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2010年6月 5日 (土)

198A『ビッグバン宇宙論 上』 サイモン・シン 初版2006年

物語のような文章と科学的な説明文をともに含む本

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impact原題

Big Bang: The Origin Of The Universe. (2005)

impact概要

決闘で鼻を失った天文学者。聖書を精密に分析し、宇宙の年齢をはじき出した大司教。カヤックで海を渡って亡命しようとした物理学者に、世界トップクラスの 天体画像分析チームを率いたメイド、重度の難聴ながら歴史に残る発見を成し遂げた女性ボランティア…。創世神話からプトレマイオス、コペルニクスにケプ ラー、ガリレオらを経て、ついにはアインシュタインの先へ―。宇宙はどうやって生まれたのか? 人類最大の謎に迫る有名無名の天才たちの苦闘を描く傑作科学ノンフィクション。

impact読むきっかけ&目的&感想

同著者の『フェ ルマーの最終定理』『代替医療のトリック』が面白かったので読んでみた。

さくら好み ★★★★★

ものすごく解りやすく書いてあるので、すっごく面白かった。夜空を見上げる目が変わった。shine

impact覚書

宇宙船地球号

地球上での生活には金がかかるかもしれないが、太陽のまわりを年に一周する旅が無料でついてくる。  ――作者不明

「巨人たちの肩の上に立って」 ―アイザック・ニュートン(イギリス)

アイザック・ニュートンは1642年のクリスマス(グレゴリオ暦では1943年1月4日)に、父親が3ヵ月前に死んだばかりという痛ましい情況の中で生れ落ちた。アイザックがまだ幼かったころ、母親は63歳になるバーナバス・スミスという教区牧師と再婚したが、スミスはアイザックを家に迎え入れることを拒んだ。幼いアイザックの養育という仕事は祖父母の肩に降ってかかり、アイザックは年を経るごとに、自分を捨てた母と義父に対する憎悪をつのらせていった。たとえば彼は大学時代に、子供時代に犯した罪のリストを作ったことがあるが、その中で「父母であるスミス夫妻を家もろとも焼き殺すと脅したこと」を認めている。

そんなニュートンが、気むずかしく、周囲から孤立し、ときには残酷にもなる大人になったとしても驚くにはあたらないだろう。たとえば1696年に王立鋳貨局の監事に就任したときには、贋金作りをする者たちに対して非常に厳しい制度を作り、反逆者として罰することにした――受刑者は首を吊るされたのち、内臓を引き出され、四つ割きにされるのだ。贋金作りはイギリスを経済崩壊の危機に追いやっていたから、そのぐらいの処罰は必要だと彼は判断したのだろう。ニュートンは国家の通貨を救うために、残酷さだけでなくその頭脳も活用した。鋳貨局で彼が行ったもっとも重要な技術革新の一つは、「割り屋」と呼ばれる連中に対抗するため(彼らは硬貨の縁を削り取り、その粉を使って新しく硬貨を作っていた)、硬貨の縁にギザギザをつけたことである。

39615891p1130749small_2 ニュートンの功績は認められ、1997年にイギリスで発行された2ポンド硬貨には、ギザギザの縁のところに「巨人たちの肩の上に立って(STANDING ON THE SHOULDERS OF GIANTS)」という言葉が刻まれた。この言葉は、ニュートンが同僚の科学者ロバート・フックに宛てた手紙から採ったもので、ニュートンはそこで次のように書いている。「もしも私がほかの人たちよりも遠くを見たとすれば、それは巨人たちの肩の上に立ったおかげなのです」これはニュートンが、自分のアイディアはガリレオやピュタゴラスなど、名だたる先人たちのアイディアの上に築かれていることを認めた謙虚な言葉のようにも見える。しかし実際には、これは背骨が曲がってひどく屈んでいたフックの身体をそれとなく指し示す、悪意に満ちた表現だった。ニュートンは、フックは肉体的に巨人ではないことに思い至らせ、知性においてもまた巨人ではないことをほのめかしたのである。

しかし人間的にはどんな欠陥があろうとも、ニュートンは17世紀の科学に対して並ぶ者なき貢献をした。彼はほんの一年半ばかり集中的に研究しただけで、新しい科学の時代の基礎を築いたのである。

ニュートンの重力方程式では説明できない水星軌道

20091005_2916605 1859年のこと、フランスの天文学者ユルバン・ルヴェリエが水星軌道の異常な振る舞いを調べていた。水星の軌道は楕円を描くが、その楕円軌道が一定しておらず、全体として太陽のまわりに回転していくのである。楕円軌道が太陽のまわりを少しずつずれていき、ちょうどスピログラフという作図玩具で描いたようなパターンが生じる。軌道の向きの変化はごくわずかで、一世紀かかっても574角度秒(秒角ともいう)にしかならないため、水星の軌道が最初の向きに戻るまでには百万回もの公転を要し、これを時間に換算すれば20万年以上になる。

天文学者たちは、水星が奇妙な振る舞いをするのは、太陽系のほかの惑星たちが重力で引っ張っているせいだろうと考えていたが、ルヴェリがニュートンの重力方程式を使って計算してみたところ、一世紀間に水星の軌道がずれる574角度秒のうち、説明がついたのは531角度秒だけだった。つまり残る43角度秒のずれは説明できなかったのだ。この結果に対し、何か未知の天体が存在して、水星の軌道に見えない影響を及ぼし、43秒分のずれを引き起こしているのだろうと言う人たちがいた。見つかってもいないその惑星はヴァルカンと名づけられた。要するに天文学者たちは、ニュートンの重力の式は正しく、問題は必要な要素をすべて入力していない自分たちの側にあると思い込んでいたのである。

しかしアインシュタインは、未発見の小惑星や衛星や惑星などは存在せず、問題はニュートンの式にあると考えていた。ニュートンの重力理論は、地球のように微弱な重力環境で起こる現象ならばうまく説明できるが、太陽の近くの途方もなく強い重力場で起こる現象は、ニュートンの守備範囲を超えているとアインシュタインは確信していたのだ。水星軌道の問題は、重力を扱う2つのライバル理論が対決するには申し分のない舞台だったし、アインシュタインは自分の理論が水星軌道のずれを正確に記述することに十分自信をもっていた。

そこで彼は腰を据えて必要な計算をやってみた。すると観測結果にぴったりと合う、574秒という結果が得られたのだ。「それからの数日間というもの、私は興奮のために我を忘れました」とアインシュタインは書いた。

