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2009年11月 5日 (木)

140『ワイルド・スワン』 ユン・チアン 初版1993年

纏足(てんそく)を強いられた最後の世代で
          15歳で軍閥将軍の妾になった祖母

日本の過酷な占領政策を体験し
          夫とともに共産党で昇進する母

家族ともども文化大革命に翻弄され
          イギリス留学を果たす著者

・・・本書が中国本土で出版される見込みはまったくないとされる

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scorpius原題

Wild Swans: Three Daughters of China (London, 1991)

scorpius概要

激動の中国近代史を背景に、清朝末期の錦州で祖母の誕生からユン・チアンの1978年のイギリス留学までの一族の苦難の歴史を冷静な目でとらえた傑作。文化大革命の混乱と狂気なかに青春を過ごし一族への迫害に耐え毛沢東の真実の姿に目覚めていく自分自身を描いている。

scorpius読むきっかけ&目的&感想

個人の視点で描いた中国の近代史、というのに惹かれて読んでみた。

好みの度合 ★★★★

祖母の、纏足した足で一ヶ月以上の長旅をして娘の様子を見に行ったり、起きるのもままならない体調不良なのに、美味しいものを孫に食べさせようと台所に立ち続ける姿に、目頭が熱くなった。夏先生の、慣習に左右されない独立した価値観は、凄いと思った。父親の、信念と家族愛が両立しないため苦しみ続ける姿に、色々と考えさせられた。母親の、この時代にあって子供たちの個性を損なわない育て方、家族よりも信念を優先させる夫に不満を抱くこともあったけど、変わらず愛し続けた逞しさは、凄くかっこいいと思った。著者の、目まぐるしく変化していく権力構造に家族ともども翻弄されながらも、確かなものの見方を身につけ成長していく様に、「個」を失わない大切さを知った。

かなり悲惨な時代状況が描かれてはいたけど、その中で著者の家族の強い絆が暖かい感情を味あわせてくれた。すごく面白かった。

scorpius覚書

◆曽祖父 「役人になれば権力が手にはいる」

曽祖父は、楊家のひとり息子だった。つまり、一家にとってきわめて貴重な存在だったわけである。家名を継ぐことができるのは、男子だけだ。男子がなければ、家系は断絶してしまう。中国人にとって、これ以上ご先祖様に申し訳の立たぬ不幸はない。曽祖父は、りっぱな学校に通わされた。目標は、上級官吏試験に合格することだ。フェルト職人だった曽祖父の父親は、息子には家業を継がせまいと決め、自分と家族の生活を犠牲にして息子の教育費を捻出した。

当時は、男ならだれでも上級官吏をこころざした。役人になれば、権力が手にはいる。権力があれば、金が手にはいる。金か力がなければ、いつなんどき役人に家財を没収され殴る蹴るの暴行を受けるか、知れたものではない。中国には、きちんとした法制度が存在したことがないのだ。正義も残虐な刑罰も、為政者の気の向くままにおこなわれていた。権力を握っている役人こそが、法律だったのである。貴族以外の者がこの不正と恐怖の渦からぬけだす道は、役人になる以外になかった。

清朝滅亡。中華民国成立。軍閥の混戦。

蒋介石ひきいる国民党政府が中国の大部分を統一。

日本が満州を侵略。日本軍が義県、錦州を占領。「満州国」成立。皇帝溥儀。 

長征。中国共産党、延安へ。

◆子連れだった祖母の再婚 「家族内での礼儀作法」

夏先生は三人の息子を書斎に呼び集めて、自分の考えを打ちあけた。あっけにとられた息子たちは、重苦しい空気のなかで盗むように視線を交換しあった。やがて、長男が口を開いた。「それは、つまり、その人を妾としてお迎えになりたいということでしょうか」。いや、正式な妻として迎えようと思っている、と先生は答えた。

これはたいへんなことだ。その人が自分たちの継母ということになる。その人を自分たちより上の世代に属する人として、また父親と対等な地位にある人として、うやまい礼儀をつくさなくてはならない。中国の家庭では年少の者が年長者に逆らうことは許されず、長幼の序が厳然としてある。

