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2010年4月29日 (木)

185『暦の歴史』 ジャクリーヌ・ド・ブルゴワン 初版2001年

計測時間のなかで暮らすようになるまで。

時のなかに現在の自分を位置づけるようになるまで。

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watch原題

Le Calendrier, maître du temps ? (2000)

watch概要

最も古い太陽暦である古代エジプトとマヤの暦は、どのような理由から生まれたのか。古代ローマの最高権力者カエサルは、なぜ、暦の改革を重要な政治上のテーマとしたのか。フランス革命時に使われた「革命暦」は、なぜ挫折したのか。われわれが使うグレゴリオ暦の1月1日が、実はキリストの割礼記念日だというのは本当なのか。暦をめぐる意外なエピソードが満載。人類が叡智を結集してつくりあげた「時のものさし」の五千年史。

本書は、「なぜ暦(計時)は完全な十進法で合理化されていないのか」「1年はなぜ冬の最中に始まり、12ヶ月なのか」、など、暦に関する素朴な疑問に、わかりやすく答えたものである。そして後半の資料篇では、前近代の民衆の暮らしに密着した経験的な暦の魅力の数々、グレゴリオ暦に反撥して1792年に始まり徹底的に十進法を採用したにもかかわらず失敗した「フランス共和暦」、さらにはジャリの「パタフィジック万年暦」といった現代の奇矯な創作暦の試みまで、暦をめぐる楽しい逸話を紹介している。

watch読むきっかけ&目的&感想

カレンダーや時計などで視覚的に捉えることができ、日常に当たり前のように存在している日付や時間。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス(1865)』、サルバドール・ダリの『柔らかい時計(1931)』、ミヒャエル・エンデの『モモ(1973)』、萩尾望都の『銀の三角(1982)』、ほぼ日刊イトイ新聞の『ほぼ日手帳(2002-)』、ダーレン・アロノフスキーの『ファウンテン 永遠につづく愛(2007)』などに接し、「それ」がどのように捉えられてきたかに興味が湧いたので、ざっと流れが掴めそうな本書を借りてみた。

さくらスイッチ ★★★☆☆

暦とは天を読むことであり、それは宗教や政治と密接に関係してきた。昔は、自然と人間の関係を位置づけるために暦が必要だったのに対して、現代は、人と人の関係を位置づけるために暦が必要とされている。・・・なんて事が簡潔に書いてあるので、とても面白かった。

watch覚書

目次

第一章:暦の誕生 ――何のために暦をつくるのか。それは自然の規則性をあらかじめ知るためだ。農耕社会なら、種まきの頃あいを知るために太陽暦が必要である。漁労社会なら、潮の満ち引きを知るために太陰暦が必要となる。ところが、このふたつの暦を簡単に結びつけ、うまく運用していく方法を見つけようとすると、困難をきたすことになる。

第二章:ユリウス暦から教会暦へ ――「次にカエサルは、共和国の組織化に目を転じ、暦法を改革した。従来の暦は神官団の意のままに操られてひどく乱れ、夏に行われるべき小麦の収穫祭も、秋に行われるべきブドウの収穫祭も、しかるべき時期に行われなくなっていた」とスエトニウスは書いている。カエサルの指示で科学的根拠にもとづいて改暦され、のちに教会の手に渡ったローマの暦法(ユリウス歴)は、今日われわれが用いている暦法とほとんど変わらない。

第三章:計測の道具 ――中世、暦は何よりもまず時に節目をつけるために役立っていた。16世紀末、それは過去と未来に照らして自分の位置を知るための手段となった。と同時に、民間暦が宗教暦から独立しはじめ、ふたつの間の権力闘争が激化した。

第四章:暦と政治と宗教 ――近代、暦には相反する二つの波が押し寄せた。一方では、時の計測が画一化し、グレゴリ暦が世界の標準として定着した。他方では、政治的または宗教的共同体が、自分たちの方法、自分たちのリズムで時を利用した。彼らには彼らの集団記憶をあずかる彼らだけの暦がある。

