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2009年11月 3日 (火)

138『心は孤独な数学者』 藤原正彦 初版1997年

32歳で亡くなった天才数学者ラマヌジャンは
イギリス支配下のインドで数学を独学し
20世紀初頭に膨大な謎の公式を残した

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clover概要

17世紀に万有引力の法則を発見したニュートン。19世紀に四元数を発見したハミルトン。20世紀初頭に膨大な謎の公式を残し32歳で亡くなったラマヌジャン。天才数学者として名を馳せた偉大な三人は、背負いきれない辛い出来事に直面し、その運命に翻弄される数奇な人生を送った。彼らの悩みとはいったい何だったのか。時代や家庭環境は、彼らの業績や人生にどんな影を投げかけたのか。それぞれの母国、イギリス、アイルランド、インドを旅し、彼らの生涯に思いを馳せる長篇エッセイ。

clover読むきっかけ&目的&感想

藤原正彦『遥かなるケンブリッジ』で初めてインドの天才数学者ラマヌジャンを知り、ラマヌジャンについてもっと書かれた本があったら読んでみたいと思っていた。で、米原万里の書評『打ちのめされるようなすごい本』を読んだら、その藤原正彦がラマヌジャンについて書いた本があるというので、俄然読んでみたくなった。

好みの度合 ★★★★

三人の天才数学者について書かれているけど、ニュートンとハミルトンはさらさらと読み飛ばした。今回の目的はラマヌジャンのみ!

ラマヌジャンは新しい公式を発見しただけでなく、体系だった勉強をしていないため既に知られていた公式を知らず、自力で幾つもの公式を‘再発見’している。凄い。「巨人の肩の上に立つ」ことなく、自分の身の丈で遥か遠くまでを見通した彼は、奇跡に近い存在だと思った。

ラマヌジャンの個人的な生い立ちや性格だけでなく、彼を取り巻くインドの習慣、風俗、宗教、社会構造、社会情勢なども、とても興味深かった。

clover覚書

Raman_2 シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(Srinivasa Aiyangar Ramanujan、1887年12月22日 - 1920年4月26日)はインドの数学者。極めて直感的、天才的な閃きにより「インドの魔術師」の異名を取った。

◆すべて生まれにより決定されるカースト

インドにおけるカーストは、ヴァルナとジャーティの二系統に分れる。

ヴァルナは四姓制度とも言われ、創造神ブラームフの口から生まれたバラモン(祭官)、腕から生まれたクシャトリア(武人)、腿から生まれたヴァイシャ(庶民)、足から生まれたシュードラ(隷民)の四つを意味する。これは二千年ほど前に著された『マヌ法典』にも記されている階級制度である。この四つに入れない人々はアウトカースト(不可触民)と呼ばれている。

一方ジャーティは、地域の日常生活と密接に関った職業集団である。理髪師ジャーティとか洗濯屋ジャーティ、蛇使いジャーティなど、二千以上もあると言われる。

カースト間の序列は「浄と不浄」により定められている。不浄な現象には、死、排泄、出血など、不浄なものには、鉄や土などがある。これらに触れるのは低いカーストである。

◆ヒンドゥー教徒にとって外国に渡ることは身を穢すこと

ハーディ(ケンブリッジの数学者、1913年当時35歳)は、ラッセルの手紙にあったように、ラマヌジャン(1913年当時26歳)から最初の手紙(論文)をもらった翌日(1913年1月末)には、すでに彼をケンブリッジへ連れてくる決意を固めていたのである。

ところがインド省を通じてもたらされた情報は、本人に渡英の意思なし、ということだった。実際その件でラマヌジャンは、二月にマドラスの学生援護局に召喚されていたのである。同行したナラヤナ・イーヤーが、海を渡ってはならぬという宗教上の掟を理由に、本人に代りきっぱり断っていたのである。

