« 220~222 備忘録 「ねじまき鳥」他 | トップページ | 224~227 備忘録 「ジョギングのスピード練習、ご飯」 »

2010年8月 8日 (日)

223,224 備忘録 「それでも、戦争・・・」

「戦争」

Dvc00003

223 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 加藤陽子 初版2009年

<概要> 普通のよき日本人が、世界最高の頭脳たちが、「もう戦争しかない」と思ったのはなぜか? 高校生に語る――日本近現代史の最前線。

かつて、普通のよき日本人が「もう戦争しかない」と思った。世界最高の頭脳たちが「やむなし」と決断した。世界を絶望の淵に追いやりながら、戦争はきまじめともいうべき相貌をたたえて起こり続けた。その論理を直視できなければ、かたちを変えて戦争は起こり続ける。だからいま、高校生と考える戦争史講座。日清戦争から太平洋戦争まで。講義のなかで、戦争を生きる。

日本だけでなく、世界の人々がなにを考え、どのような道を選択したのか、 かつての人々が残した言葉をたどりながら、詳しく鮮やかに紐解いてゆきます。縦横無尽に「戦争」を考え抜く。歴史の面白さ・迫力に圧倒される5日間の講義録。    

224 『それでも私は戦争に反対します。』 日本ペンクラブ編 初版2004年

<概要> 国際貢献と国益重視というかけ声ばかりが響くこの国で、戦争反対の声はかき消されようとしています。日本国憲法の下で抑制されてきた国外紛争地への自衛隊 派兵も、小泉政権はあっさりと実現してしまいました。

しかし――それでも私たちは戦争に反対します。なぜ?どんな根拠で?そしていま、私たちに何ができるの か? 四十五通りの試みが、ここにあります。あなた自身の四十六番目の答えを見つけだしてください。創作、手紙、エッセイで描く「二十一世紀戦争」のリアリティ。

pencil読むきっかけ&目的&感想

何かの記事で『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を知り、アマゾンで概要を知ろうと検索をかけた時に『それでも私は戦争に反対します。』を知った。どちらの概要にも興味を引かれたので読んでみた。

さくら好み ★★★★★

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、中高生に対する講義録なのもあって、問答形式になっているのが良かった。『それでも私は戦争に反対します。』は、私でも知っているような著名人が数多く書いているので、内容にプラスして個々人が何をどう表現したかも興味深かった。

*
話し変わって(私の中ではつながっているのだけれど)、春にNHKで放送していた『ハーバード白熱教室(全12回)』がとても面白かった。それが『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』というタイトルで書籍化され、今とても人気があるようだ。私がテレビ放送を見たのは後半だけなので、前半を知るために私も書籍を読もうかと迷っている。あ~、BSじゃなくて地上波で再放送してくれないかなあ~。

pencil『それでも、日本人は』覚書

戦争というものは、敵対する相手国に対して、どういった作用をもたらすと思われますか。その前に、そもそも戦争に訴えるのは、相手国をどうしたいからですか。

戦争のもたらす、いま一つの根源的な作用という問題は、フランスの思想家・ルソーが考え抜いた問題でした。長谷部泰男先生の『憲法とは何か』という本のなかで、ルソーの「戦争および戦争状態論」という論文に注目して、こういっています。戦争は国家と国家の関係において、主義や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の憲法に対する攻撃、というかたちをとるのだと。

太平洋戦争の後、アメリカが日本に対して間接統治というかたちで占領する。われわれ日本人は、アメリカによる占領を、「そうか、アメリカは民主主義の先生として、日本にデモクラシーを教えてやる、といった考え方に立ってやって来たのだな」、というようなアメリカ固有の問題として理解してきました。けれども、ルソー先生は、こうした戦争後のアメリカのふるまいを、18世紀に早くもお見通しであったのでした。

ルソーは、彼が生きていた18世紀までの戦争の経験しかないはずですから、19世紀に起きた南北戦争も普仏戦争も、20世紀に起きた第一次世界大戦も、本来、予測不可能だったはずです。けれども、非常に面白いことに、ルソーの述べた問題の根幹は、19世紀の戦争、20世紀の戦争、まして現代の戦争にもぴったりと当てはまります。このような優れた洞察を残せたからこそ、今の世にも名を残す哲学者であるわけですが。

歴史は科学だと思いますか?

みなさんの感覚では、科学というのは、自然のなかに厳然として存在する法則性を見つけたり、何度も実験可能なものだったりするイメージですが、歴史といえば、過去に起こったこと、つまり出来事だと。歴史は科学ではない、という意見が多そうですね。

ところがカーは、「歴史は科学だ」といって、科学ではないとする論に対して反論しています。反論を行った年は、1961年のことでした。

反論のなかで興味深いのは、「歴史は科学だ」という主張と、「歴史は進歩する」という主張を両方やっているのです。61年の頃ですと、歴史が科学かはわからないけれども、歴史は進歩するとはとても思えない、という人たちがイギリスには多かった。

「歴史は科学だ」との言葉も、なかなかに過激な表現と受け取られました。カーはこういいます。歴史は科学ではないと主張する代表的な論者は、よく二つの点を指摘する。一つは、歴史は主として特殊なものを扱い、科学は一般的なものを扱う、だから歴史は科学じゃないんだというもの。二つ目は、歴史は何の教訓も与えない。つまり一般化できない学問だから教訓にならないというもの。

まず一つ目の論点、歴史が特殊なものを扱い、科学が一般的なものを扱うという分け方は不当だといいます。歴史家が本当に関心を持つのは特殊なものではなく、特殊的なものの内部にある一般的なものだ。そこに興味を持って、くだくだしい細かい話をしているのだと。歴史家は特殊のなかに普遍を見ている。そういうことを無意識にやっていると言った。

歴史家は過去の一つの出来事を見るとき、常に無意識に一般化を試みている。個別と一般、特殊と普遍をつなげてものを見ている、このようなものの見方は、確かに歴史的といえると思います。

