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2009年4月28日 (火)

086『インドの衝撃』 NHKスペシャル取材班 初版2007年

「今のインド」の姿 

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diamond概要

1 <インド人はなぜ優秀なのか?> わき上がる頭脳パワー (・世界の注目を集めるインド人の頭脳 ・MITより難関?超エリート大学IIT ・ネルーの夢「頭脳立国」 ・頭脳を武器に成長するインド企業 ・トタン屋根の予備校)

2 <インド経済は本物なのか?> 十一億の消費パワー (・世界が震撼する「新中間層」の消費パワー ・MBA軍団が率いる巨大スーパーの挑戦 ・地方にも波及する消費革命)

3 <インドは大国となりうるのか?> 台頭する政治大国 (・アメリカを譲歩させた外交大国 ・インドvsアメリカ 核を巡る攻防 ・在米インド人、水面下の活躍 ・そしてアメリカは妥協した ・コットンベルトは自殺ベルト ・なぜ農村は貧しいままなのか? ・成長の足かせとなった農村)

diamond読むきっかけ&目的&感想

あたしの「インド」に対するイメージを刷新したきっかけが、2007年に放映されたNHKスペシャル番組『インドの衝撃』だった。この番組を見た後から、インドに関するニュースに特に注目するようになった。そして2008年11月に、TBSラジオストリームでインドが舞台の『スラムドッグ$ミリオネア』の事を知り、もし日本で公開されたら、見てみたいと思っていた。今年2009年に入り、この映画がアカデミー賞作品賞を取ったために一気に注目度が上がり、現在日本公開されているこの映画は結構ヒットしている。あたしもこの映画を見て、夢のあるこの物語を存分に楽しんだ。映画を見てインドに惹かれたせいもあって、「今のインド」に関する本を読んでみたくなり、図書館で本棚を見ながらそれらしい本を探してみた。そして、目に飛び込んできたのが本書だ。

さくら好み ★★★★★

物凄く面白かった!!! TV番組『インドの衝撃 1~3』を見直してみたくなった。

今インドで始まっている総選挙に関する情報も、以前とは違う感覚で聞いた。
*2009.04.28 小西克哉「デイキャッチャーズ・ボイス」 世界最大の総選挙がインドで始まったが・・・ 4分39秒

diamond覚書

◆<インドの教育

・世界で最もソフトウェア・エンジニアの多い国

この好景気を支えているのが、IT産業である。今やインドは、本家のシリコンバレーを抱えるアメリカを抜いて、世界で最もソフトウェア・エンジニアの多い国となっている。その数はおよそ百六十万人である(2007年、NASSCOM<インド・ソフトウェア・サービス協会>調べ)。中でも、バンガロールは、インドで最もソフトウェア・エンジニアが多く、この都市だけで約二十万人いるという。

・優秀な人材が国内外に

「確かに、インドには多くの人材がいます。第一に、理工系の大学や専門学校が沢山あり、トップクラスのエンジニアを多数輩出しています。我々が活用できる“生の人材”です。しかし同じくらいに重要なことは、アメリカに膨大な数のインド人エンジニアが、しかも上級職のエンジニアが、インテル社内にも社外にもいることです。彼らはテクノロジーと、優れた管理能力を兼ね備え、多くがインドに帰国したがっています。この点は他のどこの国にも見られないインドだけの特徴です。帰国してくる人材と、地元で生み出される膨大な人材、この両者の組み合わせが、我々の成功を支える鍵だと言えるでしょう。」

・超エリート大学IIT ~頭脳立国を目指して~

IIT(インド工科大学) : 1947年のインドの独立後、インドの経済的・社会的進歩を目的として知的水準の高い労働力の育成が求められ、科学者と技術者を養成するために1951年に設立された。

「私たちは自分自身や家族のためだけに勉強するのではありません。IITでは誰もが国に貢献する責務があると考え、そのことを常に肝に銘じています。私たちは他の人たちが受けることのできない教育を受けているのですから、IITにふさわしい行動や活躍を期待されるのは当然のことです。IIT出身者として恥ずかしくない活躍をしなくてはならないのです」

一九三〇年、カルカッタに近いカラグプルには、政治犯を収容するための刑務所が建設された。収容者の多くは、独立運動のために戦ったインドの知識人たちであった。独立運動は激化の一途をたどり、刑務所はすぐにいっぱいになる。植民地政府は収容者を次々に処刑したが、それでも追いつかず、かつてイギリス人統治者が暮らしていた瀟洒な邸宅すらも刑務所として使わなければ間に合わないほどであったという。

ここで命をおとした人たちの亡骸を引き取りに、独立運動の闘士チャンドラ・ボースが訪れ、アジア最初のノーベル文学賞受賞者である詩人のタゴールは、詩を書いて送った。

ネルーは、多くの知識人が、インド独立のために犠牲となったこの地こそ、新生インドの発展を担う人材を生み出すにふさわしいと考え、IITのキャンパスを設けることを決めた。そして、かつてのイギリス人統治者の住宅で、のちに刑務所として使われた建物をあえてそのままIITの最初の校舎として用いることにしたのである。
「灰の中から立ち上がる不死鳥のように、インドのプライドの象徴たれ」