そのうえ、夏先生の家ではさらに厳格な満州式の礼儀作法がおこなわれていた。毎朝毎晩、若い世代の者は年長者の部屋へ挨拶に行き、男はひざまずき女は膝を折ってお辞儀をする。祭礼のときには、男たちは正式な叩頭の礼をするしきたりだった。

祖母はもと妾であり、年齢も先生とはずいぶん離れていた。つまり夏先生の息子たちは、自分たちよりも地位が低く、しかもずっと年下の女性に対して、恭順の意を表さなくてはならない。それは耐えがたい屈辱だった。

◆回避すべき悲劇だった「世代別別居」

家の中の空気は耐えがたかった。夏先生は家を出る以外にないと決心したのだった。家を出るというのは、なまなかな決意ではない。中国では、何世代もの親族がひとつ屋根の下でいっしょに暮らすのが名誉とされていた。五世代が同居していた一族を記念して「五世同堂」と名づけられた横丁まであったほどだ。大家族の崩壊は、何をおいても回避すべき悲劇であった。しかし夏先生は、責任が軽くなるのはありがたいと言って、祖母の前では快活にふるまっていた。

夏先生は、すべての財産を子供たちに分け与えた。自分の手もとに残したのは、先祖が満州皇帝から賜った品々だけだった。

◆恐ろしい罰があると考えられていた「再婚」

ある年のこと、母は祖母につれられて町の守護神を祀ったお寺の祭礼に行った。あちこちに屋台が立ち大勢の人でごったがえす境内には、塑像のくりひろげる光景が十二組ばかり展示してあった。どれも、人の道を教えるためのものだ。その恐ろしい光景をつぎからつぎへと説明しながら、祖母は楽しげであった。だが、ひとつだけ、祖母がひとことの説明もなしに母をせき立てて通りすぎたところがあった。

後年になって、母はそれが何であったかを知った。それは、一人の女を二人の男がのこぎりで半分に切ろうとしている場面だったのである。その女は夫に死に別れたあと再婚したので、二人の男が半分ずつに切って分けているのだった。当時、未亡人になった女たちはこの罰が恐ろしいばかりに、どんなに惨めな思いをしても空閨を守った。家族から再婚するよう強いられて自殺する者さえいた。

夏先生との再婚が祖母にとってどんなにたいへんな決心であったかを、母ははじめて知ったのであった。

◆日本人のためだけに存在する「地上の楽園 満州国」

教師たちは、満州国こそ地上の楽園であると教えた。だが、この国が楽園と呼べるとしたら、それは日本人のためだけに存在する――母のように幼い者さえ、そう感じていた。日本人の子供たちは、中国人とは違う学校に通った。日本人の学校は設備が立派で、暖房もよくきき、床も窓ガラスもぴかぴかに磨いてあった。中国人の学校は、荒れはてた寺か、だれかが寄付した倒壊寸前の家だった。暖房はない。冬になると、寒さをまぎらすために、授業の最中にクラス全員で近所をひとまわり走ったり、部屋の中で足ぶみしたりしなくてはならなかった。

教師は、ほとんどが日本人だった。教え方も日本式で、教師は平気で生徒を殴った。女生徒の髪は耳たぶの一センチ下で切りそろえること、といったような校則や礼儀作法をほんの少しでも破ろうものなら、ビンタが飛んできた。男子も女子も、顔を思いっきり平手で殴られた。男子生徒は、こん棒で頭を殴られることも珍しくなかった。雪の中に何時間もひざまづかせる体罰もあった。

中国人の子供が町で日本人とすれちがう時は、たとえ相手の日本人が自分より年下でも、頭を下げて道をゆずらねばならなかった。日本人の子供たちは、よく中国人の子供をつかまえては理由もなしに殴った。先生とすれちがうときも、うやうやしくお辞儀をしなくてはならない。日本人の先生は草原を駆けぬけるつむじ風みたいね、通りすぎる端から草がなぎたおされていくわ、と母は友人と冗談を言い合った。

となりの日本人の奥さんは、祖母のところへよく遊びに来た。夫がほとんど家にいないので淋しいらしかった。日本人の奥さんが酒を持って来て、祖母が野菜の漬け物などおつまみを用意する。祖母は片言の日本語を話し、となりの奥さんは片言の中国語を話す。ふたりで歌を口ずさむこともあった。感情が高ぶると、ふたりは涙ぐんでしまうこともあった。