「開戦の口実を作るべし」

日清戦争へと引っ張っていったのは、やはり外相の陸奥宗光だったということをお話しします。以下の陸奥の言葉を味わってください。1893年当時、帝国議会での演説のなかの一説です。

条約改正の目的を達せんとするには、畢竟我国の進歩、我国の開化が真に亜細亜州中の特別なる文明、強力の国であると云う実証を外国に知らしむるに在り。

意味は、列強と条約改正を達成するには、日本の発展ぶりを鹿鳴館などで見せようと思ってもだめである。最終的には日本の進歩や日本の開化を欧米にわからせるには、日本がアジアのなかでも特別な文明、軍事力も備わった国であるとの実証を列強の目に具体的に見せなければだめなのだ、と。

この演説はやっぱり強いですよね。こういう人が外務大臣であるということは、朝鮮政府の財政改革を進めるか進めないかという話を名目として、日本と清国とが争った際、いかにして開戦にもっていくかという日本政府の立場を考えるうえでは大きかったと思います。

そして開戦直前の陸奥はこうも述べていました。「曲を我に負はざる限りは如何なる手段にても執り、開戦の口実を作るべし」。軍部大臣ではないのです。外務大臣がまず走る。イギリスをはじめとして、さまざまな国が、日清戦争が始まりそうになるとき、あるいは始まった後、さまざまに干渉してくるわけです。早くやめろとか、北京までは行っちゃだめとか。後から日本が批判されないような開戦の口実を、どのような手段を使ってもつくるんだと陸奥はいう。

「ウォー・スケア」

第一次世界大戦、島国である日本がドイツに対して参戦して得ようとした安全保障の上の利益はなんだったのでしょうか。それは、南洋諸島。赤道以北と以南の実によい場所、太平洋のど真ん中にドイツは多くの島々を持っていましたから、それを奪ってしまおうと考えたのは理解できます。日本がアメリカと戦争しようとするときには、太平洋の真ん中の島は、海軍の根拠地として必要になりますからね。

実はこの第一次世界大戦から、みなさんが海外に遊びに行ったりするような島々が、列強の国々の念頭に置かれるようになるのです。アメリカはあまり植民地を持たない国だったのですが、1898年の米西戦争という、スペインとの戦争でフィリピンとグアムを獲得します。そしてハワイ、サモアも併合する。日本とアメリカでは、太平洋の反対側の国を恐ろしいと思うかどうかという点で、アメリカのほうが日本よりも早くそう思った可能性がありますね。アメリカでは日露戦争が終わった後、1907年「ウォー・スケア」というものが起こりました。ウォー・スケアとは、日本人が海を越えて襲ってくるのではないか、戦争が始まるのではないか、との根拠のない怖れです。

どうしてこのような怖れが広がったかといえば、その根には、前年の1906年4月18日、サンフランシスコで起こった大地震がありました。サンフランシスコにはチャイナタウンがたくさんあって、大勢の中国人がいました。そして中国からアメリカへ渡った移民たちはアメリカ人労働者より低賃金で喜んで働くという点でアメリカ社会から敵視されていて、差別的な状況下で暮らしていました。大地震が起こったとき、アメリカ人は大きな恐怖に襲われて、チャイナタウンの中国人が襲ってくるのではないかと考えるのです。このような雰囲気の中で大地震が起こったために、くわしい数値は不明ですが、チャイナタウンの中国人に対する暴行と略奪が起こりました。

そして同じ現象が日本でも生じる。1923年9月1日に起きた関東大震災の際、中国人や朝鮮人に対する虐殺事件が起きました。その背景には「ふだん虐げられている朝鮮人が日本人を襲ってくるかもしれない」との根拠のない流言がありました。数千人の朝鮮人と約200人の中国人が犠牲になったといいます。アメリカと日本はともに大地震によるウォー・スケアを体験した国だった。

カリフォルニア州の白人の目から見れば、中国人も日本人も同じ東洋人です。1891年から1906年の間に数千人の日本人移民がカリフォルニアに渡っていました。カリフォルニアでは、日本人移民に対して、低賃金で働き、アメリカ社会の一体性を混乱させる者と決めつけ、06年には日本人学童の公立学校への入学拒否、07年には日本人移民を排斥する条項(ハワイ、メキシコ、カナダなど米国本土以外を経由した日本人移民を排斥する条項)を含む連邦移民法も可決されています。ロシアを打ち負かした好戦的な国家というイメージが、急速にアメリカ社会のなかでふくらんでいったことがわかるでしょう。

日米関係がぎくしゃくしているとき、西太平洋の島々を持っているのがドイツであることの重要性に日本は気づいたことでしょう。

戦争になってもいいと考えている人が九割弱を占めているアンケート結果

どうして満州事変が起こされ、日中戦争が起こってしまったか、その道筋を説明する前に、当時の人々が満州事変や日中戦争をどう見ていたのか、そうした当時の人々の感覚について見ておきましょう。

1931年7月、今の東大のことですが、当時は東京帝国大学と呼ばれていた、その学生たちに行なった意識調査の記録がある。満州事変の二ヶ月前です。この調査では、学生たちに、まずは「満蒙(南満州と東部内蒙古)に武力行使は正当なりや」と質問しています。満蒙とは、ここはひとまず日露戦争後に日本が獲得した権益が集中している場所、というように簡単に考えておいてください。

満蒙のための武力行使は正当かという問いに対して、「はい」か「いいえ」で答えるのですが、どのような結果になったと思いますか。

なんと88%の東大生が「然り」つまり「はい」と答えている。私にとってこの数字は以外でしたね。内訳を見てみると、「直ちに武力行使すべき」という、血の気の多いお兄さんたちが52%いる。満州事変が起こるのは9月ですので、9月を過ぎていれば、新聞やラジオでさかんに事件を報道したと思いますので、事変後ならまだわかりますが。