「安息日」と「主日」

Img_3天地創造(1483) ――週の制度は聖書の伝統に深く根をおろしている。七日目の休息は十戒の一部である。「安息日を心に留め、これを聖なる日とせよ。六日間は働いて自分の仕事をするがよい。だが七日目は、汝の神ヤハウェのための安息日でもある。汝も、汝の息子も妻も、下男も下女も、家畜も、汝の町にいる寄留者も、いっさい仕事をしてはならない。なぜならヤハウェは六日で天と地と海と、それに含まれるすべてのものを創造し、七日目に休まれたからだ。それゆえヤハウェは安息日を祝福し、これを聖別された」。

ユダヤ暦の週日には、安息日との関係で名前がつけられた(たとえば安息日の二日前というように)。キリスト教会は週日を番号で呼ばせようとしたが、成功しなかった。今日ではポルトガル語だけが、当時の番号による呼び名を保っている。他のラテン系言語では、日曜日につけられた「主日」という名だけが生き残った(フランス語のディマンシュ、イタリア語のドメニカ、スペイン語のドミンゴ)。

*安息日=現代における「土曜日」。主日=現代における「日曜日」。

「循環的な時」と「直線的な時」

時は一年を超えて長期的にも数えられる。その方法は文明によって異なり、循環的に数えられることもあれば、ある年を起点として直線的に数えられることもあった。

初期の暦はある大きな周期の中に組み込まれていた。マヤのハアブ暦では、360日でトゥンと呼ばれるひとつの周期をなしていた。トゥンが20集まってカトゥン(7200日)となり、カトゥンが20集まってバクトゥン(144000日)となる。大周期は13バクトゥン(1872000日)からなり、年末の五日を含めたハアブ暦の約5128年に相当した。大周期は、創生、磨耗、崩壊という三つの過程をたどった(これはマヤに限らず、大周期を用いていた大方の宗教に共通している)。マヤの人々は、前3114年に始まった自分たちの大周期が終わると、新たに同じ長さの大周期が始まり、新しい世界が生まれるのだと思っていた。

仏教やヒンズー教の暦も、やはり長い周期の中に組み込まれていた。中国の時の区分法は60進法的なサイクルにもとづき、年にも日にも適用された。年も日もそれぞれ「十干」と「十二支」から作られた60通りの組み合わせの一つであらわされる。同じ組み合わせの年があらわれるのは60年後である。〔十干と十二支を機械的に組み合わせると120通りだが、それぞれの干と支に陰または陽が配されており、陰と陽の組み合わせは排除されるので60通りになる〕。

古代地中海世界では、王朝の創始や王の即位などの出来事が起こるたびに、そこを起点として年を数えていた。短い周期も用いられた(ギリシアならオリンピック、ローマなら執政官の任期)。

時の概念の一大刷新は、ユダヤ教からやってきた。ユダヤ人の考えでは、時はある方向をめざして進んでいく。世界は神によって創られ、メシアの到来で終末を迎えるのである。それは史上初めて現れた直線的な時の概念であり、のちにはキリスト教がこれを強制した。イスラム教徒は独自の紀年法を定め、ムハンマド(モハメッド)がメッカからメディナに逃れた年(西暦622年)をヘジラ元年とした。

これらの例を通して、年を数える際の基準は、天体ではなく人間だということがわかる。紀年方の出現とともに歴史時代が始まった。連綿と続く時の流れの中に出来事を発生順にならべ、それらを記憶することが可能になったのである。

天文時計(14世紀末。スウェーデン)

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10日が消えた

ユリウス暦の一年は一太陽年より11分4秒長すぎた。その誤差が何百年にもわたって積み重なった結果、16世紀には10日のずれができていた。16世紀初頭、こうした欠点はもはや許容されなくなっていた。1514年、ローマ教皇レオ10世はラテラノ公会議で、暦法改革に関する意見の聴取を提案した。だが反響は少なく、例外は(といっても決定的な例外だったが)、一年の長さを決定するための計算に没頭したポーランドの聖職者、コペルニクスだけだった。彼は1543年、死の直前に『天体の回転について』を発表し、地球が太陽のまわりを回っているのであって、その反対ではないという、いわゆる地動説を展開した。そこにあげられた一連の計算値はきわめて精度が高く、改暦のための信頼のおけるデータとなった。