だが、日本軍の蛮行は、母たちの耳にもはいってくるようになった。満州北部では広い範囲にわたって日本軍が村落を焼き払い、焼け出された人々を「戦略村」に追いこんでいた。人口の六分の一にあたる五百万人以上がこのようにして家を失い、何万もの人々が命を失った。日本に向けて輸出する鉱産物を掘り出すために中国人労働者が駆り出され、日本兵の監視のもとで疲弊して死ぬまで働かされた。満州は、鉱物資源に恵まれていた。中国人労働者の多くは塩分も満足に与えられず、逃亡するだけの体力もなかった。

教育の一環として、母たち女学生は日本軍の戦況を収めたニュース映画を見せられた。日本の軍人は、自分たちの残虐行為を恥じるどころか、逆にそれを誇示して少女たちの心に恐怖をうえつけようとした。ニュース映画には、日本兵が人間をまっぷたつに切り捨てるシーンや、囚人を杭に縛りつけて野犬に食いちぎらせるシーンが映っていた。犬のえじきにされる囚人が恐怖に目を見開いた表情を、カメラは長々と大写しにして見せた。十一歳と十二歳の女学生たちが目をつぶらないように、叫び声を止めようとして口にハンカチを押しこまないように、映画のあいだじゅう日本人が見張っていた。母は、その後何年も悪夢にうなされたという。

◆中秋節の月  「一家のまとまり」

中国の暦の八番目の月の十五番目の夜は、中秋節といって一家団らんの節句だ。中秋節の夜、祖母は毎年しきたりに従って月光のさしかける庭にテーブルを出し、瓜や月餅や丸い形の包子を供えた。中国語で「丸い」とか「欠けたところのない」という意味の「円」には、「一家のまとまり」という意味もある。秋の月は、この中秋節にとりわけ丸く美しくかがやく。この日は、口にする食物も、すべて丸い形でなくてはならない。

さやかな月光の下で、母は月の話を聞いた。月にうつっているいちばん大きな影は桂の巨木で、呉剛という武人が斧で木を切ろうとしている。ところが、桂の木には魔法がかかっていて切っても切ってもすぐ元どおりになってしまうので、呉剛は永遠に斧をふるいつづけなければならない・・・・・。母は夜空を見上げ、祖母の語る話に夢中で耳を傾けた。

◆日本敗戦

八月八日、日本の勝利を祈願するために女学校の生徒は全員神社に参拝せよ、という命令が伝達された。その翌日、ソビエトとモンゴルの軍隊が満州国に進軍してきた。アメリカが日本に原子爆弾を二発落としたというニュースが伝わり、町の人々は手をたたいて喜んだ。それに続く何日かは、空襲におびえながらすごした。学校は休みになり、母は家で防空壕を掘った。

八月十三日、日本が講和を求めているようだというニュースを聞いた。二日後、役所に勤めているとなりの中国人がとびこんできて、ラジオで重大な放送があるらしいと教えてくれた。夏先生は仕事を中断し、祖母といっしょに中庭に出てラジオに耳を傾けた。アナウンサーが、日本の天皇が降伏したというニュースを読み上げた。それにつづいて、溥儀が満州国皇帝を退位したというニュースを読み上げた。人々は有頂天になって通りに飛び出した。

◆ロシア兵による「解放」

八月二十三日、隣組の組長から連絡がまわってきた。あした鉄道の駅にロシア兵が着くから歓迎に行くように、ということだった。およそ千人にのぼるソ連軍が錦州に駐留することになった。はじめのうち、町の人々は日本軍を追い払ってくれたロシア兵を歓迎した。だが、ロシア兵はロシア兵で、べつの問題を持ち込んできた。

ロシア兵は工場に残っていた物資を分配するだけでなく、工場そのものを解体しはじめた。ロシア兵は賠償金のかわりだと言ったが、中国人から見れば産業に大打撃を与える略奪行為にほかならない。