・インドのイメージを変えた重要な「成功モデル」

一九八一年一月、ムルディの自宅アパートをオフィス代わりにして、インフォシスは産声を上げた。ムルディたちは四時間にわたり議論を重ね、インフォシスの基本理念を「公正で透明性があり、階級よりも実力を重視する」と定めた。当時、インド・ビジネス界でそんな目標を掲げる会社はまずなかたであろう。

しかし、現実は厳しかった。まず、電話一本引くのに十二回、パソコン一台を輸入するために十五回、わざわざデリーの役所まで出向いて一年がかりで許可を得なくてはならなかったという。一事が万事、このような状況の中、ムルティらは十年間、全く利益を出すことができなかった。

しかし、一九九一年頃から、ようやく風向きが変わってきた。蔵相に就任したマンモハン・シン(現首相)が経済改革を実施。そして、もっと大きな変化は、海の向こうのアメリカから訪れた。当時のゴア副大統領の音頭で、「情報スーパーハイウェイ構想」が動き出していた。これと共にアメリカではITブームが訪れ、コンピューターソフトの需要が急速に増加していった。一九九二年、インフォシスは、アメリカ東海岸のボストンに初めての海外オフィスを構え、少しずつソフトウェア作りを請け負っていた。

顧客を開拓する上で、大きな力となったのは、IITのネットワークだった。早い時期に、大口の顧客となったリーボックのマーケティングのトップをはじめ、大学卒業後、アメリカに渡った卒業生たちは、様々な企業の中枢にいた。インドで起業し、頭脳の力だけでゼロから新しいビジネス・スタイルを創り出そうとするムルティらを彼らは応援した。また、シリコンバレーをITブームの中心地にした起業家たちの十五パーセントが実はインド人であった。しかも、その大半はIIT出身者である。

こうした世界の変化を追い風に、インフォシスは、一九九五年には、売り上げ高が初めて一億ドルに達し、翌二〇〇〇年に二億ドル、二〇〇一年に四億ドルと破竹の勢いで成長し、二〇〇七年には三十億ドルと破竹の勢いで成長し、二〇〇七年には三十億ドルを突破している。

一九九九年三月には、インド企業で初めて、ニューヨークにある全米最大の電子証券取引市場、NASDAQに上場した。さらに二〇〇六年、インド企業として初めて、NASDAQの「トップ一〇〇」社にランクインもしている。

さて、インフォシスは成長の過程で、インドにおける旧来のビジネス慣習を大きく変えていった。インド企業で初めて国内の会計基準に加え、アメリカやイギリスなど海外の会計基準に基づく決算も発表して透明性を高め、それまでインドにはなかった「コーポレート・ガバナンス」という理念を導入するなど、「インド初」を次々と打ち出した。

インドでも法や倫理を守り、公正にビジネスを行って、民間企業が成功できることを示すという創業当時の決意をムルティらは実現していった。そして、世界におけるインド企業のイメージ、ひいてはインドのイメージをも大きく変えていった。

財閥の出身者でなくても、ゼロから起業して成功できる。ムルティらの成功は、インドの多くの若者たちの価値観にも多大な影響を与えた。かつて、卒業と共に海外に渡るのが常だったIITでは、国内の企業を目指す学生の人数が、海外希望組を上回る逆転現象が起きているのは先に述べたとおりだ。

自らも海外からインドに戻り、インドで成功を収めたムルティは、「頭脳流出」から、「頭脳還流」の流れを作ったパイオニアといえる。インフォシスの成功によって、「インディアン・ドリーム」を体現したムルティは、インドの若者たちにとって重要な「成功モデル」を示したのである。

・IT化がもたらした世界的変化

バンガロールにいるニレカニは、この大きな変化をどう見ているのだろうか。

「世界経済の歴史を眺めると、産業革命後の過去二百年以上製造業が主体でした。例えば、トヨタ、ホンダ、ソニーのような企業を有する日本は製造業において大国となりました。しかし、現在はサービス業が主流になってきています。そして、IT化で、全世界がネットワークでつながり、どこでもビジネスが行えるようになりました。より多くの国にとって、より豊かになるチャンスが生まれたのです。世界中で起きているこうした変化のおかげで、インドは今日の世界で成功できる、独特の立場にようやく立つことができたのです」

イギリスによる長い植民地支配のあいだ、綿花の供給地にされ、産業革命を経験できなかったインド。独立後は「頭脳立国」を目指しながら、実際は「頭脳流出」で欧米の発展を長年支えてきた。しかし、植民地支配の残滓である英語を武器に、アメリカのITブームやY2Kで下積みを重ねた末、ついに二十一世紀の幕開けと共に、世界経済の中心に躍り出た。

