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2010年2月 2日 (火)

164『半島へ、ふたたび』 蓮池薫 初版2009年

納豆は僕の大好物だった
北朝鮮で暮らしながらも 納豆が切ないほど恋しく

それを知った家内は 不利な条件のなか何度となく納豆作りに挑戦してくれた
しかし なかなかうなくはいかなかった
うまくいかないと 大豆が腐ったり 不気味なカビが生えたり・・・

それでも捨てるのが勿体なくて無理に食べると
次の日は必ず下痢に苦しむ

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ski概要

「あれ、朝鮮半島じゃない!?」家内の声に飛行機の窓から覗き見る。その瞬間、僕のなかでおぞましい24年の歳月が甦った。初めて訪れた韓国(ソウル)。初めて明かす、北朝鮮、拉致への思い―。万感胸に迫る手記。    

ski読むきっかけ&目的&感想

本書の存在は、昨年7月に、第8回新潮ドキュメント賞受賞の記事で知った。拉致被害者だった蓮池薫さんが、日本に帰ってきて何を思っているのか、少しでも知る事が出来ればいいな、と思って読んでみた。

さくら好み ★★★★★

読んで良かった。以前、兄の蓮池透さんの『拉致 左右の垣根を超えた闘いへ』を読んだときに感じた、違和感のようなものが無くなった。本書を読むと、兄・透さんが弟・薫さんからどんな影響を受けたのかが想像できる。透さんが変わったのは、薫さんの影響がかなり大きいのだろう。

蓮池薫さんが北朝鮮での生活を回想する中、どんなに日本が恋しかったかという事が感じられるエピソードには、胸が締め付けられる思いがした。蓮池さん家族が日本に帰って来る事が出来て本当に良かった、そう素直に思える本だった。

ski覚書

◆「一時帰国」で目にした東京の夜景

東京の夜景には、一生忘れられない思い出がある。2002年10月15日、北朝鮮から「一時帰国」という名目で24年ぶりに帰国したとき、僕たちは赤坂プリンスホテルに泊まった。都心であり、しかも部屋も最上階のほうだったので、さぞかし夜景がきれいだったに違いない。ところが窓は厚めのカーテンで閉ざされ、決して開けないようにとまわりから言われた。周囲のビル群に潜んだマスコミのカメラが、虎視眈々と僕たちを狙っているというのだ。24年ぶりなのに、祖国の夜景もおちおちと見られないのだ。

実はその夜、東京散策を希望していたのに、これも控えるようにと言われていた。マスコミ取材の過熱ぶりに、驚きや戸惑いとともに、ちょっぴり苛立たしさも感じた。でも、そのままおとなしく寝るわけにはいかなかった。僕と家内は、町が寝静まったころ、深夜部屋の電気を消したままそうっとカーテンを開けた。

明るかった。本当に「夢」のような明るさだった。二度と見ることができないと諦めていた明かりだった。ほんの24時間前までは、暗い「ピョンヤンの夜」を見ていたのに、今、自分の目の前には、光溢れる「東京の夜」があるのだ。

この一日の違い、昨日と今日の光のコントラストに当時の激動の出来事が凝縮されているように思えた。

さらにこの明暗は、24年前の、思い出すのも忌々しい事件をも蘇らせた。捕縛され、ボートで運ばれながら、殴られて腫れ上がったまぶたのすき間から見た最後の日本の姿は、故郷柏崎のほんわかとやさしい夜景だった。その二日後、北朝鮮に着いて目にしたのは、冷たく暗い清津の夜景だった。

◆鳥になり南へ飛んで行きたい

イムジン河  蓮池薫 訳

イムジン河の清らかな水 とうとうと流れゆく
鳥の群れは自由に飛び交い 渡っていくけれど
わが故郷 南の地は 行きたくても行けないところ
イムジン河よ その恨を乗せ 流れゆくのか
鳥になって自由に南に飛んでいきたい

北朝鮮に拉致されて20年近く、「帰国」という二文字を心から消し去り、ひたすら子どものために生きてきたつもりだった。だけど、心のどこかでは、望郷の念、日本に帰りたいという気持ちを消しきれずにいたようだ。この歌は、僕に鳥の帰巣本能にも似た郷愁の思いを呼び起こさせた。

