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2010年6月 6日 (日)

198B『ビッグバン宇宙論 下』 サイモン・シン 初版2006年

宇宙創造と進化の歴史は
     具体的な証拠によって裏づけられている

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impact原題

Big Bang: The Origin Of The Universe. (2005)

impact概要

決闘で鼻を失った天文学者。聖書を精密に分析し、宇宙の年齢をはじき出した大司教。カヤックで海を渡って亡命しようとした物理学者に、世界トップク ラスの 天体画像分析チームを率いたメイド、重度の難聴ながら歴史に残る発見を成し遂げた女性ボランティア…。創世神話からプトレマイオス、コペルニクスにケプ ラー、ガリレオらを経て、ついにはアインシュタインの先へ―。宇宙はどうやって生まれたのか? 人類最大の謎に迫る有名無名の天才たちの苦闘を描く傑作科学ノンフィクション。

impact読むきっかけ& 目的&感想

同著者の『フェ ルマーの最終定理』『代替医療のトリック』が面白かったので読んでみた。

さくら好み ★★★★★

本書を読み終えた後に、TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」のゲストコーナーで宇宙物理学者・佐藤勝彦さんのお話を聞いた。本書のエピローグに書かれているインフレーション理論でそのお名前を見た直後だったので、ゲストトークを聞きながら妙に気分が高揚してしまった。

上下巻ともに、とっても面白かった。

impact覚書

「昨日のない日」

ルメートルは、永遠の過去から存在していた原初の原子が、どういうわけか「平衡を失い」、崩壊してばらばらの断片を放出したと考えた。彼はこの崩壊の始まりをもって、宇宙の始まりと定義した。それはまさしく宇宙創造の瞬間であり、ルメートルの言葉によれば「昨日のない日」だった。

アインシュタイン、自分の静的宇宙を放棄

1931年2月3日、アインシュタインはウィルソン山天文台の図書室に集まった記者たちを前に会見を行い、自分の静的宇宙を放棄し、ビッグバン・モデルを支持することを明らかにした。アインシュタインは、ハッブルの観測には説得力があると考え、ルメートルとフリードマンは初めから正しかったことを認めたのである。世界一有名な科学者が考えを変えてビッグバン・モデルの支持にまわったことで、こと新聞業界に関するかぎり、膨張宇宙は公式の理論になった。

銀河は空間とともに運動している

ハッブルはビッグバン・モデルの予測通りに銀河が後退しているのを観測したが、ビッグバン理論家たちは一人残らず、銀河が宇宙の中で動いているのではなく、空間とともに運動していると考えていた。エディントンはこの微妙な点を説明するために、宇宙空間を風船の表面になぞらえた三次元空間を簡略化して、閉じた二次元のゴム膜にしたのである。風船の表面にはたくさんの点が描かれ、それぞれの点がひとつの銀河を表している。もしも直径が二倍になるまで風船を膨らませば、点と点の距離は二倍になり、事実上、点同士が互いに遠ざかったことになる。ここで重要なのは、点が風船の表面を動いたわけではなく、表面そのものが膨張したために、点同士の距離が広がったということだ。同様に、銀河は空間の中を運動しているのではなく、銀河と銀河のあいだの空間が広がっているのである。

読者は、空間のあらゆる部分が膨張し、銀河はその空間内で静止しているというなら、銀河それ自体も膨張しているのではないかと思われるかもしれない。理論上はそれもひとつの可能性なのだが、実際には、銀河の内部には強い重力が存在するため、銀河の膨張は微々たるものでしかない。つまり宇宙の膨張は、銀河と銀河のあいだに広がる壮大なスケールの空間では問題になるが、銀河内部の小さなスケールでは問題にならないのである。

ウッディ・アレンの映画『アニー・ホール』にある回想シーン

ウッディ・アレンの映画『アニー・ホール』の冒頭近くにある回想シーンで、シンガー夫人は、なにやらふさぎ込んでいる息子のアルヴィーを精神科医に連れて行く。少年は医者に向かって、宇宙は膨張していると本で読んだが、膨れ上がって破裂したらすべてはおしまいだと話す。すると母親が口を挟んでこう言った。「宇宙がなんだっていうの? あなたはブルックリンにいるのよ! ブルックリンは膨張してないの!」 シンガー夫人はまったく正しかったのだ。

存在比の謎

ビッグバン・モデルが受け入れられるためには、無視するわけにはいかないひとつの問題があった。一見すると何の害もなさそうなその問題は、「豊富な物質もあれば、まれにしか存在しない物質もあるのはなぜか?」というものだった。

地球という惑星を見れば、中心部の核は鉄でできており、地殻は主として酸素、ケイ素、アルミニウム、鉄でできている。海はほぼ水素と酸素(つまりH2O、水)からなり、大気の主成分は窒素と酸素だ。しかしもう少し遠くまで踏み出してみれば、このような物質分布は、宇宙スケールではおよそ典型的ではないことがわかる。天文学者たちは分光学を使って星の光を調べることにより、宇宙に断然豊富に存在するのは水素であることを知った。

宇宙に次にたくさん存在する元素はヘリウムで、水素とヘリウムを合わせれば宇宙の元素の大部分を占めることになる。水素とヘリウムは、小さくて軽いほうから二つの元素であるため、天文学者たちは、宇宙は大きくて重い元素ではなく、小さくて軽い元素で占められているという事実に直面することになった。水素とヘリウムを合わせれば、宇宙に存在する全元素のざっと99.9パーセントを占めることになるのである。軽いほうから二つの元素はきわめて豊富に存在し、それに続く軽い元素や、中ぐらいの重さの元素はそれほど多くはなく、金や白金のような重い元素ともなればめったに存在しない。

科学者たちは、軽い元素と重い元素の存在比がこれほどアンバランスなのはなぜだろうかと考えはじめた。宇宙が創造の瞬間から進化しはじめたのだとすれば、なぜ宇宙は金や白金ではなく、水素とヘリウムを作るように進化したのだろうか? 重い元素よりも軽い元素を好む宇宙創造のプロセスとはいったいどんなものだろう?

ビッグバンの支持者たちは、とにかく何か説明を見つけ出し、それがビッグバン・モデルと矛盾しないことを示す必要があった。宇宙を説明する理論たるもの、宇宙がいかにして今日の姿になったかを正しく説明できなければならない。それができない理論は失敗作とみなされるだろう。

原子の内部には莫大なエネルギーがある

原子を理解しようという試みが始まったのは、化学者と物理学者が「放射能」という性質に興味をもったときのことだった。放射能が発見されたのは、1896年である。その後、ウランなど重い原子のいくつかは「放射能」をもつことが明らかになった。放射能とは、放射という形で、きわめて多量のエネルギーを自発的に出す能力のことだ。しかしそれからしばらくのあいだは、この放射能の正体は何なのか、なぜ放射が起こるのかはわからないままだった。

放射能研究の最前線にいたのが、フランスの物理学者キュリー夫妻である。二人は新しい放射性元素をいくつか発見したが、そのなかでもラジウムは、ウランより百万倍も大きな放射能をもっていた。ラジウムから出た放射線は周囲の物質に吸収され、放射線のエネルギーは熱に変換される。実際、1キログラムのラジウムは、30分で1リットルの水を沸騰させるだけのエネルギーを生み出す。いっそう印象的なのは、この放射能はいつまでも弱まらないことだ。1キログラムのラジウムは、何千年ものあいだ30分ごとに新しい水1リットルを沸騰させ続けることができる。ラジウムのエネルギーは、爆発にくらべれば非常にゆっくりと放出されるが、最終的には同じ重量のダイナマイトよりも百万倍も多くのエネルギーを出すことになる。

放射能の危険性はそれからも長らく十分には理解されず、ラジウムなどの物質は素朴な楽観主義のもとで観察されていた。「各家庭にラジウムだけで照明された部屋があるような時代が来ることは間違いない。壁や天井に塗られたラジウムのペンキから放射される光の色調は、柔らかな月光のようになるだろう」

キュリー夫妻は放射能による障害に苦しんだが、それでも二人は研究を続けた。二人が記録を取っていたノートは、長年ラジウムに曝されたために放射能を帯び、現在は鉛を貼った箱に保存されている。マリーは結局、白血病で死んだ。

キュリー夫妻は、いくつかの原子の内部には莫大なエネルギー源があることを明らかにした。原子内部の深いところで何が起こっているのかについて、何か手がかりになりそうなものを持つ者はいなかった。19世紀の科学者は、原子を単純な球としてイメージしていたが、放射能を説明するためには、原子はもっと複雑でなければならなかった。