・頭脳の力さえあれば 夢を実現できる

彼らは将来、どんな人物になりたいのか。目指す人、尊敬する人はどんな人かを聞いてみると、意外にも、何人もが、インドの大統領(当時)、アブドゥル・カラムの名を挙げた。今どき、若者たちの尊敬する人として、一国の首相や総理大臣の名が挙がることは、なかなかないのではないだろうか。彼らにカラム大統領を尊敬する理由を聞いてみた。

「大統領自身も経済的に恵まれない家庭の出身ですが、それでも小さい時から努力を重ね、今はインドのトップに立つ人物となっています。私も大統領を見倣い、できる限りの高みを目指したいと思います」 「大統領は元エンジニアです。彼のように大きなことを成し遂げたいと思います」

インフォシスのナラヤム・ムルティ名誉会長の名前も挙げられた。ムルティを尊敬する理由を聞くと、

「借金をして集めたわずかなお金で会社を起こし、インドを代表する企業へと成長させたこと。お金がなくても、頭脳の力さえあれば夢を実現できると示したことから、尊敬しています」と言う。

この他、ガンジー、インド独立を目指し日本にも滞在したスバス・チャンドラ・ボーズ、アジア人で初めてノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センなどの名前が挙がった。

・「誰からも寄付はいただきません」

二〇〇七年一月の放送後、NHKの番組をご覧になった方々から、ラマジャン数学アカデミーに何か支援ができないか、という多くの声をいただいた。クマール先生にそれを伝えると、「お申し出は本当にありがたいと思いますが、誰からも寄付はいただきません。自分たちのできる範囲、手の届く、身のほどに合った範疇でやっていきたいと思うからです。生徒たちも、今の限られた資金で与えられる環境の中で、精一杯頑張っていこうとしていますので」

「しかし」と先生は続けた。「もしもチャンスを与えられたら、ぜひ一度、日本を訪れてみたいと思っています。技術の力で経済大国となったアジアの国、日本とはどんな国なのか。そして、その成長を生み、支えてきた日本の教育とはどんなものなのか、ぜひとも見てみたいのです。残念ながら、そんな資金は私にはとてもありませんが」

もしも、クマール先生に日本訪問のチャンスができたら、その時、私たちは一体、日本の何を、教育のどんな現場を見せれば、先生のこの期待に応えることができるだろうか。NHKのある渋谷で、今の日本の若者たちの姿を見たら、先生は何を思うであろうか。

・ベジタリアンと正しいインドカレー

どうやら正確な統計はないらしいが、インドでは国民の少なくとも三十パーセント以上が肉や魚を一切口にしないベジタリアンだと言われる。彼らは肉や魚、卵まで一切食べないばかりか、肉や魚を扱う店でも食事をしないという徹底ぶりだ。たとえ、ベジタリアンフードであっても、肉や魚が殺生された同じ場所で調理されたものを口にすることをよしとしない、というのがその理由だ。

ちなみにインドでは基本的にカレーを作り置きしない。「カレーは毎食毎に作り、熱いうちに全部平らげる。それが正しいインドの食文化なのだ」と、あるインド人ジャーナリストが教えてくれた。

◆<インドの経済>

・中間層と貧困層

きらびやかなグルガオンの巨大モールに押し寄せる人々の波を見ると、彼らが決して特殊な人々というわけではないことはわかる。あるいは、インド最大の都市ムンバイで、今急速に生まれつつある大型家電量販店を訪れれば、秋葉原の電気店そっくりの商品陳列が行われ、入り口すぐに大量に並べられているテレビのほぼすべてが大画面のプラズマか液晶テレビであることが目に入る。その値段は韓国製なら日本製よりやや安いが、大幅に違うわけではなく、一台数十万円という値段になる。それが飛ぶように売れているのである。

その一方で、そうした店を出て数分も歩けば、ゴミをあさって生きているような貧しい人たちが沢山いる。実際にムンバイでは、全市にちらばるスラムに住む人々の割合が六割を超え、貧困の中で暮らしているのが現実なのだ。急カーブを描いて上昇しているとはいえ、テレビの普及率は二一.三パーセント、自動車は五パーセント(インド国立応用経済研究所推計)、またエアコンの普及率に至っては、夏には四〇度を超えるのが当たり前という国でまだ二パーセントだと言われている。

・国内に顧客を持つ第三次産業へと裾野を拡大

中間層が急増している背景にはさまざまな要因がある。よく知られているように、九〇年代初頭に経済危機に襲われたインドでは、当時の財務大臣で、現在の首相であるマンモハン・シンのイニシアチブにより、国内のさまざまな経済自由化を行い、また外資の導入にも道を開いてきた。それがITをはじめ、アメリカを中心とする海外に顧客を求める新産業の飛躍的発展につながった。

グルガオンの実例を見てみると、そうした産業構造が、現在では、インド国内に顧客を持つ第三次産業へと裾野を拡大している。広告業界の経験を基盤としてメディアで働くビドゥー・サーガルと、広告業界への人材派遣を行う奥さんのニーナはその好例だし、他にも取材した例では、血液検査などの医療検査のアウトソーシングをする会社につとめる営業マンの夫に建築設計家の奥さん、といった組み合わせなど、国内向けサービス業に従事し、ビドゥーと同じように転職を繰り返して収入を年々伸ばしているという人が多かった。