ロシア兵は勝手に家にあがりこみ、気に入ったものを何でも持っていった。特に時計と衣類が好きだった。中国人女性がロシア兵に強姦されたという噂が、町中に野火のように広がった。日本の支配から自分たちを「解放」してくれた兵隊を恐れて、女たちは身を隠すようになった。やがて、錦州の町には不安と怒りが渦巻きはじめた。

◆毛沢東の共産党 vs 蒋介石の国民党

日本の降伏をうけて、共産党も国民党もできるだけ広い地域を支配化におさめようとしたが、国民党のほうが軍事力においてはるかに勝っていた。それまでの八年間、国民党と共産党の内戦は、日本と戦うために一時休戦になっていた。いまや、双方とも内戦再開を前にして、拠点確保にしのぎを削っていた。というより国共内戦は事実上すでに始まっていた。

満州は、経済的価値からいって非常に重要な地域であった。共産党勢力は、たまたま終戦時に部隊が近くにあったおかげで、先に満州に乗りこんだ。ロシアからの軍事的援助はほとんど受けなかった。ところが、同じように満州に勢力を確立しようとしていた蒋介石の背後にはアメリカがついていて、何万人もの国民党部隊を海路送りこんできた。

ソ連は、蒋介石ひきいる国民党政府を中国の政府として正式に承認した。勝利から三ヶ月以内に撤退するというスターリンの約束どおり、ソ連の赤軍は十月十一日までに錦州周辺から姿を消し、満州北部へ退いた。

その結果、錦州の城内に残る支配勢力は中国共産党だけになった。十一月も終わりに近づいたある晩のこと、共産党は町を出て行った。この時の撤退は、共産党の指導者毛沢東の戦略によるものであった。毛沢東は、国民党が軍事的優位を握っている都市部にはとどまらず、農村部に退いて戦う、という方針をうちだしていた。「革命農村をもって都市を包囲し、最後に都市を占領する」というのが、新局面をめざす毛沢東の方針だったのである。

中国共産党が錦州から撤収したつぎの日、また新しい軍隊が入城してきた。四ヶ月の間に四つの軍隊である。こんどの部隊は、こざっぱりした軍服を身に着け、アメリカ製の新品でぴかぴかの武器を持っていた。これが国民党だった。町の人たちは家から走り出てぬかるんだ路地に集まり、手をたたいて歓声をあげた。錦州は、お祭り気分に浮かれていた。

だが、国民党に対して人々が抱いた好感は、すぐに苦々しい落胆に変わった。将校の大多数は他の地方から来た者で、満州の人々を見下して「亡国奴」(国なき奴隷の民)と呼び、日本の支配から解放してやった国民党にどれほど感謝すべきか、と説教を垂れたのだ。国民党の将校たちが先を争って妾を囲ったことも、母の嫌悪を誘った。

◆共産党員である父と母の「結婚」

ハルピンからもどって二ヶ月たらずで、父と母は結婚の申請をした。それまでの中国では結婚は家と家の契約であって、役所に届ける必要もなければ結婚証明書も存在しなかった。しかしこれからは、「革命参加者」については党が家長の役割を果たすことになる。結婚が許される基準は、「二十八・七・団・一」――すなわち、男性が二十八歳以上であること、党員暦が七年以上あること、連隊長と同等かそれ以上の地位にあること、である。最後の「一」だけが女性に要求される基準で、党のために一年以上働いたこと、という意味だった。

父は、中国式の年の数え方(生まれたときを一歳と数える)で二十八歳になっていた。党員暦は十年以上で、福師団長に相当する地位にあった。母は正式な党員ではなかったが、地下活動員として共産党に協力していた前歴が「一」の基準に合致すると認められた。それに、ハルピンから戻ってからは、女性問題をあつかう婦女連合会という組織で正規の職員として働き始めていた。

婦連の仕事は、妾を解放したり、売春宿を閉鎖したり、女性を軍靴の製作に動員したり、女性のための教育・授産施設を作ったり、女性の人権意識を高めたり、女性が意思に反して結婚させられることのないように力を貸したりすることだった。婦女連合が、母の所属する「単位」(職場)になった。都市部の人間は、全員いずれかの「単位」にはいらなくてはならない。「単位」は、党の完全な管理下におかれる。人々の生活は、軍隊と同じように一から十まですべての面で「単位」によって統制されることになる。母の場合なら、婦連から割り当てられた敷地内で寝起きし、結婚するにも婦連の許可が必要ということになる。ただし、父のほうが職階が高いので、婦連は父の「単位」に決定権をゆだねた。