ガモフの宇宙

ロシア帝国領オデッサ(現在はウクライナ領)生まれでアメリカへ亡命した理論物理学者ジョージ・ガモフは、「元素合成」とのかかわりでビッグバンに関心があった。元素合成とは、要するに原子核を作ることである。ガモフが知りたかったのは、原子核物理学の知識とビッグバン仮説を使えば、今日観測されている元素の存在比を説明できるのかどうかということだった。

ガモフの研究について見て行く前に、元素合成に関するルメートルの考えを思い出しておこう。ルメートルの宇宙は、たった一個の非常に重い原初の原子から始まる。原初の原子は、ほかのすべての原子の母である。「原子世界はバラバラに壊れ、破片はさらに小さな破片になった。話を簡単にするために、この分割によって破片が二等分されると仮定すると、これ以上壊せない哀れにも小さな今日の原子になるまでには、260回の分割が起こらなければならない」 大きな原子核は不安定だという一般法則からすると、途方もなく重い原子はきわめて不安定だろうから、分裂してより軽い原子になるのは間違いなさそうだ。しかし、分裂した破片はおそらく周期表の中ほどの、軽くも重くもない、もっとも安定な元素が集まるあたりに落ち着くだろう。そうだとすると、鉄などの元素が圧倒的に多い宇宙ができそうなものである。ルメートルのモデルでは、今日の宇宙ほど多量の水素とヘリウムは作れそうになかった。ガモフに言わせれば、ルメートルの考えは明々白々たる間違いだった。

ガモフはルメートルのトップダウン式のアプローチをはねつけ、ボトムアップ式のアプローチを採った。もしもこの宇宙が、水素原子だけがすさまじい密度で集まったスープのようなもので始まったとしたらどうだろう? そのスープが外向きに膨張を始めたとしたら? そのときビッグバンは、水素が核融合を起こして、ヘリウムやもっと重い元素になるために必要な条件を作れただろうか?

星の核融合では生成できない元素、という制約

ビッグバンの原子核物理学について考え出す前に、ガモフはまずハウターマンとベーテの仕事を勉強した。いったい星はどういうしくみで水素を融合させ、より重い元素を作っているのかを知るためである。そうするうちにガモフは、星の核融合には厳しい制約が二つあることに気がついた。

ひとつは、星がヘリウムを生成する速度があまりにも遅いことだった。太陽は毎秒5.8x10の8乗トンのヘリウムを生成している。これはかなり速いペースに思えるかもしれないが、太陽は現在5x10の26乗トンのヘリウムを含んでいる。星のヘリウム生成速度で行くと、これだけのヘリウムを作るためには270億年かかるが、ビッグバン・モデルによれば宇宙の年齢は18億年とされていた。そこでガモフは、太陽が形成された時点で、ヘリウムの大部分はすでに存在していたはずであり、それゆえおそらくはビッグバンで生成されたのだろうと結論した。

星の核融合のもうひとつの制約は、ヘリウムよりずっと重い元素は作れそうにないことだった。物理学者たちは残念ながら星の内部で鉄や金のよな元素を作る反応経路をひとつも見つけられなかったのだ。星は、軽いほうから何種類かの元素を作ることしかできず、元素生成という点では袋小路に思われた。

ガモフは、これら二つの制約は、ビッグバン・モデルにとっては恰好の機会だと考えた。星ではヘリウムを十分な量だけ作ることができず、もっと重い元素はまったく作れないというなら、ビッグバン・モデルでうまくいくのではないだろうか? 具体的には、初期宇宙の条件はきわめて極端で、新しいタイプの原子核反応が起こり、星の内部では不可能だった新しい経路が開けて、すべての元素の生成プロセスが説明できるのではないか、とガモフは期待したのである。もしもガモフがビッグバンを重い元素の合成に結びつけることができれば、ビッグバン・モデルを支持する強力な証拠になるだろう。しかしもしそれができなければ、宇宙創造を説明しようという野心的なこの理論は、たいへん困った事態に直面するだろう。

ガモフがビッグバン元素合成の研究分野を独占できたわけ

ガモフがビッグバンによる元素合成の研究に乗り出したのは、1940年代初めのことだった。まもなく彼は、アメリカでビッグバン元素合成の問題に取り組んでいる物理学者は、ほとんど自分一人だけだということに気がついた。それと同時に彼は、この分野を独占できる特権に恵まれたのはなぜかも理解した。原子核の作られ方を研究するためには原子物理学に関する深い知識が必要だが、そんな知識を持つ人間はほぼ全員、最初の原子爆弾を設計製造するためにロスアラモスで進められていたマンハッタン計画に密かに駆り出されていたのである。ガモフがジョージ・ワシントン大学から連れ出されなかった唯一の理由は、最高レベルのセキュリティ・クリアランスが取れなかったためだ。ガモフはかつてソ連赤軍の将校に任命されていた。それは兵士に科学を教えるために過ぎなかったし、ソ連は亡命後の欠席裁判で死刑の判決を下していた。

高温スープ「アイレム」

ビッグバン元素合成をモデル化するための第一歩として、ガモフはごく初期の宇宙では温度がきわめて高かったため、すべての物質はもっとも基本的な形に分解していたと仮定した。したがって宇宙の最初の構成要素は、バラバラの陽子と中性子と電子――すなわち当時の物理学者に知られていたもっとも基本的な粒子――だった。彼はこれらの粒子の混合物を、「アイレム」と呼んだ。これはガモフがたまたまウェブスターの辞書をめくっていて見つけた単語だった。すでに死後となったこの中世英語の言葉には、「元素を形成するもとになった原初の物質」という説明があった――中性子、陽子、電子からなるガモフの高温スープには申し分のない意味である。一個の陽子は水素原子核と同じものだから、それに電子を一個つけ加えれば完全な水素原子になる。しかし初期宇宙は非常に高温でエネルギーに満ち、電子はどれも非常な高速で飛び回っていたため、おとなしく原子核にくっついていることはできなかった。また物質粒子のほかにも、初期宇宙には渦巻くような光が満ちていた。

この高温スープから出発して、ガモフは時計を未来に向かって進め、刻一刻と、基本粒子がくっつき合って、今日普通に見られる元素の原子核が作られていくようすを調べたいと考えた。究極的には、そうしてできた原子が集まって星や銀河を形成し、今日われわれが周囲に目にする宇宙に進化していくようすを明らかにする、というのがガモフの大いなる望みだった。

ビッグバン元素合成が起こるのは、時間と温度の狭い範囲内だけ

残念ながら、初期宇宙で起こったであろう原子核反応の計算を始めるとすぐに、ガモフは行く手に立ちはだかる作業の膨大さに気づいて愕然となった。ガモフは原子核反応の計算と格闘したが、前進はないに等しかった。彼は偉大な物理学者だったが数学者としては力不足で、初期宇宙における原子核反応の計算は彼の力量を超えていた。

ようやく1945年、ガモフは求めてやまなかった助っ人を得た。ラルフ・アルファーという名前の、科学界でなんとかやっていこうと奮闘している若いユダヤ人の学生を指導することにしたのだ。ガモフはアルファーに、初期宇宙における元素合成の問題に取り組ませることにした。

ガモフはまずはじめに出発点を示し、それまで自分が少しずつ調べてきたことをもとに重要なポイントを説明した。たとえばガモフは、ビッグバン元素合成が起こったのは、時間と温度の狭い範囲内だけだったといういう点に注意をうながした。ごく初期の宇宙は非常に温度が高く、エネルギーに満ちていたので、陽子と中性子は高速で飛び回り、互いにくっつき合うことができなかった。それから少し時間が経つと、元素合成が開始できるところまで温度が下がった。しかしそれからまた少し時間が経つと、今度は温度が下がりすぎ、陽子と中性子はもはや原子核反応を起こせるほどのエネルギー、もしくは速度をもたなくなったのだ。ひとことで言えば、元素合成が起こったのは、宇宙の温度が一兆度台よりも低く、百万度台よりも高かった時期だけなのである。

元素合成の起こる条件には、もうひとつの制約があった。それは中性子が不安定で、ヘリウムなどの原子核内部に閉じ込められていないかぎり、崩壊して陽子になってしまうことである。そのため初期宇宙を自由に飛び回っていた中性子は、消え去る前に原子核を作ったのでなければならない。自由な中性子の「半減期」はおよそ十分である。つまり、中性子の半数は十分以内に消滅し、残った中性子の半分はさらに十分以内に消滅し、さらに残った中性子の半分はそのまた十分以内に消滅するのだ。したがって、宇宙創造の瞬間から一時間後には、すでに陽子と反応して安定な原子核を作っていないかぎり、はじめに存在していた中性子のうち残っているものは2パーセント以下になる。一方、中性子を生み出す原子核反応もあり、これが温度に依存することが事態をいっそうややこしくしていた。中性子は元素合成の重要な要素なので、中性子の半減期と、中性子の生成速度とは、ビッグバン直後の元素合成がどれぐらいの時間続いたかを決定するうえで、きわめて重要になるのである。

