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2009年9月 9日 (水)

115『近世庶民文化史 日本文化の原型 別巻』 青木美智男 初版2009年

戦後260年の平和を享受した江戸時代に
“日本文化”の原型がある・・・

「この紙をどこで購入したのか
入手した筆と墨はどこで生産されたのだろうか
そして どうしてこんなに文字が書けたのか」

「何を食べて生きていたんだろう
つい味噌や醤油・酢の生産にも関心が向いてしまう」

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japanesetea概要

文化は、衣食住をはじめ暮らし全般にかかわる。本書では、現在の我々の文化の源流を江戸時代に求め、日本独自の文化がどのように形成されたかを解明する。俳諧・歌舞伎・浮世絵といった江戸時代に花開いた文化も、日本の古典と中国の文化が不可分に結びつきつつ創造された日本独自の文化である。こうした独自の文化の創造の過程を、まず庶民がどのような暮らしをしていたのか明らかにし、次に文化の享受者である庶民の視点に立って文化全般をみていくという画期的な方法論による日本文化史である。

japanesetea読むきっかけ&目的&感想

江戸時代が舞台の小説『しゃばけ』シリーズを読んで、当時の雰囲気に興味が湧いたので、それらしい本を探して読んでみる気になった。

さくら好み ★★★☆☆

面白かった。識字率の向上と出版技術の発達、消費者として娯楽を求める都市文化の形成、衣食住の充実、民間の処世と権力側の発想など等とても面白かった。これから読む『しゃばけ』シリーズをより楽しむ事が出来そうだ。happy01

japanesetea覚書

◆江戸時代は親子という家族単位での生活が保障されはじめた時代

戦争だ、地震だ、洪水だ、凶作だ、飢餓だ、疫病だと、そのつど住処を追われ、放浪する。戦乱の終結は、その点で不安定な生活に終わりを告げ、大部分の農民がひとつの村落で生涯暮らせる条件をひとつクリアした。そうなれば、開発を進めて耕地を確保し、河川の改修や灌漑施設の充実などで農業生産力を飛躍的に増大させられる。そして、耕作することで、村落での生活がまがりなりにも成り立つ条件を確保することができる。

◆城下町という巨大消費都市の誕生

文化をはぐくむだけでなく、それを伝達する手段をもち、あわせて文化を享受する人々が、同時に存在する空間が都市である。江戸時代以前に、そのような都市がどれほどあっただろう。京都、鎌倉、そして堺や博多など、数えるほどしか名前が浮かばない。

それが、兵と農と分離する政策が断行されるや大きく変わる。その結果、兵を集住させる城下町という消費都市が、雨後の筍のように各地に誕生した。これはほかでもなく、戦国末期から江戸初期の現象である。日本各地でそれまでにない大開発が行なわれ、城下町というまったく新しい都市景観が全国にお目見えしたのである。

城下町には、城郭を中心として、武士集団の町、武士の暮らしを維持し領国経営に不可欠な流通機能を担う職人や商人らが集まる町人町、そして寺町と呼ばれる宗教施設などが建設された。城下町はまぎれもなく軍事基地であり、統治機能の中枢が置かれた政治都市であるが、同時に住人の大半が消費者である一大消費都市でもあった。

このような機能をすべて備え、巨大都市化したのが江戸である。しかし、江戸の周辺は、江戸に集住する膨大な消費人口をまかなえるだけの生産能力を持ち合わせていなかった。そのため、中央市場的役割を担っていた大阪の物流力に依存せざるをえなかった。この結果、大阪は物資の集散地として巨大化した。朝廷が存在する京都もまた、伝統文化をベースに新たな発展をみた。江戸、大阪、京都を、当時の人々は三都と読んだ。

この三都のほかに、仙台、名古屋、金沢、広島、福岡、熊本など、万を越す人口を擁する城下町が、全国各地に誕生した。いずれも鎖国の中心都市として発達し、その大半は消費人口だった。こうした都市は、鎖国後、貿易港が四つの口(長崎・琉球・対馬・蝦夷地)に限定されたため、年貢米の販売などで中央市場の大阪と結びつかざるをえず、諸藩は蔵宿を設けて大阪商人との関係を深めた。