ちなみに、ラジオは1925年に放送が始まっていました。統計で数が明確にわかる32年2月の段階では、ラジオの受信契約数は100万世帯を超えていた。太平洋戦争のときの契約数は600万世帯くらいで、普及率は全世帯の45%くらいと考えられています。今なら音漏れは恥ずかしいこととされていますが、昔は誰もが大音量でラジオをかけていました。だからこれだけの契約数があれば、だいたい全国民に聞こえていたでしょう(笑)。そういう環境で満州事変が起こって、軍部を支持する報道があふれていたら、確かに「武力行使も必要か・・・・・」なんて思うかもしれない。でも、これは満州事変が起こる前のアンケートなのです。

もちろん、「はい」と答えたうちの残りの36%の学生は「外交手段を尽くした後に武力行使をすべき」と答えています。また、武力行使をしてはだめだと答えた学生も12%いる。ただ、戦争になってもいいと考えている人が九割弱を占めていることに変わりはありません。一般的に、知的訓練を受け、社会科学的な知識を持っている人間は、外国への偏見が少なく外国に対する見方が寛容になる傾向があります。「中国にだっていろいろな事情があるのだ。日本側にもあるように」と思える人間には、やはり知性、インテリジェンスがあるだろうと。たくさん勉強していたでしょうし、いろいろな知識を持っていたと思われる東大生の88%が武力行使を「是」としていたということに、私は驚きました。

戦争ではなく「革命」

日中戦争当時、大蔵省預金部というところで課長をしていたエリート官僚の毛里英於菟という人が、日中戦争とはなんであるのかについて、1938年11月に発表した論考があります。「『東亜一体』としての政治力」と題して、「日支事変」(当時の呼称)は、資本主義と共産主義の支配下にある世界に対して、日本などの「東亜」の国々が起こした「革命」なのだ、という解釈を展開していました。台湾、朝鮮を含む日本、そして1932年に関東軍が背景にあって建国された「満州国」、これに、おそらく日本の占領下にある中国などを加えた総称として、毛里は「東亜」といっている。この東亜が、英米に代表される資本主義国家や、ソ連などに代表される共産主義国家などに対して、革命を試みている状態、これが日中戦争だ、と。戦争ではなく、革命だといっている。とても奇妙ですよね。

この奇妙な感じ、変なとらえ方はどうして生まれるのか、その背景を考えてゆきましょう。少なくとも毛里の論考から、この当時、日本のエリート官僚などが、戦争を破壊とはとらえない、より積極的な意味を見いだしていたことがわかるでしょう。

戦争が起こる場合

序章で、ルソーの戦争論「戦争および戦争状態論」の話をしましたね。戦争というのは、相手国の主権にかかわるような大きな問題、あるいは相手国の社会を成り立たせている基本原理に対して、挑戦や攻撃がなされたときに起こるものだと。つまり、ある国の国民が、ある相手国に対して、「あの国は我々の国に対して、我々の生存を脅かすことをしている」あるいは、「あの国は我々の国に対して、我々の過去の歴史を否定するようなことをしている」といった認識を強く抱くようになっていた場合、戦争が起こる傾向がある、と。

「戦争で戦争を養う」

1928年1月19日に木曜会の第三回会合が開かれ、ここで当時、陸軍大学校の教官となっていた石原莞爾は、「我が国防方針」という実に面白い報告を行なう。同志たちの前での報告ですから、大真面目な報告であったことは確かです。

日米が両横綱となり、末輩までこれに従い、航空機をもって勝敗を一挙に決するときが世界最後の戦争。[中略]日本内地よりも一厘も金を出せないという方針の下に戦争せざるべからず。対露作戦の為には、数師団にて十分なり。全支那を根拠として遺憾なくこれを利用せば、20年でも30年でも戦争を継続することを得。

石原の報告は二つの主張からなっていますね。一つは、日本とアメリカがそれぞれの陣営に分かれて、航空機決戦を行なうのが世界最終戦争であると。そして二つ目は、対ソ連戦のためには、中国を根拠地として中国の資源を利用すれば、20年でも30年でも持久戦ができる、このような考え方を主張しています。この頃、第一次世界大戦後の各国では、戦争というものは膨大なお金をかけて長期総動員準備をしなければ不可能であると考えられており、財政担当者などが青くなっていた頃ですから、石原のある意味野蛮な議論は、頭のうえの岩をどけてくれるような痛快なものだったのかもしれません。

同じ時期、石原が陸軍大学校で講義したノートが残っているのですが、ここでも石原は、持久戦というのはナポレオンがいったように、「戦争で戦争を養う」、つまり占領した先の地域で徴税し、物資や兵器は現地で手に入れ、そこで「自活」すればよい、とも述べています。

ずれている意図

ここまでの話を聞いて、軍が満蒙について、国民に向けて訴えていることと、木曜会の軍人たちが論議していることと、論点がずれていることに気がつきましたか。

軍はなんといって、国民を扇動しましたか。中国は条約違反である、日本は被害者である、よって満蒙の特殊権益を無法者の中国の手から守らなければならないとの、原理主義的な怒りの感情です。でも、石原たちはまったく違うことを話していますよね。

軍人たちの主眼は、来るべき対ソ戦争に備える基地として満蒙を中国国民政府の支配下から分離させること、そして、対ソ戦争を遂行中に予想されるアメリカの干渉に対抗するため、対米戦争にも持久できるような資源獲得基地として満蒙を獲得する、というものでした。国際法や条約に守られているはずの日本の権益を、中国がないがしろにしているかどうかは、本当のところあまり関係がない。

満蒙に対する意図がずれている点は、軍人たち、事件を起こす政治主体たちには百も承知のことでした。国民のなかにくすぶる中国への不満を条約論・法律論でたきつけますが、実のところ、軍人たちにとって最も大切な問題は、対ソ連と対米戦を戦う基地としての満蒙の位置づけだったのです。

このずれを一挙に突破して、国民の不満に最後に火をつける役割を果たしたのが、1929年10月、ニューヨークの株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌でしょう。農林省の農家経済調査によれば、農家の平均所得は、29年に1326円あったものが、31年には、なんと650円へと半分以下に減ってしまっていました。

