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2009年5月17日 (日)

091『メディアの支配者 上・下』 中川一徳 初版2005年

メディアも営利企業! 「公器」は方便?

利権の争奪に善悪はない
問われるのは勝つか負けるか 力量と結果だけだ

巨大メディア簒奪 ・・・・・歴史は繰り返される

20090517_3

fuji概要

日枝久会長率いるフジテレビは、堀江貴文のマネーゲームによって危うく乗っ取られかけた。フジサンケイグループが内包していた経営上の「弱み」を、巧みに衝かれたのだ。

フジサンケイの支配者は、創立者・鹿内信隆、二代目・鹿内春雄、そして娘婿・宏明の鹿内家三代と入れ替わったのち、日枝が謀議を巡らしクーデターによってそれを追い出した。日枝は、新たな支配者として君臨した。しかし鹿内一族は、グループ支配のカギとなるニッポン放送株を容易に手放そうとはしなかった。「乗っ取り屋」日枝は、鹿内家の影響力を排除するため株式の上場に走ったが、それが自らを地位を危うくすることになるとは想像もしていなかった――。

15年に及ぶ信じがたいほどの取材量によって、フジサンケイグループの暗部を余すところなく明らかにする。鹿内家の内部文書、多くのフジテレビ、ニッポン放送、産経新聞社員の証言によって、知られざるメディアの裏面がはじめて説き起こされる。

戦中・戦後の混乱を生き抜き、梟のように奸智に長けた創始者・信隆。プリンスとして育てられ、数々の結婚、離婚を繰り返し、現在のフジテレビの基礎を作った夭折の天才・春雄。エリート銀行マンから春雄の死によって唐突に後継者に指名され、奮闘むなしく日枝に追い落とされた娘婿・宏明。そして巧みな根回しと戦略によって現在のグループを率いる日枝久。

「支配者」たちの歴史は、そのままこの特異なメディアグループの歴史でもある。圧巻ノンフィクション。

fuji読むきっかけ&目的&感想

どのような文脈に連ねてライブドアを書いているかに興味があったので読んでみた。

さくら好み ★★★★★

軽い気持ちで読み始めたのに、フジサンケイグループ(フジテレビ、ニッポン放送、産経新聞、文化放送、他)の支配構造の変遷が事細かに書いてあり、想像以上に濃厚だった。様々な人間模様が淡々と書いてあり、もの凄く興味深い内容だった。

この系譜にライブドアが登場するのは、ある意味必然のようにさえ感じてしまった。

fuji覚書

◆疑惑を晴らすのは至難の業

社会的、経済的に相応の地位を持つ人物を攻撃し貶める方法として、事実無根であっても、その者に脱税があると指弾、宣伝する行為は、かなり効果的である。

第一に、個人がどのように税務処理したかは本人と税務当局しか知り得ない。税務当局には厳しい守秘義務があり、脱税があったともなかったとも、あるいは税務処理が適正であったか否かも決して明言はしない。

摘発されれば別だが、そうでない場合、潔白を証明しようとすれば、カネの出入りをすべて明かさなければならず、それは当人の生活の一切合切をさらすことであり、現実には至難の業だ。

そこに、つけ入る余地が生まれる。ちょっとした綻びを最大限に膨らませ、潔白の証明がないを標榜し調査・取材を専門にしてきた記者出身者たちがそれをやると、効果はさらに増す。疑惑が浸透し独り歩きを始めると、ことは厄介だった。

◆日本放送は‘ニッポン’放送

原はラジオ東京設立のちきも朝毎読の新聞三社の一本化に尽力した電波界の顔役である。結局、原の仲介を受けて最有力だった中央放送はラジオ経済と統合、昭和二十八年十二月、免許が交付されて社名は新しく「日本放送」になった。

日本放送はこの後すぐ、カタカナ社名に変わる。当時としては斬新なこのネーミングは、三ツ村の発案だったという。

この少し前に、信隆が珍しく三ツ村を食事に誘ったことがあった。銀座並木通りの鰻屋に腰を落ち着け、話題は統合後の社名のことになった。信隆は盛んに日本の字を「にっぽん」と発語する。詩人・三ツ村が理由を尋ねると「ぽん」の響きがよくて好きなんだという。

「それはダメですよ。漢字で日本と書いたら日本人は『にほん』と読んでしまう」
「うーん・・・・・どうしたらいい」
三ツ村がどうしても「にっぽん」にしたいのかと聞くと「そうだ」と言う。