◆「ブルジョワ的堕落」と非難

兵隊がはく木綿の靴を作るのは、婦連の大切な仕事だった。母は靴の作り方を知らなかったので、祖母や叔母たちに頼んで作ってもらった。この人たちは小さい頃から入念に刺繍した美しい靴を作ってきたから、木綿の靴などお手の物だった。母は、割り当てよりはるかに多くのみごとな出来ばえの軍靴を、得意満面で提出した。ところが予想外のことに、母はほめられるどころか頭ごなしに叱られた。農民出身の上司は、この世に靴の作り方も知らない女がいようとは思いもよらなかったらしい。母は婦連の集会で「ブルジョワ的堕落」を非難されるはめになった。

婦連の上司のなかには、母のことをおもしろく思っていない人たちがいた。上司の多くはゲリラとともに何年間も強行軍を耐えぬいてきた年増の保守的な百姓女で、母たちのように可愛くて頭のいい都会育ちの女の子が男性党員の人気をさらってしまうのを恨んでいた。

実家へ帰るだけでも、そのたびに批判された。「家庭を重視しすぎる」のは「ブルジョワ的習慣」であると非難され、母親に会いに行く回数を減らさなければならないと言われた。

◆結婚後の父と母 「恋愛を優先させた」と非難

当時、革命参加者は土曜日だけしか職場を離れてはいけないという不文律があった。母の宿舎は、婦連の敷地内にあった。婦連の敷地と父の宿舎のあいだは、低い土塀で仕切られていた。夜になると母は土塀を乗り越え小さな庭を横切って父の部屋へ行き、夜が明ける前に自分の部屋にもどって来るのだった。だが、これはすぐに見つかって、父と母は党の集会で批判されることになった。

共産党が進めていた急進的な改革の対象は、組織のみならず人々の生活、とくに「革命に参加した者たち」の生活にまでおよんだ。つまり、これからは個人的なこともすべて政治的な意味をもつようになる。さらに言えば、これからは「個人的」とか「私的」とかいうこと自体がなくなる。取るにたらないことも「政治」というラベルがついたとたんに意味をもつようになり、集会はありとあらゆる私怨を晴らす場と化した。

父は口頭で、母は文書で、自己批判を要求された。革命を第一に考えなくてはならないときに、「恋愛を優先させた」からである。こんな非難は不当だ、と母は思った。自分の夫と寝ることが、革命にどう不都合だというのか。ゲリラ闘争のなかでならば理屈はわかるが、今はそんな時代ではない。

中華人民共和国成立。人民解放軍(中国共産党の軍事部門)、四川省を掌握。蒋介石、台湾へ逃亡。

土地改革。

中国、朝鮮戦争に参戦。

反革命鎮圧運動。三反運動。五反運動。隠蔵反革命分子摘発運動。

商工業国有化政策。

反右翼闘争。

人民公社設立。

◆階級によってグレードが違う家屋や特権

私は、階級や特権の存在をごくあたりまえのことと思って大きくなった。

◆「資本主義の国より恵まれているんだよ」

「参考片」は、西洋がいかに頽廃した世界であるかを見せようとしたのだと思う。「参考片」を見られるのは党の幹部に限られ、しかも幹部でさえ、西洋世界の実態はほとんど知らなかった。ときどき、西洋の映画が年少者立ち入り禁止の小さな映写室で上映されることがあった。私は見たくて見たくて、両親に「つれていって」とせがんだ。二回ほど、願いがかなって連れていってもらえた。

映画に出てくる西側労働者の服装を見て、私の頭は混乱した。彼らはみな、ちゃんとしたスーツを着ている。つぎも当たっていない。私があたまの中に描いていた資本主義諸国の抑圧された労働者階級の粗末な身なりとは、はなはだしい隔たりがあった。映画のあとで母にこのことを尋ねたら、母は「相対的な生活水準」がどうしたとか言っていた。私には母の説明が理解できず、疑問はそのまま心のなかに残った。