日本の東西に、それぞれ性格を異にする巨大都市、江戸と大阪が誕生した。菱垣廻船や樽廻船が周航して二大都市を結んだように、領国経済の中心である城下町と三都は、水運や海運によって結ばれ、陸路を使わざるをえない地域は馬背運送業者を介して結ばれた。

商品の積み下ろしが行なわれる陸運や水運の接点には、河岸という流通拠点が生まれ、水運と海運の接点には、湊と呼ばれる大きな港湾施設が設けられた。千石船や地廻り船が出入りし、廻船問屋が船荷の差配を任されたが、湊町は流通の拠点としての機能の他に、集散する商品を加工して付加価値をつける地場産業も持ち合わせるようになった。

◆民間社会に知と富が集中

江戸時代に生きた農工商身分の人々は、刀狩りによって、武力で権力を奪取する可能性を断念させられた。また、武士身分に取り立てられ、権力側に移るのは至難だった。しかも、武士身分の内部にも身分制が貫徹していて、足軽から家老にまでのしあがるのも難しかった。武士身分に取り立てられたとしても、下級の士分に加えられるのが落ちである。

そこで、農工商身分の多くは、身分の上昇指向を断念し、受け継いだ家職の経営規模など、家産を発展させることに専念し、力を入れるようになった。アメリカの歴史学者ライシャワーさんは、大金持ちになろうとか著名な医者になろうという、目的指向の強い人間を輩出する動機になったという。家運を上昇させることが、人生最大の目的になったのである。

幕藩制における経済活動は、生産から流通まで基本的に農工商身分任せである。それゆえ才覚があり、勤勉と節倹に努めれば、家職を発展させる可能性をもっていた。農工商身分のほうが、全人口の多数を占める。そのなかから、分限者(財産家)に成長する人材が、各地で輩出しはじめた。つまり、民間人に知力と経済力が蓄積される。それは時代が下るに従って大きくなる。幕藩領主は、彼らの知性と経済力に依存しなければ体制を維持できない状況に、追い込まれていくのである。

強固な身分制ゆえに民間社会に蓄積された膨大な知力と経済力は、幕藩権力に自壊作用を促していた。しかも、民間社会に生きる農工商身分の人々は、経済活動だけでなく学問・芸術など文化のあらゆる面にも大きな基盤を築いていた。そして何よりも、江戸後期に始まる富の偏在によって生まれた貧農たちが、村を離れ雑業層化して、四民の周囲で多様な活動をしはじめ、その存在が無視できない存在となった。これまでの強固な身分社会そのものの土台をゆるがすに至ったのである。

◆読み書き・そろばん

子孫に家職を維持し発展させるのに、何がもっとも大切か、と経営拡大に成功した有徳人たちに問えば、その多くはまず識字力と計算力を身につけることだと答えるであろう。文字を読み書きでき、そろばんがはじけなければ、農業経営も商売もできない。

そこで、幼年期から積極的に寺子屋や手習所に通わせ、最低限の基礎教育を施す。寺子屋で数年学べば、かなりの教養を身につけることができた。時には、囲碁・将棋や和歌・俳諧も学ぶ。そのうえで、「他人の飯を食わせる」奉公に出して、社会性を身につけさせたのである。

村人が読み書きする能力をもつ必要性を本気で感じるようになったのは、自己の農業経営を維持し発展させるためには「少しは商い心」を持つことが肝要だ、と認識するようになってからである。畑の年貢を納める際も、雑穀を売って金に換えるときも、金肥を購入する際も、そこには多少の「商い心」が必要だし、読み書き・そろばんの能力が物をいう。

また、生産性の高い作物の名や栽培技術を知ろうとすれば、宮崎安貞の『農業全書』をはじめ、地域性の強い農書にまで目を通さねばならない。

つまり、百姓経営が成り立つためには、「分限相応に手習いをいたさせ、そろばんをならわせて耕作の儀を勤めさせ」ることが肝要になったのである。そこで、江戸初期の村落には、