この時期は世界的な恐慌でしたから、日本が協調外交方針をとっていたために、農家所得が減ったというわけではないのです。しかし、たとえば31年7月、松岡洋右が政友会本部で演説し、当時の若槻礼次郎内閣下の幣原外交を批判していたように、今日の外交は国際的な交渉はやっているが、「国民の生活すなわち経済問題を基調とし、我が国民の生きんとするゆえんの大方針を立て、これを遂行する」ことが第一であるのに、それをやっていないではないか、との批判は、生活苦に陥った国民には、よく受け入れられたと思います。そのような瞬間を軍が見逃すはずはないですね。こうして、31年9月18日、着火点に日がつけられることになりました。

日露戦争は世のなかのためになる「良い戦争」

吉野作造といえば、大正デモクラシーを支えた知識人ということは知っていますね。吉野は、東京帝国大学法学部で、日本政治、ヨーロッパ政治、その他中国革命史を講じていました。その若き日には、日本の行なう日露戦争を正当化する論考も書いていました。つまり、日露戦争(1904-05)は世のなかのためになる「良い戦争」だというわけです。

露国は実に文明の敵なり。今もし露国日本に勝たんか、政府の権力いっそう強く圧制ますます甚だしからん。幸いにして日本に敗れんか、あるいは自由民権論の勢力を増すゆえんとならん。ゆえに吾人は文明のために、また、露国人民の安福のために切に露国の敗北を祈るものなり。

つまり、ロシアが悪いのは立憲的な憲法や内閣制度や国民の自由がないからで、そのような国は日本に負けたほうがロシア国民のためだ、といっているのですね。日本が勝てば、ロシア国内においても、自由民権論が増す可能性があるからよいのだと。

「政党も大新聞も非難を書かないのが不思議でならない」

吉野作造は『中央公論』の1932年1月号に「民族と階級と戦争」という、まことに印象的な題名の論文を寄稿しています。そこで吉野は、今の日本の状況が不思議だと書いています。自分はかつて日露戦争を見てきた。政党も大新聞も、戦争開始の前には必ず戦争をすすめようとする政府への非難をたくさん書いた。しかし、なぜこれが今、起こらないのか、それが不思議でならないと。

吉野は、土地も狭く、資源に恵まれない日本が、「土地及び資源の国際的均分」を主張するのは理屈として正しい、とまず述べています。しかし、土地や資源の過不足の調整は、「強力なる国際組織の統制」によってなされるべきだ、「渇しても盗泉の水は飲むな」と子供の頃から日本人は教えられてきたはずではなかったのか、と嘆きます。

この時点で政党が戦争反対の声を挙げられなかった理由は、大きく二つの流れで説明できると思います。一つには、中国に対する日本の侵略や干渉に最も早くから反対していた日本共産党員やその周辺の人々が、1928年3月15日、一斉に検挙されるという三・十五事件が起こり(488人起訴)、その翌年の4月16日に、三・十五事件の時点では逃亡できた共産党の大物党員などの検挙がなされた四・十六事件が挙げられます(339人起訴)。ともに、田中義一内閣でなされたことです。1925年に成立していた、いわゆる男子普通選挙法による初めての衆議院選挙が28年2月にあり、その際、共産党が公然と活動を開始したことに対し危機感を強めた田中内閣が検挙を断行する。つまり、戦争に反対する勢力が治安維持法違反ということで、すべて監獄に入れられてしまっていたことですね。浜口内閣のもとでも、30年2月、民政党が政友会に100議席ほどの大差で勝ったときですが、この2月26日にも、共産党の大検挙が行なわれている(検挙者1500人のうち461人起訴)。もう、根こそぎ検挙という感じであります。

二つには、共産党に次いで、おそらく戦争に最も反対すると思われた合法無産政党の内部事情が関係してきます。たとえば、全国労農大衆党は、31年9月28日、対中国出兵反対闘争委員会を設ける動きをします。しかし、32年2月、前回の総選挙では民政党に大敗した政友会が、301議席(民政党は146議席)を獲得して第一政党に返り咲いた選挙においては、全国労農大衆党は「服務兵士家族の国家保障」を選挙スローガンの一つに掲げます。これは意味深長でありまして、満州事変に出兵した兵士や現役として兵営に徴収された兵士が、それ以前に勤めていた会社や商店から解雇されないように、また出征中・在営中の賃金を保障されるように雇用主に求めたものでした。その際大事なことは、利益を上げるために出征中や在営中の兵士を解雇したり賃金を支払わなかった雇用主に、当時、最も強く圧力をかけて、雇用主からの保障を勝ち取っていたのは、当の陸軍省だったのです。

つまり、全国労農大衆党は、「帝国主義戦争反対」をスローガンに掲げて選挙を戦ったのですが、兵士の待遇改善問題を考えると、どうしても陸軍側を怒らせるスローガンは通りにくい。よって戦争の後押しにもなる兵士家族の保障を、ともにスローガンとしてしまうのです。全国労農大衆党の候補者のある者は、「帝国主義反対」という党の方針には同調せず、「服務兵士家族の国家保障」だけをスローガンにして選挙を戦い、見事、当選を果たしています。不況下の生活苦の前に、無産政党も支持者も苦しい選択を迫られていたといえるでしょう。

「満州は国内」

連名は満州国を認めてなくて、中国の領土だといっている。だから、日本が「満州国内で軍隊を動かしている」と考えていても、連盟から見ればそうはとらえられない。33年2月というのは、まさに、連名が和協案を提議して、日本側に最後の妥協を迫っているときでした。その連名の努力中に、れっきとした中国の土地である熱河地域に日本軍が侵攻することは、「第15条による条約を無視して戦争に訴える」行為、つまり、連盟が努力している最中に新しい戦争を始めた行為そのものに該当してしまう。そうなれば、日本はすべての連名国の敵になってしまい、連盟規約の第16条が定める通商上・金融上の経済制裁を受けることになり、また除名という不名誉な事態も避けられなくなる、こう考えたわけです。

