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2009年9月23日 (水)

120『CHANEL カンボン通りのシャネル』 リレー・マルカン 初版1991年

日常生活の上での“マドモアゼル”の素顔を
もっとも知っている女性リルー・マルカン
シャネルに対する忠節から長年沈黙していたが
躊躇の果てに本書を
草した

「シャネルは 矛盾そのものの人でした」

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smoking原題  chanel m'a dit.

smoking概要

1954年、カンボン通りにアトリエを再オープン、モード界にカムバックした71歳のシャネル。それから17年間、プレス担当あるいはアシスタント兼話し相手として、シャネルの傍で働き、最後を見守った著者リルー・マルカン。20年の沈黙を破り、日常生活の“マドモアゼルの素顔”を生き生きと蘚らせた。

smoking読むきっかけ&目的&感想

映画『ココ・シャネル』と『ココ・アヴァン・シャネル』を見て、シャネルという女性に興味が湧いたので、彼女に関する本を読んでみることにした。虚実がない交ぜになったシャネル本人の言葉や周囲の噂を元に書かれた物語ではなく、なるべく実像に近い事が書かれた本を読みたかったので、シャネルの晩年を良く知っている著者が書いた本書を読んでみる事にした。

さくら好み ★★★☆☆

年齢的に半世紀も開きのある若い同性リルー・マルカンが描く晩年のシャネルは、時に感情が過剰だったり、時に感情が不足していたりして、とてもバランスの悪い女性に感じた。偏屈では無いけど我が強く、時に意地悪でもある。そして当然ながらそれらは、近しい者たちに歓迎されるばかりでは無かったようだ。というか、かなり敬遠されていたのが伺えた。本書にはカリスマ性溢れるシャネルの姿は無かった。

しかし、仕事現場、社交の場、日常生活におけるマドモアゼル・シャネルの欠点を上げ連ねながらも、本書から浮かび上がってくる人物像は、やはり特別な存在感と抗い難い魅力の持ち主だという事だった。

smoking覚書

◆「ガラを困らせてやりたい一心で」

リファールが音楽もかかってないのに、ダンスのステップを三歩踏むだけで、シャネルは拍手をした・・・・・

そうでないときは、ダリをからかったりした。戦前シャネルは、「ガラを困らせてやりたい一心で」ダリと一時恋愛関係にあったことがある。ある時ダリが、何枚かのデッサンや絵を、彼女にみせにくると、彼女はこう毒付いた。

「はっきりいうけど、こんなものは他人の眼に触れない方がいいわよ」
「なんだって?」
「そうよ! こんなの、なんの価値もないわ」
「だけどそんなことをいうのは、きみひとりだよ!」
「当然よ、私ひとりが・・・・・」

それからふたりは吹き出し笑いをしていた。マドモアゼルは、どんな時も、お茶の時間でもガラを連れてこさせずに彼だけを招待していた。「あの狂気沙汰は、クロークに預けていらっしゃい」とダリにいいつけていたし、ダリもそれに従っていた。実際のところ、ダリはマドモアゼルを恐がっていたが、私はあの人の機嫌が悪い時は、彼が嫌いだった。カンボン通りの店にかけられた彼の唯一の絵“小麦の穂”の画家だとしても・・・・・

◆彼女の触れるものすべて美しく変化していった

鼻(ネ)といわれる調香師の才能も、マドモアゼルは持っていた。料理の匂いを嗅いだだけで、どんなものが入っているかをずばりいい当てた。

ロシア人の化学者が持ってきた香りの見本の中から、混ざり合った香りを彼女が選び出し、それが“シャネルNo.5”になり、それから自分で調合して“シャネルNo.1”を生み出したが、それは自分のオフィス兼寝室にあるブールの家具に、特別の香りをつけたい、といったことから端を発していた。

忘れてならないのは、世の女性たちを“薔薇”や“ジャスミン”といった昔からの香りから遠ざけたのは、紛れもなく彼女だったということだ。

彼女の色彩感覚にしても、聴覚についても、触覚についても、こういうことをいい出したら、切りがない・・・・・だけどそうすると、彼女を理想化してしまうことになる。マドモアゼルは、すべてに万能の女性ではなかった。が、彼女の触れるものすべて、美しく変化していった。それにどういうわけだか知らないが、そこから黄金が生み出されていく・・・・・

