« 127『孤独のシャネル ファッション界の女王の生涯』 クロード・バイヤン 初版1973年 | トップページ | 129,130『シャネル ザ・ファッション』 初版1980年、『シャネルの生涯とその時代』 初版1981年 エドモンド・シャルル・ルー »

2009年10月11日 (日)

128『ココ・シャネルの秘密』 マルセル・ヘードリッヒ 初版1987年

シャネルは パリがかつて例を持たないような女性像を 作りあげた

  モーリス・サッシュ

Dvc00004

pen原題

COCO CHANEL: HER LIFE, HER SECRETS.  (1972)

pen概要

新鮮で、しかも決して色褪せない独特のスタイルがもたらした莫大な富と名声。成功の陰で孤独におびえる自分をココは嘘で塗り固め、自らの伝説を紡ぎ上げ た。晩年のインタビューを元に、モードの女王が語る華やかな虚構の隙間を探り、彼女の秘められた生涯を描き出すスタイリッシュな伝記。

pen読むきかけ&目的&感想

映画『ココ・アヴァン・シャネル』を見て、自分の人生を自分で判断できる「自由」と「自立」を強く望むココに心惹かれたのと、来年公開される映画『シャネル&ストラヴィンスキー』の予習のために、何冊かのシャネル関連本を併読してみる気になった。

フランス北東部生まれの男性で、ファッション誌マリ・クレールの編集長の経験があり、ジャーナリストであり小説家でもあるという著者マルセル・ヘードリッヒが、シャネルのインタビューから何をどう抽出するか面白そうだったので、本書を選んでみた。

さくら好み ★★★★☆

ジャーナリストらしく主観と客観が分りやすく整理してあり、小説家らしく心の細かいひだの表現もあるので、濃い内容のわりには理解しやすく読みやすい内容になっていて、とても面白かった。

それに、映画『ココ・アヴァン・シャネル』でのココ・シャネル、エティエンヌ・バルサン、ボーイ・カペルから受けたイメージそのままの姿が本書にあったので、個人的にはより面白く感じられた。

pen覚書

◆ココの姉妹

「なんといってもやっぱり叔母さんたちにはずいぶん世話になっているわ」と彼女は認めていた。「母が死んで、みんながしんみりした気持ちになっていたとき、叔母たちは、女の子の一人を引き取ろうといった。それがわたしだった」。

女の子の一人。しかしわたしは、いちばん下の妹のアントワネットについて話すのしか聞いたことばない。この妹を彼女はひどくかわいがっていたが、彼女は30歳の若さで悲劇的な死を遂げている。とはいっても姉のジュリア・ベルタのほうも忘れるわけにはいかない。この姉もやはり若くして死んでいた。ジュリア・ベルタには小さな男の子がいた。名前をバラスといって、ココ・シャネルの甥に当たる。彼女はこの甥を引き受けた。養子にしたといってもよいようだ。

「父にはほかに女が一人いて、ちょうどわたしが生まれたころ、その女に男の子が生まれたのよ。その子に会ったこともないし、だれかもしらないけど。とにかく、親戚の中にはそういったことを全部知っている人たちがいて、わたしにそれを話してくれたの。あまり興味のある話じゃなかったわ」。

◆ココの思い出話し

わたしは、ココが次から次に話を作っていくのは知っていた。親しくしていた数年のあいだにはもちろん、彼女が1日1日と、違った一生を自分自身に語っているのがわたしにも分かるようになっていた。わたしは記憶がいい。彼女の話は細かい点になるといつも違っていた。彼女は自分の都合のよいように思い出を作り変えていた。わたしはそれを「伝説を織るペネロペ」だといった。彼女はその日の昼間に織ったものを夜にはもうほどいていた。

だがその織物のモチーフはなんだろう? 要点はなんだろう? どうして彼女は別の子供時代や思春期を作る必要があったのだろう? 思い出というものは、われわれの人格のいちばん大切な基本になるものではなかろうか? だからだれでも美化したがる。しかしまったく作り出すということはしないものだが。

◆ココの兄弟

ココの祖父というのはがっちりしたいい男で、サヴォワ地方の人間だった。サン・ピュール・マリー・シャネルから出たシャネルという姓を持ち、この人物についてはロジェ・ペルフィットが『サン・ピエールの鍵』という本の中で述べている。ところが実物は聖人(サン)とはおよそほど遠いものだった。巨大な体格をしたこの祖父は行商をやっていて、行った先々で、手当たり次第に売れるものを見つけては、それを売りながら、フランスじゅうを駆けまわっていた。いい取引をしたときは暮らしは豊かになった。ニームの近くで、彼はひどくいい家庭の美しい娘の心を奪った。ヴィルジニー・フルニエというプロテスタントの信者で、彼はその娘を嫁に迎えると、波乱にみちたボヘミアンの生活に彼女をひきずりこんだ。彼らはとうとうヴィシーの駅の近くに身を落ちつけた。すっかり幸せになった二人は次から次に子供をもうけ、二十年のあいだには数珠のように連なった。ヴィルジニー・フルニエは年をとってもずっと美しかった。ココは彼女に「まるでそっくり」のようである。

息子の3人の女の子を腕にかかえたお祖母さんのヴィルジニーが目に見えるようだ。彼女自身の末娘、アドリエンヌは、ココよりわずかに2歳上なだけだった。もし2人の男の子を貧民救済事業が引き受けてくれていなかったらどうなっていたことだろう。ココはあとになって、この男の子たちに出会い、彼らの面倒を見た。ちょっと女王さまが、乳姉妹として育った娘の面倒を見てやるようなものだった。彼らは二人とも父や祖父のように行商をやって、似たような人生を送っていた。一人は宿屋の使用人と結婚していた。だから完全に同じ生活ではない。ココは二人にそれぞれコーヒーと、少しばかりの年金を差し出した。それで、あばよ!と追っぱらってしまった。

◆孤児院でのココ

ココは祖母によってムーランの僧院に入れられる。そこはいわゆる混合世帯で、金を取って寄宿生として預かるほかに、慈善でも預かっていた。慈善組は必然的に、人生において選ばれた金のあるものたちに比べて劣った位置にあった。食堂はテーブルも別で、食事も粗末だったし、部屋には暖房がなく、特権組は免れていたいやな雑役もやらされた。学習についてはいうまでもない。

どこにココの寄宿料を払ってくれる人がいただろう? しかし彼女は、
「わたしは親なし子じゃない!」といっていた。

だがほんとうは、彼女が抗議したかったのはムーランの僧院にであった。
「わたしはみんなと同じじゃないわ!」

反抗的な小さな女の子が、こぶしをにぎり、舎監の先生に反抗しながら、黒い上っぱりをつけたほかの子供たち(=孤児)と自分を区別しようとしているのが見えるではないか?