ドイツの理論物理学者アインシュタインの計算に納得しない体制派

残念ながら、物理学界はアインシュタインの計算に完全に納得したわけではなかった。科学界の体制派とは、元来保守的なものである。そうなるのは実際的な理由もあるが、心情的な理由もある。新しい理論が古い理論を打ち倒したとなれば、古い理論は捨てなければならず、科学のその他の部分までも新理論に合わせて作り直さなければならなくなる。それほどの大変革が容認されるのは、新しいアイディアが現象を正しく記述し、そのアイディアでたしかにうまくいくことを体制派が心の底から納得したときだけである。

驚くにはあたらないが、科学界の体制派は、ニュートンの式に間違いはなく、いずれ天文学者は水星軌道のずれをきれいに説明してくれる新天体を発見するだろうという立場にしがみついた。そして詳細な探査の結果、新天体はありそうにないことが明らかになると、天文学者たちはぐらつくニュートン理論を支えようと新たな解決策をもち出した。ニュートンの重力方程式に含まれるγ²をγの2.00000016乗に変更すれば、ともかくも古典的なアプローチを救い、水星の軌道を説明できるというのだ。

アインシュタインは未観測の結果を予測する必要があった

新しい理論をまじめに受け止めてもらうためには、その理論は二つの重要なテストに合格しなければならない。一つは、すでに行われている観測のすべてと合う理論的結果を出すことだ。アインシュタインの重力理論は、このテストにはすでに合格していた。なぜなら彼の理論は、なかんずく水星軌道のずれを正確にはじき出したからである。第二のテストはいっそう厳しく、まだ行われていない観測の結果を予測しなければならない。科学者がその観測を実施できるようになり、観測結果と理論の予測とが一致すれば、理論の正しさを示す説得力のある証拠になる。

第一のテストだけでは懐疑派を納得させられないのは、正しい結果が出るように理論を操作している恐れがあるからだ。一方、まだ行われていない観測と一致するように理論を操作することはできない。アインシュタインは自分が正しく、ニュートンが間違っていることを示そうとするなら、自分の理論を使って、まだ観測されていない現象に対して確固とした予測をする必要があった。もちろんその現象は、重力が極度に強い環境下で起こるものでなければならない。さもなければニュートンとアインシュタインの予測は一致し、この勝負に勝者はいなくなるからだ。

結局、理論の命運を決めるテストは、光の振る舞いに関するものとなった。時空概念を基礎とするアインシュタインの重力理論によれば、恒星や大きな惑星のそばを通る光線は、重力によって恒星や惑星のほうに引き寄せられるため、光はもともとの径路からわずかに逸れる。ニュートンの重力理論もまた、質量の大きな物体によって光の径路は曲げられると予測するが、しかしその曲がり方は小さい。したがって、質量の大きな天体によって光の径路がどのくらい曲がるかを測定することができれば、曲がりが小さいのか、もっと小さいのかによって、アインシュタインとニュートンのどちらが正しいかを判定することができるだろう。

皆既日食が起こっているときに星の変位を探す

当初アインシュタインとエルヴィン・フロイントリヒの二人は、太陽系でもっとも質量の大きな惑星である木星ならば、遠方の星の光を曲げられるかもしれないと考えた。しかしアインシュタインが自分の式を使って計算してみたところ、木星は地球より300倍も質量が大きいにもかかわらず、木星によって引き起こされる光線の曲がりはあまりにも小さくて検出できないことが明らかになった。

そこで二人は次に、木星より千倍ほど大きな質量をもつ太陽に着目した。アインシュタインがこの場合について計算してみたところ、太陽の重力は遠方からやってくる星の光にかなりの影響を及ぼし、そのぐらいの曲がりならば検出できることがわかった。

太陽の陰に隠れている星は、われわれの視線が届かないため、地球からは見えないと考えるのが普通だ。ところが、太陽の重力は途方もなく強く、時空もそれに応じて大きく湾曲するため、地球に向ってくる星の径路が逸れて、星はぎりぎりで見えるようになるのである。星はあいかわらず太陽の陰に入っているのだが、あたかも太陽のすぐ外にあるかのように見えるはずだ。実際の星の位置から見かけの位置までの変異はごくわずかだろうが、しかしそれによって誰が正しいかが示されるだろう。なぜなら、アインシュタインの式が予測する変位は小さいが、ニュートンの式が予測する変位はそれよりさらに小さいからだ。

しかし問題がひとつあった。太陽のために星の光の径路が曲がり、星の見かけの位置がずれて太陽のすぐ外に来たとしても、太陽が圧倒的な強さで輝いているために、その星はやはり見えないことである。だが、太陽の向こうの星を見るチャンスがひとつだけあった。1913年、アインシュタインはフロイトリヒに手紙を書き、皆既日食が起こっているときに星の変位を探してみてはどうだろうかと提案した。

日食のときに月が太陽を覆い隠すと、昼はいっとき夜となり、星たちが姿を現す。月の円盤は太陽の円盤にぴったりと重なるから、太陽の縁からほんの少ししか離れていない星でも(そり正確に言えば、光の径路が逸れたために、太陽の縁から数分の一度ほど離れているように見える星でも)、確認できるはずである。

ドイツの観測計画

アインシュタインは、フロイトリヒが過去の日食で撮影された写真を調べてくれれば、自分の重力方程式が正しいことを証明するために必要な、星の位置の変化が見出せるのではないかと期待していた。しかしまもなく、そんな使い回しのデータでは間に合わないことが明らかになった。星の位置のごくわずかな変化を検出するためには、露出時間やフレーミングを厳密に設定する必要があり、過去の日食写真はそのレベルには達していなかったのだ。

取るべき道はひとつしかなかった。来たる1914年8月21日にクリミア半島で見られるはずの日食で写真を撮影するために、フロイトリヒが観測隊を組織することだ。アインシュタインはよくフロイトリヒの家の夕食に呼ばれたが、あっというまに食事を終えるとテーブルクロスに走り書きを始め、フロイトリヒとともに計算を念入りにチェックして、間違いの余地が残らないようにした。フロイトリヒの死後、彼の妻はそのテーブルクロスを洗ってしまったことを後悔した。アインシュタインの走り書きがそのまま残っていれば一財産になっただろうからだ。

1914年7月19日、フロイントリヒはベルリンを発ってクリミア半島へ向った。今にして思えば、これは無謀な旅行だった。というのも、ちょうどその前月に、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントがサラエボで暗殺され、第一次世界大戦へとつながる一連の出来事がすでにかなり進行していたからである。フロイントリヒは、日食当日に望遠鏡の準備ができているよう、十分な時間を見込んでロシアに到着したが、その旅行中にドイツがロシアに宣戦布告したことには気づかなかったらしい。ドイツ国民が望遠鏡や写真の装置などを携えてロシア国内を歩きまわるのは、自ら災難を招く行為だった。驚くにはあたらないが、フロイントリヒら観測隊のメンバーはスパイ容疑で逮捕された。さらに悪いことに、彼らは日食前に抑留されてしまい、この観測計画は完全なる失敗に終わった。フロイントリヒにとっては幸いなことに、ちょうどそのころドイツでロシア人将校の一団が拘束されたため、捕虜交換の協定が結ばれ、フロイントリヒは9月2日には無事ベルリンに戻ることができた。