ヒンドゥー教徒にとって、外国に渡ることは身を穢すことである。セポイの乱を起こしたきっかけの一つは、インド人傭兵がこの掟により、海外派遣を拒否したことであった。カーストの掟を破ることは、カースト追放を意味する。追放されると、当時にあっては、友人や親戚を失うばかりか、妻子をも失うことがあった。葬式や結婚式には決して招ばれず、寺院への出入りを禁じられることさえあった。社会的に抹殺されるのである。カースト単位で生活や行事の営まれるインドでは、カースト追放は家族にも罪が及ぶという点で、死刑より重いとも言える絶対罰だった。

『ガンディー伝』(中央文庫)によると、ガンディーは、バラモンでなかったが、渡英の前に、親類縁者に「酒、女、肉には触れない」と誓約することで、やっと彼等の了承をとりつけた。それでもカーストの長老より、追放を宣告されたのである。

◆渡英を決意

1914年1月。一年近く前に拒絶して以来、訪英こそ、踏みにじられてきたインドの叡智と名誉を回復する絶好の機会、と考える周囲のバラモン達は、ラマヌジャンに翻意を勧めていた。本人も、自分の数学に対する自信を深めるにつれ、ハーディとの文通という、たった一本のパイプよる数学界とのつながりより、自ら最前線に乗り込んで、自分の成果と能力を問うてみたい、と思うようになっていた。

ラマヌジャンにとって最大の障害は、カーストの掟にあくまでこだわる母親コーマラタンマルだった。

掟の中でも最も重大なのは、肉食を慎むことである。有力なバラモン達も、これさえ破らなければ、ラマヌジャンのような特殊ケースでは、一時的にカースト追放となっても、帰国後に適当な禊を経れば復帰は可能、と説得する。ラマヌジャンはこれを聞いてやや安心するが、母親はいかなる説得にも頑として首をたてに振らない。「説得する方は追放にならないからいい気なものさ」、と毒づくコーマラタンマルの反対は、母親との一体感の強いラマヌジャンにとって、磐石の重みを持っていた。

ナラヤナ・イーヤーは、一家のナーマッカル巡礼を計画し、それにラマヌジャンを誘った。熱意になかばほだされて、1913年の暮れ、この二人にナラヤナ・イーヤーの母と息子を加えた四人は、ナーマッカルへ向かった。信心深い母子が戒律破りという大英断をするには、周囲の人々の保証や夢だけでは不充分で、ヒンドゥーの神様の直接のお墨つきを必要とするであろう。それに帰国後のカースト復帰にの際に、自分が一緒にいれば承認として役立つこともあるだろう。ナラヤナ・イーヤーはそう考えた。

ナーマッカルに着いたラマヌジャンとナラヤナ・イーヤーは、寺院の床に寝て、啓示を得るまで、何晩でも過ごすつもりだった。三日目の夜に、夢の中でまばゆい光を見たラマヌジャンは、隣のナラヤナ・イーヤーを揺り起こした。「戒律を犯して海を渡れ」という啓示に違いない。夢判断の専門家でもあるラマヌジャンはそう解釈した。ナラヤナ・イーヤーは、どんな夢であってもそう解釈しようと、旅立つ前から決めていたから、ラマヌジャンの解釈には大いに安堵した。

コーマラタンマルもこれを了承した。妻ジャーナキの父親をはじめ、親戚の反対は残ったが、母子はついに渡英を決意したのである。イギリスでラマヌジャンは、ネヴィルに淋しそうにこう洩らしたという。「帰国しても、もう誰も葬式には招んでくれないのです」

犠牲の大きさを充分に承知したうえで、母子は数学にかけたのである。この決意からほんの二週間ほど後に、ネヴィルはラマヌジャンに渡英を切り出したのであった。

◆丸5年の渡英生活

ケンブリッジ到着二ヵ月後の1914年6月に起きたサラエヴォ事件をきっかけに、翌月、第一次世界大戦が勃発し、8月にはイギリスも参戦した。ケンブリッジの町は野戦病院や訓練キャンプでごった返すが、その中でハーディとラマヌジャンの二人は、十篇もの共著論文を著すことになる。