原子合成はどれくらいの時間続いたかという込み入った問題に全力を注いだガモフとアルファーは、陽子と中性子が相互作用する確率を評価しはじめた。その計算に必要な入力情報のひとつに、中性子と陽子に対する「断面積」があった。断面積によってぶつかる確率が高くなったり低くなったりするため、元素合成に関して重要な問題は、「中性子と陽子は、相手にとってどれだけ大きな標的になるのだろうか?」というものになる。

断面積を知ることは、原爆製造に携わる人たちにとってきわめて重要だった。核爆発を起こさせるには、どれぐらいのウランが必要かを知らなくてはならない。ウラン内部の相互作用に対する断面積が大きければ大きいほど、原子核反応が起こる確率は高くなり、核爆発を確実に起こさせるために必要なウランは少なくてすむのだ。

アルファーにとって重要だったのは、戦後間もなく、原子爆弾計画を取り巻く秘密主義が薄れてきたことだった。つまり、ちょうど彼がビッグバン元素合成の研究に取り組もうとしていた頃、貴重な断面積の測定結果が機密扱いを解かれだしたのである。もうひとつ追い風になったのが、原子力発電の可能性を探っていたアルゴンヌ国立研究所の科学者たちからの情報だった。彼らもまた最新の原子核断面積に関するデータを公表してくれ、アルファーは大喜びだった。

ガモフとアルファーは、計算を遂行し、自分たちの仮説の真偽を問い、断面積を新しい情報で更新し推定値を改良するために三年を費やした。二人のもっとも深い対話のいくつかは、ワシントンDCのペンシルヴェニア通りにある酒場「リトル・ウィーン」で交わされた。この店で一、二杯の酒を飲むことが、初期宇宙を理解する助けになったのだ。これはただならぬ冒険だった。二人は漠然としていたビッグバン理論に、堅固な基礎をもつ物理学を適用し、初期宇宙の条件や出来事を数学的なモデルにしようとしていたのだから。二人は初期条件を推定し、原子核物理学の法則を適用して、時間とともに宇宙がどのように進化し、元素合成のプロセスがどのように進むかを見ようとした。

「世界は5分で始まった」

一ヶ月が過ぎるごとに、アルファーは、ビッグバンから数分後のヘリウム形成が正しくモデル化できていることに自身を深めていった。彼がいっそう確信を強めたのは、自分の計算が現実世界とよく合っているとわかったときだった。アルファーは、ビッグバン元素合成の時期が終った段階で、10個の水素原子核に対し、ヘリウム原子核はおよそ1個存在すると見積もっていたが、これはまさしく天文学者が今日の宇宙に見出している比率と同じだった。つまりビッグバンは、今日われわれが目にする水素とヘリウムの比率を説明することができたのである。アルファーは、他の元素の形成については本格的なモデル化にまだ取り組んでいなかったが、水素とヘリウムの形成を観測された比率で予測しただけでも、重要な意味をもつ大成功だった。なんといってもこれら二つの元素は、宇宙に存在するすべての原子の99.99パーセントを占めているのだから。

これはアルファーにとっては博士論文のための研究だったので、論文を書き上げ、彼が実際に博士号を取得するにふさわしいことを示す必要があった。そして、博士号を取得するための最後のハードルである口頭試問を受ける必要もあった。彼の口頭試問は1948年の春に予定された。

このような論文の口頭試問は一般公開されることも多いが、たいがいは観客動員のある催しにはならず、聴衆は友人や家族、テーマにとくに関心をもつごく少数の専門家ぐらいに限られる。しかしこのときは、27歳の新米が大躍進を遂げたという知らせがワシントン中に広まったため、アルファーは新聞記者を含む300人もの聴衆の前で自分の主張を擁護することになった。口頭試問が終わる頃には、試験管たちは、アルファーには博士号を受ける資格があることを十分に納得していた。

一方、集まった記者たちは、アルファーの発言中のひとことに格別の注目を向けた――水素とヘリウムを作り出した初期宇宙の元素合成は、わずか300秒しか続かなかったということだ。そしてこのひとことが、それから数日間、アメリカ中の新聞の見出しをかざることになった。1948年4月14日、『ワシントン・ポスト』紙は、「世界は5分で始まった」と大々的にこれを取り上げた。4月26日の『ニューズウィーク』誌には同じ話題が載ったが、他の元素を作ることも考慮して、時間は少々引き延ばされた。「この理論によれば、すべての元素は一時間のうちに原初の液体から作り出され、それ以降、自ら組み替えを行いながら星や惑星や生命を作り上げている物質になった」 しかし実際には、アルファーは水素とヘリウム以外のより重い元素についてはほとんど何も言わなかった。

水素とヘリウムより重い原子核の生成を説明できない

後年、アルファ=ベータ=ガンマ論文と呼ばれることになるこの仕事は、ビッグバンvs永遠不変の宇宙観との論争におけるひとつの一里塚だった。この論文は、ビッグバンがあったとして、その後に起こった原子核反応は実際に計算でき、それゆえこの宇宙創造理論は検証可能であることを示した。ビッグバン派は、宇宙の膨張と、水素とヘリウムの存在比という二つの観測事実を挙げて、ビッグバン・モデルはそれらと矛盾しないことを示すことができたのである。

しかしガモフとアルファーはまもなく、この研究は袋小路だということに気がついた。ビッグバン直後の環境では、ヘリウムより重い原子核は作れそうになかったのだ。

最大の難関は、いわゆる五核子のクレパスだった。「核子」とは、原子核を構成する陽子と中性子をひっくるめた名称である。普通の水素=一核子、重水素=二核子、三重水素=三核子、普通のヘリウム=四核子、である。この次に重い原子核は五個の核子を含むことになるが、そのような原子核は、核力による複雑な相互作用の結果として、本来的に不安定であるため存在できない。しかし不安定な五核子核を越えてしまえば、炭素(普通は十二核子)、酸素(普通は十六核子)、カリウム(普通は三十九核子)など、安定な原子核の領域が広がっている。

なぜ五核子の原子核がないことが、ガモフとアルファーにとってそれほど重大な問題だったのだろうか? それは、炭素やその先にある重い元素へと続く元素合成の道にできたこのクレパスには、どうやら橋を架けられそうにないことが明らかになったからだ。軽い幻視核を重い原子核に変換する径路には、いくつかの中間ステップがあり、その中にひとつでも許されないステップがあれば径路全体がブロックされてしまう。

ビッグバンの遺産、今も残る宇宙創造から30万年後の光

アルファーとハーマンは新しい共同研究を始めるにあたって、まずビッグバン・モデルに従って初期宇宙の歴史を見直してみることにした。ごく初期の宇宙はまったくの混沌状態で、莫大な量のエネルギーに満ち、物質の進化といえるようなものはまったく起こらなかった。それに続く数分間「熱くもなく、冷たくもなく、ちょうど良いかげん」で、この時期にヘリウムやその他の軽い原子が作られた。この重要な時期を過ぎると、宇宙の温度が下がりすぎるために核融合は起こらなくなる。

核融合が起こるには温度が下がりすぎたとはいえ、宇宙はまだざっと百万度という高温だったので、すべての物質は「プラズマ」と呼ばれる状態だった(プラズマ→気体→液体→固体)。物質がプラズマ状態だと、温度がきわめて高いため、原子核は電子をつなぎとめておくことができず、原子核と電子がばらばらに混じり合っている。プラズマという状態があることを知らない人は多いが、たいていの人は毎日プラズマを作り出している。蛍光灯にスイッチを入れると、内部のガスはプラズマになるのだ。生まれてから一時間後の宇宙はまだ、原子核と自由電子からなるプラズマのスープだった。

宇宙にはもうひとつ、圧倒的な光の海という要素があった。しかし意外なことに、宇宙の誕生に立ち会うのは、それほど明るい経験ではない。なぜなら何も見えなかったからだ。光は、電子などの荷電粒子とすぐに相互作用するため、プラズマの粒子にぶつかっては跳ね返され、結果として宇宙は不透明だった。この多重散乱のせいで、プラズマは霧のように振る舞っただろう。霧の中を車で走っていると、前方の車は見えない。なぜなら前方の車からやってくる光は、細かな水の粒子によって何度も散乱され、光がことらに届くまでに幾度となく向きを変えられてしまうからだ。