33年2月8日、斎藤首相は天皇のところに駆け込み、熱河作戦を決定した閣議決定を取り消し、また、天皇の裁可も取り消して欲しいと頼みます。天皇は侍従武官に向かって、前に天皇自身が参謀総長に向かって作戦の許可を与えた熱河作戦を中止したいと、こう求めたのでした。このとき、斎藤首相と天皇の考えのとおりになっていれば、日本の歴史はまた別の道を歩んだかもしれないと私は思います。

しかし、侍従武官の奈良や元老の西園寺公望の考えは、消極的なものでした。もしここで天皇が一度出した許可を撤回したとなれば、天皇の権威が決定的に失われる。そしてもっと困ったことには、おそらく、陸軍などの勢力は天皇に対して公然と反抗し始めるだろう、こう考えるのですね。そして、侍従武官や元老は天皇に対して、斎藤首相の要望を許可してはいけないとアドバイスする。

自分の考えに従うことを禁じられた天皇はとても苦しみます。奈良の日記には、2月11日の記述として「ご機嫌、大いによろしからず」と、天皇の様子が書きとめられています。

胡適の「日本切腹、中国介錯論」

1938年に駐米国大使となった胡適は、北京大学教授で社会思想の専門家でした。ものすごく頭のよい人、胡適が書いた手紙は多く残されていますので、当時の中国側の外交戦略はかなり明らかにされています。胡適は41年12月8日、日本が真珠湾攻撃を行ったときにも駐米大使としてワシントンにいました。胡適のような人が相手では、日米交渉を行うために渡米した野村吉三郎なそひとたまりもなかったのではないか、そのような想像をさせるほど、この人の頭は優れている。

日中戦争が始まる前の1935年、胡適は「日本切腹、中国介錯論」を唱えます。すごいネーミングですよね。日本の切腹を中国が介錯するのだと。介錯というのは、切腹する人の後ろに立って、作法のとおりに腹を切ったその人の首を斬り落とす役割を意味します。それでは、当時の世界に対する胡適の見方を見てゆきましょう。

まず、中国は、この時点で世界の二大強国となることが明らかになってきたアメリカとソ連、この二国の力を借りなければ救われないと見なします。日本があれだけ中国に対して思うままにふるまえたのは、アメリカの海軍増強と、ソビエトの第二次五カ年計画がいまだに完成していないからである。海軍、陸軍ともに豊かな軍備を持っている日本の勢いを抑止できるのは、アメリカの海軍力とソビエトの陸軍力しかない。

このことを日本はよく自覚しているので、この二国のそれぞれの軍備が完成しないうちに、日本は中国に決定的なダメージを与えるために戦争をしかけてくるだろう。つまり、日米戦争や日ソ戦争が始まるより前に日本は中国と戦争を始めるはずだと。うーむ。これは正しい観測ですね。実際の太平洋戦争は1941年12月に始まりますし、日ソ戦争は太平洋戦争の採集盤、45年8月に始まるわけですが、日中戦争は37年7月に始まる。

胡適の考えは続きます。これまで中国人は、アメリカやソビエトが日本と中国の紛争、たとえば、満州事変や華北分離工作など、こういったものに干渉してくれることを望んできた。けれどもアメリカもソ連も、自らが日本と敵対するのは損なので、土俵の外で中国が苦しむのを見ているだけだ。ならば、アメリカやソ連を不可避的に日本と中国との紛争に介入させるには、つまり、土俵の内側に引き込むにはどうすべきか――それを胡適は考えたのです。

胡適は「アメリカとソビエトをこの問題に巻き込むには、中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、2、3年間、負け続けることだ」といいます。このような考え方を蒋介石や汪兆銘の前で断言できる人はスゴイと思いませんか。日本でしたら、このようなことは、閣議や御前会議では死んでもいえないはずです。これだけ腹の据わった人は面白い。35年までの時点では、中国と日本は、実際には、大きな戦闘はしてこなかった。満州事変、上海事変、熱河作戦、これらの戦闘はどちらかといえば早く終結してしまう。とくに満州事変では、蒋介石は張学良に対して、日本軍の挑発に乗るなといって兵を早く退かせている。しかし、胡適は、これからの中国は絶対に逃げてはダメだという。膨大な犠牲を出してでも中国は戦争を受けて立つべきだ。むしろ中国が先に戦争を起こすぐらいの覚悟をしなければいけない、といっています。日本の為政者で、こういう暗澹たる覚悟をいえる人がいるだろうか。具体的にはこういいます。

中国は絶大な犠牲を決心しなければならない。この絶大な犠牲の限界を考えるにあたり、次の三つを覚悟しなければならない。第一に、中国沿岸の港湾や長江の下流地域すべて占領される。そのためには、敵国は海軍を大動員しなければならない。第二に、河北、山東、チャハル、綏遠、山西、河南といった諸省は陥落し、占領される。そのためには、敵国は陸軍を大動員しなければならない。第三に、長江が封鎖され、財政が崩壊し、天津、上海も占領される。そのためには、日本は欧米と直接に衝突しなければいけない。我々はこのような困難な状況下におかれても、一切顧みないで苦戦を堅持していれば、2,3年以内に次の結果は期待できるだろう。[中略]満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。世界中の人が中国に同情する。英米および香港、フィリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。

こうした胡適の論は、もちろんそのまま外交政策になったわけではなく、蒋介石や汪兆銘などから、「君はまだ若い」などといわれて、抑えられたりしたでしょう。しかし、このようなことを堂々と述べていた人物が、駐米大使となって活躍する。私が、こうした中国の政府内のの議論を見ていて感心するのは、「政治」がきちんとあるということです。日本のように軍の課長級の若手の人々が考えた作戦計画が、これも若手の各省庁の課長級の人々との会議で形式が整えられ、ひょいと閣議にかけられて、そこではあまり実質的な議論もなく、御前会議でも形式的な問答で終わる。こういう日本的な形式主義ではなく、胡適の場合、3年はやられる、しかし、そうでもしなければアメリカとソビエトは極東に介入してこない、との暗い覚悟を明らかにしている。1935年時点での予測ですよ。なのに45年までの実際の歴史の流れを正確に言い当てている文章だと思います。それでは、胡適の論の最後の部分を読んでおきましょう。