*ヴィシーお祖母さんの一番下の娘アドリエンヌ(ココより2歳年長なだけの叔母)もやはりムーランの僧院に入れられていた。アドリエンヌ・シャネルは美しい娘だった。

*ジュリア・コスティエというココより若いいとこも、ムーラン僧院の寄宿生だった。

◆反スノッブ主義のエティエンヌ・バルサン

ある日ココは、一人の将校が、彼女の前に現れるのを見た。彼は、他の将校たちと同じ制服を着け、同じ長靴をはき、同じようにやせており、少し弓形に曲がった脚をして、けれどそれほど青ざめてもいず、また白くもなかった。自信たっぷりの、たぶん他の将校と同じように鼻もちならず、とはいっても彼はどこか違っていた。彼には心があった。他の者にもなかったわけではない、けれども他の者の心は条件つきだった。つまりそれは、あくまでも自分の社会的階級の中の心で、人の心が彼らの身分の中で打っているのだった。彼らが人に共感を感じたり、自分たちの身分以外のものに情熱を燃やしたりするとき、それは寛容さから、また身を落とすような気持をもってであった。

エティエンヌ・バルサンにはそんなところが少しもなかった。「主義として反スノッブ」なのだった。1900年においてはこれはかなり大変なことだったのだ。それは、自分の運転手と昼飯を食べながら彼の話を聞いていても、それは単なる礼儀からでなく、彼の話を面白いと思うからであり、いろいろなことを教えてくれるからだ、ということを意味しているのだった。それはまた、美しい女性ならば、そして一緒に暮らして気持のいい女性ならば、それが仕立て屋の娘だろうと公爵夫人だろうと違わないということだった。

◆エティエンヌ・バルサンの庇護下での生活

ココはいう。「この小さな娘が、どれほど退屈していたかは人には想像もつかないほどだ。わたしは死ぬほどうんざりしていた。毎日をいったいどう過ごしていいものやら分からなかった」。

彼女はよく笑っていた。けれど彼女には笑う時間などなかった。彼女はバルサンのように無頓着ではいられなかった。ロワイヤリューで一日が過ぎるごとに、彼女の問題は大きくなっていった。いったいわたしはどうなるのだろう! 彼女には資本としてはその美貌と若さしかなかった。とにかくその資本は溶けてなくなりはしない、まだ当分はもつものだった。

「なんでそんなに心配なんだ?」 彼女が将来のことを話したり、何かしたいと再三くり返すと、ときにはバルサンがそうたずねることもあったようだ。彼には問題などなかった。その財産が永久にのんきでいられるだけの保証をしてくれていたのだ。彼がいくら浪費しようとも(第一、そんなことはしなかったし、彼は馬でもって、すばらしくうまくその資本を守っていた)、将来のことで頭を痛めるなどということはまったくなかった。けれどココのほうは?

彼女は、若い叔母に当たるアドリエンヌとずっとコンタクトを保っていたと思ってよい。アドリエンヌのほうは成功しつつあった。結婚しようよ、とネクソンが約束しており、それも軽々しい約束ではなかった。その約束通り彼女は後にネクソン男爵夫人となっているからだ。けれどわたしは?とココは考えていた。エティエンヌ・バルサンは結婚の約束などしてくれなかった。いずれにしても、彼女より前にエミリエンヌ・ダラソンがいた。エティエンヌが愛している女がいた! ココはそのことをよく知っていた。60年たったあとでも彼女はそのことをよく覚えている。たとえ彼がエミリエンヌと結婚しないとしても、それではなんでわたしと結婚するだろうか? 彼女の頭の中では、手本を示してくれる叔母のアドリエンヌの例もあって、生活の保障とは、結婚ということだった。

「男がほんとうに女に贈り物をしたいと思ったら結婚するものだ」 自分の店のモデルの一人について話しながら、彼女はわたしにそういった。バルサンの当時は、それが彼女のものの考え方にがっちりとくいこんでいた。女を保護してやるためには結婚しかなかった。

「あんまりうるさくいうな」、彼女が将来のことについて話しだすと、エティエンヌ・バルサンはそういっていた。彼は彼女を相手にしなかった。

「わたしはよくこう自分にたずねたものだ。『こんな暮らしをしていて、いったいお前はどうなるんだろう?』と」。彼女は正直につけ加える。「わたしは自分のことしか考えなかった」。

◆ボイ・カペルが彼女にもたらしたもの

ボイ・カペルは彼女に何をもたらしただろう? まず安心感だった。自信だった。エティエンヌ・バルサンと4年過ごしたのち、彼女は自分に問うた。こんなことをしていて、いったい自分はどうなるのだろう?

コンピエーニュで、何かをするために彼女は小さなモードの店を開いていた。人に頼らないで生きるための、最初のおずおずとした試みだった。コンピエーニュの田舎で、だれが帽子を必要としただろう? 彼女はエティエンヌ・バルサンに、パリでもう一度やりなおしたいと話しただろうか? 彼は肩をすくめたに違いない。そんなことをして何になるんだ? それに何が欲しいんだ? 不足なものは何もないじゃないか?