二人は、時間とともに宇宙が膨張するにつれて、光の海とプラズマはどうなっただろうかと考えた。そして二人が気づいたのは、宇宙が膨張すれば、宇宙に満ちていたエネルギーはより大きな体積に広がるから、宇宙に含まれるプラズマはじりじりと冷えていくということだった。そこで二人の若き物理学者は、温度が下がってプラズマ状態が存続できなくなる時刻があるはずだと考えた。そのとき、電子は原子核にくっつき、安定した中性の水素原子とヘリウム原子ができるだろう。プラズマから原子への転移は、水素とヘリウムではおよそ摂氏三千度で起こる。二人は、この温度まで宇宙が冷えるには30万年ほどかかるだろうと推定した。原子核と電子が結びつくこの出来事は、一般に「再結合」と呼ばれている。(再結合という呼び名は、それ以前に電子と原子核が結合していた時期があったかのような印象を与えるので、少々紛らわしい。実際にはそんな時期はなく、これが初めての結合だった)。

再結合が起こると、宇宙は気体の中性子で満たされた。中性なのは、負の電荷をもつ電子と正の電荷をもつ原子核が結合したためである。これによって、宇宙を満たしていた光の振る舞いは劇的に変わった。光はプラズマ状態の荷電粒子とは容易に相互作用するが、気体の状態の中性子とは相互作用しない。つまりビッグバン・モデルによれば、再結合が起こることにより、宇宙の歴史で初めて、光線は何ものにも妨げられずに宇宙空間を突き進めるようになったのだ。そのようすはまるで宇宙の霧が突然晴れたかのようだったろう。

もしもビッグバン・モデルが正しければ、そしてもしもアルファーとハーマンが正しく物理を理解しているなら、再結合の瞬間に存在していた光は今も宇宙を飛び回っているはずだった。なぜなら光は、宇宙にちらばっている中性の原子とはほとんど相互作用できないからだ。言い換えると、プラズマ時代の最後に放たれた光は、化石として今日に残っているはずなのである。この光は、まさしくビッグバンの遺産といえるだろう。

宇宙創造から30万年後の光が今も残っているというのは、すでに知られている現象に合わせた説明ではない。この光の残照は、ビッグバン・モデルだけにもとずいた明確な予測であり、アルファーとハーマンは、モデルの成否を決する検証法を提供したことになる。

アルファーとハーマンは、再結合の瞬間に放たれた大量の光の波長は、およそ千分の一ミリメートルだったと推定した。この波長は、プラズマの霧が晴れたときの宇宙の温度、摂氏三千度から直接引き出されたものである。しかしこのとき放出された光の波はすべて、再結合以降、宇宙が膨張したために波長が延びているだろう。アルファーとハーマンは自信をもって、ビッグバンの光の波長は今日ではざっと一ミリメートルに伸びているだろうと予測した。この波長は人間の目には見えず、光のスペクトルの中ではいわゆるマイクロ波領域にある。

アルファーとハーマンは具体的な予測をした。宇宙は波長一ミリメートルの微弱なマイクロ波の光に満ちているはずだと。また、再結合瞬間には光は宇宙のあらゆる場所に存在していたのだから、マイクロ波の光はあらゆる方角からやってくるはずだった。

残念ながら、アルファーとハーマンは完全に無視されてしまった。二人が提案した宇宙背景放射を本気で探そうという者は、一人としていなかったのだ。

『僕らは星のかけら――原子をつくった魔法の炉を探して』

ビッグバン・モデル最大の難関は元素合成、とくに重い元素の合成だった。ジョージ・ガモフはかつて自信たっぷりにこう言った。「元素を作るには、鴨とローストポテトの一品を作るほどの時間もかからなかった」 つまり彼は、ビッグバンから一時間のうちに、すべての原子核が合成されたと考えていたのだ。しかしガモフ、アルファー、ハーマンがどれだけ頑張っても、ビッグバン直後の温度は非常に高かったにもかかわらず、軽いほうから二つの元素である水素とヘリウムを別にすれば、元素を合成するメカニズムは見出せなかった。

この謎を解くうえで最大の貢献をしたのがフレッド・ホイルである。ホイルは研究者として駆け出しの頃から元素合成の問題を考えていたが、どうにか最初の一歩を踏み出すことができたのは、ようやく1940年代末になってからだった。彼の研究が進展を始めるきっかけとなったのは、星がその一生のさまざまな時期を経過するとき、いったい何が起こるだろうかと考えてみたことだった。

中年の星は一般に安定していて、水素を融合させてヘリウムを作ることで熱を生み出し、光のエネルギーを放射することで熱を失っている。それと同時に、星の全質量は自らの重力のために内側に引っ張られるが、星の中心部の高温によって生じる莫大な外向きの圧力がこれに対抗している。

ホイルが知りたかったのは、このバランスが崩れたときにどうなるかだった。とくに、星の一生の終わり近く、水素の燃料が尽きはじめたときに何が起こるかに興味があった。燃料が足りなくなれば、当然、星の温度は下がる。温度が下がれば外向きの圧力は小さくなり、重力が勝って星は収縮を始める。しかしホイルは――ここが決定的に重要なのだが――この収縮だけで話が終わりではないことに気づいたのだ。

星が内向きに崩壊しはじめると、星の中心部が圧縮されて温度が上がり、外向きの圧力が高まって崩壊を食い止める。圧縮されたときに温度が上がるのにはいくつかの原因があるが、そのうちのひとつは、中心部が圧縮されたために核反応が促進され、熱の生成量が増えることだ。

生成される熱の量が増えると、星はひとまず安定を取り戻すが、それはあくまで一時的なものでしかない。星の死は少し先延ばしになっただけなのだ。星はさらに燃料を消費続け、残り少ない燃料がふたたび尽きてくる。燃料が足りなくなればエネルギーは生み出せないから、中心部の温度は下がりはじめ、ふたたび崩壊が始まる。するとまたしても中心部の温度が上がり、一時的に崩壊を食い止めるが、それも燃料が足りなくなるまでのことだ。崩壊が止まっては再開するこのプロセスを経て、多くの星はゆっくりと死に向かって進んでいく。

ホイルは、さまざまな星(小さな星、中ぐらいの星、大きな星、種族Ⅰ、種族Ⅱなど)を調べる仕事に着手し、数年間この研究に打ち込んだすえに、各種の星が一生の終わりに近づいたときに、内部の温度と圧力がどのように変化するかをすべて計算してのけた。わけても重要だったのは、星が死に向かって激しい崩壊を繰り返すとき、それぞれの段階でどんな核反応が起こるかを調べ上げたことだ。そしてホイルは、極端な高温と高圧がさまざまな組み合わせになるために、幅広い領域の原子核ができるという決定的な事実を明らかにした。

こうして、どのタイプの星も一生のあいだに内部の条件が劇的に変化するため、何種類かの元素を合成するるつぼになれることがわかってきた。さらにホイルの計算は、われわれが目にするほぼすべての元素について、なぜ今日のような存在比になっているか――なぜ酸素や鉄が豊富で、金やプラチナが稀なのか――までも説明した。

非常に重い星は例外的なケースで、いったん崩壊が始まると止まらなくなり、あっというまに死んでしまう。これが超新星で、普通の星なら百億個の明るさを上まわるエネルギーが放出されることもある。ホイルは、超新星の極端な環境によってめったに起こらない核反応が起こり、とくに重くてめずらしい原子核が作られることを示した。

ホイルの研究がもたらしたもっとも重要な成果のひとつは、星の死が元素合成プロセスの終着駅ではないとわかったことである。星が激烈な崩壊を起こすと途方もない衝撃波が生じ、それが星を吹き飛ばして、星を構成していた元素を宇宙にばらまく。ここで重要なのは、ばらまかれた元素の中には、星の一生の最終段階になって起こる核反応で合成されたものもあることだ。これらの星くずが、すでに死んだ星から吐き出されたくずや、その他宇宙に漂っているあらゆるものと混じり合い、最終的には凝縮して新しい星になる。こうしてできた第二世代の星は、最初から重い元素を含んでいるため、元素合成という観点からは一歩先んじたスタートを切る。つまり、これらの星が爆発して死ぬときはには、もっと重い元素が合成されるのだ。われわれの太陽は、おそらく第三世代の星だろうと考えられている。

マーカス・チャウンは、その著書『僕らは星のかけら――原子をつくった魔法の炉を探して』の中で、星の錬金術の重要性について次のように述べた。「われわれが生きるために、十億、百億、それどころか千億の星が死んでいる。われわれの血の中の鉄、骨の中のカルシウム、呼吸をするたびに肺に満ちる酸素――すべては地球が生まれるずっと前に死んだ星たちの炉で作られたものなのだ」 ロマンチストは、自分は星くずでできているのだという考えが気に入るだろう。冷笑家は、自分は核廃棄物だと考えるほうを好むかもしれない。