以上のような状況に至ってからはじめて太平洋での世界戦争の実現を促進できる。したがって我々は、3,4年の間は他国参戦なしの単独の苦戦を覚悟しなければならない。日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は「日本切腹、中国介錯」というこの八文字にまとめられよう。

日本の全民族は自滅の道を歩んでいる。中国がそれを介錯するのだ、介錯するための犠牲なのだということです。すごい迫力ですね。

「蒋介石は英米を選んだ、毛沢東はソ連を選んだ、自分の夫・汪兆銘は日本を選んだ。そこにどのような違いがあるのか」

いま一人、胡適に優るとも劣らない迫力のある、これまたものすごく優秀な政治家を紹介しておきましょう。この人物の名前は汪兆銘といいます。この人は一般的には、日本の謀略に乗って、国民政府のナンバー2であったのに蒋介石を裏切り、1938年末、今のベトナムのハノイに脱出して、のちに日本側の傀儡政権を南京につくった人物、つまり、汪兆銘政権の主席となって、南京・上海周辺地域だけを治めた人として知られています。

汪兆銘は、35年の時点で胡適と論争しています。「胡適のいうことはよくわかる。けれども、そのように3年、4年にわたる激しい戦争を日本とやっている間に、中国はソビエト化してしまう」と反論します。この汪兆銘の怖れ、将来への予測も、見事にあたっているでしょう? 中華人民共和国が成立する1949年という時点を思いだしてください。中国はソビエト化してしまったわけです。汪兆銘は、まるでそれを見透かしたかのように、胡適の主張する「日本切腹、中国介錯」ではダメだといって、とにかく、中国は日本と決定的に争ってはダメなのだ、争っていては国民党は敗北して中国共産党の天下になってしまう、そのような見込みを持って日本と妥協する道を選択します。

これまた、究極の選択ですね。汪兆銘の夫人はなかなかの豪傑で、汪兆銘が中国人の敵、すなわち漢奸だと批判されたときに、「蒋介石は英米を選んだ、毛沢東はソ連を選んだ、自分の夫・汪兆銘は日本を選んだ。そこにどのような違いがあるのか」と反論したといいます。すさまじい迫力です。

ここまで覚悟している人たちが中国にいたのですから、絶対に戦争は中途半端なかたちでは終わりません。日本軍によって中国は1938年10月ぐらいまでに武漢を陥落させられ、重慶を爆撃され、海岸線を封鎖されていました。普通、こうなればほとんどの国は手を上げるはずです。常識的には降伏する状態なのです。しかし、中国は戦争を止めようとはいいません。胡適などの深い決意、そして汪兆銘のもう一つの深い決意、こうした思想が国を支えたのだと思います。

絶対的な国力差を自覚していることと、国力差のある戦争に絶対に反対することは別物

太平洋戦争開戦の第一報は、大本営陸海軍部(陸軍と海軍が戦時において協議を遂げるための機関)、午前6時発表の臨時ニュースとしてラジオで流されました。「帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋において英米軍と戦闘状態に入れり」という有名なフレーズであります。

これを聞いて、普通の人がどう思ったか。これがなかなか記録に残らないんですね。そこでまずは、書くことが仕事である人々、知識人の反応を見ておきましょう。南原繁という学者の名前を聞いたことはありますか。この人は、敗戦後に東大総長となる政治学者ですが、南原は開戦の日に次のような短歌を詠む。

人間の常識を超え 学識を超えておこれり 日本 世界と戦ふ

意味するところは、人間の常識を超えて、学問から導かれる判断をも超えて戦争は起こされた、日本は世界を敵としてしまった、との嘆きです。最高学府で、プラトン、アリストテレスの時代からの政治哲学を講じていた南原のような人間には、英米を相手として日本が開戦したのは驚きだった。学識、つまり学問から得られる知見からすれば、アメリカと日本の国力の差は当時においても自覚されていました。たとえば、開戦時の国民総生産でいえば、アメリカは日本の12倍、すべての重化学工業・軍需産業の基礎となる鋼材は日本の17倍、自動車保有台数にいたっては日本の160倍、石油は日本の721倍もあった。

こうした絶対的な差を、日本の当局はとくに国民に隠そうとはしなかった。むしろ、物的な国力の差を克服するのが大和魂なのだということで、精神力を強調するために国力の差異を強調すらしていました。国民をまとめるには、危機を扇動するほうが近道だったのでしょう。ですから、絶対的な国力差を自覚していることと、国力差のある戦争に絶対に反対することは分けて考えないといけない。少なくとも、南原のような知識人にとって開戦が正気の沙汰ではなかったと認識されていたのは確かです。

とするならば、絶対的な国力差を理解しながらも、開戦を積極的に支持した層がいたということですね。そう考える層がいなければ、国家も、国力差をことさらに言い立てることは出来なかったでしょうから。圧倒的な国力の差があっても、日本が開戦に踏み切れた背景には、こうした人々の支持があったからだと思います。さて、その点で紹介したい人ですが、竹内好という人物の名前は聞いたことがありますか。

竹内は、満州事変が起こされた年の1931年、当時の名称でいえば東京帝国大学文学部支那文学科、つまり中国文学を専攻していた。37年から2年間、北京に留学もしています。自らの学問の対象となる国と戦争が始まるわけですから、大変なことですね。