1575年、ローマ教皇グレゴリウス13世が命じた暦法改革は、1545年から約20年間断続的に開かれたトレント公会議の延長線上にあり、宗教改革によって弱体化した教会を建て直そうという努力の一環をなしていた。教皇の目的はまず宗教的なものだった。すなわち、教会の司る時と自然の司る時の調和をはかり、春分の日がニカイア公会議で決められた3月21日から大きくずれないようにすることである。もはや伝統を楯に正確さをないがしろにすべきではなかった。神の時は正確でなければならず、そのためにはユリウス暦を変えなければならなかったのだ。

過去に蓄積されたずれを修正するには、いっぺんに10日を削除すればよい、とリッリオは提言した。

1582年10月から10日が削除されることになり、曜日はそのままにしておかれたので、10月4日の月曜日から一挙に15日の木曜日に飛ぶことになった。また、どのキリスト教国も、キリスト割礼の祝日である1月1日を元日とすることが定められた。

グレゴリオ暦と呼ばれるこの新しい暦法は、すみやかな実施を求めて全カトリック国に送られた。根まわしは済んでいた。4年前の1578年、カトリック国の国家元首や高位聖職者たちはみな、グレゴリウス13世からリッリオの構想の要約を受け取り、意見を求められていたのだ。

グレゴリオ暦は、改革の音頭をとった教皇庁の権威が揺らいでいたこと、天文学研究の道具が洗練されていなかったこと、解決法が近似的だったことを考え合わせると、早々に挫折してもおかしくなかったが、施行から4世紀たった今でも使われているばかりか、世界の標準暦となっている。

「時への服従から時の支配へと」

我々は暦を用いて、時の流れの中に自分を位置づけることができる。自分の現在いる位置を知り、過去を整理し、未来を計画することができる。だが暦を使いこなせるようになるまでの道筋は長く、複雑である。日付の習得が始まってから、スケジュール手帳が使われるようになるまでには、数百年という長い時間がかかった(前者は16世紀、後者は18世紀)。

16世紀の終わり頃、教養ある人々は時の中に現在の自分を位置づけることができるようになっていた。日付がわかると、今度はわかると、今度は過去の中に自分を置くことができるようになる。「集団の記憶力によって蓄積された思い出は、暦の中に書き留められるおかげで、日付のついた出来事となる」とポール・リクールは書いている。暦がなければ歴史は存在しないのだ。

17世紀、暦は将来の予定のために使われるようになった。1650年頃、はじめて先を見通すためのカレンダーが現れた。日に曜日名を付けたもので、これによって将来の予定を正確に決めることができる。だがこれが慣例化し、暦書に取り込まれるようになったのは約一世紀も後のことだった。この間、暦書の内容は少しずつ変化し、占星術や天気占いの占める割合は減っていった。18世紀、暦書は発行部数を増やし、新しい購買者層を獲得した。

19世紀には、一目で予定がわかるスケジュール手帳と、実用本位のカレンダーが普及しはじめた。月ごとに日に番号が振られ、日ごとに曜日名が書かれてた、今日のカレンダーの形が整ったのはこの頃である。以後、カレンダーは毎年作られ、広く利用されるようになった。読み書きできる人はみな時の区分法を知っていた。この進歩を支えた要因はいくつかあるだろうが、教育の浸透と、経済の発展が大きい。大時計が(17世紀にはブルジョワジーの間に、18世紀には庶民の間に)普及したこと、さらにそれが小型化(腕時計)したことによって、人々は時に敏感になり、歴史家ダヴィッド・ランドの言うように「時への服従から時の支配へと」移行したのである。

ひとつの暦へ

近世を通じ、時の基準はしだいに画一化されてきた。16世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパの勢力拡大にともない、グレゴリオ暦は世界中に広まった。西欧諸国の植民地となり、グレゴリオ暦を強制されていたアメリカ、アジア、アフリカでは、独立後もこの暦法を使い続けるところが多かった。

20世紀、東欧諸国はすべてグレゴリオ暦に改めた。アルバニアとブルガリアでは1912年、ロシアでは1918年、ルーマニアとユーゴスラヴィアでは1919年、トルコでは1926年に改暦が行われた。改暦の波は極東にも押し寄せ、日本は1873年(明治6年)、中国は1912年にグレゴリオ暦を採用した。中国ではなかなか定着しなかったため、1949年、毛沢東のてこ入れが行われた。いずれにせよ、改暦には政治的混乱がともなった。ロシア革命しかり、明治維新しかり、トルコの近代化運動しかり、東欧の独立運動しかりである。