「『にっぽん』というのは強い響きだから、たしかに鹿内さんの性格には合っているかもしれない。どうしてもそうしたいなら、思い切ってカタカナにしましょう。とにかく日本を『にっぽん』と読む人は財界人にだっていませんよ」

信隆はなお「そうかなあ」と逡巡したが、ほどなくニッポン放送が正式な社名となった。

◆ラジオ草創期の珍談

幹部にも商業放送の概念が定着していないため、経営の根幹を危うくするような事態もいささか笑い話になる。

「ニュースでは、合間にスポットで広告が入るんですが、吹っ飛んでまったく入っていない。共同通信出身の報道部長に『広告が入っていないのはどうしてか』と聞くと『いやあ、君ね、ちょっとニュースが多かったから削ったよ』と平気な顔で言う。冗談じゃない、スポンサーのカネで成り立っているのに仕組みをわかってないわけです。この際、思い知らせようと思って『営業では手に負えないから』と嫌がる報道部長を無理矢理スポンサーのところに連れて行って謝らせた。帰りに部長は、『民放に来たのは失敗だった。新聞社ならこんなことはないのに』とぼやいていました」

民放と新聞社の経営は、消費者からカネを取るかどうかで決定的に異なる。民法の収入源がすべて広告に頼っている以上、広告を外したら経営は成り立たないのである。

◆『竜馬がゆく』連載料は破格の月百万円

水野は、趣味や私情と会社経営の区別などない経営者の典型だった。

新聞の連載小説に月百万円という破格の原稿料を出すことも、水野の一言で決まった。

「当時としては仰天するような金額で、その第一号が司馬遼太郎(『竜馬がゆく』)だった。ところが司馬側の担当者は源泉徴収されて手取り九十万円になるのが不服で、手取り百万円を要求してきた」

経理局では、要求通り支払った。

◆財界の秘密組織

組織の名は「共同調査会」と言った。

名称の由来ははっきりとしないが設立は昭和三十年(1955年)十一月に解散するまで活動期間は十三年に及んだ。マスコミや労働組合対策を含め、公にはできない手段を取ることも稀ではなかったという。

そのため記録らしい記録は何も残されていない。会については信隆を含めて二、三の財界人がわずかに回想している程度で、そのほとんどが鬼籍に入ったいまとなっては確認のしようもないが、メンバーで一人だけ存命の坪内嘉雄の証言などを元に概要をたどってみよう。

初期の会員は、日本を代表する一部上場の大企業百四十社あまりのトップ(会長か社長)で構成されていた。

会員を束ねる執行部は機構上、意思決定をつかさどる幹事会と方針を企画し運営にあたる補佐会議に大別された。

幹事を務めたのは東京では櫻田武、植村甲午郎、小林中、水野成夫、佐藤喜一郎、水野重雄、今里広記の七人。大阪、名古屋は堀田庄三、松下幸之助、芦原義重、松原与三松、野淵三治の五人。佐藤や堀田といった三井、住友の財閥系もいるが、多くは新興財界人である。

代表はここでも“守護神”植村が就いたが、実質的な責任者は櫻田であった。幹事会は月一回、東京と大阪のホテルで交互に開いた。坪内が振り返る。

「共同調査会は櫻田さんの提唱で始まった。当時の共産党は『歌って踊って恋をしよう』と“微笑み路線”で民主青年同盟(共産党の青年組織)や労音に若者を集め、企業内に勢力を拡大し、党員の組織化をおこなっていた。この流れを断とうというのが会の大きな目的だった」

まず企業に浸透した党員の洗い出しが急務だった。大企業では、秘密党員が多い。

「把握しているのは共産党の地区委員会だから、ここの党員リストを取る必要があるわけです。かなり大変だったが、公安関係者を使うなどしてリストはいろいろ入手した。該当する企業の社長に伝えると、判で押したように『ウチには共産党員はいない』と胸を張るんですが、リストを示すとこれも一様に驚愕するのが常だった」

党員リストの入手を含めて実務を担ったのは補佐会議のメンバーである。信隆をはじめとして小坂徳三郎、井深大、日経連専務理事の早川勝、それに青年会議所専務理事だった坪内ら数人で構成された。

ニッポン放送と背中合わせに建つ当時の日活ビル(日比谷パークビル、二〇〇四年解体)四一五号室に事務所を置いたが、看板など名称をあらわすものは何も掲げられなかった。

「会の運営にあたる補佐会議は、鹿内さんが中心となって毎週火曜日の一時から二、三時間かけて開き、私が事務をとった。会合場所だった四一五号室は、会員にも知らせていない秘密事務所です。もうひとつ、丸ビル五階にも小部屋があり、日経連の元総務部長がカネの管理をおこなっていた」