そして彼女はカペルと飛び出してしまった。彼女はいう。「どのフランスの男もするように、大体の男がそうするように、エティエンヌ・バルサンはまたわたしを愛しはじめた。わたしがほかの男と飛び出したからだ」。彼女は「ダイナミックなエティエンヌから、やさしく愛情に満ちたボイ・カペルへ、何の衝突もなく移れた」と考えている。いったい物事はそんなに簡単に運んだのだろうか?

「わたしはボイ・カペルと結婚できていただろう」とココはつぶやいていた。「わたしは彼に運命づけられていた。わたしたち二人はそれぞれお互いのために生まれたようなものだった」。ではなぜ結婚は実現しなかったのだろう? ボイ・カペルは自由を大事にしていた。

「女という女がみんな彼の後を追っかけていた。わたしは嫉妬はしなかった。わたしは彼にいった。女たちがみんなあんたを見るわ、なんて面白いんでしょう。彼は答えながら笑った、『ぼくを見ているんじゃないよ、ばかだな。お前を見ているんだよ』。わたしはそうした女たちをみんな醜いと思った。わたしは彼がわたしだけを愛してくれている確信があった」。

彼女はそれでよくカペルと出かけていた。人々は彼女を見た。これは新しいことだった。彼女はパリの活気の中に入っていった。みんなが彼女を羨ましがった。彼女がパリの夜の若い獅子を手なずけたからだ。彼女は彼を束縛しなかった。「彼がわたしを裏切ろうと、わたしは平気だった。そりゃちょっと汚いとは思ったけれど。わたしたちのあいだでは、そんなこと何でもなかった」。1908年から1910年ごろに、いったい何人の女がこういうふうに話すことができたろう? 道徳はまだかなり堅苦しいものだった。

エティエンヌ・バルサンの仲間の、一般的な慣習に反対する傾向がココにも影響していたのだ。彼女は、お金のために働くのをやめて自分がお金を使う身分になったとき、お金が与えてくれる自由というものを発見していた。

◆「二人の男性が張り合ってくれたおかげで店を持つことができた」

エティエンヌ・バルサンとボイ・カペル、二人の男が彼女を張り合った。バルサンは彼女を離したがらなかった。もし彼が何の反応も示さずに「そうか、はいさようなら」といって彼女を発たせていたらどうだったろう。彼女はカペルの思いのままにならなければならないと感じたことだろう。

彼女は自分のことを「もってまわらない率直な人間。何も知らない娘」といい、自分の身に起こっていることについて何も分らない無邪気な娘だったということを信じているようだった。とはいいながら彼女は、カペルが彼女を愛しはじめてからの自分の境遇を、たいへんな冷静さをもって、十分に活用していた。

「貴方が好きだ」とカペルはいった。「しかしぼくは貴方をエティエンヌのところで知ったし、彼はぼくの友だちだ。それに貴方がほんとうに彼を捨てれば、彼は不幸になるだろうからな」。

この話はかなり面白い。たとえ事がまったくこのとおりに運ばなかったとしても、ココの打ち明け話からは、女を囲っている男たちと、囲われている女たちのあいだを支配していた空気というものがうかがわれるのである。契約を多少破っても黙認されていたということだ。それでもとにかく基本的な約束というものは守らなければならなかった。はっきりとした言葉で、カペルはココにいった。「バルサンは君に対して権利を持っている」と。ココのほうはまったくそういうふうには受け取っていなかった。彼女は抗議した。「彼はわたしを愛してはいないわ。わたしが家を出たんで少しばかり気を悪くしてるのよ。それで悲しんでるなんてことはまったくないわ」。

二人の男のあいだにいると、彼女は自分が力強く感じられた。彼女はいう、「二人の男性がわたしを張り合ってくれたおかげで、わたしは自分の店を持つことができた」。

◆すべてを持っていて何もしないエティエンヌ・バルサン

彼女はバルサンにも会いつづけていた。彼はこれまでになかったほど親切だった。

「どうしてぼくをこんなに苦しませるんだ?」と彼はたずねた。彼女は答えて、「どうして苦しむのよ? わたしには分からない!」といった。

これは次のことを意味していた。わたしが貴方と暮らしていたときは、わたしを愛しているなどとは決していってくれなかった。わたしがいつも貴方のそばにいるのを当然だと思っていた。わたしのことをきれいだとさえ思わず、あの年取ったエミリエンヌのほうを大事にしていたわ。ところが今はなんと、わたしが貴方を苦しませるというのね。これではわたしは困ってしまうわ。わたしはあなたが好きだから。

とにかく、貴方がわたしを援助してくれなかったことは認めてちょうだい。もしわたしがこのまま貴方とコンピエーニュに残っていたら、わたしはどうなるでしょう? そのことを考えてくれたことがあるかしら? わたしがだれの世話にもならずに生活できるように自分で働きたいと思っていることは知っているでしょう。ボイはそのことを分ってくれていて、わたしを助けてくれるわ。

いったい、貴方のような男にすがって生きていくということが、わたしのような女にとって何を意味するか想像できる? わたしは何ももっていない。けれどわたしにはどんなことでもできる。貴方は何でも持っている、けれどそれを何の役にも立てようともしない。貴方は魅力的だし、親切だ。けれどまったくそういったことを考えてみない、ただ自分のことしか考えていない。そのことで貴方を責めることさえできないわ。貴方はそういうふうに生まれついたのよ、すべてを持っていて、何もしないように。

◆自分の力で財産を作ったボイ・カペル

「自分の力で財産を作った男」、ココがボイ・カペルについてすぐにいったことは、そのことだった。何も富裕に生まれる必要はない、自分の力で富裕になれるのだ。お金とは、自立を意味している。

「君はほんとうにぼくを愛しているのかい?」とボイ・カペルが聞いた。「それは、わたしが独立できたときに答えるわ」と彼女はいった。「わたしに貴方の援助が必要でなくなったとき、わたしが貴方を愛しているかどうかが分るでしょう」。

