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2010年1月26日 (火)

163『バカの壁』 養老孟司 初版2003年

「話せばわかる」は大嘘

「わかっている」という怖さ

知識と常識は違う

現実とは何か

科学の怪しさ

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eyeglass概要

2003年を代表する大ベストセラーであり、タイトルがこの年の流行語にもなった本書は、著者の独白を文章にまとめるという実験的な試みであった。「人間 というものは、結局自分の脳に入ることしか理解できない」、これが著者の言うところの「バカの壁」であり、この概念を軸に戦争や犯罪、宗教、科学、教育、 経済など世界を見渡し、縦横無尽に斬ったのが本書である。

eyeglass読むきっかけ&目的&感想

コラムニストの神足裕司さんは、相手の誤解を無理して解こうと思わないらしい。というのも、その「誤解」というのは相手の価値観に基いているから、解こうとすると相手の価値観を覆さなくてはならなくなり、更に揉める事必須だから。そしてその価値観に、どちらが正しいという正解は無いから、「誤解」を解こうと思わなくなった。「誤解」があるまま人と付き合っている。

という様な事を話していた時に、養老孟司『バカの壁』の本の話が出た。“バカの壁”というのは‘相手の頭の中’にあるのではなく、一人一人それぞれ‘自分の頭の中’にある、という事を書いた本だと言うのを聞いて本書を読んでみたくなった。

さくら好み ★★★☆☆

コラムを読んでいるようで面白かった。

eyeglass覚書

◆「ありえない。どうしてそんなこと言えるんだ。お前は神様か」

私自身は、「客観的事実が存在する」というのはやはり最終的には信仰の領域だと思っています。なぜなら、突き詰めていけば、そんなことは誰にも確かめられないのですから。今の日本で一番怖いのは、それが信仰だと知らぬままに、そんなものが存在する、と信じている人が非常に多いことなのです。

ちなみに、その代表がNHKである、というのが私の持論です。NHKの報道は「公平・客観・中立」がモットーである、と堂々と唱えています。

「ありえない。どうしてそんなこと言えるんだ。お前は神様か」と言いたくもなってしまう。まあ神様とまでは言わなくても、「あなたは、イスラム教徒かキリスト教徒かユダヤ教徒なのか。そうじゃないのならば、どうしてそんな“正しさ”を簡単に平気で主張できるのか」と聞きたくなってしまいます。こうした「正しさ」を安易に信じる姿勢があるというのは、実は非常に怖いことなのです。現実はそう簡単にわかるものではない、という前提を真剣に考えることなく、ただ自分は「客観的である」と信じている。

◆常識を知っているということ

常識、コモンセンスとはどういうことでしょうか。十六世紀のフランスの思想家、モンテーニュが語っていた常識とは、簡単にいえば「誰が考えてもそうでしょ」ということです。それが絶対的な真実かどうかはともかくとして、「人間なら普通こうでしょ」ということは言えるはずだ、と。

モンテーニュは「こっちの世界なら当たり前でも向こうの世界ならそうじゃないことがある」ということを知っている人だった。もちろん「客観的事実」などを盲目的に信じてはいない。それが常識を知っているということなのです。

◆「“推測される”という風に書き直して下さい」

最近、私は林野庁と環境省の懇談会に出席しました。そこでは、日本が京都議定書を実行するにあたっての方策、予算を獲得して、林に手を入れていくこと等々が話し合われた。そこで出された答申の書き出しは、「CO2増加による地球温暖化によって次のようなことが起こる」となっていました。私は「これは“CO2増加によると推測される”という風に書き直して下さい」と注文をつけた。するとたちまち官僚から反論があった。「国際会議で世界の科学者の八割が、炭酸ガスが原因だと認めています」と言う。しかし、科学は多数決ではないのです。

「あなたがそう考えることが私は心配だ」と私は言いました。おそらく、行政がこんなに大規模に一つの科学的推論を採用して、それに基いて何かをする、というのはこれが初めてではないかと思う。その際に、後で実はその推論が間違っていたとなった時に、非常に問題が起こる可能性があるからです。

「科学的事実」と「科学的推論」は別物です。

◆名前は本人の成長に伴って変わって当たり前だった

現代では名前を一切変えなくなりました。昔は、幼名から元服して、名前を頻繁に変えていった。「名実ともに」という言葉にはその状態がよく出ている。

つまり、人間自体が変わるものだという前提に立っていれば、名前は本人の成長に伴って変わって当たり前なのです。五歳の自分と二十歳の自分は違うのだから、名前が変わっても不思議は無い。

逆に言えば、社会制度が固定されて、社会的役割が固定されてくれば、今度は襲名ということが当然出てくる。父親がやっていた仕事と同じ仕事を継ぐのであれば、父親と同じ名前のほうが社会的にははるかに便利。ですから、歌舞伎の世界でいえば、人は変わっても何回も「菊五郎」が登場していい。

◆都市に住むことは意識の世界に住むということ

脳化社会というのは、皆が思い思いに勝手に建物を作ってゴチャゴチャの状態の都市であろうが、最初から行政なり個人なりが全体をプロデュースして整然としている都市であろうが同じことです。「ウチの近所は都心のわりに公園が沢山あって緑が多いから自然の中で暮らしている」とかそういうものではありません。

基本的に都市に住んでいるということは、すなわち意識の世界に住んでいる、ということです。そして、意識の世界に完全に浸りきってしまうことによって無意識を忘れてしまう、という問題が生じてきた。

◆学者が政治をやってうまくいくわけがないというのは

人間をどういう状態に置いたら一番幸せなのか、ということは、政治が一番考えていくべきテーマです。実際には学者、哲学者が議論することが多いように思えますが、これはあまり意味が無い。しみじみ思うのですが、学者はどうしても、人間がどこまで物を理解できるかということを追求していく。言ってみれば、人間はどこまで利口かということを追いかける作業を仕事としている。逆に、政治家は、人間はどこまでバカかというのを読み切らないといけない。

しかし、大体、相手を利口だと思って説教しても駄目なのです。どのくらいバカかということが、はっきり見えていないと、説教、説得は出来ない。相手を動かせない。従って、多分、政治家は務まらない。

このように、学者と政治家はまったく反対の性質を持っている。学者が政治をやってうまくいくわけがないというのは、人間を見損なう、読み損なうことになりがちだからです。

◆一元論にはまれば強固な壁の中に住むことになる

安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。

eyeglass著者

Ph2 養老 孟司(ようろう たけし、1937年11月11日 - )は、解剖学者。東京大学名誉教授。専門は解剖学。神奈川県鎌倉市出身。

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