子どものころ私が抱いていた西洋のイメージは、アンデルセンの『マッチ売りの少女』に出てくるような、貧しくてみじめで邪悪な世界だった。保育施設に預けられていたころ、食べ物を残そうとすると、「資本主義世界の飢えて死にかけている子どもたちのことを考えてごらんなさい!」と保母に叱られたものだ。学校では、子供たちに一所懸命勉強させようとして、教師がこんなことを言った。「きみたちは学校に来られて、本を読むことができて、恵まれているんだぞ。資本主義の国ではみんな腹をすかせているから、子供だって家計を支えるために働かなくてはならないんだ」。大人が子供に何か言いきかせるときには、「西洋の人たちは、したくてもできないんだよ。だから、ありがたいと思わなくちゃいけないよ」と言った。私も当然、そう考えるようになった。

◆「どうする? この子は右派分子の予備軍だよ!」

私より一年後に生まれた弟の京明は、私とちがって小さいころから独立した精神の持ち主だった。科学が大好きで、科学雑誌をたくさん読んでいた。こうした科学雑誌も政府の宣伝だらけだったが、それでも一応、西洋の科学技術の進歩を伝えていた。京明は、雑誌を読んで「すごい、すごい」と感嘆していた。レーザーやホヴァークラフトやヘリコプターやエレクトロニクスや自動車の写真を、食い入るように見ていた。西洋の「参考片」を見るときも、同じ目つきだった。そのうちに京明は、学校や新聞・ラジオや周囲の大人たちから聞かされる「資本主義世界は地獄で、中国は天国だ」という話はどうもおかしい、と思うようになった。

とくにアメリカは、いちばん技術の進んだ国として京明の憧れだった。ある日、十一歳だった京明は、夕飯を食べながら「アメリカでレーザーの新しい技術が開発されたんだって」と興奮した口調で家族みんなに説明したあと、父に向かって「アメリカって、すばらしい国だね」と言った。父は何と答えたものやら戸惑い、これは困ったぞ、という顔をした。そして京明の頭をなでながら、「どうする? この子は右派分子の予備軍だよ!」と母に言った。

◆毛沢東崇拝と階級闘争の強調

十三歳のある日、「訴苦会」で話を聞いてすっかり感情が高ぶった私は、その足で鄧ばあちゃまの家へ行った。国民党の悪政下に生きなければならなかった人々に対して同情の念でいっぱいになっていた私は、「鄧ばあちゃま、鄧ばあちゃまも悪辣な国民党の連中にひどい目に遭わされたんでしょう? 国民党の兵隊に掠奪されたりしたの? それに、強欲非道な地主! 地主にもひどいことされたんでしょう?」と、たてつづけに聞いた。「うーん、まあ、十人が十人とも掠奪してったわけではないねえ・・・・・。悪党ばっかりだったとも思わないし・・・・・」。鄧ばあちゃまのことばは、私には爆弾のようなショックだった。あんまりショックだったので、そのことはだれにも言わなかった。

毛沢東崇拝と階級闘争の強調が、じつは劉少国家主席と鄧小平党総書記をねらい打ちしようとする毛の策略の一部だとは、当時だれも想像さえしなかった。

◆「私はなんと幸せなんだろう」

私は目頭が熱くなった。「毛主席の偉大な時代に生きられるなんて、私はなんと幸せなんだろう。信じられないような幸福だわ」。私は心の中でそうくりかえしていた。「毛主席のいない世界で、いつの日か毛主席の姿をあおぎ見る希望さえ持たずに生きていかなければならない資本主義世界の子供たちは、なんと気の毒なことだろう」。不幸な資本主義世界の子供たちのために何かしてあげたい、あの子供たちを苦難の人生から救ってあげたい、と思った。世界革命を実現させるために、一所懸命勉強してもっと強い中国を建設しよう――その夜、私は自分自身に誓いを立てた。いつか毛主席に会えるような立派な人間になるためにも、しっかり勉強しようと思った。それこそが、まさに人生の目的だった。

文化大革命始まる。

文化大革命(無産階級文化大革命、プロレタリア文化大革命ともいう)は、封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しようという運動。実態は毛沢東らが引き起こした権力闘争である。

政治・社会・思想・文化の全般にわたる改革運動のはずであったが、実際にはほとんどの中華人民共和国の人民を巻き込んだ粛清運動として展開され、結果的に一時的な内戦へと発展、国内の主要な文化が破壊される惨事となった。

「二挺(アルテイン)」、四川省の実権を握る。四川省革命委員会成立。第九回全国代表大会で、文化大革命を正式承認。

◆これを天国と呼ぶなら、何を地獄と言うのか?