そして、こう説明する。「わたしは、自分がやろうと思っていることを実行するのを彼に妨げられたくなかった。彼は働いていた。自分に自信が持てるように、わたしも働きたかった。わたしには、自分で働かなければ、自分で物事を判断することができないんだということが分っていた」。

ボイ・カペルがお金に困っていなかったとしても、いわゆる財産というものはまだ持っていなかった。彼はその莫大な金というものを、戦争中に手に入れることになる。クレマンソー(フランスの政治家、首相)の好意を得て、フランスにおける石炭の供給者(代表者)の一人となるからだ。

◆三角関係の解消

彼女はボイに会い、エティエンヌに会っていた。彼らはいつも一緒で、このトリオが人々の噂の的となった。彼らは仲間としてコンピエーヌで週末を過ごし、馬に乗って散歩し、ピクニックをした。

「わたしたち、エティエンヌとボイとわたしは、よく一緒に昼食をし夕食をした。エティエンヌがときどき、自殺するといい出した。わたしは泣きだした。そして自分にこういった。エティエンヌを自殺に追いやっちゃいけない! お前が二人の前から消えるがよい! セーヌ河に身を投げよう!」。

はたして彼女は、そこまで思いつめただろうか? 何はともあれ、マドモアゼル・シャネルの長い打ち明け話を聞いてみようではないか。

「一年のあいだ、この二人のムッシュウがわたしを張り合った。そしてそのあいだ、わたしは自分にいい聞かせた。とにかく何かしなくちゃ、でないと、こんな境遇にいていったいお前はどうなるんだ?

だって、だれがわたしのことを本気になって心配してくれただろう?

わたしはまだほんの小娘(26歳)で、お金を持っていなかった。わたしはホテル・リッツに住んでいた、費用は全部人が払ってくれていた、ほんとに信じられない境遇だった。トゥ・パリ(パリ社交界の名士たち)がわたしのことを話していた。わたしはトゥ・パリを知らなかった。わたしはまだだれも知らなかった(実際には、彼女はずいぶんよく出かけていた。カペルとは、バルサンとよりもずっとパリの生活に入りこんでいた)。わたしはただそうやっていて、いったい自分はどうなるんだろうと思っていた。とにかく何とかしなければ。

それはとてもこみいっていた。ココットというのはお金で囲われていた。わたしはそれを知っていた。人が教えてくれたのだ。わたしは、いったい自分は彼女たちのようになるのだろうか、と思った。囲われた女に? それはとんでもないことだった。わたしはいやだった。

そこで彼ら二人も、わたしのいうことが正しいことを認めた。わたしたちは三人で話し合ったのだ。この三人での話し合いは毎日毎日むし返されて、それはとても面白かった」。

エティエンヌ・バルサンはアルゼンチンに発ち、そこで数ヶ月を過ごすことになった。ココによって受けた傷から回復するためか? バルサン家では、ココとの関係(恋愛的友人関係)を断つことについて彼は怒ってはいなかったと思っている。

エティエンヌ・バルサンの兄ジャックは、もう一度仲に入ったといわれている。彼は非常に上手く説明した。彼がこの解消に(ついに!)同意したとしても、エティエンヌ・バルサンは、そのことで彼女を苦しませたくないのだということを。彼はボイ・カペルに全幅の信頼を置いてはいなかった。

アルゼンチンへの船に乗り込む前に、エティエンヌ・バルサンはココのためにアヴェニュー・ガブリエルにアパートを見つけて、そこで帽子が作れるようにしてくれた。バルサンが資金を出してくれたので、カペルもそれ以下のことをするわけにはいかなかった。彼は銀行に預金口座を開いてくれた。

◆「わたしは子供のような無邪気さでやっていた」

アベニュー・ガブリエルで、帽子を始めたときから、妹のアントワネットと叔母のアドリエンヌが彼女と一緒に働くようになった。成功するためには三人でも多すぎはしなかった。ココはいう、「チャンスというものは、ほんのちょっとしたことから生まれる。わたしはちょうどいい時期に始めたし、知るべき人たちを知っていた」。またあの少しばかりいらいらさせられる決まり文句がつづく。「わたしはそういったことをみんな、子供のような無邪気さでやっていた」。

◆それは何かとても新しいことだった

マドモアゼル・シャネルがモードの世界で革命をおこしたというのは間違ってはいないだろうか? 彼女が揺り動かしたのは風俗ではなかったろうか?

ココットたちの衣装や帽子は、働くことを不能にし、生きているものたちと生活することを不可能にしていた。そのようなベル・エポックのモードは、エミリエンヌ・ダラソンや彼女のような境遇の女たちを、バルサンやその他の保護者たちから囲われる身分においた。彼女らの表面的な自由は彼女たちを奴隷の状態に追い込んでいった。

彼女たちから衣装をはぎとることでココは、すでに傾きかけている一種の社会産物の消滅を引き起こしたのだった。それは認めなければならない。それはこの特殊な社会階級の終末であった。

実際に、マドモアゼル・シャネルは男と女の関係をひっくり返してしまった。アベニュー・ガブリエルでは、女性たちが自由な空気を吸おうと彼女のまわりにひしめき合った。ココは彼女たちに、新しい生き方というものを売っていたのだ。

考えてみると・・・・・それは彼女にとってすばらしい時期だった。ココとアドリエンヌとアントワネットと、それに幸福を絵に描いたような美しいダヴェリと。彼女たちは、ほかの女性たちとまったく違っていた。自由だった! 彼女たちは帽子と服を売り、自由で美しかった。

彼女たちから「ウィ」といってもらおうと思ったら、それは公証人などを通して交渉しても駄目だった。それはただ彼女たちの心のまま、しばしば、よろこびたい、幸せでありたい、という彼女たちの気持ちに訴えなければならなかった。

それは何かとても新しいことだった。いったい何が起こっているのかよく分からなかったし、中でも何が始まろうとしているかよく分からなかったけれど、とにかくそれは人々をすっかりとらえてしまった。

