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2009年10月10日 (土)

127『孤独のシャネル ファッション界の女王の生涯』 クロード・バイヤン 初版1973年

「独立」と背中合わせにあったその「孤独」

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airplane原題 chanel solitaire (1971)

airplane概要

この本は、私とココ・シャネルの過去十年間における友情に基づいてできたものである。従ってまったく主観的であり、かつ体験の域を出ない。私は、晩年の彼女にカンボン街で会った。

airplane読むきっかけ&目的&感想

来年日本公開されるシャネル創業100周年記念映画(?)第三弾『シャネル&ストラヴィンスキー』の予習として、引き続きシャネル関連本を何冊か併読する気になった。

本書は1973年に出版されているが、フランス語の原作は1971年、つまりシャネルが亡くなった年に出版されている。まだシャネルその人が息づいていた時代の空気がある当時に、シャネルをどう描いたかに興味があったので、何冊もあるシャネル関連本の中から本書を選んでみた。

さくら好み ★★☆☆☆

airplane覚書

◆ココ36歳 最愛のボイ・カペルを自動車事故で亡くす

ずっと後になって、「私はほんとうによく泣いたわ――でも今は、もう泣かない。人が泣かなくなった時は、もはや幸せを信じなくなった時よ」。

◆ココ70歳 カムバック

その頃は、ディオールが一世を風靡していて、そのきちっとしたモードは、女性が紐なしブラジャー、きちっとしたコルセットをつけるという点でその特徴を出していた。一方シャネルは、変わらぬ本能的直感によって、やはり変わらぬ切札―動きの解放・柔軟性を出そうとしていた。彼女は徐々にではあるが、再び《シャネルもの》を作りはじめようとしていた。その最初の作品は、シャネル5番をつけた、紺が基調となったカーディガンである。

彼女のその簡素なモードは、ジャーナリストたちに息をのませた。そして彼らはこぞって記事にした。縁どりのついたツィードの洋服、裏地にマッチしたブラウス、それにネックレスは、こうして世界中に浸透した。

シャネルの再起はセンセーショナルな成功を収め、彼女はそれによって、二十世紀においてもっとも重要な影響を及ぼした作品に対して与えられるネイマン・マーカス賞を受けにダラスに行くことになる。

彼女は、正絹のコスチュームと生糸で織ったブラウス、それにすばらしい宝石とトパーズを身につけていった。このトパーズは、十六年前オーヴェルニュの自宅で、彼女をかわいがってくれた老婦人からもらったものである。その老婦人は彼女にこう言ったものだ。「かわいいココちゃん、いつもそれを身につけていなさいね。そうすればきっと幸運がやってきますよ。でも幸運というのは生き方の問題であって、いやしい人間には決して宿らないものよ。それは魂なの」。シャネルは、彼女の本質を衝いた、人を圧するその力強さを、自分の現実との緊密な接触から引きだした。

つまり、現実の動きにつねに鋭敏に対応することが、彼女のすべての衣装に活気を与えているのである。「飛行機の輪郭に余計な気取りなどあるかしら? 私はいつも飛行機を想いうかべながら作品を作るのよ」。もっとも速く、しかももっとも遠くに人を運んでいくのいは飛行機である。

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訳者・田中史子 あとがき(1972,11)

フランスの著名なジャーナリスト、マルセル・エドリッシュ(ヘードリッヒ)が、その著『ココ・シャネル伝』の中で試みているので、それに沿って、彼女の生いたちからたどっていこう。

◆孤児院にいたココ

戸籍によると、ココは、1883年8月19日にソーミエに生まれている。父アンリ・シャネル、母ウージェニー・ジャンヌ・ドヴォル。父はソーミエに住む商人で、娘3人、息子2人を妻との間にもうけたが、その妻が結核で死んだあと、5人を養いきれず、アルフォンスとリュシアンという息子たちは公共の養護施設に入れる。そして、娘のジュリア、ガブリエル、アントワネットを、ヴィシーに住む祖母のところに置いたまま、「煙草を買いにいく」と言い残して二度と帰らなかったのである。

祖母はガブリエルを、ムーラン市の修道院に入れた。1890年頃のことと思われる。修道院とは言っても、孤児収容所のほうである。両親がお金を払ってくれる子供たちとは、テーブルも食べ物も受ける教育も違っていた。彼女はここに、1900年頃、すなわち17歳くらいまでいた。これは修道院の記録によって明らかである。