信隆は定刻になるとニッポン放送社長室を抜け出し、裏玄関伝いにものの一分とかけずに隣の四階まで上がって行った。

年会費は資本金によって一口百万円と七十万円に分かれ、集められた年間予算はおよそ二、三億円に上った。設立当初は櫻田、今里らがカネ集めに回ったという。

企業は反共などという抽象的な理念でカネを出すのではない。

「リストを示し党員が相当数に上ることを明かして『このままではあなたの会社は破壊される。協力してください』と呼びかけることが会員獲得の決め手だった」と坪内は言う。

共産党対策のほかに、日教組の分裂工作とアメリカへの教員派遣、三井・三池争議の鎮圧、民社党の結党資金の提供といった各種の活動を、三十年代から人知れず実行した。坪内によれば、民社党の西村栄一書記長(後に委員長)に五億円の資金を手渡したのは信隆だったという。

メディア戦略として潰れかけた産経新聞の再建問題も俎上に上った。

「すでにニッポン放送、フジテレビを財界で押さえており、幹事会、補佐会議の場で、この際、新聞も持とうということになった。堀田さんが『五億円は住銀で立て替える』と表明したこともあり、幹事の一人である水野さんを社長に送り込んだのです」

共同調査会はすべての会員が日経連の会員でもあったから、いわば日経連の裏組織という性格を帯びるとともに、そのほとんどはニッポン放送の持株企業でもあった。つまりカネと人あるいは目的から言って、日経連の中に、情報工作組織である共同調査会とメディア企業のニッポン放送、フジテレビがコインの裏表のように包摂されるという関係になる。

坪内によれば、この時点で産経新聞の事実上の金主も共同調査会になったということになる。

◆「楽しくなければテレビじゃない」

八十年代に顕著となるテレビの圧倒的優位性は、フジサンケイグループが巻き散らした一連のスローガンにも象徴されている。

「楽しくなければテレビじゃない」のだから、楽しくおもしろければコンテンツは何でもよいのである。テレビは、番組編成でも相当フリーハンドを手にした。

その末に生まれたグループのCI(コーポレート・アイデンティティ)が「メディア文化の覇権を目指す戦闘集団」なのである。

われわれはメディアを制する覇者となる――。

春雄はこのようにあからさまに宣言することで、自身とこのグループにつきまとったある種の劣等感を払拭し、カネや名声、影響力、覇権といった人間の持つ欲を解き放った。欲望を隠すことなく、その実現に邁進して何が悪いのか、わがメディアはそれを主張し、体現し、しかも制覇するのだと憚るところがなかった。

メディアを主導する者をたとえば“言論人”と呼ぶなら、彼らには少なくとも自省的思考が問われるに違いないが、春雄はその対極にあった。その意味では、八十年代に狂い咲いたバブルをメディアの地平線で最も濃厚に体現したのが春雄とこのグループであった。

春雄がもっぱら鐘を鳴らし太鼓を叩いたから、グループ構成員は不承不承踊ったのだろうか。そうではないだろう。良否の別なくひたすら影響力を極大化することが、このグループに課せられた使命であり、そのように自己規定して歩んできたのである。

◆あとがきより抜粋

今年(2005年)二月、飛び込んできたのが「堀江事件」だった。

これまでも知られざる「メディア買収計画」が、水面下でさまざまに構想、準備されてきた。着手寸前まで進んで未遂に終わるのは、相手の反発や反響の大きさといったリスクを怖れるあまりだった。それだけに堀江貴文氏の登場は、度胸と奇術的な金融技術を駆使すれば、メディアを奪取し支配する欲望が相当満たせることを立証し、封印を解く効果をもたらした。

そして、フジサンケイグループがそうした欲望の対象としてふさわしい存在だったことはお読みいただいたとおりである。人々は七十日間というもの、メディアを舞台とした白熱の攻防戦を呑まれるように鑑賞し、消費し続けた。

一方、報道機関がどうあるべきかといった議論ははなから無用だった。このグループに限ったことではなく、日本のメディア・ジャーナリズムは、もはや回復不可能なまでに荒んでいる。

fuji著者

Nakagawa 中川一徳

1960年生まれ。フリーランスジャーナリスト。『文藝春秋』記者として「事件の核心」「黒幕」「悶死――新井将敬の血と闇」などを執筆。2000年に独立、事件、経済、政治などをテーマに執筆活動をつづけている。

単行本は本書が第一作となる。この作品で講談社ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞を同時受賞した。

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