何もすることがないので、私は古典詩を作るようになった。はじめて自分で満足のいく作品ができたのは、一九六八年三月二十五日、十六歳の誕生日だった。誕生日が来たって、お祝いをするわけでもない。両親は、隔離審査で拘禁されていた。夜になった。あちこちで銃声がしていた。造反派の拡声器が、血も凍るようなおそろしい文句をがなり立てていた。そんな音を聞きながらベッドに横たわっていた私に、その夜、人生の転機が訪れた。

それまでずっと、私は自分が社会主義中国という天国に住んでいるのだと教えられ、それを信じてきた。資本主義の世界は地獄だと教えられ、それを信じてきた。けれどもいま、私の心に疑問があった。これを天国と呼ぶなら、何を地獄と言うのか? これ以上ひどい世界がほんとうにあるのかどうか、自分の目でたしかめてみたいと思った。生まれてはじめて、私ははっきりと自分の住んでいる国の体制がいやだと思った。どこか違う世界へ行きたいと思った。

「二挺(アルテイン)」、罷免される。

◆工場で働くということは一日たった八時間の労働ですむということだ

労働者になる以外に、私が選べる道はなかった。大多数の大学はまだ閉鎖されていたし、ほかの職業に就く方法もなかった。工場で働くということは、一日たった八時間の労働ですむということだ。夜明けから日暮れまで働かなければならなかった農村の暮らしより、ずっと楽だ。重いものも運ばなくてすむし、家族といっしょに暮らすこともできる。何より大きいのは、都市部に戸籍をもどせることだ。都市部に戸籍があれば、食料やその他の生活必需品は国が保証してくれる。

ニクソン訪中。

鄧小平復権。

◆あまり勉強熱心に見られすぎると非難の対象になった

文化大革命以前に発行された英語の教科書を学部の講師や京明に貸してもらって、ずいぶん苦労しながら私は英語の勉強をした。こういう文章を読むのは、ほんとうに楽しかった。だがエネルギーの大半は、むしろ本を手に入れたり隠しておくことに費やされた。

だれかが近づいてくると、私は読んでいた本をさっと新聞で隠した。本に「ブルジョワ的な」記述が含まれているのも理由のひとつだったが、それ以外にも、あまり勉強熱心に見られてはまずいとか、同級生が理解できない本を読んでいるのが知れてねたまれてはまずい、といった気づかいもあった。

私たちは英文科の学生であり、英語を勉強することに対して政府から(政府宣伝効果に対して)俸給まで支払われているにもかかわらず、あまり勉強熱心に見られすぎると、「白専」であるとして、これもまた非難の対象になった。当時の狂った論理によれば、専門分野で優秀(専)な人間は、政治的に信用ならない(白)とされたのである。

周恩来死去。鄧小平失脚。

天安門広場にて示威行動。

毛沢東死去。四人組逮捕。

鄧小平復権。

◆毛の思想の本質は、いったい何だったのだろう?

毛沢東が死んでから、いろいろなことを考えた。毛沢東は「思想家」と言われている。毛の思想の本質は、いったい何だったのだろう? 毛沢東思想の中心にあったのは、はてしない闘争を必要とする(あるいは希求する)論理だったと思う。人と人との闘争こそが歴史を前進させる力であり、歴史を創造するにはたえず大量の「階級敵人」を製造しつづけなければならない――毛沢東思想の根幹は、これだったと思う。これだけ多くの人を苦しめ死に至らしめた思想家が、ほかにいただろうか。私は、中国の民衆が味わってきた恐怖と苦痛の深さを思った。あれは、何のためだったのか。