この竹内は、太平洋戦争の開戦の報を聞いて、ある意味、感動する。つまり、中国だけを相手とする戦争ではなく、強いアメリカ、イギリスを主たる相手とする戦争である点に意義を認めるのです。といっても、お互いにそれまで宣戦布告をしてこなかった日本と中国ですが、日本が対英米戦に宣戦布告した後、蒋介石率いる中国は日本に宣戦布告しましたので、太平洋戦争は、米英だけでなく中国をも相手とした戦争だったわけですが。開戦から8日後に、竹内が自らが主催する雑誌に書いた、「大東亜戦争と吾等の決意」という文章が残っています。

開戦とともに「歴史は作られた」とする感性。泥沼の日中戦争が太平洋戦争へと果てしもなく拡大してしまったと、現代の我々が抱く受け止め方とは全く違った認識です。

ここからわかるのは、日中戦争は気がすすまない戦争だったけれども、太平洋戦争は強い英米を相手としているのだから、弱いものいじめの戦争ではなく明るい戦争なのだといった感慨を、当時の中国通の一人であったはずの竹内が述べていることですね。竹内の文章には、戦争を「爽やかな気持ち」で受け止めたとの記述がありますが、同じようなことを小説家で文芸評論家でもあった伊藤整も日記のなかに書き留めています。開戦の翌日、12月9日の日記には「今日は人々みな喜色ありて明るい。昨日とはまるで違う」と書かれ、年が明け、イギリスの根拠地の一つであったシンガポールが陥落した42年2月15日には「この戦争は明るい。[中略]平均に幸福と不幸とを国民が分かちあっているという気持ちは、支那事変前よりも国内をたしかに明るくしている。大東亜戦争の重っ苦しさもなくなっている。実にこの戦争はいい。明るい」と続きます。太平洋戦争は日中戦争の時代と違って明るい、こういっている。これに尽きると思います。

「ソ連は反自由主義、反資本主義ということで、日本やドイツと一致点がある」

41年6月22日に始まっていた独ソ戦を、なぜ日本の介入で止めさせることができると考えていたのか。この点は、現在の時点から考えると、とうてい信じがたいでしょう。ただ、当時日本は、イギリス、アメリカ、オランダ、中国、これらの国々が悪いのは自由主義を信奉する資本主義国だからで、有産階級や資本家が労働者や農民を搾取している悪い国だと、さかんに国民に説明していた。その点でいえば、ソ連は社会主義国であって資本主義とは違う、とくに経済政策の点では国家による計画経済体制をとっているのだから、反自由主義、反資本主義ということで、日本やドイツと一致点があるのだ、こう日本側は考えようとしていたのだと思います。

太平洋戦争に拡大したのは日本側の選択の結果

ここまでのお話の表面だけを理解すると、なんだか、英米ソなどの国々が中国を援助したから日中戦争は太平洋戦争に拡大してしまったといったような、非常に排他的な見方、つまり、他国が日本を経済的にも政治的にも圧迫したから日本は戦争に追い込まれた、日本は戦争に巻き込まれたのだ、といった考え方に聞こえるかもしれません。しかしそれは違います。日本における国内政治の決定事項を見れば、あくまで日本側の選択の結果だとわかるはずです。第二次世界大戦の始まりについては説明しましたが、このときの日本の内閣、つまり安部信行内閣(1939.8.30-40.1.16)と米内光正内閣(1940.1.16-7.22)においては、ヨーロッパの戦争には介入しないことにしていました。

ヨーロッパの戦争にずっと不介入でいればよかったのですが、ドイツ軍の快進撃を前に日本側に欲が出てくる。東南アジアにはヨーロッパの植民地がごろごろしている、植民地の母国がドイツに降伏した以上、日本の東南アジアへの進出をドイツに了解してもらわなかればならない、こう考えるのです。また、ドイツ流の、一国一党のナチス党による全体主義的な国家支配に対する憧れが日本にも生まれてくる。衆議院では相変わらず政友会や民政党などの既成政党が多数を占め、貴族院では生まれた家柄がよいだけの無能な貴族が多数を占めている、これではダメだというのです。こうした国民の気運を背景に、日中戦争勃発時の首相であった近衛文麿が新体制運動に着手し、40年7月22日、再び首相の座につきます。この二ヵ月後、ドイツ、イタリアとの三国軍事同盟が締結される。

戦時中の株価

当時の日本人がどのように情報を得ていたかというと、ラジオがありますね。国民の五割がラジオの契約者でしたから、隣近所で大きくラジオをかけていれば、国が知らせたいことはだいたいパッと伝わる。

では、国が知らせたくない情報はどう伝わったのかというと、まず短波の傍受が技術上は可能でした。英語が出来る人が、憲兵に捕まるのを覚悟した上で傍受することはありました。短波や通信の電波を使えたのは、事前に許可を得た通信社か、新聞社か、国の機関に限られていました。でも、軽井沢などさまざまな場所で実は傍受していたという人々が、戦後たくさん現れたといいます。

しかし、国民もさるもの、民の部分では、なんらかの情報が流れていたと感じさせるのは「株価」の話ですね。

――えっ、株価って、戦時中に株式市場が開いていたんですか?

そう、ギョッとするでしょう。開いていたんですね。45年2月から、軍需工業関連ではないもの、これは当時の言葉で民需といったのですが、民需関連株が上がります。具体的には、布を機械で織る紡績関連の株などが上がりだしたというのですね。戦時中では上がるはずはなかった。こうした株に値がつきだす。つまり、そのような株の買い手が増えてくるということです。船舶もどんどん撃沈されて、43年あたりからは民間の船などはもう目も当てられない惨状になる。船舶を建造する鋼材も走らせる燃料もない、発動機もない。それなのに船舶関連の株が上がってくる。これはなにか、戦時から平時に世の中が変化するのではないか、そのような見通しを確かに立てた人間がいて、株価が上がっていったのではないかと考えられます。

日本という国は、こうして死んでいった兵士の家族に、彼がどこでいつ死んだのか教えることができなかった

日本人はドイツ人にくらべて、第二次世界大戦に対する反省が少ない、とはよくいわれることです。真珠湾攻撃などの奇襲によって、日曜日の朝、まだ寝床にいたアメリカの若者を三千人規模で殺したことになるのですから、これ一つとっても大変な加害者であることは明白です。