祖母は、サヴァワ地方のピエール・マリー・シャネル聖人の家系の人であり、確かに、数珠球のように子供がいて、末娘は、ココより二歳ほど年長にすぎない。その末娘、美しいアドリエンヌはよくココと行動をともにし(アドリエンヌもココと同じ修道院に入っていた)、のちにド・ニクソン(男爵)夫人となって、古きよき時代における、名もない娘が王侯貴族に見染められる好例として、もてはやされた。祖母はニーム地方の良家の娘で、祖父がフランス中を行商するうちに出会い、結婚している。

孤児院にいたということを、ココは一生隠し続けた。彼女がパリに出た頃は、それを許す風潮の時代でもあったのであるが。

◆「独立」

ココは士官のエチエンヌ・バルサンと知りあい、肉体関係こそないが、その庇護を受けて、ロワイヤル・リューの城に棲むことになる。城には、バルサンの愛人である高級娼婦エミリエンヌ・ダランソンなる女性が一緒に棲んでいて、この奇妙なトリオは、4年間を一緒に過ごしている。そこでの毎日は、乗馬、ポロなどの遊びと、ドーブランから文学その他の手ほどきを受けることに費やされる。約10年間の孤児院生活と、バルサンの庇護下の生活を通じて、ココ・シャネルは《独立》への欲求を高めていった。

彼女が、パリに自分の店を持つことに成功したのは、バルサンと、もう一人の男との三角関係を利用してであった。1907年、世間が第一次世界大戦に沸きかえっている頃、ココは、ロワイヤル・リューに駐屯中のイギリス人士官ボイ・カペルに会った。彼はココに、ロワイヤル・リューでの怠屈な生活から抜けだしパリに出ることを提案する。ここに至って、バルサンは物惜しみするように、「ぼくはきみを愛していることがわかったんだ・・・・・」と言う。お金はバルサンのほうが持っていたが、ボイは美貌であった。彼女はボイと駆け落ちの恰好でパリに出る。バルサンも二人のあとを追う。双方との駆引きを通じて、ついに、ガブリエル街に帽子店を開く。

ココはカンボン街に帽子の店を移し、ドレスも作り始める。店は、当時25番地を占めるにすぎなかった、次第に他の番地を合わせて四倍ほどにふくれあがり、四千人の雇用人を擁するビジネスになるのである。1919年、ココは、ボイをコート・ダジュールの交通事故で亡くす。第一次世界大戦中にインドに出兵し、復員してきていた彼は、ココに輪廻の思想を教えた。ちなみに、バルサンもずっとおくれて1951年、73歳で交通事故で死んでいる。

◆大富豪と交際 芸術家を庇護

1929年、モンテカルロのホテルで、ココより少し年長の世界一の金満家ウェストミンスター公爵(第2代ウェストミンスター公ヒュー・リチャード・アーサー・グロブナー)に会い、意気投合する。ココは45歳。この関係は3年続いた。結婚をまったく望まなかったというのは嘘のようである。子供さえ出来れば、と体操までしていた事実がある。

一方、画家の妻のミシア・セールを通じ、当時の著名な芸術家と幅広い交流を持った。ロシア・バレーのディアギレフには、3万フランとも20万フランともいわれる小切手をポンと切ってやるといった庇護ぶりであり、ラディケの葬儀の一切をとりしきるなどといったこともしている。

◆イギリス人を母に持つドイツ人士官をホテル・リッツにかくまう

第二次世界大戦勃発の1939年、シャネルはカンボン街の店を締めてしまう。大戦中のことでは、イギリス人を母に持つドイツ人の士官を《リッツ》にかくまっていたということを彼女は認めている。戦争にはほとんど関心がなかったようである。

彼女は繰り返し、「フランス人は私を好きじゃない」と言っているが、このことも影響していることは間違いないであろう。そのカムバックも、アメリカのほうで余計に騒がれる。しかし、死の直前の新作発表に至って、ついに、シャネル・ルックは返り咲いた。アルク・ボアンに言わせると、「結局は彼女が正しい」のである。

airplane著者

クロード・バイヤンは、シャネルより十歳ほど年下の心理分析家で、二児の母でもあるが、この著では、分析は読者一人一人に任せているというに近い。

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*関連本を読む前に見た映画↓

 

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