ラマヌジャンはますます研究に明け暮れるようになる。1915年だけでも九篇もの論文を発表する。純情な彼は、自分を招聘してくれたハーディ先生の期待に応えんと、30時間休まずに研究しては、20時間眠り続ける、という不規則な生活にのめっていく。

渡英3年ほどして、ついに病魔に襲われる。原因が分からないまま、胃潰瘍、敗血症、癌、結核など、様々な病名をつけられ、その後2年間ほど病院やサナトリウムを転々とする。結核の疑いが濃厚だったが、栄養をとれという医師の指示に抵抗し、相変らず菜食にこだわり続ける。この間、10名ほどの医師にかかったが、忠告に一切したがわないため、次々に見放されたとも言える。

周囲の人々は、インドへ帰すことも考えたが、ドイツのUボートがたむろしていて危険が大き過ぎたし、インドでも医者は戦争にかり出され払底していた。

病気で思うように研究もはかどらない。自分の人生を敗北と決めつけた彼は、ロンドンの地下鉄で発作的に自殺を図るが、電車があと数十センチの所で奇跡的に急停車し、未遂に終る。

しばらくして療養所のラマヌジャンに、ロンドンから電報が届く。王立協会フェローに選出されたのである。大変に名誉あるもので、ノーベル賞級と認知されたことを意味する。ラマヌジャンの心身両面での落ち込み様にあわてたハーディが、会長で電子の発見者として有名なトムソン博士に、直訴状を送るなど奔走した結果であった。少し元気を取り戻したラマヌジャンは、分割数に関する合同式や、ロジャース・ラマヌジャン恒等式を発表した。

健康回復は、はかばかしくなかった。大戦の終わるのを待って、1919年3月、丸5年の渡英にきりをつけ、ナゴヤ号で帰国の途についた。

◆帰国して1年たった1920年4月26日 32歳で世を去る

この頃、インドでは反英運動が燃え盛っていた。北部のアムリッツァルでは国民会議派の反英抗議集会にイギリス軍が発砲し、千数百名の死傷者がでた。事件を知ったタゴールは爵位を、ガンディーは勲章をイギリスへ返上した。

南インドで転地療養をくり返し、最高の医師に診てもらうが、病状は悪化するばかりだった。気分がすぐれないため、床に横たわったまま怒鳴ったり、家中にものを投げ散らかしたりした。

この中でも、彼は最後の輝きを見せ、ラマヌジャン最大の傑作と呼ぶ人もいる、擬テータ関数を発見し、600をこえる公式を見出す。

ラマヌジャンの病勢は衰えず、ついに帰国して1年たった1920年4月26日、32歳で世を去る。死の4日前まで石板をカリカリしていた。遺体は規則通り、24時間以内に火葬され、灰は市内を蛇行してベンガル湾に流れ込むクーム河に流された。葬式の出席者は、家族を含め10人足らずだった。禊のため、ラーメシュワラ寺院へ行く予定になっていたが、その余裕もないまま死んだため、穢れたままだったのである。

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◆ラマヌジャンの公式を見て感じる感嘆と苛立ち

ラマヌジャンは、「我々の百倍も頭がよい」という天才ではない。「なぜそんな公式を思い付いたのか見当がつかない」という天才なのである。アインシュタインの特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくとも、2年以内に誰かが発見しただろうと言われる。数学や自然科学における発見のほとんどすべては、ある種の論理的必然、歴史的必然がある。だから「10年か20年もすれば誰かが発見する」のである。

ラマヌジャンの公式を見て私が感ずるのは、まず文句なしの感嘆であり、しばらくしてからの苛立ちである。なぜそのような真理に想到したかが理解できないと、その真理自体を理解した少なくとも私はなれないのである。