彼女は女性たちに、今の時代の大きな幻想をもたらした。自立することによる自由と、よろこびを持つことによる幸福を。

◆新しい女友だちミジア

1919年、彼女は旗をカンボン通りに移して、25番地に新しく店を開いたばかりだった。そしてそこにも人はひしめきあった。彼女は人前にもよく顔を出した。陽気でダイナミックで、よくディミトリ公爵と一緒だった。この公爵はロシア皇帝アレクサンドル二世の孫であり、アレクサンドル三世の甥であり、ニコラス二世のいとこであり、ギリシャ王ゲオルギオス一世の孫でもあった。彼は27歳で追放となり、財産を失い、それでもロシア皇帝の威光の後光を浴びながらマドモアゼル・シャネルのところに身をよせ、幸福だった年月の糸をもう一度結ぼうとしていた。

戦争(第一次世界大戦)は彼女が恐れていたよりも、ずっと具合よく通り過ぎた。ドイツ人たちは、彼女が帽子とジャージーの服を売るのを妨げなかった。1917年、戦争の真最中、彼女の隣には、石炭の取引の合間を縫って休養していたボイ・カペルがいた(ボイ・カペルは、1919年、交通事故で死亡)。彼女はおくれた教養を取り戻すために、新しい女友だち、ミジア・セールの(夜の)講座に熱心に通ったものだった。

ポーランド人の父とロシア人の母をもちゴデブスカという名の家に生まれたミジアは(いわゆる人のいう上流社会で)出世するためにはなんでもする女だった。あらゆる妖精たちが彼女の揺り籠に身をかがめて、彼女に美しさと魅力と知性と機知とを与えたと思われるほど魅惑的な女性だった。

彼女はまだ字も読めないうちから、見事にピアノを弾いた。晩年のリストが彼女を膝の上に抱き上げ、自分のために何か弾いてくれるように頼んだとき、彼女はまだ5歳だった。フォーレが、彼女の弾くのを聞いて、自分が先生として教えようといった。15歳のとき、ルビュー・ブランシュという流行の先端をいった雑誌を発行している発行人の息子と結婚して、彼女はその先生を絶望させた。彼はあらゆる人を知っていた。彼はドビュッシーを家に連れて来た。彼は彼女のために、自分で伴奏を弾きながら「ぺレアスとメリザンド」の全部の役を歌ってくれた。彼女はルノワールのお気に入りのモデルで、彼は彼女の肖像画を8点描いている。パリでは近代美術館に、それぞれボナールヴュイヤール、フェリックス・ヴァロトンによって描かれた彼女が見られる。ステファノ・マラメルは、ヴァルヴァン・シュル・ラ・セーヌの彼女の家にやって来て自分の詩を読んでいた。

彼女はヴァン・ゴッホを発見し、彼の絵を200フランで友人たちにすすめた。彼らは要らないといった。その同じ友人たちは、彼女がストラヴィンスキーの音楽を聞かせたとき、耳をふさいだのだった。グリークが彼女のために「ペール・ギュント」を弾いた。アーズが死んだとき、彼女は滝のような涙を流した。イプセンが彼女に献辞を書き、額に入れた自分の写真を送った。

あらゆる人が、ルビュー・ブランシュ誌の持ち主のタデエ・ナタソンの家で食事をした。あらゆる人がミジアの二番目の夫のところでも食事をした。彼はエドワーズという大金持ちで、マタン誌とテアトル・ド・パリという劇場の持ち主だった。

ミジアのほかのだれにオペラ歌手のカルーソを黙らせることができただろう。ヴェニスでは、ポール・モランが彼女について、そのまばゆいばかりの姿を描いている。

長い年月を通じて、マドモアゼル・シャネルについてココが形づくっていくイメージの中に、ミジアはどれだけ与っていたであろうか? ミジアと――そして彼女の三番目の夫の、スペイン人の画家のホセ・マリア・セールと――ともに彼女はソルボンヌの何年間かを過ごした。彼らは彼女に学ぶことのできるものと、学ぶことのできないものをもたらしてくれ、彼女の中に眠っていた才能を覚ましてくれた。

ミジアは彼女にストラヴィンスキーを、ピカソを、音楽を、絵を、トゥ・パリを教えてくれた。今ではもうすたれたいくつかの言葉づかいはもちろんのことである。すたれたといっても、それは、運転手のことを機械係といったり、レインコートのことをゴム引きといった、それだけで意味のあるものだった(こういった言葉づかいは社交界に長くいないと分らないものである)。セール夫妻は今まで彼女にとって自然ではなかった行き方を教えてくれた。つまり、決して捨ててはならない無頓着さというもの、つまり指の指のあいだから流れでるものを見もしないで使い、浪費するお金の使い方である。

◆「わたしにはお金がある。わたしには貴方を救うことができる」

友だちのミジアのおかげで、ココはロシア・バレエに興味を持つようになった。「ミジアはいつもこのバレエについて話をしてくれた。どんなにきれいなものかは貴方には分らないわ、と彼女はいっていた。とにかく見てごらんなさい、人生が変わるから。彼女はたくさんのことを話してくれた」。

ミジアはディアギレフ(ロシア・バレエ団の擁護者であり主催者だった。彼がパリにロシア・バレエを創り出し、そのときのスター・ダンサーにニジンスキーがいた)の非常に親しい友だちだった。

ココは、ミジアが住んでいたホテル・ムーリスの彼女のところにいた(1922年の4月ごろのこと)。あるとき、すさまじい音を立ててディアギレフが入ってきた。「眠れる森の美女」の初演で破産して、ロンドンから着いたのだった。ココはこう語る「彼はわたしを見なかった。わたしがそこにいることさえ分らなかったようだ」。彼は負債が払えなくて、ロンドンから逃げて来たのだった。ミジアが隣室で電話をするために、一時席をはずした。わたしは立ち上がり、そしていった、「わたしはホテル・リッツに住んでいます。わたしに会いにいらっしゃい。ミジアには何もいってはいけません」。