学校と云うあらざれども、在々所々に寺社多く、一里一郷の処にも神社仏閣のもうけなきはあらず、そのところの民人の小弟必ず相あつまりて手習い物学ぶ・・・

と、儒者の山鹿素行が述べているように、寺請制の展開に伴って、どのような村にも存在するになった寺院や村人の産土神である神社に宗教者たちが定住しはじめると、彼らは村内唯一の知識人として、村人から要望があれば師匠となって村の子どもらに読み書きを教えるようになる。

ただし、そこでの教育は、「ただ往来の文をいとなみ、日記帳のたよりのみにて、世教治道の助けとなり風俗を正す基となることはなし」と、もっぱら日常生活に役立つ実用主義に徹した文字学習だった。仏の心など教えない。それゆえ、テキストは『庭訓往来(ていきんおうらい)』などが中心だった。おそらくこれが、末寺の僧侶たちの教養と村人らが期待する教育要求のレベルとの一致点だったのであろう。

こうして寺子屋と呼ばれるようになった初等教育施設は、村にはなくてはならない存在となった。もし廃止したりすれば、即座に大きな社会問題となった。

◆女性の社会的地位の高さを推し量るバロメーター

ペリー(1855年帰国)も日本をめざしたとき、日本の歴史や民族性などをシーボルト文庫などを通して学習し、かなりの予備知識をもってやってきた。そして、日本人のあいだに教育が普及し、その結果として下田や箱根のような港湾都市でも本屋が存在し、安価で通俗的な書物が並んでいることに目を見張った。おそらく予想以上のことだったのであろう。

そして重要なのは、ペリーが女性の読み書き能力の高さに注目し、しかも「日本固有の文学」に精通している女性がしばしばいる、と記していることである。

シュリーマン(1865年来日)の記録『日本中国旅行記』につぎのような文章がある。

さらに日本の教育は、ヨーロッパの最も文明化された国民と同じくらいよく普及している。それはアジアの他のすべての民族が、中国人たちでさえも、まったくの無学のうちに彼らの妻たちを放置しているのとは対照的である。だから日本には、少なくとも日本文字と中国文字で構成されている自国語を読み書きできない男女はいない。

ペリーとシュリーマンに共通するのは、アジアの諸民族、とりわけ中国女性と比較して、日本女性の読み書き能力の高さに注目した点であろう。じつはこの点は、幕末に来日した多くの外国人の日本見聞記に、共通してみられる感想である。

欧米人たちは、女性が社会的活動や知識を広める際、読み書き能力が彼女の社会的・経済的な活動に有利に働くことを熟知していた。したがって、母親はわが子に読み書き能力を身につけさせようと、きまって教育に力を入れるのだとみていた。つまり、彼らは自分の母親を通して、近代国家の発展に必要な教育の普及には、こうした能力をもつ女性の役割が、きわめて重要であることを経験的に学んでいたのである。

事実、欧米人の多くが、日本の女性たちは男性のさまざまな抑圧下に置かれ、その社会的制約苦しんでいる存在であることを知りつつも、万延元年(1860)九月に来日したプロイセン農務省の役人のマローンのように、

(日本の)女性の社会的地位は、素朴な、はっきりした、自然なものである。彼女は奴隷ではなく、ほかのアジア人が女性を軽蔑するような、単なる物的な繁殖容器ではない・・・

ともみていたのである。マローンは、アジアの諸民族に広く存在した一夫多妻制下の女性でもなく、欧米における女性のような存在でもない。単婚小家族制がベースの日本の家族制のなかでの女性の立場から生まれる社会的地位の高さを見抜いていた。さらに、夫の相談相手にも仕事の協力者にもなれる女性は、夫から思いやりをもって遇され、外部からの攻撃にも強力に紳士的に守られているとみていたが、自立する人間としては学問が浅すぎ、愛される婦人としては学びすぎる存在だと位置づけていた。

◆独りもんの男の食事

日本橋などに店を構える大店は、男社会である。それに参勤交代で単身赴任した武士の数を加えると、江戸は男過剰のアンバランスな人口構成になっていた。そんな独りもんの男の食事は、「惣菜一品なんでも四文」が売りものの四文屋の屋台ですますか、長屋の入り口まで食べ物を売りにくる棒手振りから買っておなかを満たす。