数学では、大抵の場合、少し考えれば必然性も分る。ところがラマヌジャンの公式群に限ると、その大半において必然性が見えない。ということはとりもなおさず、ラマヌジャンがいなかったら、それらは100年近くたった今日でも発見されていない、ということである。

◆ラマヌジャンの独創の源泉

マドラスに戻った私は、再びラマヌジャン高等数学研究所にランガチャリ教授を訪れた。彼にどうしても聞きたいことが私にはあった。ラマヌジャンの独創の源泉に関するランガチャリ教授の見解である。ラマヌジャンとは同一宗派、同一カースト、同一職業の人だから、何か興味があることが聞けるかも知れない、と考えたのである。

普段なら打てば響くように応答する彼が、しばらく間をおいてから、「チャンティング(詠唱)が独創の一因と思う」、と言った。詠唱とは詩文などに単調なメロディーをつけて唱えることである。ヒンドゥー寺院を訪れると、小声で歌うように祈禱文を詠唱している人をよく見かけるが、独創との関係が私にはよく分からない。

狐につつまれた思いで彼の顔を覗き込むと、「インドでは古代より、数学と文学は混淆していました」、と言う。ランガチャリ教授は、独創との関連をなお把握できないでいる私には構わず続ける。「インドでは長い間、教科書でさえすべて詩文で書かれていたのです」、「国語と数学の教科書がですか」、「違います。理科も社会もです。子供たちはそれを詠唱により頭に入れたのです。独創との関連について述べてみましょう。まず、詠唱により大量の知識を大量に蓄えることができます。次に一つ一つの知識が孤立した点でなく、広がりを持って記憶されるということです」。

これで得られるのはいくつかの基礎知識ばかりではない。孤立点としての知識は結ばれ、広がっており、大規模な鳥瞰さえ与えている。ガンジス河口で糸をたれる釣り人は、ヒマラヤの氷河に思いを馳せることさえできるのである。一見無関係なもの同士を結ぶ糸を発見するのが独創なら、鳥瞰図つきの知識はきわめて有用のはずである。

ランガチャリ教授はさらに、「折にふれ口ずさむことは、得られた知識や概念をもてあそぶということです」。数学上のひらめきは、頭の中やノート上で対象をもてあそんでいるうちに得られることが多い。孤立した知識に比べ、連想的に結びついた知識は、引き出してもてあそびやすいうえ、詠唱することはそのままもてあそぶことになるとも言えよう。私はランガチャリ教授が、言葉少なながら、心理学上の本質的な問題を提起しているように感じた。

clover著者

Hujiwaramasahiko_2 藤原 正彦(ふじわら まさひこ、1943年7月9日 - )は、満州国新京生まれの数学者、エッセイスト。専門は数論、特に不定方程式論。

戦後いずれも作家となった新田次郎、藤原てい夫妻の次男として、満州国の新京に生まれる。ソ連軍の満州国侵攻に伴い汽車で新京を脱出したが、朝鮮北部で汽車が停車したため、日本への帰還の残る区間は母と子3人による1年以上のソ連軍からの苦難の逃避行となった。母親の機転がなければ死亡、よくて残留孤児になっていたであろう。

アメリカ留学記『若き数学者のアメリカ』(1977年)が話題となり、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。以後エッセイストとして人気を博している。身辺雑記からイギリス滞在記や科学エッセイ、数学者の評伝に至るまで対象は広く、端正な文章とユーモア溢れる筆致にファンが多い。

エッセイではしばしば「武士道」や「祖国愛(ナショナリズムではなくパトリオティズム)」、「情緒」の大切さを諧謔を交えて説いてきたが、そのエッ センスを平易な語り口でまとめた『国家の品格』(2005年11月、新潮新書)が200万部を超えるベストセラーとなり、翌2006年の新語・流行語大賞 に選ばれるなど大きな話題となった。同書では数学者の立場でありながら、あえて「論理より情緒」「英語より国語」「民主主義より武士道」と説いている。

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