ビッグバン元素合成の文脈でも、星の元素合成の文脈でも解けない問題

ホイルは宇宙最大の謎に挑み、ほぼ完璧な答えを得た。だが、ひとつ未解決の問題が残されていた。ヘリウムが炭素になる反応が実際にどうやって起こるかを解明できなかったのだ。これは由々しき問題だった。なぜなら、ほかのすべての核反応はどこかのステップで炭素を必要とするため、炭素の合成が説明できなければ、ほかのすべての反応も説明できなくなってしまうからだ。

ホイルがぶつかった障壁は、ガモフ、アルファー、ハーマンがビッグバンの直後にヘリウムが重い元素に転換されるしくみを解明しようとして道を阻まれた障壁とまったく同じものだった。ガモフのチームはビッグバン元素合成という文脈でこの問題を解くことができず、ホイルは星の元素合成という文脈でこの問題を解くことができなかった。

炭素のなかでもっとも普通に存在するのは、六個の陽子と六個の中性子、合わせて十二個の核子からなる炭素12である。ヘリウムのなかでもっとも普通に存在するのは、二個の陽子と二個の中性子、合わせて四個の核子からなるヘリウム4である。したがってホイルの問題を突き詰めれば、三個のヘリウム原子核を一個の炭素原子に変換するメカニズムはあるのか、ということになる。

ひとつの可能性として、二つのヘリウム原子核が融合してベリリウム8の原子核を作り、このベリリウム原子核がまた別のヘリウム原子核と融合して炭素を作るというものがあった。しかしベリリウム8を経由して炭素に至る経路には二つの障壁があった。第一の障壁は、ベリリウム8がきわめて不安定で、すぐに壊れてしまうこと。第二の障壁は、ヘリウムとベリリウムから炭素を作る反応には、わずかな質量差のためにかなりの時間がかかることだった。これら二つの障壁は互いにからまりあって状況を悪化させ打開の方策はなさそうに思われた。しかし、彼は科学史上もっとも大きな直感の飛躍のひとつを成し遂げたのである。

どの原子核にも標準的な構造はあるが、ホイルは、陽子と中性子の配置のしかたは一通りではないことを知っていた。炭素原子核を構成する十二個の粒子を、それぞれ球とイメージしてみよう。一つは、六個の粒子が長方形に並んだ層が上下に重なっている。もう一つは、三個の粒子が三角形に並んだ層が、横方向に四つ重なっている(単純化したイメージ・モデル)。一つ目の配置が普通の炭素だとしよう。二つ目の配置は、いわゆる「励起(れいき)」状態の炭素である。普通の炭素にエネルギーを投入してやると、励起状態の炭素にすることができる。エネルギーと質量は等価だから、励起状態の炭素原子核は、普通の炭素原子核よりもわずかに質量が大きい。そこでホイルは、炭素12には、ちょうど都合のよい質量(ベリリウム8の質量とヘリウム4の質量の和)を持つ励起状態が存在するはずだと結論した。もしもそんな炭素原子核が存在すれば、ヘリウム4とベリリウム8はすばやく反応して炭素12になることができるのだ。その場合、ベリリウム8の寿命は非常に短いとはいえ、それなりの量の炭素12を作れるはずだった。

これで一件落着だ!

だが、科学者は頭の中で問題への答えを考えさえすればいいわけではない。ホイルは、その質量をもつ炭素12の励起状態が存在すれば、炭素やそれより重い元素への扉が開かれることを知ったが、だからといってその励起状態が存在することにはならない。

ホイルは、この宇宙に彼が存在しているという事実を前提に置いた。また彼は、自分は炭素を基礎とする有機生命体だという点に注目した。したがって、炭素は宇宙に存在しなければならず、それゆえ炭素を生成する方法が存在しなければならない。しかし、炭素を生成する唯一の方法は、炭素の特定の励起状態が存在するかどうかにかかっている。結果として、その励起状態は存在するはずだ、と彼は結論した。

論理だけで予測された炭素12の励起状態を探す

1953年、この炭素の励起状態が存在すると予想した直後、ホイルは自分の理論を検証する機会を得た。ホイルは世界でもっとも偉大な実験原子核物理学者の一人と評判のウィリアム・アルフレッド・ファウラーの研究室に入っていくと、普通の状態から7.65MeVだけ上に炭素の励起状態があるはずだという自分の予測のことを話した。それまで誰一人として、それほど正確に原子核の励起状態を予測した者はいなかった。なぜなら、励起状態のエネルギーを求めることは、物理学的にも数学的にも非常に難しかったからだ。しかしホイルは数学や物理学ではなく、純然たる論理だけでそれを予測していた。ホイルはファウラーに、自分が予測した炭素12の励起状態を探し、自分の正しさを証明してもらいたかったのだ。

ホイルとはこれが初対面だったファウラーはにべもない対応をした。炭素12はすでに詳細に測定されており、7.65MeVに励起状態があるという記録はない、と答えた。ホイルはそれでも引き下がらず、7.65MeVの炭素12の励起状態を探すだけなのだから、ファウラーならほんの数日もあればこの理論を検証できるだろうと持ちかけた。ホイルはこう言った。もしも自分が間違っていたら、ファウラーはスケジュールの遅れを取り戻すために幾晩か夜更かしすることになるだろう。しかしもしも自分が正しければ、ファウラーは原子核物理学における最大の発見のひとつを成し遂げることになる、と。ファウラーはこの単純なコストパフォーマンスに説き伏せられた。

十日をかけて炭素12を調べた結果、ファウラーのチームは新しい励起状態を発見した。それはまさにホイルが言ったとおりの7.65MeVにあった。

ホイルはついに、ヘリウムがベリリウムに、そして炭素に変換されるメカニズムを明らかにし、それを証明した。二つのヘリウム原子核が融合してベリリウム8の原子核を作り、このベリリウム原子核がまた別のヘリウム原子核と融合して炭素を作る反応により、炭素がおよそ二億度で合成されることを確かめたのだ。それはゆっくりとしたプロセスではあるが、何十億もの星が何十億年もかければ、かなりの量の炭素を作ることができる。

炭素の生成に説明がついたことで、宇宙に存在する他のすべての元素を生み出した核反応の出発点が確認された。こうしてホイルは元素合成の問題を解決した。

元素合成の始まりと終わり

ビッグバンによる元素合成は、リチウムやホウ素など、ヘリウムよりも重く、炭素よりも軽い元素についての新しい計算結果によってもさらに裏づけを得た。この計算によると、リチウムとホウ素は星の内部では合成されないが、ビッグバン直後の高温の中で、水素がヘリウムに転換されるのとほぼ同時に作ることができた。実際、ビッグバン直後に生成されるリチウムとホウ素の存在比を理論的に予想したものは、今日の宇宙に観測される存在比とぴったり一致した。

元素合成は、ビッグバン直後の高温の中で起こった軽い原子核の生成に始まり、超新星による重い原子核の生成で終わる。

ビッグバン・モデルのこだま

電波天文学の場合、遠くの銀河からやってくる信号は非常に弱いため、雑音が最大の関心事になる。そこでペンジアスとウィルソンは雑音レベルをチェックしようと、電波望遠鏡を電波銀河のない空の領域に向けてみた。そのあたりからは、電波信号は基本的に来ないはずだから、検出されたものはすべて雑音と考えることができたのだ。雑音は無視できるほど小さいだろうと思い込んでいた二人は、以外にも気がかりなほどの雑音が検出されて驚いた。この雑音レベルにはがっかりさせられたが、しかし大きいというほどの雑音ではなかったので、計画していた測定に重大な支障はなさそうだった。しかしペンジアスとウィルソンは可能なかぎり精度の高いサーヴェイをしようと心に決めていたので、すぐさま雑音を突き止めにかかり、可能ならばその雑音を削減するか、あるいは完全に取り除こうとした。

一年をかけて電波望遠鏡を調べ上げ、掃除をし、配線もやりなおした結果、雑音レベルは減少した。二人は膨大な時間と努力と資金をつぎ込んで電波望遠鏡に入ってくる雑音の理由を洗い出し、できるかぎり削減しようと努めてきたが、それでもなお、たえまなく入ってくる正体不明の雑音があった。何が、どこで、どうやって出しているかはわからなかったが、二十四時間あらゆる方角からやってくる電波があったのだ。