商品のなかでの売れ筋は、毎日消費する食料品と衣類だった。なかでも食料品である。それは文化二年(1805)とも三年ともいわれる日本橋本町の様子を描いた『熈代勝覧』を見れば一目瞭然である。本通りの路上で店開きしているのは、そのほとんどが野菜売りで、棒手振りが売り歩いているのも野菜である。また、日本橋のわきでは、河岸から揚がったばかりの新鮮な魚が売られている。江戸前の魚である。

このような光景はどこの盛り場でも見られたし、神田の青物市場や日本橋の魚市場には、近隣の産地や漁場から季節の野菜や魚類が運ばれてきた。これらの野菜や魚は、家庭にまわるだけではない。江戸にはお目見えしはじめた外食産業に大量にまわされた。

江戸が男社会であったり、仕事が超多忙で家に帰れない、そしてちょっと余裕ができたのでおいしいものを食べたいなど、さまざまな理由で、江戸っ子が外で外食する機会が増えた。そしてもうひとつ、江戸っ子が外食せざるをえない江戸ならではの理由がある。それは大火である。

江戸では大なり小なり火事が頻発した。焼け出された人々の食事が即座に問題になる。類縁をまぬがれた親類にでも身を寄せないかぎり外食せざるをえないから、復興の過程で続々と生まれたのが外食産業であった。

◆江戸の外食産業

幕府が寛政一一年(1799)に調査したところによれば、業種としては、つぎのようになる。

一、料理大茶屋  一、同小茶屋  一、煮売家  一、居酒屋  一、奈良茶屋  一、茶漬屋  一、田楽屋  一、煮豆屋  一、酢(鮓)屋  一、蒲焼屋  一、汁粉団子屋  一、上菓子屋  一、餅菓子屋おこし類共  一、飴屋  一、玉子屋  一、水菓子屋  一、蕎麦切売り 一、うどん屋  一、手打ち蕎麦屋

◆食の革命 ―醤油・清酒・出汁の普及―

江戸時代に醤油、清酒、出汁が発明され、庶民の食生活は一挙に味わい豊かなものになった。味醂は女性の飲み物で、これが調味料になったのは幕末になってからだ。

江戸時代とそれ以前との大きな違いは、醤油と清酒の有無にある。両者が本格的に料理に使われだすのが江戸時代だった。ともに液体調味料である点が重要で、鍋で煮炊きする際、醤油や清酒を加えて味付けができ、それらに漬けた食材を調理することもできるようになり、食膳をいっきょに豊かなものにした。また、それまで調味料の主役の一つであった酢と合わせることによって、さまざまな味を引き出すことになった。これまでの調味料であった酢・味噌に加えて、そのように醤油を使うのかが、料理の味を左右することになったのである。

刺身も、鮓も、冷奴も、蕎麦・うどんも、蒲焼も、醤油なしでは食べられないし、つくれない。醤油があって初めて生まれた料理もある。しかし、そんな醤油が、調味料としてふつうの家庭で本格的に使われだしたのは、文化・文政期(1804~30)になってからである。

◆燗酒は季節限定の飲み方

寒くなるといまでも燗酒が喜ばれるが、燗酒は古くから、飲まれる期間が限定されていた。江戸初期に書かれた『伊勢六朗左衛門尉貞順記』に、「御酒のかんの事、九月九日より明の三月三日までなり」とあるように、重陽の節句から翌年の上巳の節句(桃の節句)までの飲み方で、燗をやめる日のことを「別火(わかれび)」というほど季節感あふれるのみ方だったのである。

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japanesetea追加メモ

2011年02月20日放送「ミミガク」 『江戸庶民のくらし』

今回のゲストは、江戸文化研究家で早稲田大学エクステンションセンター講師、「図説世界を驚かせた頭のいい江戸のエコ生活」(青春新書)の著者・菅 野俊輔さん。江戸時代にまつわる意外なお話が次々に飛び出しました。 まず「第一の扉」は、『今あるものは、すべて江戸にあった?』。続いて「第二の扉」 は、「江戸の女たちのくらしとは?」。「第三の扉」は『100万都市・江戸のリサイクル』。

 

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