「インドはIT」というイメージを取材前に持っていたために、グルガオンの中間層で、IT関連に勤務する人も探したのだが、簡単には見つからず、かわりに出てきたのがこうした例だった。インド経済の発展は初めはITやコールセンター、総務のアウトソーシングなど、海の向こうを相手にしたビジネスが牽引し、今ではそれにともなって広告も、建設も、そして医療検査といった産業も必要となり裾野が一気に拡大している。それは個人の収入を伸ばすだけでなく、家族のマルチインカム化を進め、その結果、消費の増大をもたらしているのが今のインドなのだ。

・飲酒は罪なこと

「親の前では絶対に酒など飲めない。インド社会では、特に年配者の間では酒を飲むことは罪なことだと認識されている」と、ビール片手に真顔で語っていた。しかし、そんなインドで、今、代々美徳とされたいなかった「飲酒」という習慣が急激に広がっている。

・巨大な消費の波が湧き起ころうとしている

二〇〇六年十一月、インドの財閥の一つバルティとウォルマートが合併企業の立ち上げを目指して話し合いに入った、と突如報道発表が行われ、二〇〇七年八月に両者は正式に調印した。世界の巨人ウォルマートもインド進出の第一歩を踏み出したのだ。

こうして、ビッグバザールが先行する形でインドに広がり始めた全国チェーンによる「小売革命」は、国内外の巨大資本が一気に参入をはじめ、数年以内に数百店~千店規模の大型チェーンが四つか五つ存在する、という状況になることは間違いない。そこには激烈な競争が生まれるとともに、消費者の消費意欲をさらに刺激するという効果も生まれるに違いない。

・関心を示されなくなった日本

インドにおける「日本」の存在感の遠さ、もっと言えば薄さがある。日本では、今でも「インド人は日本に好感を持っている」という期待が語られることがある。経済だけでなく、政治の世界でもそれが垣間見える。しかしインドで取材した実感としては、その考え方は決定的に甘い。確かに、中国や、他のアジア諸国の一部にあるような、第二次世界大戦の負の遺産としての反感はほとんどない。しかし、だからといって現在、特段日本が好感を持たれているということでもない。ひとことで言えば、ほとんど日本に関心がないというのが事実に近いだろう。

インド人が世界を相手にものを考えるとき、まず視界に入るのがアメリカ、イギリス、そして他の欧米の国々である。日本に関して聞こえてくるのは、「日本の経済界のミッションがインド訪問をしても、最近はインドのVIPがあまり関心を示さなくなった。アポをとろうとしてもなかなか会ってくれない」といった話である。日本の経済的な重要性が、世界経済の中で小さくなるにつれ、インドにおける関心も小さくなりつつある。

・やせるための広告

デリーやムンバイならまだしも、このアーメダハードでの広告にもそういうものが急増している。新聞の折り込み広告の一つを手に取りながら、飯塚社長は驚きを隠さない。「これを見てください。五キロやせるのに、三千三百五十六ルピーっていうんですよね。ドライバーの月給が五千ルピーくらいなんですよ。それがたった五キロやせるのにそれだけの金を払う、その広告が出ているという現状なんですよね」

・コンピュータの信号情報が市場を形成する現実


産業革命は、バラバラだった世界を一つに結びつけた。さらに資本主義と金本位制度によって、世界の共通市場が生まれた。

今、グローバル経済の中心地はアジアである。インドは、ソビエトや中国と同じように社会主義経済に見切りをつけ、資本主義の道を歩み始めた。世界が二つの経済体制に分けられ、軍事的な壁によって線を引かれていた世界は過去のものとなった。グローバル化された世界の特徴は、世界中の誰もがその豊かさを実感できるということだ。

メイド・イン・インドとかメイド・イン・チャイナという種分けはすでに過去のものとなっている。原材料は複数の国から集められ、製造も工程を分けて複数の国にまたがって作られていく。貿易の障壁がなくなり、世界のどこへでも、三日以内に配達が行われる。

インターネットの普及は、時間と距離の問題をなくしただけでなく、コンピュータの信号情報が市場を形成する現実を作り上げてしまった。どこの国でも他国の製品を日常的に目にし、手に入れることができるようになった。

◆<政治>

・インドはなぜ核実験を行ったのか


インドは、一体なぜ世界からの反感を買う行為をあえて行ったのか。我々は当時の「インドの論理」を聞くため、一人の人物を訪ねた。インドでこの時政権を担っていたバジパイ首相の側近で、首相主席秘書官の役職についていたブラジェシュ・ミシュラである。ミシュラは、当時インドの核戦略立案に中心的な役割を果たした人物である。