イギリスの観測計画

あらゆる研究は、ただ戦争に勝つことだけを目標とするようになり、ヨーロッパでもっとも優秀な若手研究者たちが国のために戦うことを志願したため、純粋科学はあたかも列車がブレーキをかけたかのように進展を止めることになった。

ケンブリッジ天文台にいたアーサー・エディントンは良心に従って兵役を拒否していた。エディントンの同僚たちは、彼は科学者としてのほうが国家に貢献できると訴え、彼の兵役を免除してもらえるよう働きかけたが、英国内務省はこの嘆願に取り合わなかった。良心的兵役拒否者であったエディントンが留置所送りになるのは目に見えていた。

そこに助けに入ったのが、王室天文学者のフランク・ダイソンである。ダイソンは1919年の5月29日に皆既月食が起こることを知っていた。その日食は、ヒアデス星団と呼ばれるたくさんの星の集まりを背景として起こるはずで、重力によって星の光がわずかに曲げられるようすを観測するには願ってもない好条件だった。このたびの日食は、南アメリカから大西洋を経て中央アフリカにわたる一帯で見える予定だったので、観測するためには熱帯地方に大がかりな観測隊を派遣しなければならない。

ダイソンは海軍省に対し、エディントンは日食観測隊を組織し、それを率いることによって祖国に奉仕することができ、日食の期日まではケンブリッジに留まってその準備をするべきであると申し入れた。ダイソンはその中に愛国主義的なセリフを挟み込み、ドイツのものである一般相対性理論に対し、ニュートンの重力理論を防衛することは英国人の義務であろうとほのめかした。ダイソンは心の底ではアインシュタインの理論を支持していたのだが、当局を説き伏せるにはこんな方便も役立つだろうと考えたのだ。彼のロビー活動は功を奏した。留置場送りの脅威は取り除かれ、エディントンは1919年の日食に向けて準備を進めながら天文台の仕事を続けられることになった。

1919年3月8日、エディントン率いる観測隊は輸送艦アンセルムに乗り込んでリヴァプールを出航し、大西洋のマデイラ島に向かった。この島で科学者たちは二手に分かれた。一方は引き続きアンセルムでブラジルに向かい、ジャングルの町ソブラルから日食を観測することになった。エディントン率いるもう一方のグループは貨物船ポルトガル号に乗り込み、西アフリカの赤道ギニア沿岸にあるプリンシベ島に向かった。仮にアマゾンで雲が出て日食が覆い隠されてもアフリカのチームは幸運に恵まれるか、あるいは逆に、プリンシペ島で雲が出てもアマゾンのチームは幸運に恵まれることを期待したのである。

日食の期日が近づくにつれ、ソプラルとプリンシペのどちらにも不穏な雲が集まりはじめ、雷をともなうにわか雨が降った。エディントンの観測地点では、月の円盤が太陽の縁に触れるちょうど一時間前嵐はおさまったものの、空はどんよりとして、理想的な観測条件と言うにはほど遠い状況だった。観測の成功は危うくなった。

観測チームは軍隊式の正確さで計画を遂行した。乾板が取り付けられ、露光され、ほんの一瞬ののちに取り外された。エディントンはそのときの状況を次のように描写した。「この世のものとも思われない薄暗がりの光景と、観測者たちの声によって中断される自然界の静けさ。その中で意識に上るのは、皆既日食の継続時間である302秒を刻むメトロノームの音だけだった」

プリンシベ島のチームは16枚の写真を撮影したが、その大半は雲の切れ端が星にかかったせいで使えなかった。実を言えば、科学上意味をもつ写真は、雲がかからなかった貴重な一瞬に撮影されたたった一枚だけだったのだ。

月に覆われた太陽のすぐそばの星は、太陽のコロナのために見えなかった。コロナとは、太陽の円盤を月が完全に覆った直後に生じる輝かしい光の環のことである。しかし太陽から少し離れたところにある星は見ることができ、その位置は普通の場合から約一秒ずれていた。エディントンはこの値をもとに、太陽のすぐそばにあって観測できない星の位置を計算し、最大で1.61秒のずれが生じるという推定値を得た。さらに計器の調整不良などを考慮に入れると、誤差は最大で0.3秒という結果を得た。アインシュタインの予測値は1.74秒だった。これはつまり、アインシュタインの予測は観測結果と合うのに対し、0.87秒というニュートンの予測は小さすぎることを意味していた。エディントンはイギリス本国の仲間たちに、慎重ながらも楽観的な調子の電報を打った。「雲出るも、希望あり。エディントン」

エディントンが一路英国に向かっているとき、ブラジル・チームも帰国の船に乗った。ソブラルの嵐は日食の数時間前におさまり、嵐は大気中の埃を払って理想的な視界をもたらしてくれた。ブラジルの写真乾板は、アマゾン流域の高温多湿な条件では現像に耐えないタイプだったため、ヨーロッパに戻るまで調べることができなかった。ブラジル隊の結果は複数の星の位置によるもので、ずれは最大で1.98秒であることが明らかになった。この値はアインシュタインの予測よりもさらに大きいが、誤差を考慮に入れると一致の範囲内に収まった。これによりプリンシベ島チームの結果は裏づけられた。

「天の光は曲がっている――アインシュタイン理論、勝利す」

エディントンの結果は公式に発表される前から噂のタネとなり、あっというまにヨーロッパ中に広まった。漏れ出した情報のひとつがオランダの物理学者ヘンドリック・ローレンツに届くと、彼はアインシュタインに、エディントンが一般相対性理論と重力方程式を支持する強力な証拠を得たと伝えた。

1919年11月6日、王立天文学協会と王立協会は合同会議を開き、エディントンの結果を公式に発表した。「関心の張り詰めた空気は、まさしくギリシャ演劇のそれだった。至高なる出来事のうちに神意が露になり、われわれコロスがそれに説明を加える。演出それ自体も劇的だった――伝統的かつ儀式的で、舞台背景にはニュートンの肖像画が掛けられ、科学におけるもっとも偉大な一般化が、今このとき、二世紀以上の時を経てはじめて修正を受けるのだということを私たちに告げていた」