鳥になってイムジン河さえ越えれば、韓国に行ける。その韓国はいまやサッカーのワールドカップをも共催するほど日本にとって「近くて近い国」になっている。北から逃れることができ、自由になれるという意味では、韓国も日本も同じ・・・・・そんな思いだったのかもしれない。

自由路を走っていると、そのときの「イムジン河」のメロディーが浮かんできた。

今度は、自分ではなく、いまだ帰国を果たせずにいる拉致被害者の人たちへの思いとともに・・・・・。彼らも「イムジン河」の歌を聞いたなら、強い望郷の念にかられるに違いない。

どうか早く彼らの背中に帰国への自由な翼をつけてあげてほしい。

僕は日本政府に対し、こう願わずにはいられなかった。

◆米のできに一喜一憂したあの頃

農業に気を遣うのは、慢性的な食糧難に苦しむ北朝鮮での生活のなかで、自然に身についた習慣といえる。毎年の作況が国民の生活にあれほど大きく影響するところもないだろう。だから、そこに住む人たちは、毎年の作況や自然災害、雨の降り具合に異常なまでの関心を寄せる。

もともと農家出身だった僕だが、日本では米のでき具合を気にかけたことなど一度もなかった。毎日その米を食べていたにもかかわらず。

でも、北朝鮮での生活では、いつのまにか農作物の作況に関する噂に一喜一憂ようにまでなっていた。おそらく、勉学のために親元を離れて暮らしている子どもたちが飢えることへの憂いからだったのだろう・・・・・。

◆西大門刑務所歴史館が伝える“反日教育”ではないもの

西大門刑務所は、日本政府によって1908年に建てられた。1908年といえば、日韓併合の二年前なのに、刑務所が作られたという事実は、すでにそのときから朝鮮が完全な日本の植民地支配下に入っていたということを意味する。

ガイドなしに見て回っていて、何よりも印象に残ったのは、保安課庁舎内地下にある拷問室だった。ことのほか悪辣そうな形相をした日帝の警察官と苦痛に満ちた表情の被疑者たちの蝋人形が、録音テープから流れる生々しい怒声や呻き声とともに、拷問の場面を再現している。

悲惨、残忍、冷酷。そんな言葉が一度に頭に浮かぶ。天井からの逆さ吊りやトウガラシ入りの水責めなどは序の口で、電気ショック、指と爪のあいだへの金属棒の挿入、女性への性的拷問など、これでもかこれでもかと畳み掛けてくる。北朝鮮での“反日教育”で慣らされているからと高をくくっていた僕だが、つい目を背けてしまう。

次の瞬間、不可解なことに出会う。小学一年生くらいの韓国人の女の子が、拷問の再現シーンを見て声を上げて泣いているにもかかわらず、引率の教員らしき女性は、その子の手を取って見学を続けようとしている。明らかに女の子は恐怖におののいているのに・・・・・。(幼い女の子に恐怖心を与えるだけの残虐な場面を、わざわざ見せようとする理由は何なのだろう。もう少し大きくなってからでも遅くないではないか)

正直、僕は理解できなかった。いたずらに若い世代の反日教育を煽るだけのことになりかねないと思ったからだ。押さないときに受けた衝撃は一生消えず、トラウマのように尾をひく。日本人と言うものを具体的に見ようとせず、頭から全否定するような人間になりはしないか。そして、ここを通してそういう子どもたちが増えていったら・・・・・。それが怖かった。

でも、このような現地教育が、決して反日感情を植え付けることだけを目的にしているのではないことを、あとで知ることになる。

西大門刑務所歴史館の展示コースの終着点には、見学後の感想を大きめの付箋紙に書いて貼り付ける掲示板があった。文字や内容からして韓国の若い世代が書いたものと推測されるものが多かった。

かわいい文字のメッセージを一枚一枚読んでいくと、「あれっ」と思うことがあった。反日的な内容は意外に少なく、愛国烈士たちに対する感謝と尊敬の念、そして彼らの精神を見習って、自分も国をしっかりと守っていくという決意の表明が大半を占めているのだった。

もちろん、なかには、「日本が悪い!」、「殺してやる!」、といった直裁的な非難もあるにはあったが、反日的なものは、全体で150あまりのメッセージのうち、わずか五つほどだった。「怖かった」、「ご飯も食べられず、拷問されて可哀そう」という、子どもらしく正直な感想も2,3にすぎない。残りは感謝であり、尊敬であり、決意なのだ。

