明和年間の江戸の美女たちはみな、春信美人の型によって描かれれば人は争ってその姿絵を買い求め、恍惚としてそれに見入ることができたのである。

天明(1781~89)の清長美人、寛政の歌麿美人や栄之美人、化政・天保期(1804~44)の北斎美人や国貞美人など、その折々の美人のタイプが絵師たちの作り上げた理想の姿で代表され、記憶されることとなった。歌は世につれというが、浮世絵美人も世につれ、絵師につれ、そのタイプがめまぐるしいほどに移り変わっていったのである。

◆「浮世」の「実相」

浮世絵は、「浮世」の「実相」を報告する時代の証言として機能し続けたが、その実相はあくまでカッコ付きのものであり、甘美な夢と憬れの味付けを忘れることはなかった。浮世絵のメイン・テーマである役者絵と美人画という、浮世の人物表現においてはとくに、その傾向が色濃く見て取れるのである。

◆242
◆写楽はいつから謎となったか

いま、江戸の知名士番附のようなものを作るとすれば、あるいは芭蕉の次くらいにランクされるのではないかと思わせるのが、写楽ではなかろうか。この人気は一体どこから来るのか。勿論、その絵の持つ独特の魅力に負うところは絶大ではあろうが、やや斜かいの事情を勘繰ってみると、一つにはその絵の市場価値の度外れな高さと、もう一つはその謎めいた実像が大いに喧伝されたあたりに起因するところ、極めて重いように思われる。あえて言えば、経済性と神秘性という、一見矛盾するような要素を兼備するところが、両々相俟って、その道の素人にも玄人にも通じての、絶大な人気を支えてきたのではなかろうか。

市場価値については言わずもがなとは思うが、案外、具体的にはわかり難いのかもしれないので、ほんの一例を示せば、美術市場に最も権威ある存在とも言えるニューヨークのオークション会社「クリスティーズ」の1989年カタログに載る一枚、「三代坂田半五郎の藤川水右衛門」(1794)は、その標準価格を二十万ドルから二十五万ドルと設定されている。当時の一ドルを百円と換算して、二千万円から二千五百万円。平成の現在は百二十円に前後するので、さらに高額となろう。その世界市場の評価は瞭然であり、このような絵の作者にしてなお、その生涯の曖昧模糊ぶりが話題になるとなれば、玄人筋の間でも、その素性の詮索に血道をあげたくなるのも、いわば当然ではあるまいか。

写楽誰それ説の大合唱は、案外にもごく近年のことで、少なくとも江戸時代は愚か、明治・大正、いや昭和でも戦前までは、ほとんど目立った動きは見られなかったのである。理由はただ一つ。その時点までは、写楽が誰かは明々白々であったからに他ならない。さらに言えば、その時点までは、江戸時代の文化のありように関する総合的な理解が、即ち封建的身分制度を土台とした雅・俗の二元文化のありように関する経験的な把握がしっかり行き届いていたからに他ならないのである。

◆千人に近い浮世絵師の中で明らかな存在は、僅々数名にしか過ぎない

そもそも浮世絵という絵画の分野は、ジャポニズムの波に乗ってヨーロッパ近代絵画への影響が何かと取り沙汰されたあたりから、我が国近代史の美術界にも大いに評価が高まり、今となっては何やら江戸時代を代表する絵画のごとくなり遂せているけれども、当の江戸時代においては、「雅/俗」という文化の身分制度のもとで、根っからの俗の絵画という分際を、自他共に尊守し、その意味で安定した存在であったことは厳然たる事実である。

従ってその画師の存在に関しても、たとえどれほど世間的に有名であろうとも、その実人生に思いを馳せ、その生涯を世間に広く知らしめようなどと試みる人など、よほどのお節介でない限り、ほとんどあり得なかったのが実情なのである。

無論近代の評価がそれとは次元を異にするのは、これまた当然で、それはそれ、これはこれ、少なくとも江戸時代に即して考えた時は、上のような実情は踏まえざるを得ない。従って江戸時代にあっては、浮世絵や浮世絵師の実態について、曲がりなりにも近代の学問レベルに合格するような形でなし遂げられた文献などというものは、後述することになる斉藤月岑著の『増補・浮世絵類考』(1843)と、その類縁となる書物以外にはほとんど考えられなかった。そしてそこには、写楽に関しては周知の通り、

俗称斉藤十郎兵衛。江戸八丁堀に住む。阿波侯の能役者。

という、はなはだ簡潔な情報が記されていた。そこから得られる情報として興味深いことの一つは、ほとんど千人に近い浮世絵師の中で、写楽という人物は、たったの一行の説明ではあるが、それでも他と比べて極めて明瞭な存在であったという事実である。彼以上に明らかな存在は、平成の現在においても僅々数名にしか過ぎない。

その一人は江戸の人にしてははなはだ珍しく自己を語ることの多かった葛飾北斎と、五百石取りの御旗本という暦とした身分の長文斎栄之と、流石にこの道の鼻祖としての位置づけにも拠る菱川師宣と、さらには斯界の代表格として後世の研究者の多大な努力がはらわれた結果としての喜多川歌麿や歌川広重あたりまでで、その他百・千の浮世絵師の大半は、ほとんどが残された画績と、その画名を明らかにするのみ。

例えば写楽に匹敵するか、あるいはそれ以上の存在と称してもよいはずの鈴木春信や鳥居清長や、あるいは上方の西川すけ祐信など、その伝の模糊なることは写楽にも勝るとも劣らぬものであることは、その道ではよく知られた事実である。

◆243
◆歌麿「当時全盛美人揃 越前屋唐士

絵を見ると、薄物を着て幅広のしごきの帯を結んだ唐士(もろこし)が団扇を使って涼んでいる。団扇には「柏木亭棹長 きぬゞのわかれハをしき三千里もろこし乃君我朝の客」と唐士を読み込んだ狂歌が記されている。右下に見える菱形に「若」の印は、若狭屋与市の版元印である。薄物には蔦の紋が付されていて、江戸褄模様も蔦のデザイン、帯も陰陽の蔦を散らしている。簪にも蔦・抱き柏・渡辺星の紋がデザインされている。

この図の唐士は、江戸一丁目越前屋清四郎(吉原に越前屋という屋号の遊女屋は複数あるが、遊女絵に描かれる可能性のある大籬・交り見世・惣半籬の格の遊女屋は越前屋清四郎のほかにない)抱えの座敷持ちで、「あやの」と「をりの」は唐士につきしたがう禿(かむろ。世話係の少女。後に遊女になることもある)である。

座敷持ちとは、遊女の階級の一つで、向井氏のいう妓格に相当するものである。自分の部屋のほかに専用の座敷を持つ(つまり二間続きの部屋を持つ)ところからつけられた名称で、揚代(遊興費)は見世(遊女屋)によって異なったらしい。当時の遊女の階級(妓格)からいえば、高級遊女であることだけは確かである。唐士一人しか描いていないのに禿の名まで載せているのは、この部分の記載を吉原細見に倣ったからにほかならない。唐士の名の上に座敷持ちを表す入り山形の印がつけば細見と同じになるが、さすがにそこまではしていない。

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コメント

浮世絵、いいよね。
nono1は、広重が好き♪

投稿: nono1 | 2010年10月19日 (火) 06時31分

一点主義じゃない浮世絵は大衆のもの。
当時の世相や美意識がうかがえる、それが楽しい。

広重いいね♪、北斎もいい♪
白い頂の富士山、その美しさに共感。

投稿: さくらスイッチ | 2010年10月19日 (火) 06時56分

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