ミシュラが語る、核実験強行の背景。その中心にあるのは、当時のアメリカの核政策に対するインド側の強い反感だった。みずからは核を保有しているにもかかわらず、他国が核を持つことを許さないという、アメリカの論理すなわちNPT(核拡散防止条約)が規定する体制への反感である。

彼の主張に耳を傾けている中で、改めて我々はあることを感じていた。核実験強行の理由を語る彼の論理は、核を持ちたいという軍事的な欲求よりも、自分たちが核を持つか持たないかの決定に際し、他人に「強制」されたくないのだという「筋論」に力点があった。持つにせよ、持たないにせよ、自分たちに決めさせろ。それを他人からとやかく言われたくないという論理である。もちろんそれは、軍事的欲求をカモフラージュするためのレトリックではあるだろう。

しかしそのレトリック(核を持つことの善悪や、要不要の問題よりも、核を持つ自由を奪われている問題の方が、問題として重要であるというレトリック)に相手を納得させる力があると信じているところに、ミシュラの、つまりはインドのプライドの高さ、権利意識の強さが窺える。彼らにとって核の保有は、隣国パキスタンなどへの軍事的優位の獲得であると同時に、世界の現在の秩序(核を持つ大国=米英仏中露と、核を持つ権利を奪われているそのほかの国々という「差別的な」関係)に対する権利闘争の側面がやはり強いのだ。

そうであるとすると、たとえどんなに非難を浴びようとも、核実験を行うことは、彼らにとって、大国が決めた不平等な秩序に対する疑問と怒りを表明するために必要な行為だったのだという論理が成立することになる。

それが、被爆国としての日本の「論理」とまさに裏表の関係にある論理として、インドでは力を持って存在していることを実感せずにはいられなかった。

・アメリカとの関係改善の意図が 核実験直後のインドにあったのか

この問いに対しても、ミシュラの答えは明確だった。はっきりと肯定したのである。彼は実験直後から、アメリカとの関係改善を模索していたという。「冷戦後の世界で力を持っている国としてアメリカを無視することはできません。アメリカに敵意を持てる国はどんどん減っています。アメリカとの話し合いは避けられないことでした。我々は核実験を行ったわけですが、一方でアメリカとの良好な関係を築いていきたいと思っていることを、直接、アメリカに伝えたかったのです」

・アメリカは核実験をしたインドをどのように見ていたのか

ジャスワント・シンとの交渉に臨むアメリカ側の代表は、当時国務副長官だったストロブ・タルボット。南アジアの専門家で、インドやパキスタンとの交渉の経験も豊富な人物として知られる。タルボットは、核実験をしたインドをどのように当時見ていたのか、そして交渉にどのような思いで臨もうとしていたのか。我々は二〇〇六年秋、アメリカ・ワシントンに向かった。

「我々はインドの自制を願っていました。というのも、インドが核兵器製造能力を有しているのは周知の事実でしたが、『抑止目的だけで十分なはずだ。核実験を決行したり、核兵器保有国として宣言したりすることなどあるはずはない』と考えられていたからです。あの実験により、当然ですが、アメリカとインドの関係は危機に瀕したのです」アメリカは、インドがその能力を持っていても、核実験を実際に行なうとは予想していなかった。それだけにショックは大きかったのである。

「アメリカは核実験というインドの行為に反対でした。インド側のそのような行動を認めることができないのは、あまりにも明白でした」 「インドが“核兵器の無責任な管理者”になると考えたのではありません。それよりむしろ、インドが故意に、数十年にわたって核不拡散の基礎となっていたNPT体制の枠外に自分たちを位置づけたことに反対したのです。インドは、核実験を強行したことで、“核兵器の責任ある管理者”になれないような国を含め、多くの国に『後に続きたい』と考えてしまうような先例を残してしまった。つまり、アメリカが心配していたのは“模倣行為”でした」

「日米両国にとって頭痛の種である北朝鮮が核兵器を強引に進めたのは、インドの核実験を見ていたからではないでしょうか。そのような理由から、我々はインドの行為を非難していたのです。アメリカつまりクリントン政権は、インドに核実験実施してしまった後で、それを否定したり、核兵器保有国としての宣言を撤回したりするのが、政治的に不可能であることもわかっていました。問題は、インドに対してどのような提案ができるのか、不拡散という観点から問題を少しでも和らげ、幾分でも解決に向かえるような妥当な手段とは何かということでした」

・インドは物乞いではない

ジャストワン・シンは、もう一点、アメリカのストロブ・タルボットとの対話に臨むにあたって、ある「インド側の覚悟」を披瀝し始める。それについてシンが語ったとき、我々は「おや」と思った。明らかにそれまでとは違う厳しい表情に変わったのだ。「この点は明確にしておかなければなりません」と、彼は語り始めた。

「私は、米国や、友人であるストロブ・タルボットに何も求めてはいないのです。私は彼に対して、一度たりとも制裁を解除すべきだと要求したことはありません。私は彼に対して、何ら軍事的、経済的その他の援助も求めたこともないのです」 「インドは物乞いではありません。インドは、その指導者と市民がそのことを認識しさえすれば、大いなる偉大さを持った国なのです。狂信的な愛国心や傲慢さから、こういう話をしているのではありません。単に、それが現実だからなのです」