僕は、目に見える展示物だけにとらわれて、ここでは反日教育だけが行なわれていると断定することは短絡的なのかもしれないと思った。学校の先生が幼い生徒たちをここに連れてきて教えようとしているのは、どうやら「日本が悪い!」ではなく「今の自分がいるのは誰のおかげ?」「そのありがたい人から何を見習い、どうしなければならないの?」というメッセージのような気がしてきたのだ。

なぜか少し救われる思いがすると同時に、周辺国の干渉や侵略のなかで生きてきた韓国の、長い受難の歴史が思い浮かんだ。ただ日本の植民地時代に対するメッセージではなく、韓国の長い歴史に対する教訓メッセージのようにも思えたのだ。

掲示板には日本人の見学者が書いたメッセージもあった。「過去の誤りを二度と繰り返さないようにしたい。お互いの友好をいつまでも」、「末永く刑務所として残し、歴史を教えてください」。日韓共通の強い意志が感じられた。

日本が韓国を植民地支配した過去は、韓国人も繰り返したくないし、日本人も繰り返したくないのだ。

◆韓国と北朝鮮が一つの民族であることも改めて認識

今回の旅行を通して、また、韓国と北朝鮮が、古朝鮮、三国時代から継承されてきた同じ伝統文化の根を持つ、一つの民族であることも改めて認識した。たとえ中国が朝鮮の古代国家、高句麗を中国の地方国家だったと主張したとしても、朝鮮民族の文化的独自性と共通性は決して覆されるものではないことを確信した。

血は水より濃いというが、やはりそうだった。あれだけ、国家の政治及び社会体制、思想理念が違うにもかかわらず、衣食住を始め、社会・生活の伝統的な部分は、ほとんど同じだった。もちろん、物資・技術的な発展において差はあるが、それは現代になってからの現象であり、民族の根とはなんら関係がない。僕に連想をもたらしたものは、キムチや、かまど、チマチョゴリなど、まさに南北間の共通性だった。

◆異文化コミュニケーションとは?

――文化とは「暮らしの仕方」をいう。その暮らしとは、「こころ(暮らしのなかで育まれた感覚、感情、価値観)」と「言葉(言語)」と「仕事(それぞれの暮らしを成り立たせるための活動)」の三つに分けられる。これらの文化は世界各国、地域によって違う。つまりそれぞれが異文化を持っている。

一方、コミュニケーションとはお互い考えていることや感じていることを伝えあうこと。

このふたつの概念を合わせた「異文化コミュニケーション」は、単なる文化を持った人たちが、心と言語をやり取りし、ともに活動する良好な関係を作っていくことをいう――。

◆「党や国家のおかげ」などではなく

この5年のあいだに、翻訳本は16冊を数え、書き下ろし本も2冊出すことができた。振り返ってみると、この5年は翻訳が生業として定着していく過程であると同時に、人生で夢を追い求めることのうれしさ、ありがたさを噛みしめてきた過程でもあった。

人間にとって仕事がすべてとは言えないが、時間やエネルギー消耗の面でも、また生き甲斐の面でも、仕事が人生の半分以上の重みを占めていると思う。特に人生の絶頂期ともいえる青春時代の24年間を北朝鮮に奪われた僕にとって、それを取り戻す手段は、没頭できる仕事であって、ぜいたくに遊び呆けることなどでは決してなかった。

仕事を楽しみ、仕事に熟達するための努力を楽しみ、仕事によって得た果実を楽しむ。これが、最大の生き甲斐である。だから仕事の虫だと言われてもかまわない。自分の目標を持ち、その実現のために努力するという、ごく普通の「夢」が長い間閉ざされてきたことへの反動なのだろう。「党や国家のおかげ」などではなく、自分の力で、子どもを育て上げる喜びも味わいたかった。親としてはあまりに当然のことだが、北にいた僕にとっては、叶わない夢であり、希望だったのだ。自分や家族のために、朝早く起き、頭を抱えて知恵を絞り、ワープロを打っているとき、ふと幸せを感じる。24年間の悔しさが少しなだめられたような気持ちになれる瞬間だ。

ski著者

蓮池 薫

1957年新潟県生まれ。新潟産業大学専任講師。中央大学法学部三年在学中に拉致され、二十四年間、北朝鮮での生活を余儀なくされる。帰国後、中央大学に 復学。2005年、初の翻訳書『孤将』を刊行。2008年3月、大学卒業。訳書多数。著書もあり。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたも のです)

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