彼女は一つの試練を自分に課していたのだ。お前はもう、自分の羽根でちゃんと飛べるだけ大きくなっただろうか? ミジアなしで生きられるだけ成長しただろうか? 彼女は40歳になろうとしていた。彼女はいう「わたしはディアギレフを待つためにホテル・リッツに戻った。彼はやってきた。わたしは自分にいい聞かせた、お前はこの男にここに来るようにというだけの勇気を持ったのだから、最後までやるんだ、勇気を出して話すのだ。そこでわたしは思い切っていった。『貴方がミジアにいっていらっしゃたことを聞きました。彼女にはお金がありません。だからあなたにお金をあげられないんです。ロンドンでの負債を清算してフランスに戻るためにはいくらいるんですか?』 彼はその額をいったが、それがいくらだったかはすっかり忘れてしまった。わたしはその場でチェックを切って彼に渡した。わたしは彼にただこういった『ミジアには絶対に知られないように!』」

彼女はまさしく友だちを裏切っていたのだ。彼女はなんであろうと、だれにであろうと、借りがあるのは我慢できなかった。少しばかりお金を稼ぎ始めると、彼女はなんにでも、だれにでも、片っぱしから払いたがった。彼女が人から払ってもらったように? いや、自分が人に払ってもらったのを忘れるために。もう少しどぎつい表現をするならば、さまざまな人の負債を払ってやりながら、彼女は自分の負債を消しているつもりになっていたのだろう。

彼女はいう「ミジアがわたしに嫉妬するだろうということが分かるほどには、わたしは大人になっていた。わたしがディアギレフにしてやったことが彼女にはできなかったからだ。わたしはなおしつこくいった『ミジアには知ってもらいたくないわ。だれにも知ってもらいたくないのよ』 こうしてディアギレフとのつき合いが始まった」。

お金・・・・・。彼女はお金についてしばしば話した。「わたしはお金持ちとだけつき合ったわけではない。金持ちでも、ほんとにつまらない人たちがいるものね。死ぬほどわたしを退屈させるそんな人たちより、わたしは乞食とでも食事をしたほうがましだわね」。そして次のような分かりきった理屈をいいだした。「感じがよくて面白いときは、そりゃ貧乏人より金持ちのほうがいいわ。だって少なくともわたしは彼らの境遇のことを気にかけなくていいから」 これは「金持ちで健康であるほうが、貧乏で病気であるよりはいい」というボリス・ヴィアンがいったとされることに近い(が、きっと源はお金のことにさかのぼるに違いない!)。

ココはいう「金持ちがお金を使うのはたいへんよろしい。それに裕福な人間と金を持っている人間とは同じではない。お金を持っている人間はそれを使うがいい。わたしがやったように。わたしにとってお金とは、自由を意味する以外のものでは決してなかった」。

そして、こういった。「お金を持っていれば、自分が愛している人々を、何かいうべきものを持っている人々を助けることができる。立派な作品を上演させることができる。わたしはずいぶんロシア・バレエを助けたわ。そしてわたしが要求したことといえば一つだけ、だれにも知らせないでもらいたいということ」。

当時5万フランか20万フランのチェックにサインをしながら、実際にはココは新しい身分証明書にサインしていたのだ。こうして彼女はシャネルに、彼女自身になっていった。しまいには、彼女はもうセール夫妻も、だれも必要としなくなったのだ。彼女は自分の銀行の預金から貴族の称号と等しいものを引き出したのだった。

◆第二次世界大戦中のシャネル

「で、ドイツ人たちは?」
「彼らはガソリンを配給していた。立て札が立っていて、フランス製ガソリン、と書いてあった。そこでみんなガソリンを満たしていた」

ホテル・リッツに着いて、彼女が入って行くと、支配人が合図をした。それ以上近づくなというのである。そこに歩哨がいるのが見える。彼女はこちらから合図を返して、もしわたしが行けないのなら、そちらから来てちょうだい!、といった。「ドイツの司令部を通さなければならないんです」と支配人が説明した。「このまんま? こんな汚い格好で? とにかく着替えをしなくちゃ。わたしのメイドは上にいるかしら?」、「いいえ、まだ戻っておりません」、「それじゃ、貴方が司令官のところへ行っていってちょうだい、マドモアゼル・シャネルがお着きになりましたって。わたしは身仕舞をきちんとしてから行くわ。よくいわれたものだわ、人にものを頼むときは、きちんとして出かけるもんだって」。1940年の夏!、ココの思い出は、わたしに一種のめまいを与えた。 

*『ナチ占領下のパリ』を読む限りでは、パリに入ったドイツ兵は略奪も陵辱もしなかったし、それどころかお金を払ってフランス製品を買う上客になった。パリ社交界での美術を介した独仏交流も盛んだった。ココがホテル・リッツで生活するのを、禁止する理由はなかっただろう。ココはリッツでイギリス人を母に持つドイツ人士官と生活しながらもパリ社交界には顔を出さず、他のトゥ・パリのようにドイツ人たちと会う事さえしなかった。もちろん、パリでのそれなりの生活がすべての人たちに保障され続けたわけではない。フランスはドイツのための戦費を調達させられ、パリ市内からは食品を含む商品がどんどん手に入らなくなっていった。*

彼女はいう、「戦争中はメゾン・シャネルでは、一日に香水を20個しか売ることができなかった。店が開く前から、人々は列を作って待っていた。ドイツの兵隊が多かった。彼らを見ながら、わたしは笑っていた。『かわいそうなばかものども、お前たちの大部分は手ぶらで帰るんだよ』と思ったものだ。そして『アメリカ人たちが来るようになっても、同じことだよ』と。はたしてそれは同じことだった」。