くやしさを噛みしめる二人の電波天文学者の知らないことではあったが、このとき彼らは偶然にも、宇宙論の歴史上もっとも重要な発見のひとつに出くわしたのである。あらゆる方角からたえまなくやってくるその雑音は、ビッグバンの名残――宇宙が膨張をはじめてまもない時代のこだまだということに、二人はまったく気づかなかったのだ。やがて明らかになるように、腹立たしいその「雑音」は、ビッグバン・モデルの正しさを示すもっとも説得力のある証拠だったのである。

ガモフ、アルファー、ハーマンは、時間とともに宇宙が膨張して、空間自体が伸びるにつれて、原初の光の波長も伸びたはずだと予測した。宇宙が三十万歳だったときに霧の中から現れた光の波長は、千分の一メートルほどだった。しかしビッグバン・モデルによれば、宇宙はそれから今日まで膨張して千倍ほどになっているから、そのとき出てきた光の波長も今では一ミリメートルほどになっているはずだった。この長さの波長は、電磁スペクトルの中では電波の領域に入る。

ビッグバン・モデルのこだまは電波に姿を変えて、雑音としてペンジアスとウィルソンの電波望遠鏡に検出されたのである。この波長の電波はとくにマイクロ波と分類されるため、ビッグバンのこだまは宇宙マイクロ波背景放射(CMB放射)として知られるようになった。

ガモフ、アルファー、ハーマンは1948年にCMB放射の存在を予測したが、そのことは十年ほどですっかり忘れられてしまった。1964年、ペンジアスとウィルソンがCMB放射を発見したが、その素性には気づかなかった。それとほぼ同じ頃、ディッケとピープルズがCMB放射の存在を予測したが、すでに1948年に予測されていたことは知らなかった。結局、ペンジアスから雑音のことを聞いていたマサチューセッツ工科大学のバーナード・バーグが、ディッケとピープルズによる予測のことを伝えたことによって、突如としてすべてが収まるべきところに収まった。

ペンジアスは、自分の電波望遠鏡につきまとっていた雑音がどこからやってきたのか、それがどれほど重大な意味をもつかを理解した。あらゆる方角からやってくる雑音の謎は解けた。その雑音は、鳩とも、ぞんざいな配線とも、ニューヨークとも関係がなく、宇宙創造と関係があったのだ。

ベンジアスはディッケに電話をかけて、プリンストン。チームの論文に書いてあるCMB放射を検出したと告げた。ディッケは愕然とした。なんといってもベンジアスの電話のタイミングには驚かされた。ディッケはまさにそのとき、プリンストンにCMB放射検出器を建設すべく召集されたランチタイム会議の真っ最中だったのだ。ディッケとピーブルズは自分たちの予測を自ら検証したいと考えたのだが、ペンジアスとウィルソンによって予測が証明された今となっては、そのための装置には意味がなくなった。ディッケは受話器を置くと、会議のメンバーのほうを振り返ってこう言った。「みんな、われわれは出し抜かれたよ!」 さっそくその翌日、ディッケとそのチームはペンジアスとウィルソンを訪ねた。そして電波望遠鏡を検分し、データを吟味し、出し抜かれたことを確認した。CMB放射発見の競争はこうして終わり、ペンジアスとウィルソンのベル研究所チームはそうとは知らずにプリンストン・チームを打ち負かしたのである。

1965年の夏、ペンジアスとウィルソンはこの結果を『アストロフィジカル・ジャーナル』に発表した。この論文には、何を観測したかだけが正確に述べられていた。彼らの観測をCMB放射とはっきり結びつけるという仕事は、同じ号に姉妹編として論文を発表したディッケとそのチームに任された。それはみごとな結びつきだった。ディッケのチームは、理論はもっていたが観測データをもたず、一方ペンジアスとウィルソンは、観測データはもっていたが理論がなかった。プリンストンとベル研究所の結果を結びつけることにより、頭痛の種だったやっかいな問題が、途方もない大勝利に転じたのである。

ビッグバン・モデルは、CMB放射が存在すること、そして今日その波長がいくらになっているはずであるかをはっきりと予測した。CMB放射の発見は、宇宙は数十億年前に途方もない大爆発――すなわちビッグバン――で始まったことを証明する決定的な証拠になるものと考えることができた。

「信号は告げる――宇宙は“ビッグバン”で始まった」

1965年5月21日『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面トップに掲げられた、「信号は告げる――宇宙は“ビッグバン”で始まった」

今夜、外に出かけて帽子を取れば、頭にはビッグバンから届いたかすかな温もりが降り注いでくるだろう。高品質のFM受信機を手に入れて、周波数を局から外れたところに合わせれば、シャーシャーという音が聞こえるだろう。これまでにも、そんな音が流れ込んで来るのを聞いたことがあるような気がする。その音を聞いていると、なぜか心が静まってくる。それは打ち寄せる波の音のようにも聞こえる。今耳を傾けている音のうち約0.5パーセントほどは、数十億年の過去からやってきたものなのだ。

「オルバースのパラドックス」

さかのぼって1823年、科学者たちがまだ宇宙は無限で永遠だと思い込んでいた時代に、ドイツの天文学者ヴィルヘルム・オルバースは、夜空はなぜ星の光で煌々と輝いていないのだろうかと考えた。無限の宇宙には無限の星が含まれているはずであり、宇宙の年齢が無限ならば、星の光がわれわれのところに届く時間は無限にあったことになる。それではなぜ、夜空はあらゆる星からやってくる無限の光に満ちていないのだろうか?

宇宙が無限の光で満ちていないのは明らかなので、この謎は「オルバースのパラドックス」と呼ばれている。これにはいくつもの説明があるが、一番説得力があるのはビッグバンによる説明だろう。宇宙がわずが数十億年前に作られたのなら、その時間内でわれわれのところまで光が届く星は、ある体積内に含まれるものに限られる。なぜなら光は秒速30万キロでしか進めないからだ。つまり、宇宙の年齢が有限で、光の速度も有限なら、夜空の光の量は有限だという結論になるのである。そして実際、われわれが目にする夜空はそうなっている。

「大爆発で生まれた宇宙がいかにして銀河を形成するように進化したのか」

銀河形成の問題について、反ビッグバン・モデル派のホイルは、そんな大爆発が起これば宇宙に存在していた物質はすべて吹き飛ばされ、希薄で均一な物質分布をもつ宇宙ができたはずだが、それは物質のほとんどが銀河に集中している現実の宇宙とは似ても似つかない、したがってビッグバンは馬鹿げている、とクレームをつけた。

ビッグバンを支持する宇宙論研究者たちは、初期宇宙はきわめて均一ではあったが、完全に均一ではありえなかっただろうと考えて自らを元気づけた。初期宇宙といえども多少の乱れはあったに違いないという点では、彼らは楽観的だった。そして、どれほど小さかろうと密度のゆらぎがありさえすれば、必要なだけの進化は起こるだろうと考えたのだ。

少しだけ密度の高い領域があると、重力のために物質がそこに引き寄せられ、その領域の密度はいっそう高くなる。そしてまた重力が強くなり、さらに物質が引き寄せられていく。このプロセスが次々と続いて、いずれは最初の銀河が形成されただろう。

したがって、ビッグバンが紡ぎ出す物語は次のようなものになる。初期の宇宙は極度になめらかで均一な物質のスープだった。その中のごく微小な密度のゆらぎが引き金となって、数十億年の時間を経て、密度の高い銀河と密度はほとんどゼロのからっぽの空間という、途方もない密度格差をもつ宇宙ができあがった。

そんな途方もない変化が本当に起こったことを証明するためには、銀河形成の引き金となった密度のゆらぎが存在したという証拠を見つける必要があった。密度のゆらぎという動かぬ証拠がない限り、ビッグバン・モデルはいつまでも、ホイルのような少数の定常宇宙モデル支持者から批判を受け続けるだろう。

初期宇宙に存在したゆらぎの痕跡を探して

初期の宇宙に存在したゆらぎの痕跡を探すべきところとしてまず思いつくのは、もっとも古い宇宙の遺物、すなわちCMB放射だった。宇宙の歴史のある時点で放出されたこの放射は、今日では化石の役割を果たし、宇宙創造からおよそ30万年後、原子が初めて形成されたときの宇宙のようすを伝えてくれる。そこで天文学者たちは、宇宙のさまざまな方角からやってくるCMB放射を調べれば、波長にわずかなゆらぎが見つかるだろうと期待した。

いまや天文学者たちは、しだいに精度を上げながらこの放射を測定し、方角によって波長にわずかな差異があることを示そうとしはじめた。しかし残念ながら、CMB放射はどの方角でも同じように見えた。初期宇宙はいたるところほぼ同じだったろうから、CMB放射もほぼ均一だろうと予想されてはいたが、測定結果によれば、初期宇宙はほぼではなく、完全に均一らしかった。ごくわずかな波長のゆらぎがあるらしき痕跡すらも認められなかったのだ。