しかし反対の声も上がった。保守的な科学者たちは、ニュートン的世界観を救うために戦ったが、このたびの日食観測で示された証拠の前には、そんな試みは何の役にも立たなかった。

王位協会の会長だったJ・J・トムソンは、この会議を次のようにまとめた。「もしもアインシュタインの論証が正しいとすれば――その理論はすでに、水星の近日点移動、ならびにこのたびの日食という二つの厳しい試練に耐えているのですが――人間の思考力によって成し遂げられた最高の業績のひとつであります」

翌日、ロンドンの『タイムズ』紙は、「科学革命――宇宙の新理論――ニュートン説が覆される」という見出しでこれを報道した。数日後には『ニューヨーク・タイムズ』紙が、「天の光は曲がっている――アインシュタイン理論、勝利す」と報じた。アルベルト・アインシュタインは突如として、科学者として世界初のスーパースターになった。彼は、宇宙を支配する力について並ぶ者なき知識を示し、カリスマ性があってウィットに富み、哲学的でもあった。ジャーナリストにとって彼は理想の科学者だった。当初は注目されることを楽しんでいたアインシュタインだったが、まもなくメディアの狂乱状態にうんざりしはじめ、物理学者マックス・ボルンへの手紙で不満を打ち明けている。

一般相対性理論はアインシュタインが単独で作り上げた理論だが、アインシュタイン自身は、この革命が受容されるにあたってはエディントンの観測が決定的に重要だったことをよく理解していた。アインシュタインは理論を作り、エディントンはそれを現実世界に照らして確かめた。つまるところ真理を裁定するのは観測と実験であり、一般相対性理論はそのテストに合格したのである。

17世紀の巨人の肩の上に立つ20世紀の巨人

ニュートンの重力理論は今日もなお、テニスボールの飛び方から吊り橋にかかる力まで、あるいは振り子の揺れ方からミサイルの弾道まで、ありとあらゆる計算に使われている。ニュートンの重力方程式は、地球程度の弱い重力のもとで起こる現象に対しては、今も高い精度で正しい答えを与えてくれるのだ。しかし結局は、アインシュタインの重力理論のほうが優れている。なぜならこの理論は、地球のような弱い重力環境にも、星の周囲のような弱い重力環境にも適応できるからだ。

アインシュタインの理論はニュートンの理論を超えているが、しかし一般相対性理論を作り上げた当のアインシュタインは、自分がその肩の上に立っている17世紀の巨人を事あるごとに褒め称えた。「あなたが見出した方法は、あなたの時代において最高の思想と創造の力をもつ人物にしか考えつかないようなものでした」

アインシュタインの宇宙

重力を理解することは、天文学と宇宙論の成否を決する問題である。なぜなら重力こそは、あらゆる天体の運動と相互作用を導いている力だからだ。小惑星が地球に衝突するのか無事に飛び去るのかを決定し、連星系をなす二つの星の軌道を定め、大質量が最終的には自分の重さのために崩壊してブラックホールになるのはなぜかを教えてくれるのは、重力なのである。

アインシュタインは、この新しい重力理論がわれわれの宇宙観にどんな影響を及ぼすのかを知りたかった。そこで彼は1917年2月に、「一般相対性理論の宇宙的考察」という論文を書いた。このタイトルで鍵になるのは、「宇宙論的」という言葉である。アインシュタインはもはや、太陽系の一惑星にすぎない水星の軌道がずれていくことや、たまたま身近な恒星である太陽が星の光を引き寄せることなどには興味がなかった。その代わりに彼は、壮大な宇宙のスケールで衆力が果たす役割に的を絞ったのである。

アインシュタインは、全体としての宇宙はどんな性質をもっているのか、そこではどんな相互作用が働いているのかを知りたかった。コペルニクス、ケプラー、ガリレオがそれぞれの宇宙像を作り上げたとき、彼らは実際上、太陽系だけに関心を向けていた。しかしアインシュタインは、まさしく宇宙全体に――すなわち望遠鏡で見える範囲と、その向こうに広がる世界に――焦点を合わせたのである。

水星軌道のずれを予測するのと同じことを宇宙全体に対してやろうとすれば、既知のものも未知のものも含めて、すべての星や惑星を考慮に入れなければならない。それは馬鹿げた夢のように思われる――そんな計算ができるわけはないではないか? しかしアインシュタインは宇宙を簡単化するひとつの仮定を置くことにより、この仕事をどうにか扱えるレベルにまで引き下げたのである。

アインシュタインの仮定は、「宇宙原理」として知られているもので、「宇宙はどこでもほぼ同じである」とする。もう少し具体的に言うと、宇宙は「等方的」だと仮定する。等方的とは、宇宙はどちらの方角にも同じように見えるという意味だ。実際、天文学者が深宇宙を観測すれば、この原理はたしかに成り立っているように見える。宇宙原理はまた、宇宙は「均質」だとも仮定する。これは、「宇宙のどこにいてもすべては同じように見える」ことを意味し、「地球は宇宙の中で特別な位置を占めてはいない」ことの別の言い方である。

一般相対性理論と重力方程式を宇宙全体にあてはめてみたアインシュタインは、理論が予測した宇宙のありかたに少々驚き、そして落胆した。不吉なことに、宇宙は不安定らしかったのだ。アインシュタインの重力方程式によれば、宇宙に存在するすべての物体は、宇宙スケールで他のあらゆる物体から引っ張られ、それゆえすべての物体は他のあらゆる物体のほうに近づいていく。引力の作用はひっそりと始まるかもしれないが、やがて雪崩のようにふくれあがり、最終的には激烈な収縮を引き起こすだろう――つまり宇宙は、自分自身を破壊する運命にあるらしく思われたのだ。

アイザック・ニュートンの重力理論はアインシュタインのものとは違っていたが、やはり収縮する宇宙を導いてしまうため、ニュートンもその意味には頭を悩ませた。ニュートンはこの問題を解決するために、神がときおり介入して、星などの天体が互いに距離を保つように采配しているのだろうと述べた。

アインシュタインは、宇宙の収縮を阻止するために神の役割を認める気にはなれなかったが、しかしその一方で、科学界のコンセンサスに合うよう、宇宙を永遠で静的なものにしておく方法をどうにかして見つけたかった。彼は一般相対性理論をじっくり調べ直したのち、宇宙を収縮させないでおくための数学的トリックを見出した。彼の重力方程式を修正して「宇宙定数」という新しい項を含めればいいことに気づいたのである。アインシュタインは宇宙定数の値を注意深く選び、普通の重力による引っ張りとぴったり釣り合うようにすれば、宇宙の収縮を食い止められることに気づいたのである。