◆マドモアゼルは幾つかの異なる人生を持っていた

ほぼ一年近く、彼女は回想録を書いてくれる書き手を探していた。彼女の人気は、アメリカでは絶大だったので、米国の作家がいいと考えていた。それがなかなかみつからなかった。しまいにはエルヴェ・ミル、ミシェル・デオン、マルセル・ヘードリッヒ(『ココ・シャネルの秘密』の著者、元“マリ・クレール”編集長)、私の夫に頼もうとしたこともある。が、結局のところ一旦だれかの手に委ねてしまうと、自分のイメージをコントロールできなくなることもあるし・・・・・。シャネルは文学には敬意を払っていた。自分ではやっと文章が書ける、といった程度だったし、子供の手紙のような書き方だった。それに他人に虚実を書き取らせるというのは、彼女も気が引けたようだ。この話が持ち上がる度に、企画は流れた。弁護士に指示して、自分に関する本の出版の一切を、禁じさせていた。それが残念ながら、死後に関する条項は、認められなくなった。

こうして彼女は躊躇っていたが、そうした中には、真実が隠されていたのかもしれない。マドモアゼルは、幾つかの異なる人生を持っていた。ある時期は孤児、歌手、デザイナー、その度に周囲の人たちもちがってきている。各段階ごとに、ひとつのシャネルの顔が隠され、ひとつの真実があったのだ。その中で彼女が混乱したとしても、当然ではないだろうか?

◆私たちはなにかに取り憑かれた人間にみえたことだろう

大概私たちは、午前三時を廻っても、まだマヌカンの周りで働いていたし、肩をつけたり、スリットを入れたり、後身頃をみたりしていた。マドモアゼルは、いつもの帽子を被ったままだった。私もまたピンを手渡したりしていたが、他人からみたら、私たちはなにかに取り憑かれた人間にみえたことだろう。

「さあ、いって寝てきなさい、あと何時間かしたら、又仕事を始めるけど」といいながらマヌカンの頭を撫でまわし、彼女のお気に入りの三人のチーフアトリエ、ジャンとイヴォンヌ、それにマノンに笑いかけた。これでみんなも翌朝まで一寝入りすることができる・・・・・

もっともシャネルは、コレクションの時期には、ほとんど眠れない状態だった。朝ホテルへいってみると、時にはリッツの寝室の窓に、ざっと下ごしらえをしたジャケットやドレスが、吊るされてあったりする。ふらふらと夢遊病者のように、隣の部屋へいき、ベッドカバーやカーテンを取ってきて、部屋に戻ってから、それを使って裁断したらしい。それが終わってから彼女は真鍮のベッドに入り、寝入ったのだ。私が入っていくと、悪夢にうなされた子供のような顔で、眠っていた。私は脈拍を取ってから、彼女を起こした。ふたりでカンボン通りへ向かった。彼女が夜に思いついた作品について、私たちはあれこれ討議した。

◆成功を予測しながらも欠点をチェックしていた

デフィレ(défilé de mode ファッション・ショーのこと)は、しーんと静まり返った雰囲気の中で始まった。マヌカンが眩しがるので、フラッシュは禁じられていて、ジャーナリストは大抵デッサンを描いていた。

他の店と違って、シャネルでは作品名を一々つけていない。マドモアゼルは、「デザイナーの詩情」とからかっていたし、そんなことが大嫌いだった。だからマヌカンたちは、数字の書かれたカードを、手に持っているだけだ。勿論“十三番”は欠番だが。

階段のところにしゃがみ込んで、彼女は目を鋭く光らせて、マヌカンが通過していくのをみていた。階段の手摺をぎゅっと握りしめた彼女は、そうやって自分の仕事を客観的に眺め、成功を予測しながらも、欠点をチェックしていた。その間私は彼女より一段下に坐って、彼女の気付いた点をメモする役だった。マヌカンが舞台に出てきた時に、どっと笑い声が上がったのがきこえたりしたが、シャネルはびくともせず、平然としていた。

ラストの作品が出てくると、カメラマンもみんなの前に出て構えることができた。その間マドモアゼルは女王然として、観客たちからの称賛の言葉を受けていた・・・・・

◆「ねぇ、このコレクションは、私にはもう流行遅れだわ」

移ろいやすい、といったモード界の特性を、シャネルは好きではなかった。コレクションの翌日、マヌカンをずらっと並べた前で、シャネルは私にこう耳打ちした。

「ねぇ、このコレクションは、私にはもう流行遅れだわ」

その声は、寂し気に沈んでいた。あの名言を吐いた時と同じように。「美しさから生まれたモードは、醜悪になる。醜悪から生まれたアートほど、美に回帰する」と。

◆服というのは第二の肌

私たちは人通りの多い道沿いの、カフェのテラスに坐った。彼女はストリートファッションの何気ない着こなしを眺め、そのシルエットを批判したり、やはりスーツは着易いし、神父の着るスーダンは素晴らしい、などと語っていた。

一度彼女に頼まれて、復員した水兵の制服の、幅広パンタロンが、どんな作りになっているかをみるため、買いにいかされたことがある。こうして彼女はサファリアンスタイルを生み出し、それが全世界に波及することになるのだが・・・・・