今日、グレゴリオ暦はいたるところで使われている。国によっては二つの暦を併用している所もある。たとえばイスラエルでは、ユダヤ暦とグレゴリオ暦が使われており、新聞や公文書には二通りの日付が記されている。アラブ諸国も、ペルシア湾岸の数ヶ国を除けば、イスラム暦とグレゴリオ暦を併用している。

こうして世界中に広まったグレゴリオ暦は、世界の標準的な時の枠組み、国際関係と経済の枠組みとなった。通信システムの発達によって、ますます多くの情報がますます速く飛び交うようになっているが、これらの情報はすべて同じ時の単位にもとづいてやりとりされている。世界中の情報機関が西暦を用いているのだ。

世界時(グリニッジ標準時)

グレゴリオ暦の普及と並行して、時の計測も精密になった。社会が複雑になればなるほど、人々の活動時間をより正確に合わせる必要が生じてきたのだ。1884年には世界規模で時の調整が行われ、地球全体が南北に細長い24本の同一時間帯に分けられた。基準はグリニッジをを通る経度0°の経線である。1911年には世界時(グリニッジ標準時)が制定された。

正確さの追求は、小さな時の単位にも及んだ。1875年、国際度量衡総会は一秒を平均太陽日の1/864000と定義した。だがまもなくこの定義では具合が悪くなった。太陽日のよりどころとなる地球の自転は、長い間非常に規則正しいと考えられていたが、実はそれほどでもないことがわかり、他の基準を探すことになったのだ。1956年、1秒は1900年当時の太陽年の長さの1/31556925.9747と定義された。だが1967年、ついに原子時が出現した。1秒の長さはもはや地球の動きとは無関係になり、原子の動きで決まることになった。

「そこで1年は365.242199日ではなくなり、セシウム原子が290,091,200,500,000,000回振動するのにかかる時間となった。誤差はせいぜい1回か2回の振動である」(歴史家デヴィッド・E・ダンカン)ところが今度は、自転周期が一定でない地球にくらべて、基準のほうが厳密すぎた。これを太陽時間に合わせたものが調整世界時で、国際地球自転局が半年に一回、原子時間に1秒を加えたり減らしたりすることになっている。1972年以降、全体で22秒が加えられた(本書は2000年出版)。

束縛するカレンダー

今日、人間はいつにも増して自然の時から遠ざかっている。暖房のおかげで冬の大変さを忘れ、電灯のおかげで夜の闇から解放され、地球の住民の半数以上を巻き込んだ都市化のおかげで、自然のリズムから離れてしまった。

時の基準も同じ様に自然との結びつきが薄くなった。暦はますます抽象的になった。

先進社会の複雑な活動を円滑に進めるには、時を巧みに制御することが不可欠である。仕事の流れが細かく決まっているので、正確さとプランニングがどうしても必要になる。余暇さえこの枠組みから外れてはいない。「われわれは社会の尺度で人生を測ることを強いられた結果、しだいに人生を自由に使うことが(そしてそれを楽しむことが)できなくなってきた」と社会学者モーリス・アルブヴァクスは述べている。数量化された時がすべてを覆いつくしたのだ。

アイデンティティーのよりどころとなる民族固有の暦

グレゴリオ暦の世界制覇を前にして、他の暦はどうなったのだろうか。消えてしまったのだろうか。いや、消えるどころではなかった。暦の自主独立主義は今でも健在である。どんな民族にも固有の年中行事があり、それを刻み込んだ暦は、強力なアイデンティティーのよりどころとなっている。暦は集団を結束させ、成員間の絆を強め、他の集団との違いを明確にする。暦に定められたしきたりを守ることは、個人に集団への帰属感をあたえる。

たとえば安息日の制度は、バビロン捕囚以来、ユダヤ人の宗教生活の支柱であり、これのおかげで離散ユダヤ人は共同体を作り上げることができた。社会学者のエリアタール・ゼルバヴェルが言うように、もし暦に記録されていなかったら失われてしまったかもしれない集団記憶を、彼らが保つことができたのは、安息日のおかげなのだ。