1970年代になると装置類の精度が上がり、CMB放射の差異を百分の一の精度で検出できるまでになったが、それでもゆらぎが見つかる気配はなかった。したがって波長のゆらぎは、たとえ存在したとしても百分の一より小さいことになるが、それほど小さな波長のゆらぎは地球上では検出できそうになかった。

斬新なひとつの解決策として、ヘリウムを充填した巨大な高高度気球にCMB検出器を積み込み、地表から数十キロの上空に上げるというものがあった――そこは事実上、宇宙の縁である。カリフォルニア大学バークレー校のジョージ・スムートは、CMB放射のゆらぎを検出することに取り憑かれた男で、すでに何度か気球実験に参加していた。しかし1970年代の半ばには、スムートはこの方法に見切りをつけた。

スムートは、高高度に耐えられ、なおかつ上空に長時間留まれる飛行機を検討し始めた――この二つの条件はどちらも、CMB放射を検出するには重要なポイントだった。1976年、冷戦時代の伝説の偵察機U‐2による飛行機観測が始まった。しかし、ビッグバン・モデルが必要とする波長のゆらぎは認められなかった。もしもビッグバン・モデルが正しければ、ゆらぎは必ず存在するはずだったが、誰もそれを見出せなかったのだ。スムートの装置は非常に感度が高かったので、見出せないということは、波長のゆらぎは千分の一よりも小さいことを意味していた。それほど小さいゆらぎは、飛行機観測でも検出するのは難しかった。というのは、検出器より高いところにもまだ大気が存在し、きわめて精密な測定をぼやけさせてしまうからだ。

スムートは偵察機による飛行機観測をしていた頃から、CMB放射を検出するには人工衛星を使うしかないのではないかと考えるようになっていた。さかのぼって1974年のこと、NASAは科学者を対象に、科学調査用人工衛星エクスプローラーで行う実験のアイディアを募集した。ジョージ・スムートを含むバークレーのチームは、人工衛星にCMB放射検出器を積み込むという案でこれに応募した。だが、この案を出してきたのは彼らだけではなかった。カリフォルニア州パサデナにあるジェット推進研究所のグループとNASAの野心的な28歳の宇宙物理学者ジョン・マザーも、同様の計画を提出していたのだ。

NASAは、宇宙論に重大な意味をもつこの実験をぜひとも支援したいと考え、三つの計画案を統合したうえで、実行可能性を探る予備調査に資金を出すことにした。これがのちに宇宙背景放射探査衛星(COBE、コービーと読む)と呼ばれることになる共同研究の始まりだった。

最終的にCOBE計画にゴーサインが出たのは1982年、提案から8年後のことだった。いよいよ衛星の製作が始まり、COBEは1988年のスペースシャトルに積み込まれる予定となった。ところがその4年後、プロジェクト全体が危機に陥った。1986年1月28日、スペースシャトル・チャレンジャーが打ち上げ直後に爆発し、7人の乗務員が死亡するという事故が起きたのだ。「・・・・・シャトルが一機失われ、三機は地上に釘づけにされ、NASAのスケジュールはめちゃめちゃになった。何も飛ばず、COBEがどれほど遅れるかは見当もつかなかった。何年も遅れかねない状況だった」

天文学者とエンジニアたちはCOBE衛星の設計と製作に10年以上を費やしてきたが、いまやその未来は不透明になった。たとえシャトル打ち上げが再開されても、優先順位の高い任務はほかにいくらでもあり、COBEの順位はずっと下がってしまいそうだった。実際、1986年末の段階で、NASAは正式にCOBEはスペースシャトルの発射プログラムからはずされたと発表した。

COBEチームはシャトルの代わりになる打ち上げロケットを探し始めた。見込みがありそうだったのは、唯一、旧式の使い捨てロケットだけだった。その中でも一番良さそうなのは欧州宇宙機関(ESA)が開発した商用衛星打ち上げロケット、アリアンだったが、NASAはCOBEに出資しており、外国のライバルにこの衛星を打ち上げる栄誉をさらわれるのを指をくわえて見ているつもりはなかった。あるCOBEチームのメンバーはこう語った。「フランス側と何度か話し合いをもったが、NASAの幹部にそれが知れ、やめるよう命じられた――やめなければ身体に危害を加えるとも脅された」 驚くにはあたらないが、ロシア人に相談するのはまるで問題外だった。

ロケット業界は全般的に斜陽だったので、選択肢は非常に限られていた。COBEチームはマクダネルダグラス社にも相談を持ちかけてみたが、同社は人工衛星打ち上げ用のデルタロケットの生産ラインをすでに停止していた。いくつか残っていたスペアのロケットは、新しい戦略防衛構想(いわゆるスターウォーズ計画)の兵器テストで標的として使われる予定になっていた。だが、COBEの窮状を聞いたデルタロケットのエンジニアたちは、自分たちが丹誠こめて作ったロケットに、標的になるよりもましな使い道があるとわかって大喜びした。彼らはすぐに協力を申し出てくれたが、しかし克服すべき問題がひとつ残っていた。

設計通りのCOBE衛星はほぼ5トンの重さがあったが、デルタロケットはその半分の搭載能力しかなかったため、COBEは大幅な減量を強いられたのだ。いっそう厳しいことに、設計のやり直しと衛星の作り直しを、3年以内に完了させなければならなかった。なぜなら1989年にロケット打ち上げのチャンスがあり、それに間に合わなければさらに重大な遅れにつながりそうだったからだ。

数百人の科学者とエンジニアのチームが、宇宙探査の歴史上もっともきつい締め切りのひとつになんとか間に合わせようと、週末も投げ出して四六時中仕事に取り組んだ。そして1989年11月18日の朝、計画案が初めてNASAに提出されてから15年を経て、COBE衛星はついに打ち上げを待つのみとなった。

COBEチームは、1948年にCMB放射を初めて予測したラルフ・アルファーとロバート・ハーマンをおろそかにしないよう格別の配慮をし、打ち上げを見に来るよう、二人をカリフォルニアのヴァンデンバーグ空軍基地に招いた。二人の理論家は、移動式のロケット発射整備塔に上がり、打ち上げ直前にロケットのノーズコーンを手でポンと叩くことまでさせてもらった。打ち上げに集まった数百人の中にはスムートもいた。彼の野心のすべては、COBEとデルタロケットにかかっていた。

地球に送られてきたデータの最初の解析からは、三千分の一レベルでCMB放射にはいかなるゆらぎも見つからなかった。第二回目のデータ収集が終わったときには、一万分の一レベルでもゆらぎは見つからなかった。

COBEチームのDMR検出器は、1990年と1991年にも引き続きデータを収集し、1991年12月までには七千万回に及ぶ測定を行って、はじめて完全なマッピングを終えた。そしてわずか十万分の一のゆらぎが姿を現した。CMB放射が示したゆらぎは全天でごく微小なものだったが、決定的に重要なのは、ゆらぎが存在することだ。CMB放射の波長のゆらぎは大きさもちょうどよく、初期宇宙には銀河形成の種となるに十分な密度のゆらぎが存在したことを示していた。

DMR検出器を担当したチームのスポークスマンだったスムートは、集まった大勢の人たちに重大な結果を発表するという栄誉を担った。ペンジアスとウィルソンがCMB放射を発見してから四半世紀を経て、ついに待望のゆらぎが固定されたのだ。集まった聴衆は、宇宙論のパズルがすべて収まるところに収まっていくさまを畏敬の念をもって見つめた。ビッグバン・モデルはたしかに銀河形成を説明することができたのだ。

パラダイム・シフト完了

ビッグバン・モデルを証明するという難事業はこうして終わった。何世代もの物理学者や天文学者や宇宙論研究者たち――アインシュタイン、フリードマン、ルメートル、ハッブル、ガモフ、アルファー、バーデ、ペンジアス、ウィルソン、COBEチーム、その他大勢の人たち――が宇宙創造という究極の問題に取り組み、みごとに目的を達したのだ。その結果明らかになったのは、宇宙は膨張して進化するダイナミックな存在だということ。そして、今日われわれが目にするものすべては、百億年あまり前に起こった高温高密度なビッグバンから生まれたということだった。宇宙論にひとつの革命が起こり、今ここにビッグバン・モデルは受け入れられた。パラダイム・シフトが完了したのである。

ビッグバン・モデルの一部にいずれ組み込まれるだろう理論

しかしだからといって、ビッグバン・モデルが磨き上げられ、すっかり完成したというわけではない。

たとえばこんな問題がある。今日の銀河は、ビッグバンからおよそ三十万年後の宇宙に存在した密度のゆらぎを種として生じたことがわかっている。では、その密度のゆらぎはどうして生じたのだろうか?