毛沢東の思想は、あるいは人格の延長だったのかもしれない。私の見るところ、毛沢東は生来争いを好む性格で、しかも争いを大きくあおる才能にたけていた。嫉妬や怨恨といった人間の醜悪な本性をじつにたくみに把握し、自分の目的に合わせて利用する術を心得ていた。毛沢東は、人民がたがいに憎みあうようしむけることによって国を統治した。ほかの独裁政権下では専門の弾圧組織がやるようなことを、憎みあう人民にやらせた。憎しみという感情をうまくあやつって、人民そのものを独裁の究極な武器に仕立てたのである。だから、毛沢東の中国にはKGBのような弾圧組織が存在しなかった。必要なかったのだ。毛沢東は、人間のもっとも醜い本性を引き出して大きく育てた。そうやって、倫理も正義もない憎悪だけの社会を作り上げた。しかし、一般の民衆ひとりひとりにどこまで責任を問えるのかとなると、私にはよくわからない。

◆私たちきょうだいの今

中国の門戸は、どんどん広がってきた。いまは、弟たちは三人とも西側で暮らしている。京明は固体物理学の分野で世界的に名を知られた科学者になり、イギリスのサウサンプトン大学で研究を続けている。小黒は、中国空軍を除隊したあとジャーナリストになり、ロンドンで仕事をしている。京明も小黒も結婚して、それぞれ一人ずつ子供がいる。小方はフランスのストラスブール大学で国際貿易の修士号を取り、いまではフランス企業で働くビジネスマンだ。

私たちきょうだいのなかで中国に残っているのは、姉の小鴻だけだ。彼女は、成都中医学院の教務課で働いている。一九八〇年にはいってはじめて私営企業の設立が認められたとき、小鴻は成都中医学院から二年間の休暇をもらって、友だちといっしょに服飾デザインの会社を作った。洋服のデザインは、小鴻が昔からやりたがっていた仕事だった。二年間が過ぎた時点で、小鴻はどちらかを選ばなくてはならなかった。面白いがリスクもある私営企業にとびこむか、同じことのくりかえしだが安定している公務員の職か。小鴻は、後者をとった。

scorpius著者

Jung_chang ユン・チアン(中国語:張戎、簡体字:张戎、ピン音:Zhāng Róng、英:Jung Chang、1952年3月25日 - )

14歳でしばらく紅衛兵を経験したあと、農村に下放されて農民として働き、「はだしの医者」、機械工場の鋳造工、電気工を経て四川大学英文科の学生となり、のちに講師となる。

1978年にイギリスへ留学。ヨーク大学から奨学金を得て勉強を続け、1982年に言語学の博士号を取得。中華人民共和国からの留学生でイギリスの大学から博士号を取得したのはユン・チアンが初めて。テレビの仕事で知り合ったイギリス人歴史学者ジョン・ハリデイと同年に結婚する。現在はロンドンに住み、ロンドン大学の東洋アフリカ研究所で教鞭をとっている。

1991年に祖母、母、自分自身の生涯を記した『ワイルド・スワン』を発表。全世界でベストセラーになる。2005年に0年以上の歳月をかけて取材した毛沢東の伝記『マオ 誰も知らなかった毛沢東』を出版。再びベストセラーになった。

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コメント

文化大革命前後を時代背景とした映画で
チャン・イーモウ監督の「活きる」
を思いだした

あらすじ
1940年代の中国。資産家の息子だったフークイだが、賭けに負けてしまい全財産を失う。身重の妻チアチェンは愛想をつかして実家へ戻ってしまった。しかし、半年後、長男が誕生したのを機に夫フークイのもとへと戻ってくる。心機一転、困窮する一家の家計を支えようとフークイは得意の影絵の巡業を始める。そんな矢先、フークイは国民党と共産党の内戦に巻き込まれてしまう。フークイがやっと家族のもとに戻ってきたのは、共産党の勝利が決まり内戦が終結した後だった。一家はその後も、中国現代史の荒波にもまれながらも逞しく生きていく……。

ツタヤwebサイトから

なかなか面白かった(いい映画だった)
機会があったら
是非どうぞ おススメ^^

投稿: nono1 | 2009年11月 6日 (金) 06時26分

興味ある!

情報ありがと 見てみるね ^^ 

投稿: さくらスイッチ | 2009年11月 6日 (金) 22時02分

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