決定的に重要なのは、この反重力は宇宙スケールの大きな距離では効いてくるが、小さな距離では無視できることだった。したがって重力方程式にこの項を含めたとしても、地球や近隣の星など身近なスケールでは、一般相対性理論は重力をうまくモデル化するというすでに証明ずみの性質を傷つけることはない。

宇宙論研究者の多くはアインシュタインの宇宙定数を歓迎した。なぜならこの定数を認めれば、一般相対性理論と、静的で永遠な宇宙という概念を両立させるという芸当ができるからだ。だが、宇宙定数の正体について何か手がかりをもつ者は一人もいなかった。宇宙定数は、安定した永遠の宇宙という望ましい結果を得るために、アインシュタインが作り上げた虚構だったのだ。

ロシアの数学者アレクサンドル・フリードマンの動的な宇宙

フリードマンの研究は、1922年に『ツァイトシュリフト・フュール・フィジーク』誌に一篇の論文を発表したとき、ひとつの頂点に達した。アインシュタインは、精密に調節された宇宙定数を付け加えることを主張し、デリケートなバランスの上に成り立つ宇宙論を支持したのに対し、フリードマンはこの論文の中で、宇宙定数の値をいろいろ変えてみたときにどんな宇宙モデルが生じるかを示した。とくに重要だったのは、宇宙定数をゼロにしたときの宇宙モデルを概説したことである。宇宙定数を含まないアインシュタインの最初の重力方程式を基礎としていた。重力に対抗する宇宙定数がないのだから、フリードマンのモデルには、情け容赦なくすべてを引き寄せる重力に抗するすべはない。ここから出てくるのが、動的で発展する宇宙モデルである。

アインシュタインと彼の同僚たちにとって、動的な宇宙とは、激烈な崩壊にによって終末を迎える宇宙を意味していた。そのためほとんどの宇宙論研究者は、動的宇宙モデルは考慮に値しないと考えていた。しかしフリードマンにとって、動的な宇宙とは、膨張によって始まった宇宙であり、そんな宇宙には重力に対抗できるだけの勢いがある。これはまったく斬新な宇宙観だった。

フリードマンは、彼の宇宙モデルが重力に対抗する方法には三つの可能性があり、そのうちのどれになるかは、宇宙が膨張を始めたときの膨張速度と、宇宙にどれだけの物質が含まれているかによって決まると述べた。第一の可能性は、宇宙の平均密度が高く、与えられた体積中に含まれる星の数が多い場合である。星が多ければ重力による引っ張りも強くなり、いずれはすべての星が引き戻されて膨張が止まり、宇宙は収縮に転じて、しまいには完全に潰れてしまうだろう。フリードマン・モデルの第二のバリエーションでは、星の平均密度は低いものと仮定する。この場合、重力による引っ張りが宇宙の膨張を押さえ込むことはなく、したがって宇宙はどこまでも膨張を続ける。三つ目のバリエーションでは、宇宙の密度は高くも低くもないと仮定する。この場合、重力のために膨張速度は小さくなるが、膨張は完全に止まることはない。宇宙は収縮して一点になることもなければ、無限大に膨張することもない。

フリードマンの三つの世界モデルすべてに共通しているのは、宇宙は変化するという発想である。彼は、昨日とは違う宇宙、明日もまた今日とは違う宇宙というものがあっても少しもおかしくはないと考えていた。永遠に静止しているのではなく、壮大なスケールで進化する宇宙という思想――それはフリードマンが宇宙論になした革命的貢献だった。

現実の世界はひとつだけだ。問題は、現実の世界に合うのはどのモデルかということだ。アインシュタインにとってその答えは明らかだった。正しいのは自分であり、フリードマンは間違っているに決まっていたのだ。アインシュタインはこのロシア人の仕事は数学的に間違っているとさえ考え、フリードマンの論文を掲載した学術誌に苦情の手紙を書いたほどだった。

フリードマンが撤回を求めて働きかけると、アインシュタインは謙虚にこう認めた。「私はフリードマン氏の結果は正しく、問題を明確にするものであると確信した。氏の結果は、(一般相対性理論の)式には静的な解に加え、空間的に対称な構造をもち、時間とともに変化する解もあることを示すものである」こうしてアインシュタインは、フリードマンの動的な解は数学的に正しいことは認めたものの、科学的には意味がないと考えていた。

アインシュタインに反対されたにもかかわらず、フリードマンは自分のアイディアをさらに推し進めようとした。だが、科学界の体制派に本格的な攻撃を加える前に、おそらくは腸チフスと思われる重い病気のために、朦朧とした意識のまま死んでしまったのだ。レニングラードで発行されたある新聞は、彼は死の床にあってもうわごとで学生たちのことを語ったり、その場にいもしない聴衆に向かって講義をしたりしながら、最後まで計算を続けていたと報じた。

新しい宇宙論を作り上げたフリードマンはほとんど無名のまま死んだ。彼のアイディアは発表されはしたものの、生前はほとんど誰にも読まれることなく完全に無視された。

ベルギーの聖職者にして宇宙論研究者ルメートルの膨張宇宙モデル

さいわい、膨張し進化する宇宙というアイディアが完全に消滅することはなかった。このアイディアはフリードマンの死から数年後に再浮上したが、しかしまたしても、このロシア人の功績はほとんど無視されてしまった。それというのも膨張宇宙モデルは、ベルギーの聖職者にして宇宙論研究者であったジョルジュ・ルメートルという人物によってまったく独自に再発見されたからである。そして彼もまた、第一次世界大戦のために大きく学業を中断させられた者の一人だった。

1925年、彼はルヴェン大学に職を得て、アインシュタインの一般相対性理論の式にもとづいて独自の宇宙論モデルを構築しはじめた。しかし宇宙定数のことはあまり重視していなかった。それから二年間で、彼は膨張宇宙論を記述するモデルを再発見した――1920年代初頭には、フリードマンが同じような思考の道筋を経てすでにそのモデルを見出していたとも知らずに。

しかしルメートルは、膨張する宇宙の意味を執拗に追求することにより、ロシアの先駆者よりも前に出た。フリードマンは数学者だったのに対し、ルメートルは宇宙研究論者であり、式の背後にある現実世界を理解することが彼の願いだったのだ。とくにルメートルが興味をもったのは、物理学的な宇宙の歴史だった。もしも宇宙が本当に膨張しているのなら、昨日は今日よりも小さかったはずだし、昨年はもっと小さかったはずだ。そして十分過去にまで時間をさかのぼれば、論理的には、空間全体が小さな領域に押し込められるはずである。換言すると、ルメートルは宇宙の始まりとおぼしき時点まで、時計を逆回しにしてやろうと考えたのだ。