また、それとは別の問題として次のようなものもある。アインシュタインの一般相対性理論によれば、空間は平坦か、内側に丸まっているか、外側に広がっているかのいずれかだ。平坦な宇宙では、ちょうど平らで摩擦のない面上をボールがどこまでも転がっていくように、光はどこまでもまっすぐに進んでいく。天文観測によれば、われわれの宇宙はそうやら平坦であるらしい。そこで問題はこうだ。宇宙は曲がっていてもよかったのに、なぜ平坦なのだろうか?

密度のゆらぎはいかにして生じたのか? 宇宙が平坦に見えるのはなぜなのか? これらを説明するひとつの方法が、1979年の末にアラン・グースによって作られた「インフレーション」理論である(残念ながら欧米ではあまり言及されないが、グースよりわずかに早く、現東京大学教授・佐藤勝彦により同等のモデルが提唱され、論文として発表されている)。宇宙のインフレーション理論を考えついたとき、グースは驚きのあまり、「途方もないことに気がついた」とノートに書きつけた。インフレーション理論にはいくつものバージョンがあるが、この理論のエッセンスをひとことで言えば、「宇宙のごく初期、宇宙の誕生から10の-35乗秒後には終了するほど早い時期に、途方もない膨張が起こった」ということになる。インフレーション期と呼ばれるその時期に、宇宙は10の-37乗秒ごとに大きさが二倍になった。つまり、大きさが百回ばかり立て続けに倍々になったのだ。
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インフレーション期を経た宇宙膨張の概念図。図の左端に時空の計量の劇的な膨張が描かれている。>>>宇宙のインフレーションwiki

Photo それぐらいは大したことはないだろうと思うかもしれないが、よく知られた次の物語が教えているように、倍々になることには畏るべき威力があるのだ。その物語によると、あるときペルシャの高官がスルタンに向かって、チェスボードの最初のマスには一粒の米、二番目には二粒の米、三番目のマスには四粒の米、次は八粒、次の次は十六粒というふうに、米粒の数を倍々に増やして置いていった合計の米をいただけますか、と尋ねた。スルタンは、それぐらいでは大した量にはなるまいと考えて、よかろうと答えた。ところが、チェスボードの最後のマス目に置かれる米は、なんと9,223,372,036,854,775,808粒にもなり、スルタンは破産したというのだ。すべてのマス目に入る米粒を合計した数は、このざっと二倍となり、今日世界中で生産されている米の総量を大幅に上まわる。

そんなわけで、インフレーションはほんの一瞬のうちに宇宙を途方もない大きさに拡大し、その後、宇宙の膨張は今日われわれが見るようなゆったりとしたものに切り替わった。インフレーション期の0.0000000000000000000000000000000000001秒は、宇宙のその後に重大な影響を及ぼしただろう。まず第一に、生まれたばかりの宇宙にはほんの小さな密度のゆらぎしかなかっただろうが、インフレーションはそのゆらぎを引き伸ばし、三十万年後に存在していたことがわかっているゆらぎが生じた。そのゆらぎ、とくにほかよりも密度の高い領域が種となって、銀河が形成された。

インフレーションから導かれるもうひとつの結論は、インフレーション以前は平坦ではなかった宇宙が、それ以後はきわめて平坦になったことである。ビリヤードの球の表面はもちろん平らではないが、その玉のサイズが二十七回立て続けに倍々に大きくなったとしたら地球と同じぐらい大きくなり、人間の目には平らな壁のように見えるだろう。それと同様に、インフレーションを起こした宇宙は平坦に見えるはずであり、実際、今日の天文学者が観測する宇宙は平坦であるように見える。

インフレーションは、密度のゆらぎが生じた理由と、宇宙が平坦に見える理由を説明するだけでなく、もうひとつの謎にも光を投げかけた。天文学者たちが天空の反対側を見くらべると、二百億光年以上はなれた二つの領域に強い類似性があるように見える。宇宙論研究者は、それほど遠く離れている領域はもっとずっと違っているはずだと予想していたが、インフレーションによれば、そうはなっていない理由を説明することができたのだ。インフレーションが起こる前は、宇宙の二つの領域はたいへん接近していたから、よく似ていただろう。その後、インフレーションの激烈な膨張が起こり、二つの領域は突如として遠く引き離された。しかし分離があまりにも急激だったため、それ以前の類似性は失われなかったと考えられるのだ。

ダースのインフレーション理論は今もまだ工房に置かれているが、多くの宇宙論研究者は、いずれこの理論はビッグバン・モデルの一部に組み込まれるだろうと考えている。

宇宙の未来はどうなるのか?

ビッグバン以降、宇宙はずっと膨張し続けてきたが、宇宙に存在するすべての質量は、物質を内側に引き寄せ、膨張を減速させるように作用するはずである。したがって宇宙の未来には三つの可能性がある――このことを1920年代に初めて指摘したのは、アレクサンドリア・フリードマンだった。

第一の可能性は、宇宙はどこまでも膨張を続けるが、膨張速度はじりじりと小さくなっていくというもの。第二の可能性は、宇宙の膨張速度はしだいに小さくなり、いずれ膨張は止まるというもの。そして第三の可能性は、宇宙の膨張速度はしだいに小さくなってやがて膨張は止まり、その後宇宙は収縮してビッグクランチ、あるいはビッグスクイーズと呼ばれる終末に向かうというものだ。それゆえ宇宙の未来は、宇宙の内部で作用する重力の強さによって決まり、重力の強さは宇宙に含まれる質量によって決まる。そして宇宙に含まれる質量は、暗黒物質の量に大きく左右されるのだ。

実を言うと、今日では宇宙の未来として、第四の可能性が真剣に考慮されている。1990年の末、天文学者たちはIa型超新星というタイプの超新星を集中的に調べはじめた。天文学者たちがIa型超新星を次々と調べた結果、宇宙の膨張速度はしだいに大きくなっているらしいことがわかったのだ。つまり宇宙の膨張は減速するどころか、加速しているように見えるのである。どうやら宇宙は自爆しようとしているらしい。宇宙を暴走に駆り立てている斥力の正体は今も謎であり、暗黒エネルギーと呼ばれている。

ほんの一瞬に激烈なインフレーションが起こり、奇妙な暗黒物質と、不思議な暗黒エネルギーが存在する二十一世紀の新たなビッグバン宇宙は、実に不思議な世界である。

解けない難問「ビッグバン以前」

われわれの宇宙は生命を生むように設計されたのか、それとも、大多数の宇宙が不運であるようなマルチバースの中で、われわれの住んでいるのがたまたま幸運な宇宙だったのか――は、科学的な考察の対象としてはまさに最先端にあり、宇宙論研究者のあいだで熱い議論を呼んでいる。形而上学としての重要さという点でこれを上まわる唯一のものは、あらゆる問題の中で最大の難問、すなわち、「ビッグバン以前はどうなっていたのか?」ということだろう。

たとえ宇宙創造の特異点を物理学的に扱えたとしても、「ビッグバン以前はどうなっていたのか?」という問題は、論理的に矛盾しているゆえに答えることは不可能だと考える宇宙論研究者は多い。なにしろビッグバン・モデルによれば、ビッグバンのときには物質と放射が生じただけでなく、空間と時間も生じたはずだからだ。もしも時間がビッグバンで創造されたのなら、ビッグバン以前には時間は存在しなかったことになり、「ビッグバン以前」という言葉は意味を失う。

批判的な人たちは、これが宇宙論研究者にできることの限界ならば、「ビッグバン以前はどうなっていたのか?」という問いは、神話または宗教の領域にゆだねるべき謎であり、科学者の手が永遠に届くことのない、神のために残されたギャップだと考えるかもしれない。アメリカの天文学者ロバート・ジャストローは『神と天文学者たち』という著書の中で、ビッグバン理論家の野心に対して悲観的な見方を示した。「彼は無知の山によじ登り、あと少しで最高峰を征服するというところまでたどり着き、最後の岩に手をかけてぐいと体を持ち上げる。その彼を迎えたのは、何世紀も前からそこに座り込んでいた神学者たちの一団だった」

残念ながら、跳ね返る宇宙(多重ビッグバン・モデル)から理由もなく量子的に創造された宇宙(量子宇宙論)まで、いずれの回答案も多分に推測を含み、宇宙はいかにして生じたのかという究極の問いへのきちんとした答えになっていないことは、科学者としても認めざるをえない。

 

 

宇宙論・・・ その壮大さに日常を見失ってしまいそうな気分
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*『ビッグバン宇宙論 上

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