・東洋人であることに強い自負心がある

そこでシンは、こう語る。「私は外交を勝ちか負けかだけでは考えません。目的は過去五十年間、まったく不必要な見解の対立の中で無駄にしてきた二つの国家を和解ささることなのです」

また彼はアメリカとインドの外交手法の違いは、西洋と東洋の文化の違いだとし、そうした東洋文化に強い自負があるという。

「私は東洋人です。自分が東洋の出身であることを非常に誇りに思います。私には、自分のやり方、物の見方がある。私は実際、西洋にも行き、彼らと心を通わせることもします。つい最近もハーバードに行き、米国の大学で講義をしてきたばかりです。もうすぐオックスフォードにも行き、そこでも話をする予定です。しかし、私は常にインド人であり続けるし、そこにインド人として行く。私はインド人以外のものになることはできないので、インド人としての自分に満足しています」

・クリントン大統領のインド訪問

我々はシンに、CTBT著名を拒みながら、クリントン大統領の訪問を実現したことは、インド外交の成功ですねと尋ねてみた。すると彼は、笑顔をさっと表情から消し、少し睨むようにして言った。

「私は、そうは言いたくない。というのは、私は自らの目的を、『見解の協調』と決めていたからです。その大いなる目的を、単なる大統領の訪問へと価値を減じてしまったら、私の側の目的はわずかしか達成されなかったことになります。『あなたが来ても、我々は条約に署名しない』というのでは、これは子供のゲームになってしまう。我々は共に大国であり、インドは非常に偉大な文明で、二大民主主義国家なのです。一定レベルの理解と成熟さをもって、この二国間関係を構築する必要があります」

あくまでも対話は、相互理解が目的であり、インド訪問と条約署名による条件闘争のような低いレベルの話ではなかったというわけである。

・アメリカの9.11に際してインドはどんな対応をしたのか

ジャスワント・シンは、当時外相として9.11を迎えた。あのテロに際して、どんな対応をしたのかという我々の質問に、彼は、9.11直後の、こんなエピソードを話してくれた。

「ニューヨークタイムズ紙に全面広告を出しました。インド国民とインド政府を代表して広告を出したのです。そこで、インドの国民は米国の人々と連帯すると表明しました。それから、私はインドの主要な川から水を採取し、インド各地の土を集め、その水と土をニューヨークへと運びました。ジュリアーニ市長へそれを手渡し、『ツインタワーの場所に何かを再建する時、あまり派手な式典をすることなく、基礎の部分に、瓶に入れたこの土と水を、我々が文明を担う人類として一致団結し、人類に対する悲惨な犯罪に立ち向かい、皆さんとこの心痛を分かち合う象徴として入れてほしい』と頼みました」

そして、シン外相は、インドの駐米大使を通じ、「インドにできることがあれば、必ずやる。これは我々共通の闘いだ」と伝えたという。インド政府には、これまで、イスラムテロ組織の活動に手を焼いてきたという歴史があるからだ。

インド政府は、他国軍との共同作戦に極めて消極的だったこれまでの姿勢を覆し、インド海軍をアメリカ軍に協力させることを決定。米印両軍は共同して、マラッカ海峡からインド洋の間を航行するタンカーなどの護衛にあたった。

・「コットンベルト」は「自殺ベルト」!?

シン首相は、綿花農家との集会に出席した。六月はちょうど種まきの時期だが、農家からは、借金が膨らみ、肝心の種を購入する金がないと訴えられていたのである。「コットンベルト」があるのは、マハラシュトラ州の東部、人口三千万が住むビダルバ地区。多額の借金を抱えた農民が、次々と自らの命を絶っていると報じられ始めていた。シン首相が出席した集会にも、命を絶った農民の遺骸が多く持ち込まれ、首相に無言の圧力を加えていた。

シン首相は、ビダルバ地区を訪れた後、直ちに三百七十五億ルピー(およそ一千億円)にのぼる緊急支援策を打ち出した。灌漑設備の整備や、政府系銀行からの借金の利子返済などにあてられると発表されたが、地元メディアからは「付け焼刃」と非難が集中した。ビダルバ地区は、政府がどのような手を打ったとしても、「手遅れ」と批判されるような状況に陥っていたのである。

・「綿花価格の下落」と「栽培コストの上昇」

「綿花農家が自殺にまで追い込まれる理由は何なのか?」と聞くと、「一つは、綿花価格の下落、もう一つは、栽培コストの上昇」と答えた。

ティワリによると綿花価格はこの五年で四十パーセント下落した。その理由の一つとして彼は、インド政府が進めてきた「市場開放」を挙げた。インドはWTO(世界貿易機関)への加盟後、一九九九年頃から、アメリカや中国の綿製品の輸入を解禁、これによって、インドの綿花価格は急激に下落した。ティワリはさらに、インドの綿花がアメリカ製品との価格競争に負けた理由として、アメリカ政府の綿花農家保護政策があると指摘した。アメリカでは、綿花農家に補助金を出し、国際競争力を高めるという政策を取っていたのだ。