ルメートルが得た偉大な洞察は、一般相対性理論によれば、宇宙はどこかの時点で始まったのでなければならないと気づいたことだった。ルメートルは、宇宙は小さな領域から始まり、外向きに爆発して、長い時間をかけて今日われわれが見る宇宙に進化してきたのだと結論した。実際彼は、宇宙は未来永劫にわたって進化を続けるだろうと考えていたのである。

「宇宙は、一個の原子の放射性崩壊によって生じた」

この宇宙モデルを作り上げたルメートルは、宇宙の創造と進化に関する自らの理論を立証してくれる、あるいはそんなプロセスを説明してくれる物理的現象を探し始めた。そうしてたまたま出くわしたのが、天文学者たちのあいだで関心が高まっていた宇宙線物理学という分野だった。1912年、オーストリアの科学者ヴィクトル・ヘスは、気球に乗って6キロメートル近い上空にのぼり、大気圏外の宇宙空間から非常にエネルギーの高い粒子が飛んでくる証拠をつかんでいた。またルメートルは「放射性崩壊」というプロセスのことも知っていた。このプロセスでは、ウランなどの大きな原子が壊れて小さな原子になり、そのとき粒子、放射線、エネルギーを放出する。ルメートルは、スケールは大幅に違うものの、これと同様のプロセスによって宇宙が誕生したのではないかと考え始めた。彼は時間をさかのぼり、すべての星が非常に小さな空間に押し込まれているありさまを思い描いた。ルメートルはその状態を「原初の原子」と名づけた。そして彼は宇宙創造を、いっさいを含むひとつの原子が突然崩壊し、宇宙に存在するいっさいの物質を生み出した瞬間だと考えたのだ。

ルメートルは、今日観測される放射線は最初の崩壊の残存物であり、放出された物質のほとんどは時とともに凝縮して恒星や惑星になったのだろうと考えた。「原初の原子という仮説は、今日見られるこの宇宙は、一個の原子の放射性崩壊によって生じたと考えるものである」

つまりルメートルは、今日われわれが「ビッグバン・モデル」と呼んでいる宇宙モデルに対し、はじめて合理的かつ説得力のある詳細な説明を与えた科学者だったのだ。彼はアインシュタインの一般相対性理論から出発して、宇宙の創造と膨張に関する理論的モデルを作り上げ、すでに観測されていた宇宙線や放射性崩壊の現象と統合したのである。

アインシュタインは機会を二度与えられたが二度とも却下した

ルメートルは、理論と観測を組み合わせ、物理学と観測天文学という枠組みの中にビッグバンを据えることにより、フリードマンの先行する仕事を大きく乗り越えていった。ところがこのベルギーの聖職者が1927年に宇宙創造の理論を発表したときには、フリードマンを迎えたのと同じ沈黙が待っていた。

事態を悪化させたのは、ルメートルが「原初の原子に関する仮説」と題するその論文を発表してまもなく、アインシュタインと会ったことだ。ルメートルはアインシュタインに、過去に創造され、今日も膨張する宇宙について説明した。アインシュタインは、そのアイディアはすでにフリードマンから聞いたと言い、すでに世を去ったロシア人の仕事を彼に教えてやった。アインシュタインはルメートルに冷たくこう言った。「あなたの計算は正しいですが、あなたの物理は忌まわしいものです」

アインシュタインは、膨張するビッグバンのシナリオを受け入れる、あるいは少なくとも考えてみる機会を二度与えられた。だが彼は二度ともそのアイディアを却下した。そしてアインシュタインから却下されることは、体制派から却下されることを意味していた。かつては反体制派の典型だったアインシュタインは、いつのまにか絶対的権威になってしまっていたのである。

ロス卿が描いた「渦巻き星雲(M51)」とゴッホが描いた「星月夜」

1845年、建設に三年を費やし、現在の貨幣価値にして百万ポンド相当の私費をつぎ込んだ巨大望遠鏡(長さ16.5メートル)がついに完成し観測が始まった。

ロス卿は雲間から空を覗いて、驚くほど詳細に星雲を観測し、星雲はぼやけたシミどころか、くっきりとした内部構造をもつことを明らかにした。リバイアサン(“怪物”という意味/望遠鏡の渾名)の威力に屈した最初の星雲は、メシエ番号で言えばM51で、ロスはこの星雲をみごとな精度でスケッチした。M51が螺旋状の構造をもつことはすぐに見て取れた。とくにロスは、螺旋の一本の腕の先に、もうひとつの小さい渦があることに注目した。

ロスのスケッチはヨーロッパ中に知れわたり、螺旋状星雲と、おまけのようにくっついた渦を描いたかに見えるフィンセント・ファン・ゴッホの「星月夜」は、このスケッチに触発されたのではないかという説もあるほどだ。

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天の川銀河は唯一の銀河なのか、いくつもの銀河の中の一つなのか

ハッブルがウィルソン山天文台(アメリカのカリフォルニア州ロサンゼルス)に来てから四年後の1923年10月4日の夜、ハッブルは100インチ望遠鏡を使って観測をしていた。観測条件は、最低ランクの「1」だったが、彼はどうにか40分間露光して、M31、すなわちアンドロメダ星雲の写真を撮ることができた。この写真を現像して昼の光の下で調べてみたところ、新しいシミのようなものが見つかった。きっと写真の不具合か、さもなければ新星だろう、とハッブルは考えた。翌晩、観測を終えようというときに、空が前夜よりもきれいに晴れていたこともあり、ハッブルは例のシミが新星であることを確認できるかもしれないと考えて、5分間露光時間を延ばしたうえで、もう一度その領域の写真を撮った。例のシミはやはり前夜と同じところにあり、さらに二つの新星らしきものが見つかった。

ハッブルは、このたびの観測で撮影した写真と、同じ星雲の以前の写真とを比較してみたかった。そうすれば、新星らしきシミが本当に新星なのかどうかがわかると思ったからだ。嬉しいことに、シミのうちの二つは確かに新星だった。そしていっそう嬉しいことに、三つ目のシミは新星ではなく、セファイドだったのだ。古い感光板には、三つ目の星が写っているものもあれば写っていないものもあり、この星が変光星であることを示していた。ハッブルは、それまでの研究者人生で最大の発見をしたのである。

星雲内に見つかったセファイドは(天の川銀河のすぐ近くにある大小のマゼラン星雲を別にすれば)これが始めてだった。この発見がそれほど重要なのは、セファイドを使えば距離を測定できるからである。ハッブルはアンドロメダ星雲までの距離を測ることができるようになったのだ。星雲は、天の川銀河の内部にあるのだろうか? それとも天の川銀河のはるかかなたにある別個の銀河なのだろうか?