日中戦争、太平洋戦争における中国の犠牲者は(数値は統計によって異なり、議論もあるものですが)中国が作成した統計では、軍人の戦死傷者を約330万人、民間の死傷者を約800万人としています。さらに台湾、朝鮮、南洋諸島など、日本の植民地や委任統治領になった地域の人々の労苦も、決して忘れてはならないものです。1938年制定された国家総動員法に基いて39年につくられた国民徴用令、これは、戦争にあたって必要とされる産業に国家の命令で人員を配置できるとした勅令ですが、この徴用令によって植民地からも日本国内の炭坑、飛行場建設などに多くの労働者が動員されました。朝鮮を例にとれば、44年までに、朝鮮の人口の16%が、朝鮮半島の外へと動員されていた計算になるといいます。

しかし、太平洋戦争が、日本の場合、受身のかたちで語られることはなぜ多いのか。つまり「被害者」ということですが、そういう言い方を国民が選択してきたのには、それなりの理由があるはずだと私は思います。44年から敗戦までの1年半の間に、9割の戦死者を出して、そしてその9割の戦死者は、遠い戦場で亡くなったわけですね。日本という国は、こうして死んでいった兵士の家族に、彼がどこでいつ死んだのか教えることができなかった国でした。この感覚は、現代の我々からすれば、ほとんど理解しがたい慰霊についての考え方であります。

日本古来の慰霊の考え方というのは、若い男性が、未婚のまま子孫を残すこともなく郷土から離れて異郷で人知れず非業の死を遂げると、こうした魂はたたる、と考えられていたのですね。つまり、戦争などで外国で戦死した青年の魂は、死んだ場所死んだ時を明らかにして葬って上げなければならない。

捕虜の扱い

日本人のなかには、過去を正しく見つめるドイツ人、そうはならない日本人、といった単純な対比はもういい加減にしてくれ、という人も多いと思います。ただ、私としては、やはり日本人が戦争というものに直面した際の特殊性というのでしょうか、そのようなものがデータとして正確に示されるのであれば、正視したいと常に思っています。

その一つが捕虜の扱い方のデータです。あるアメリカの団体が、捕虜となったアメリカ兵の名簿から、捕虜となり死亡したアメリカ兵の割合を地域別に算出しました。そのデータからは日本とドイツの差がわかります。ドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は1.2%にすぎません。ところが、日本軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は37.3%にのぼりました。これはやはり大きい。日本軍の捕虜の扱いのひどさはやはり突出していたのではないか。もちろん、捕虜になる文化がなかった日本兵自身の気持ちが、投降してくる敵国軍人を人間と認めない気持ちを生じさせた側面もあったでしょう。しかしそれだけではない。

このようなことはなにから来るかというと、自国の軍人さえ大切にしない日本軍の性格が、どうしても、そのまま捕虜への虐待につながってくる。戦後、復員して東京大学文学部に入って近代史を学び、自身、のちに一橋大学教授となる藤原彰先生は、戦前、陸軍士官学校出の陸軍大尉で中国戦線に従軍していました。先生はもう亡くなりましたが、藤原先生の書いた『餓死した英霊たち』はぜひとも読んでいただきたい。

戦争には食料がいる。ニューギニア北部のジャングルなどには自動車道はない。兵士の一日の主食は600グラムです。最前線で五千人の兵士を動かそうとすると、基地から前線までの距離にもよりますが、主食だけを担いで運ぶのを想定すると、なんと、そのためだけに人員が三万人くらい必要になるのです。しかし、このような計算にしたがって食糧補給をした前線など一つもなかった。この戦線では戦死者ではなく餓死者がほとんどだったといわれるゆえんです。

そして、このような日本軍の体質は、国民の生活にも通底していました。戦時中の日本は国民の食料を最も軽視した国の一つだと思います。敗戦間近の頃の摂取カロリーは、1933年時点の6割に落ちていた。40年段階で農民が41%もいた日本で、なぜこのようなことが起きたのでしょうか。日本の農業は労働集約型です。そのような国なのに、農民には徴収猶予がほとんどありませんでした。工場の熟練労働者などには猶予があったのですが、肥料の使い方や害虫の防ぎ方など農業生産を支えるノウハウを持つ農業学校出の人たちをも、国は全部兵隊にしてしまった。すると、技術も知識もない人たちによって農業が担われるので、44、45年と農業生産は落ちまくる。政府が、農民のなかにも技術者はいるのだと気付いて、徴収猶予を始めるのは44年です。これでは遅い。

それにくらべるとドイツは違っていました。ドイツの国土は日本にもまして破壊されましたが、45年3月、降伏する2ヶ月前までのエネルギー消費量は、なんと33年の1、2割増しでした。むしろ戦前よりもよかったのです。国民に配給する食料だけは絶対に減らさないようにしていた。国民が不満を持たないようにするためにはまずは食糧確保というわけです。

やはり兵士にとっても国民にとっても太平洋戦争は悲惨な戦争でした。日本の炭鉱では、たくさんの中国側の捕虜や朝鮮半島から連れてこられた労働者が働かされていました。本来は捕虜に労働させるには十分な食料と給料を出し、将校は労働させてはいけないなどのルールがあったはずですが、そのようなことはもちろん守られていなかった。そして膨大な死傷者が出ました。しかし、このような悲惨な側面は、兵士や国民自身の待遇や生活の劣悪な記憶に上書きされ、国民や兵士の記憶からは落ちてしまうのです。

|

« 220~222 備忘録 「ねじまき鳥」他 | トップページ | 224~227 備忘録 「ジョギングのスピード練習、ご飯」 »

★★★★★」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 220~222 備忘録 「ねじまき鳥」他 | トップページ | 224~227 備忘録 「ジョギングのスピード練習、ご飯」 »