こうした市場開放の影響を受けたのが、ビダルバ地区の綿花価格だったのである。綿花の価格が下落した後、州政府は、綿花の最低売買価格を設定して、補助金を出すなど急場しのぎの対策を取ったが、続かなかった。昨年には、財政状況悪化を理由に中止してしまったため、綿花農家の収入が急落した。

綿花を栽培する際に必要なのは、種子、肥料、農薬などだが、これらのコストが上がっているとうのだ。その要因が、市場開放にともなって、アメリカから輸入されるようになった「遺伝子組み換え種子」である。これが、インドの綿花市場に劇的な変化をもたらしたと指摘する。

地元の農家に、遺伝子組み換え種子に切り替えた理由を聞くと、その巧みな営業戦略も浮かび上がってきた。店に種を買いに行くと、遺伝子組み換え種子の場合、代金の後払いも可能だと説明され、購入を迫られるという。生活費として現金を少しでも多く確保しておきたい農家は、つい手を出してしまうというのである。

しかし、肥料と農薬に問題があった。「遺伝子組み換え種子」のメーカーが推奨するものは、これまで使用していた肥料、農薬よりも一.五倍から二倍の価格である。しかも、大量に使用しなければならないため、農家は、一年後の収穫に淡い期待を持ちながら借金を重ね、肥料と農薬を大量につぎ込むこととなる。

はたしてインドの綿花農家は、ハイテク農業を導入し、競争力を増すことができたのか? 結果は、正反対となり、ビダルバ地区の農家の状況を悪化させることになった。

NGOのティワリは、「ハイテク農業は、インドの過酷な気候、環境に適していない」と問題点を指摘した。「遺伝子組み換え」というハイテク種子を育て上げるには、高価な肥料、農薬だけでなく、定期的な給水が求められる。灌漑設備が整っていないビダルバ地区では、それは不可能なことだった。

「遺伝子組み換え種子」やそれに使う肥料、農薬には、説明書が付いている。しかしボレンワールは、それをまともに読んだことがない。説明書には、英語だけでなく、現地語であるマラティー語でも書かれているが、その内容が理解できないというのだ。彼は小学校に通い、文字は読めるようになったが、それまでだった。「この村で説明書を理解できる農民なんていない」とボレンワールは言う。

・このようなビダルバ地区の状況をインド政府はどう捉えているのか?

責任者であるパワル農業大臣に話を聞いた。まず、借金を抱えた自殺者が多く出ていることについて、パワル大臣はこう答えた。

「人口が十億を超える国で、自殺者が出ているとしても、その割合はまだ低い。ビダルバ地区の自殺率は、他の地区より高いので、シン首相が現地入りして、詳細を調べているのです。この四年間でありとあらゆる灌漑設備計画を完了する予定です」

「ビダルバ地区は、コットンベルトとして、綿花栽培だけに頼っています。その栽培形態をゴマなどの脂肪種子へシフトしてほしいと考えており、多くの計画を立案中です。州政府はこうした問題に真剣に取り組んでおり、政府も支援します。こうした状況を改善するには、少なくとも四、五年はかかると思われます」

インド政府は、二〇〇七年度の予算で、農業分野へのてこ入れを重視。灌漑施設の整備を重点的に進めるほか、農村部を中心に教師を二十万人新たに雇用し、五十万の教室を増設すると発表した。政府も、農村部が置かれている実態に気づいてはいたのである。

しかし、効果が期待されるのはまだ先の話である。ビダルバ地区からは、今でも毎日のように、綿花農家の自殺が伝えられている。

*自殺率の国際比較

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・景気が好調な中で繰り返される政権交代の理由

世界最大の民主主義国家。六億七千万人を超える有権者の数からインドはそう表現され、五年おきに行なわれる総選挙では、政治に不満を持った貧困層がたびたび政権交代を実現させてきた。マジョリティである農民、貧困をいかに取り込むか、政権は苦心し続けているのも事実なのである。

景気が好調な中で繰り返される政権交代の原因は、およそ五億人の有権者を抱える農村票の動きだった。経済政策を転換させ、着実に成長させてきた歴代の政権に対し、その恩恵を受けることができなかった農村の人たちが、選挙で不満をぶつけた形となったのだ。

現政権もその基盤は磐石といえず、二〇〇九年に行なわれる次の総選挙で政権を維持できるかどうかは不透明だ。その鍵を握っているのは、大票田である農村部に他ならない。

・インドを「世界の工場」にしたい

インドの経済をさらに浮揚させるには何が必要か? 商工相を務めるカマル・ナートは、これまでの経済成長を牽引してきたIT・情報通信業に頼りすぎることのないようにと、製造分野のてこ入れを始めている。製造業が育てば、農民を、畑から工場へシフトさせられるとして、貧困対策として期待が高まっていた。