結果は驚くべきものだった。このセファイドは――したがって、このセファイドを含むアンドロメダ星雲は――地球から90万光年のかなたにあるらしいのだ。

天の川銀河の直径はおよそ10万光年だから、アンドロメダ星雲が天の川銀河の内部にないことはあきらかだった。そして、それほど遠くにあるにもかかわらず肉眼でも見えるのだから、信じられないほど明るいはずだ。それほど明るいからには、何億個もの星を含んでいるのだろう。アンドロメダ星雲は別個の銀河だと考えるしかなかった。

こうしてアンドロメダ星雲はアンドロメダ銀河になった。アンドロメダやその他多くの星雲は、天の川銀河のはるかかなたにあり、天の川銀河と同じぐらい壮大にして華麗な銀河だったのだ。

アンドロメダまでの距離がこれほど大きいことに衝撃を受けたハッブルは、さらなる証拠が得られるまで発表を差し控えることにした。ウィルソン天文台では、ハッブルの周囲の天文学者たちはみんな単一銀河説を信じていたので、物笑いの種になることを警戒したのである。彼は恐るべき克己心と忍耐力を発揮して、アンドロメダの写真を撮り続け、第二のもっと暗いセファイドを発見した。このセファイドも、ハッブルの最初の結論を確証うるものだった。

1924年2月、彼はついに沈黙を破り、単一銀河説のスポークスマンだったシャプリーへの手紙の中で観測結果を明らかにした。

「星雲」は、もともと雲のように見える天体を指す言葉だったが、ほとんどの星雲は銀河という名称に変わった。しかしその後、星雲のなかには少数ながら、天の川銀河の内部にあるガスと塵の雲にすぎないものもあることがわかり、「星雲」という名前は自然とそれらの雲に対して用いられるようになった。もちろん、天の川銀河の内部に小さな星雲があったからといって、アンドロメダをはじめ、当初星雲と呼ばれていた天体の多くはれっきとした銀河であり、天の川銀河の外、はるかかなたにあるという事実が変わるわけではない。

一枚の観光板に写し取られた一度の観測により、ハッブルはわれわれの宇宙観を塗り替え、宇宙における人間の位置の見直しを強いた。この小さな地球は、かつて誰も考えなかったほどちっぽけな存在であるらしかった。

天文学者たちはそれまでにも、惑星と太陽のあいだには大きな距離が横たわっていることを知っていたし、星と星のあいだにはさらに広大な空間が広がっていることも理解していた。しかし今度は、銀河と銀河のあいだに広がる茫漠たる空間を考えなければならなくなった。

エドウィン・ハッブルの測定にはまさしくセンセーショナルな意味があり、まもなくハッブル当人も世間の論議や新聞記事のネタになった。ある新聞は彼のことを「天文学の巨人」と呼んだ。「エドウィンが自分の仕事の大きさを理解できるようになるまでには長い年月がかかるだろう。そんな経験はできたとしても生涯に一度きりだし、経験できた者は幸運である」

しかしハッブルは、これよりさらに革命的な観測を行うことにより、天文学をいま一度揺さぶることを運命づけられていたのである。その観測のために宇宙論研究者たちは、宇宙は永遠で静的だという仮説を見直さざるをえなくなる。ハッブルが次なる大躍進を遂げるためには、望遠鏡の威力と写真の感度とを結びつける新たなテクノロジーが必要だった。「分光器」の名で知られるその装置のおかげで、天文学者は巨大望遠鏡に届いたかすかな光の情報をとことん搾り取れるようになったのである。

“地球にある元素”と“宇宙にある元素”

1860年代、イギリスの天文学者ウィリアム・ハギンズは太陽より遠い星たちに分光器を使い、星たちもやはり地球でみられるのと同じ元素を含むことを確認した。たとえばペテルギウスのスペクトルには、ナトリウム、マグネシウム、カルシウム、鉄、ビスマスなどの元素による吸収線が認められた。古代の哲学者たちは、星を作り上げているのは、地上に見られる空気、土、火、水の四元素ではなく「第五元素」だと主張した。それに対してハギンズは、ベテルギウスは――そしておそらく宇宙のすべては――第五元素などではない地球の物質でできていることをいごと証明したのである。ハギンスはその研究の意義を次のように結論づけた。「星やその他の天体から来る光を分光学的に調べるという研究には、ひとつ重要な目的があった。すなわち、地球にあるのと同じ化学元素が、宇宙にあまねく存在しているかどうかを明らかにすることである。この目的は、きわめて満足のいくレベルで肯定的に解決された。普通の元素が、宇宙にあまねく存在することが示されたのである」

地球に近づいたり遠ざかったりする視線速度を測定

ウィリアム・ハギンスは、分光学を使えば、固有運動の検出にまつわる二つの困難を克服できることに気がついた。彼が開発した新しい分光学のテクニックは、どんな星の視線速度でも高い精度で測定でき、またどれほど遠くにある星にも使えた。ハギンスのアイディアは、分光学と、オーストリアの科学者クリスティアン・ドップラーによってすでに発見されていた物理現象「ドップラー効果」を組み合わせるというものだった。

ドップラーその人は、音波の場合と同じ様に、光学的なドップラー偏移(すなわち、ドップラー効果による波長のずれ)は間違いなく間違いなく実在し、光を出す物体の運動速度が十分に大きく、検出装置の感度が十分に高ければ検出できるだろうと予言した。

はたせるかな、1868年にウィリアムとマーガレットのハギンス夫妻は、シリウスのスペクトルにみごとドップラー偏移を検出してのけた。シリウスの吸収線は、太陽のそれとほとんど同じだったが、個々の吸収線が0.015パーセントだけ波長の長いほうにずれていたのだ。これはシリウスが地球から遠ざかりつつあるためと考えられた。

ドップラーの式は、のちにアインシュタインの相対性理論と合わせるために修整が必要になるが、19世紀の形のままでもハギンスの目的には十分であり、彼はシリウスが地球から遠ざかる速度を計算することができた。

ハギンスは、星の速度は測定可能であることを証明した。星は、地球にある普通の元素を含み、元素はそれぞれに特有な波長の光を出す。しかしその波長は、星が視線速度をもつためにドップラー効果のせいでずれる。そのずれを測定すれば、星の速度を求めることができるのだ。ハギンスの方法は途方もない可能性をはらんでいた。なぜなら目に見える星や星雲ならどんなものでも、分光器を使って波長を調べ、ドップラー効果による波長のずれを計測すれば、その速度がわかるのだから。