イスラム教は祭りが特定の季節と結びつかない唯一の宗教

暦の相違点を強調すること、それは独立した共同体を作るのだという決意を表明することである。632年、死を目前に控えたムハンマドは、時の区分法に関して重大な決定を下した。それまでアラビア部族は太陰太陽暦を使っていたが、ムハンマドは閏月挿入の原則をしりぞけたのだ。そのような操作は神に喜ばれない、というのがその理由だった。彼は暦を変更が許されないものにし、地球のリズムと無関係なものにしようとした。月だけを唯一の指針としたのだ。

こうしてムハンマドは、太陰暦の基礎を敷くことによってイスラム信徒のアイデンティティーを強化し、他のアラビア部族から引き離し、他の経典宗教(太陰太陽暦のユダヤ教と太陽暦のキリスト教)との違いを明確にした。この違いは、金曜日を神の日と定めることでいっそう強調された。キリスト教徒が安息日の翌日と決めていたので、ムハンマドは前日を選んだのである。

違いを明確にしようという彼の決意は、一方で思わぬ結果をまねいた。太陰暦が農耕に使えないため、農民たちはキリスト教暦を併用しはじめたのだ。

『時の終りについての対話』~ミレニアムの呪縛

古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドは、ミレニアムの呪縛を次のように読み解いている。

天のしくみは、日、朔望月、年といった現実に存在する周期をつくりだした(ほとんどすべての文化の暦がその存在を知っている)。だがわれわれ、少なくとも西洋人は、それより長い周期も考えだした(世紀と、とくに千年紀)。その定義は厳密きわまりないが、長さはまったく恣意的に決められている。物理学的および生物学的自然のなかに、10や100を周期として動くものなど何もありはしない。したがって世紀末の不安も、〔世界の終わりと信じられた〕西暦1000年の〔恐怖〕をめぐる論争も、2000年に起こるといわれる出来事についての論争も、もとはといえばわれわれが十進法と、特定の年にがらりと表示が変わる位取り記数法を採用したせいなのだ(1999年から2000年への移行のように、年数表示の数字が4つとも変わるのは千年に一度しかない)。極端な話、人間の手指が10本であるという生物学的事実にもとづいて、十進法は自然だと言ってもかまわないかもしれない。けれどもわれわれの指が10本なのは歴史の偶然にすぎない。はじめて地球に現れた脊椎動物は、それぞれの手に6ないし8本の指をもっていた。そしてその後、指の数が5本に減ったのは、必然的な進化だとは考えられないのである。

まず数表記の持つこの奇妙な性質を頭に入れてほしい。そこに人間的な特徴を二つ付け加える。一つ目は、一見混沌としているこの世界にある種の規則性が成り立っていてほしいという心理的欲求、世界の意味を解明し、涙の谷に慰めを見いだしたいという願望である。二つ目は、この願いに答えるためにわれわれの社会が作り上げてきた特別な神話、たとえば、もうすぐイエスが降臨して至福の千年間地上を支配するというような、『ヨハネの黙示録』20章にもとづく終末論信仰である。

われわれがミレニアムにかくも幻惑されるという事実、そこにこそ人間の本性のもっとも基本的かつ逆説的な特徴があらわれている。その特徴は人類の歴史を通じて、良きにつけ悪しきにつけ(後者のほうが断然多いが)たえず発揮されてきた。人間は構造を探し求める生き物なのだ。われわれはまわりの環境に秩序を見出さずにはいられない。その秩序に意味があろうとなかろうと、われわれの考えるような究極原因があろうとなかろうと・・・・・。

それほど必要としているこの秩序を探し求めるうち、人間は自分が物語作家であることを発見した。言いかえるとわれわれには、歴史事件の連なりに意味を見出したい(あるいは、部外者からみると、意味などなさそうに思えるものを解釈したい)という欲求があり、一貫性のある物語、たいていはわれわれのちっぽけな惨めさ軽減してくれるような寓話をつくりたいという欲求があるのだ。ところが自然界では、お気に入りの物語の筋書き通りに事が運んでくれないものだから、われわれは業を煮やして、歴史に起こる規則的な現象や不規則な現象について、しばしばまちがった説明をでっちあげるのである。

Momo1_2  モモ と カシオペイア

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