又別の時には、ブティックへ入って、カシミアのセーターやレインコートを買ったりした。そうしたものもすぐさま解いてしまい、私がなんとかポケットや飾り紐を付けると、その実験台も、必ず決まってシャネルスタイルに生まれ変わるのだった。

彼女も数日後にはパリに戻り、次回のコレクションの色選びを始めた。森へいって、黒い土くれや栗、ベージュの色合い、ヒースの束などを拾ってきたり、苔や朽葉を持ち帰ってきた。「やはり赤毛のメッシュなんかに、染めるものじゃないわね」と彼女は、自然のままの色合いがどんなに秀逸しているかを私に説いた。

色選びが済むと、大手のツィードメーカーのリントンを店に呼んだ。森で拾った苔、木の枝、などを私が出してみせると、リントンは、栗色、ベージュ、白など、できるだけそれに近い色調の、ツィードの布を取り出してみせた・・・・・。マドモアゼルは、殆どいつも失望の色を隠さなかった。散歩の時みた光線とは違っているし、店でみると、苔も干からびていて、色褪せてしまっていた。もっといいのを探さないからだ、と幾度も小言ををいわれたので、そのうち私は、近所の花屋で、柏の木やかえでの枝を買う習慣になった。

布地見本と首っぴきになったシャネルは、アイルランド人たちを織機の前に坐らせ、帯状の布に、極く些かだけ緑や紫の斑点を織り込ませていた。一回のコレクションで十五種類ものツィードを使うので、そのためにいい色調を出してもらう必要があった。それは脇でみていても感動的だった。こうしたデリケートな、通常一週間はかかり、それが済むと、アイルランド人たたいは、布地を織るため自分たちの国へ帰っていった。そうした布は、柔らかくほぐすためにツィード川で水洗いされていた・・・・

打ち合わせは、夏のシルクやクレープデシン地になると、多少異なってくる。シャネルは見本の布をぎゅっと握りしめたり、そっと撫でまわしたり、一冊の本を嗅ぎまわすようにくんくんと嗅いだりしていた。その段階でも、彼女はなにひとつ見落としはしない。まるで指先で観察しているようだ。シャンタンがごわごわしすぎるといって、ローヌ地方に桑畑を買ったこともある。数年後に蚕がつくようになるですって? ・・・すると今度は自分のために、リヨンに絹工場を建てた。

生地選びに異常に凝る彼女のやり方には、一理あった。彼女にとって服というのは、第二の肌、という考えを持っていたからだ。

◆「ほらね、私の人生は成功だったのよ。」

他のクチュリエとは異なり、シャネルは、自分のデザインした服を着ていた。彼女のコレクションは、彼女そのものといえるし、それをコピーするとしたら、彼女に敬意を表すことになるだろう。コレクションの翌日に写真の掲載を許可していたのは、彼女だけだった。そうした写真のせいで、アトリエでコピーされたシャネルの偽物が、世界中にあふれていた。そうした事実は心配の種どころか、却ってその逆だった。「多くの女性が私の服を着てくれるってことは、それだけ種々雑多な服が生まれるってことよ」と彼女はいっていた。

エレーヌ・ラザレフは、私の母が、母の友達のために偽物(コピー)を作っている、とシャネルにいいつけたことがある。ところがシャネルは母をカンボン通りに連れてきたら、もっと上手く作れるようになる、といい出す始末だった。母は恐縮してしまった。シャネルもそのうち、自分でいいだしたことを忘れてしまっていた。ともあれ、こうした中にも真実があった。マドモアゼルは、むしろコピーを歓迎していたのだ。

ある時、私たちがサン=ジェルマン=アン=レーの市場の近くを車で通っていると、行商人がこう叫んでいた。「さぁ、メ・プチ・シャネルを買った、買った! メ・プチ・シャネルはたったの百フランだよ!」。彼女は運転手に車を止めさせ、その行商人にキスすると、勝ち誇ったような顔をして戻ってきた。「ほらね、私の人生は成功だったのよ。私の服が、何しろ百フランで買えるんだから」。路上で生まれ育った彼女には、自分のファッションが路上で生きていることが自慢でならなかったのだ。

◆「安物が買えるほど、うちは金持ちではないんだよ」

そうはいっても彼女は、コピーされるのが一番難しい最高級の生地しか使っていなかった。それはなにはともあれ品質の基準のためなら、彼女はどんなことでも譲歩していた。「安物が買えるほど、うちは金持ちではないんだよ」と子供の頃のシャネルは、それを頭に叩き込まれていたのだ。それはそのまま彼女の材質に対する厳しい態度となって表れている。

シャネルの服は、十年以上はもつし、それも傷んだりせず、流行遅れになることもない。そのためには仮縫いの時に、生地をたっぷり犠牲にするとしても、それは止むを得ないことなのだ。こうしたことを節約してしまえば、それは道に外れる、というものだ。結果的には、店の利益を失ってしまうことにもなりかねない。