こうして、星が天球上で移動する固有運動に加え、地球に近づいたり遠ざかったりする視線速度も測定できるようになった。

ほとんどの銀河が天の川銀河から遠ざかっているらしい

20世紀に入ると分光学のテクニックもすっかり成熟し、新しく建設された巨大望遠鏡や高感度の感光板と組み合わせて使えるようになった。望遠鏡、写真、分光器という三位一体のテクノロジーは、星は何でできているのか、星はどんな速度で運動しているのかを探る空前の機会を天文学者にもたらした。

1912年には元外交官のヴェスト・スライファーというアメリカの天文学者が、速度測定のレベルを前人未踏の高さにまで引き上げた。ステイファーは、星雲(にちに星雲ではなく銀河であることが立証された)のドップラー偏移をはじめて測定した天文学者になったのだ。

ステイファーは、数年間につぎつぎと銀河の速度を測定していき、銀河はたしかに驚くべき速度で運動していることが明らかになった。ステイファーは1917年までに25の銀河について測定を行ったが、そのうち遠ざかっていくものは21、近づいてくるものは四つだけだった。その後の10年間に、彼はさらに20の銀河について測定を行ったが、そのすべてが遠ざかっていた。ほとんどすべての銀河が、猛烈なスピードで天の川銀河から遠ざかっているらしかった。

スライファーら天文学者たちは、現れつつある新たな宇宙論をどうにか理解しようと努めた。巧妙新奇な説がつぎつぎと打ち出されたが、共通の見解と言えるようなものはなかった。

銀河がなぜ後退しているのかという謎がようやく解明されたのは、エドウィン・ハッブルがその頭脳と望遠鏡をこの問題にふり向けたときのことだった。

銀河の速度は、地球からその銀河までの距離に比例するのではないか

スライファーの赤方偏移の謎を探るために、ハッブルとヒューメイソンのペアは分担して仕事に取り組んだ。ヒューメイソンは多数の銀河についてドップラー偏移を測定し、ハッブルはその銀河までの距離を求めた。二人はまずはじめに、ステイファーが最初に測定した銀河の赤方偏移を確認したのち、1929年までに46の銀河について赤方偏移と距離を求めた。あいにく、このとき得られた結果のほぼ半数は、誤差の生じる余地が大きすぎることが判明した。慎重になったハッブルは、十分に自信のもてる測定結果だけを使い、横軸に距離、縦軸に速度をとってグラフにしてみた。

ほとんどすべての銀河は赤方偏移を示し、これは銀河が後退していることをほのめかしていた。またグラフ上の点を見ていくと、銀河が後退していく速度と、地球からその銀河までの距離とのあいだに強い相関がありそうだった。ハッブルはデータ点のあいだに一本の直線を引いてみた――銀河の速度は、地球からその銀河までの距離に比例するのではないかと考えたのだ。つまり、ある銀河より二倍遠くにある銀河は、おおよそ二倍の速度で遠ざかっていくように見え、三倍遠くにある銀河は、おおよそ三倍の速度で遠ざかっていくように見えるということだ。

もしもハッブルの考え通りなら、その波紋はとてつもなく大きい。銀河は宇宙の中をでたらめに飛び回っているのではなく、速度と距離には数学的な関係があるというのだから。そして科学者たちがそんな関係に気づけば、彼らはその背後にある深い意味を探ろうとする。この場合の意味は、宇宙に存在するすべての銀河は、過去のある時点において、ひとつの小さな領域に詰め込まれていたということだ。これは、今日ビッグバンと呼ばれているものを匂わせる最初の観測事実だった。

ハッブルのデータと宇宙創造の瞬間を結びつけるのは簡単だった。天の川銀河からある速度で遠ざかっていく銀河を考えよう。このとき、時計を逆回しにすると何が起こるだろうか? 実際、すべての銀河が距離に比例する速度で天の川銀河から遠ざかっていくなら、過去のある時点で、すべての銀河は天の川銀河に重なっていたはずである。

つまり宇宙に含まれるいっさいが、宇宙創造の瞬間に、たったひとつのきわめて高密度な領域から現れ出たように見えるのだ。また、時計を時刻ゼロから未来に向かって進めると、進化し膨張する宇宙が得られる。それはまさしくルメートルとフリードマンが理論的に導いたもの、すなわちビッグバンだった。

ハッブルの観測結果について本気であれこれ考え出す前に、まずは彼の測定が正確だと思えなければならなかった。これは大きな壁だった。というのも、多くの天文学者はハッブルのグラフに納得しなかったからだ。そもそも少なからぬデータ点は、彼の引いた直線からだいぶ離れていた。このグラフは途方もなく重大な意味をもちかねなかっただけに、証拠は確実でなければならなかった。ハッブルはより精度の高い測定をもっとたくさん行う必要があった。

ハッブルとヒューメイソンはそれから二年のあいだ望遠鏡のそばで過酷な夜を過ごし、観測のテクノロジーをぎりぎりまで磨き上げた。その努力は実り、1929年の論文で取り上げたどの銀河よりも、20倍も遠くにある銀河まで測定できるようになった。1931年、ハッブルは新しいグラフを含む論文を発表した。このたびのグラフでは、点はハッブルが引いた直線上にきれいに並んでいた。もはやデータの意味するところから逃れるすべはなかった。宇宙はたしかに膨張しており、しかも規則正しく膨張していたのだ。

ハッブルの観測と、そこから引き出された膨張法則は、宇宙は動的で全体として変化しつつあり、時間とともに距離は増大し、平均密度は小さくなっていることを意味していたのである。

ハッブルはいっさいの思弁を避けた。彼は測定結果こそ提供したものの、宇宙論の論争にはまったく関与しなかった。

1937年には、映画監督フランク・キャプラの主賓としてアカデミー賞授賞式に出席した。ハッブルは、世界でもっとも偉大な天文学者として紹介され、喝采を受けた。会場にいた一人残らず、ハッブルの業績の偉大さを理解した。この人物が行った距離の測定が、われわれの宇宙観を拡大し、たったひとつの有限な天の川銀河から、たくさんの銀河をちりばめた無限の空間にまで広げたのだと。この人物が、宇宙は膨張していることを示し、そしてそのことは――ハッブル自身がそれを認めたかそうかはともかく――宇宙は無限の過去から存在したのではなく、宇宙の全物質が小さな領域に押し込められていた揺籃期があり、その小さな領域が爆発してここまで進化してきたことを意味しているらしい、と。エドウィン・ハッブルはそうとは知らずに、宇宙創造の瞬間があったという説を裏づける最初の客観的証拠を見出したのである。ついにビッグバン・モデルは単なる仮説ではなくなったのだ。

 

日差しの下で読む「宇宙論」・・・・・  脳内世界に広がる宇宙の姿
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*『ビッグバン宇宙論 下

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