戦争、そして平和・・・・・。彼女はあいかわらずシャネル砦に立てこもって一人で暮らし、気が向けば門を開き、好きな人間を迎え入れていた。パリ占領のあいだは、フォン・D男爵だった。みんながスパッツ(雀という意味)と呼んでいるこの美男子は、若く野心に燃えていた。第一次世界大戦(1914-1918)が終わると彼は、ロシア革命(1917)をドイツにも波及させようという運動であるスパルタクス団鎮圧運動に参加した。彼がすでに1940年以前にパリでは知られていたのは、リッベントロップ(ヒットラー政権の外務大臣)が、自分の活動の場を準備するために、パリとロンドンに派遣していた非公式外交使節団の誘惑者たちの一人だったからだ。彼は、美しくて金のあるそれほど純粋な種族に属してはいない一人のパリジェンヌに、ひどく気に入られた。彼女は、敗戦(パリ占領)のとき、夫とともにフランスを去った。スパッツは彼らのアパートに、それを「保護する」ために住み込んだ。食べることが好きで、ぶどう酒を好み、葉巻を吸い、仕立てのいい服を愛するというこの粋な紳士にとって、パリほどいいところはなかったのだ。女たちは、彼に快適な暮らしをさせるために、次から次へとやって来てつくしてくれた。彼は、彼女たちが貢いでくれる実質的なものに対して、愛をもって返しながら、その女たちを律儀に愛していった。パリでは、彼は、織物のコントロールを受け持っていた。はじめはなかなか有利なポストだった。ところが、ロシアとのあいだがまずくなると、それがすっかり変わることになった。スパッツにとっては、とにかくパリに留まり、長くいることが問題だった。だから、自分を目立たせてはならなかった。彼は車を隠し、ココとは人の前に姿を現わさず、マキシムで食事をするなどもってのほかだった。彼女もそれほど出かけたがらなかった。二人はカンボン通りにおとなしくしていた。

ある友だちが、思いきってココに用心するように、ドイツ人なんかと一緒にいるとろくなことにならない、というと、彼女は抗議した。「彼はドイツ人じゃないわ、お母さんは英国人なのよ!」。それはほんとうだった。スパッツの母親は、英国でも最もいい貴族の出だった。彼はココにとって単なる恋人以上のもので、伴侶といってよかった。彼は彼女に何かためになることをしてやっただろうか? わたしは、彼女が占領下の生活の不自由さについて話したのを聞いたことがない。たった一度だけ、指輪のことでこぼしたことがあり、指が汚くなったと嘆いて、彼女もまた、みんなのように霜焼けができていたことを分からせてくれたのだ。ということはつまり、彼女の家(ホテル・リッツ)もあまり暖房がきいていなかったということ――そして食物も充分になかったということを意味しているのだった。

パリ解放のあと、男爵はどうなっただろう? あの粋なスパッツは? 彼女はフォン・D男爵(スパッツ)を見捨てはしなかった。彼女はドイツでの、戦後の困難を彼が乗り越えるのを助けてやった。

◆ココ・シャネルを歓迎したニューヨーク

1947年、解放のすぐあとに、ココ・シャネルはアメリカに旅行している。この航海のあいだに、船長はいったい何度、彼女を自分のテーブルに招いたことだろう? もしかしたら、一度もなかったかもしれない。わたしは彼女にそれをあえて聞こうとはしなかった。解放のすぐあとのことではあり、人はまだココについての噂をささやきあっていたころだった。それはもちろん、ばかげていたし、嘘でもあったが、とにかく彼女がゲシュタボのドイツ人と暮らしていたというので、非難されていたのだった。そのころを支配していた空気というものを分かってもらわねばならない。

パリを出発するときも、シュプールの港を出るときも、たった一人の新聞記者もココにインタビューには来なかった。それがニューヨークに着くと、一群の新聞記者がひしめきあっているのだった。彼女は、自分の世界的な重要性を再び自覚した。彼女にとって、それはすばらしい瞬間だった。自分の国では疑わしい人物として見られていたのが、アメリカに来るとたいへんな歓迎を受けたのだから。

「香水はどこにつけるべきですか?」とある若い女性がたずねた。「貴方がキスしてもらいたいところに」とココが答えた。「アメリカのジャーナリストは子供みたいだ」と彼女はいう。「翌日の新聞には、いたるところにこの答えが出ていて、わたしはうんざりした。けれど、おかげで、アメリカの新聞記者たちのの友情が得られたと思う。なにしろ、みんなを笑わせるようなことをいってあげたのだから」。

◆「シャネル化」されてしまったアメリカとフランス

1954年、71歳のマドモアゼル・シャネルは、メゾンを再び開いた。成功はアメリカからやって来た。ヴァディムB・B(ベベ)にとってもそうだったように。こんな比較をすれば、彼女は飛び上がることだろう。だがこの比較は、戦後というものを位置づけることを可能にした。もうパリを驚かすだけでは足りない、アメリカでの成功が必要だ。けれどクチュリエたちはそれを認めようとはしなかった。「彼らは自分たちをたいへんなものだと思っている、かけがえのないものだと思っている」とココが皮肉っていた。

6ヶ月たつと、アメリカは「シャネル化」されてしまった。ヴォーグとハーバーズ・バザーに続いて、ライフが4頁を割いて、偉大なマドモアゼル新しい君臨に敬意を表していた。「世界で最も名高い香水シャネル5番の影に隠れたこの女性は、クチュールへの復帰を少し急ぎすぎたかもしれない。しかしもうすでに、彼女はあらゆるものに影響を及ぼしている。71歳で彼女は、モード以上のもの、革命をもたらしている」。この批評は、シャネルの第3回目のコレクションのあとに出された。一年のうちに、第3ラウンドで、彼女はノックアウトで勝利を占めたのだ。

あるジャーナリストが、映画の蜜でありミルクであるハリウッドの花、マリリン・モンローにたずねた。「朝は何を着ますか?」「スカートとセーターを着るわ」、「では午後は?」「別のスカートと別のセーターよ」、「では夕方は?」「絹で同じもの」、「では夜は?」「シャネルの5番を5滴ほど」。この話は有名である。あまり知られていないのは、パジャマやネグリジェの業者が、破産すると思ったことだ。そしてその償いとして、彼らはマリリンから、白い布地の上に彼女の赤い唇を押してもらうことになり、それを何千メートルにも及ぶ、男性用と女性用の寝室での衣服に変えたということだ。