「人によりけりだけど、お金を貯めても貧しくなる人もいるし、お金を使うことで金持ちになる人だっているのよ」と彼女が語ったことがある。

◆彼女は伝えたいメッセージを持っていた

シャネルは並外れたデザイナーだった。いずれにしてもひとは彼女のことを、クリスチャン・ディオールと同じようには語らないだろう。コスチュームを売るということを超えて、彼女は伝えたいメッセージを持っていたからだ。彼女の夢は、通りを歩いている女性をつかまえて、変身させることだった。シャネルスーツを着せたり、百フランのスーツを着せたり、それ以外はなにひとつ望んでいない。それともプリズニック(スーパーマーケット)のセーターに、ストレートのスカート、その方が花柄ドレスやふわふわした服よりずっとましだ、と彼女は考えていた。エレガンスとは、ずばりシンプルということだし、つまりごてごての反対だ。

下品なものから、女性を遠ざけてくれるのは、先験的(ア・プリオリ)にシャネルといってもいいだろう。エレガンスの反対というのは、貧しさでも、通俗性でもない、下品、というだけのことだ。外見を通して、女性の生活様式や思考形態まで彼女は形作ろうとした。

◆時代と共に進んでいった

戦前はパンタロンを一般的に広めたのに、それが今では後悔の種になっていた。「女がパンタロンをはいても、素敵な男にはなれっこない」・・・。

彼女は晩年、人を誘惑するような魅力は、もう時代が求めていないことを残念がっていた。男女平等が愛を滅ぼしたともいっている。「解放されたかったのは、あなたでしょう。罰があたったんですよ」、と年下の女性に言っていた。

◆1971年1月 日曜日

シャネルは自分の最期について、幾度となく語っていた。彼女の望みは、仕事中か、もしくはド・ゴールのように、トランプ占いをしながら死ぬことだった。「私が死ぬときはね・・・」と彼女はいった・・・・・「私も死ぬわ」と私。それでもシャネルは、「厳粛な過程」を通過する時には、私が傍らにいて手伝って欲しい、というのだった。一時間はじっと手を握っていてあげる、と約束させられた。

「このエンゲージリングを抜くのは、忘れないように。これはあんたのもの。ボーイにもらった指輪だから」

1971年1月日曜日、普段の日曜日と変わりなく、彼女から電話が入り、昼食に誘われた。彼女にとって、日曜日というのは呪わしい日だったが、私も断固として譲らなかった。この日に限って、私は剣もほろろだった。

一時間経った。彼女のメイドのひとりから、緊急の電話が入った。私が家を飛び出してリッツにかけつけた時は、マドモアゼルはシルクのパジャマを着て横たわっていた。私は彼女の両腕を抱き寄せた。彼女は冷たい汗をびっしょりかいていた。

「こういう風に死ぬような気がしていた。私の手を握って。約束どおりに・・・・・」

彼女の指が、私の手にぐっと食い込んでくる。彼女の顔には、憤怒の表情が表れていた。その直後、息絶えた。

◆なんともいえない解放感だった

彼女の死後、私は深々と胸を撫で下ろしていた。もうこれからは十時間も連続して仕事をしなくてもよくなったし、深夜の電話もかかってこず、一日中プレッシャーを感じなくても済む。なんともいえない解放感だった。

十五年間も、私はパンタロンをはくのを禁じられていた。彼女が死んでから数ヶ月は、私はスカートをはかなかった。自分の趣味からそうしたまでだが、シャネルに強要されたスタイルを変えるのが、嬉しくてならなかったからでもあった。そんな恰好をしたら、彼女に嫌われるかもしれないが、もうどうでもいいことだ。彼女の手法には、いい面もあったが、それが十五年も経つと、欠点しかみえなくなっていた。

「始めのうちはそれが嬉しくても、時が経つにつれ、私がいないのが寂しくなるわよ」、と彼女はいっていた。彼女のいったことは正しかった。彼女に逆らうのが愉しかった時期は、ほんの短い間だけだった。時間が経つにつれ、心の中の空洞は広がっていった。人生をエンジョイして、家庭生活を愉しみ、時間も自由に使えた。それなのに、なにか物足りない・・・・・

25歳の時、カンボン通りで働き始めた頃は、なにをみても大して驚かなかった。こんなにスケールの大きいひとは、ほんの一握りしかいない、ということにも気付いていなかったからだ。

「今のところはあんたも『なんてうるさいんだろう!』って思ってるでしょうね。でも今に気付くわよ、みんな俗っぽい人間なので、あんたも退屈するようになるから・・・」。ここでもやはり、彼女は的外れなことはいっていなかった。

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