インド政府が二〇〇六年二月にまとめ上げた新たなSEZ法によると、SEZ内では、免税措置だけでなく、外国企業が進出しやすい様々な恩恵が用意されている。住宅や教育施設などへの一〇〇パーセント外国直接投資も許可。輸出から得た利益には、十五年間の免税措置が適用されるなど、外国企業に対し税制の面で障壁の高いインドにおいて有利な条件が盛り込まれ、インドを「世界の工場」にしたいという思いが強く現れるものとなった。

・農村にあるのは単に「貧しさ」だけではない


農村部で暮らす人たちは、厳しい生活に不安や不満のようなものはつよく感じている。しかし、そうした不満を「都市部」と比べてみたり、ましてや「グローバリズム」の被害者などと位置づけて悲観したりする人は、見当たらなかった。

農村部での取材で感じたものは、単に「貧しさ」だけではない。家族全員が大きな輪を作って座り込み、食事にありつく。たいてい家族三世代が同じ屋根の下で顔を合わせる生活だ。そうした時間の中で、「貧しさ」だけでなく、「家族の絆」や「癒し」など、今日の日本で求められているようなキーワードも次々に見つかった。「他」と比較しない限り、農村の人々が自らの生活を「影」と認識する機会はないように思えた。

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コメント

うん 面白そうだねbookeye

図書館にネット予約しちゃったnotes

投稿: nono1 | 2009年4月29日 (水) 18時22分

うん おもろかった up

投稿: さくらスイッチ | 2009年4月29日 (水) 19時09分

図書館の予約で先に 続・『インドの衝撃』が
来ていた(^^;
でもまあ 続から先に読むことにした
貧困から這い上がるエネルギーって凄いと思った
ユニリーバのインド市場への入り込み方のところで
リアル感を持てたsnailsnailsnail

投稿: nono1 | 2009年5月 8日 (金) 06時19分

お♪ あたしも「続」読みたいと思って予約中 ^^

インドのパワー 凄いよね~

投稿: さくらスイッチ | 2009年5月 8日 (金) 20時29分

感想文おもろかった^^

先日だったか、シンガポールの現状を放映していたがこれもおもろかった。金融立国で金が余っているシンガポールが世界から頭脳を集めて研究をサセ(研究者の管理も厳しい。natureクラスへの論文投稿が途絶えると、即、クビ)、建設現場の労働者は海外からやとう。東南アジアからきた女性は子供を作ることは禁止、妊娠検査を一年に一回やり、妊娠していることがわかると本国へ送還。男性労働者もこのたびの不況でどんどん失職。一文無しで帰国の飛行機代もない。。という。

インドね。ITはいずれローテクになるよ。車と同じだ。番組は見ていないが、アグネスチャンなどがルポに行ったインドの貧困層の現状は以前としてひどい。少女売春など日常茶飯。こういう売春街は大都会にあるのだ。どう解決しようとしているのだろうか?

東洋文化を誇りにしている、というが、仏陀やガンジーの思想を実現すべきじゃなかろうか。口では東洋を誇りに思う、といっているらしいが、東洋人とは呼べないと思う。

おそらく、カーストに苦しむインドの貧民の大部分の家庭にはTVもパソコンもないだろう。そういう家庭で一生を送るのと、ボンベイの詰め込み式予備校でベンキョーしてIT技術を身につけ出稼ぎして、プログラマとして身を立て、。。一生を送る。それが、どれほどのもんか?という疑問がインド人にもわかってくるのではないか。

などと、グコー、した。^^

投稿: 古井戸 | 2009年5月 9日 (土) 07時27分

古井戸さん、コメントをありがとうございます。

シンガポールの見逃してしまいました。再放送されたら、チェックしようと思います。

インドには、まだまだ大きな問題が山積み、ホントにどうやって解決するんでしょうね。ただ、どうやってかは分からないけど、半世紀(二世代)後には、今抱えている問題の大半を解決しているんじゃないのかなぁ、なんて楽観視したくなるようなパワーを本書からは感じました。もちろん、現状の問題を解決したらしたで、新たな問題を抱えるのでしょうけどね。

「それが、どれほどのもんか?という疑問」を抱える日本人は多いと思います。そしてそういう日本人は、ある意味、インド人よりも不幸で、そして幸せなのでしょう。インド人が「どれほどのもんか?」と思うようになる遠くない未来、日本人も同じように「どれほどのもんか?」と思っているか、それとも「贅沢言ってるな~」なんて思う日本人が増えてるか、幸いにも日本人はその先を見出しているのか、興味深いトコロです。それとも、もしかしたら、インド人は・・・、とか、日本人は・・・、といった括りでは成り立ち難くなっている可能性もあるかも。

本書の続編が出版されているので、それも読むつもりですが、イギリスのジャーナリストが書いた『インド 厄介な経済大国』も面白そうなので、ぼちぼち読んでみるつもりです。古井戸さんのコメントも心に留めながら、思考を巡らせたいと思います。

投稿: さくらスイッチ | 2009年5月 9日 (土) 19時34分

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