だれ一人、マドモアゼル・シャネルより以上に、この伝説をコマーシャル的な効果として評価したものはいなかった。

フランスでは「シャネル化」はもっとゆっくりしたものだった。ココは、自分で望もうと望むまいと、パリジャンの渦の外にいた。みんなコルブヴィルのファトの別荘に、スクエア・ダンスをしに行ったものだったが、そこで人の噂の対象になるのはクリスチャン・ディオールとクリスチャン・ベラール(画家、舞台芸術家)だった。

フランスではそれが長く難しかっただけに、自分のカムバックを彼女は非常に喜んでおり、それを抑えようともしなかった。「わたしはモード界の絶頂に、自分の座を再び見出すことによって、何かに成功した。今では人々は、わたしのことを知っている。蚤の市に行くと、みんながボンジュールといってくれる。わたしにキスしに来てくれる」。

◆「わたしは、みんなシャネルを着ているところを思い描いていた」

ときどき小さな洋裁屋たちが手紙を書いてきた。「わたしには、貴方の新しい服を買うだけのお金がありません、マドモアゼル。貴方のコレクションを見るために、ショウに立ちあうことを許していただけませんでしょうか?」。彼女は、そのときの気分に従って、その中の何人かを招待した。彼女はまた、地方の学校のアトリエで、娘たちに洋裁を教えている修道女のグループも受け入れた。彼女たちは孤児に教えていたのだろうか?

「わたしは、学校から出てくる小さな娘たちが、みんなシャネルを着ているところを思い描いていた」とココはつぶやいた。

彼女は、1957年に、クチュールの組合と袂を分かった。この衝突というのは、彼女が組合の規制を無視して勝手に振舞っていたことによるものだ。その規則によると、クチュリエたちは、組合によって決められたある一定の日付までは、自分が新しく発表した服型を写真に撮って新聞や雑誌に発表することはできないことになっていた。そんなことはマドモアゼル・シャネルにとってはどうでもよいことだった。実際には、組合と仲違いしたことは、彼女を王者のような孤独に閉じ込めることになった。

*マドモアゼル・シャネルは、コレクション当日の最後に並んだマヌカンの写真を撮ることを許可していた。よって、翌日の新聞、雑誌にはその写真が掲載され、それによって多くのコピーが作られた。*

◆「今では、蜜蜂の女王は男だわね」

「女たちはひどいことになってしまった。彼女たちは男のようになりたがる。なんという情けない男たちだろう! 女たちは犠牲者だ、そしてそれに不平をいう・・・・・。彼女たちはやたらと動きまわり、態度が乱暴になってきている。彼女たちが一緒にいる男の子たちは、彼女のことなんかより、自分のズボンの折り目のほうに気をとられている。そんな男たちには、わたしだったら、わたしの靴さえ磨かせないだろう。彼らは、女のために、ばかなこと一つできないんだから。

女たちは、自分たちの不幸に向かって歩いているようなものだ。働いて、うんと働いて、駆けまわって、人に立ち遅れるというので子供も作らず、お金のあとを追いかける。わたしたちは、男よりもよく仕事ができるということをいいたいために。今に、みんな女にさせるようになるわよ。」

彼女は、女性の生活条件を大きく変えたその責任者は、実は自分であった、ということに気がついていただろうか? いやまったく気がついていなかったのだ。

◆上手くいっているカップルをやたら別れさせようとしていた

彼女は、自分が選んだ道が間違っていなかったという確信を持ちたいために、まわりにいる上手くいっているカップルをやたら別れさせようとしていた。いちばん近い協力者のリルー・グランバック(『カンボン通りのシャネル』の著者)に向けられるさまざまな非難の中で――彼女はこの女性と絶えず仲違いしていたけれど、またこの女性なしでは過ごせないのだった――同じことがいつも繰り返された。そしてそれはだんだんと不機嫌な調子でいわれるようになった。

◆ココがブロードウェイ・ミュージカルのヒロインに!

ミュージカル・コメディとして契約が成立した。彼女は自分の役にオードリー・ヘップバーンを考えていた。結局は、あの見事なキャサリン・ヘップバーンに決まったが、彼女のやる役に、ココはもう自分の姿を認めることはできなかった。

◆「シャネルスタイルに魅せられて」 原由美子

シャネルスーツを作った人というだけでも十分すごいのに、シャネルのやりとげたすごいことは沢山ある。男物のツィードを初めて女の服に使った。下着だったジャージーを女の外出着に。パンツスタイルを自分も実践し、モードにした。黒いドレスを一般的な昼の服として流行させた。本物の宝石をつけるのが当たり前だった時代に、ジャンクジュエリーの楽しさを教えた。コクトーやピカソと一緒にバレエの衣装を制作した。香水をビジネスとして成功させた・・・・・ざっと思い出すままにあげてもこれだけある。前世紀末に生まれ、パリにあらゆる才能が集まった時代、その時代に挑戦し闘いつつも応援された部分もあるのだろう。

でもやっぱりシャネルが偉大だったのは、先にもあげた「スタイルを作り出した」ことだと言う気がする。これがある限り、どの時代とも共存しながら、そのエスプリは行き続けることができるのだから。

clipclipclipclipclipclip

*関連本を読む前に見た映画↓

|

« 127『孤独のシャネル ファッション界の女王の生涯』 クロード・バイヤン 初版1973年 | トップページ | 129,130『シャネル ザ・ファッション』 初版1980年、『シャネルの生涯とその時代』 初版1981年 エドモンド・シャルル・ルー »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 127『孤独のシャネル ファッション界の女王の生涯』 クロード・バイヤン 初版1973年 | トップページ | 129,130『シャネル ザ・ファッション』 初版1980年、『シャネルの生涯とその時代』 初版1981年 エドモンド・シャルル・ルー »