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2008年11月 8日 (土)

064『従軍カメラマンの戦争』 写真・小柳次一/文構成・石川保昌 初版1993年

日本人従軍カメラマンが見た日本兵の姿

主戦を訴えるためでも 反戦も訴えるためでもない「戦争写真」

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camera 概要

昭和13年から敗戦まで中国戦線、フィリピン戦線などに従軍、戦争と兵士を記録し続けた従軍カメラマン小柳次一。敗戦時の強制廃棄をのがれ、半世紀にわたり秘蔵した百数十枚の写真を、鎮魂の願いを込め、今ここに公開する。

<目次> ・歩く兵隊 ・徐州作戦 ・漢口作戦 ・杭州湾敵前上陸作戦 ・カメラマン修業 ・名取洋之助の日本工房へ ・名取洋之助と「報道写真」 ・上海派遣軍特務部報道班嘱託 ・日中戦争始まる ・行軍はつらい ・「戦争はやるもんじゃないですね」 ・八円八拾銭の兵隊 ・素顔の兵隊 ・徴用でフィリピン戦へ ・南京へ逃げる ・奉天八月一五日 ・小柳次一の戦場〔ほか〕

camera 読むきっかけ&目的&感想

日本人カメラマンが日本兵を撮った写真を見てみたいなぁ、と思っていたところ、NHKのETV特集『戦場カメラマン 小柳次一 ~日中・太平洋戦争 従軍5千キロの記録~』(2008.10.05)を見たので、本書を借りてみる気になった。

さくら好み ★★★☆☆

戦争写真というと、戦地の惨状を伝え平和を訴えるものばかりを見てきたあたしにとって、小柳次一の写真、その中でも戦地の日本兵の日常を撮ったものは、兵士に対するカメラマンの愛情が感じられるだけに、とても哀しくさせられた。

camera 覚書

◆保存されなかった従軍カメラマンの写真

朝鮮半島やベトナム戦争にも、日本人も含めて多くのカメラマンたちが従軍しました。しかし、日中戦争や太平洋戦争の日本軍部隊に戦争カメラマンが従軍していたことは、あまり知られていません。そのいちばんの理由は、彼らが撮影した戦争写真が日本では保存されなかったためです。

小柳さんや彼の同僚たちが撮影し、軍や関連機関に保存されていたネガやプリントは、昭和20年8月15日の敗戦前後に、そのほとんどが軍命令で破棄または焼却されました。敗戦サイドとしては、戦争責任のビジュアルな証拠が残っていては困るという判断に基づく処分だったと考えられます。

戦争の記録は、戦中も戦後も、政治状況や国民心理によって、保存されたり闇に葬られたりします。同じ戦争の写真であっても、被害の記録である空襲や原爆の被災写真は、平和運動の一環として、数十年をかけて、さまざまな写真や映画が米国側からも収集されたり、各地で保存されてきました。

しかし、日本軍がどのような戦争をしていたのか、兵士たちがどのような戦いをしていたのかについては、できれば積極的には見つめたくないというのが、戦後の日本人の平均的な心情ではなかったでしょうか。

◆「確かに可哀そうに見える写真だったですが、戦争なんですからね。」

日本工房に入りましたときは、兵隊さんとつきあうことになるとは考えてなかったですね。すぐ上海へ行くことになりましたから、日本工房の同僚連中からも、小柳は最初から軍の仕事のために採用されたんだろうとよく言われましたが、そうじゃないんです。

Dvc00004 私が入社した直後だったですが。『LIFE』に上海駅の赤ん坊の写真(日本海軍の艦載機の爆撃で破壊された上海南駅で泣き叫ぶ赤ん坊の写真。1937年10月4日号)が載ったんです。あの写真はいまでもやらせじゃないかと思ったりもするんですが、日本工房で皆で見て憤慨しましてね。確かに可哀そうに見える写真だったですが、戦争なんですからね。

ところが、名取さんは上海へ取材に行って前線も見てきたばっかりだったですが、この写真はうまい、蒋介石の宣伝は実にうまいもんだと言いましてね。「日本もこれだよ。これをやらなきゃ世界が味方してくれんよ」と。それで、すぐに外務省とか陸軍省の広報とかに何度も出かけて交渉に行って、写真を使って戦争を有利にしたいという話をしても、誰も聞いてくれないんですね。東京じゃらちが明かないってんで、名取さんは上海へ行ったり来たり、二回か三回ですね、出かけまして。上海派遣軍(13年2月から中支派遣軍に編成変更)特務部の対支班班長だった鐘子俊治少佐に会って、蒋介石側の反日宣伝に反芻する宣伝工作をやろうということになったわけなんです。

戦後、上海の赤ん坊の写真を撮った、中国系のアメリカ人だったですが、あのカメラマンに朝鮮戦争の休戦会談の取材で一緒になったもんですから、「あんたの写真のおかげで、俺は妙な写真家になってしまったぞ」と言ってやりました。あれはやらせだろうって聞いても笑ってるだけでしたが・・・・・。

南京陥落のあとも、向こうの雑誌には反日記事がたて続けに出ましたが、あの赤ん坊の写真は、反日宣伝としてはものすごく威力があったと思いますね。

◆欧米のジャーナリストによって世界に広く報道された南京の惨状

日中戦争はその経緯をたどってみれば明白な侵略戦争であり、また南京大虐殺についても、「大」がどの程度であったかという数値的判断は措くとしても、中国兵捕虜の虐殺が現地軍命令で実行されたことは、今日では南京戦の従軍将校たちの証言からも明らかにされている。

日本軍による虐殺、強姦、略奪など、南京の惨状については、南京に駐在していた欧米のジャーナリストや宗教者によって、母国の新聞、雑誌に広く報道され、世界的な反日網が形成されていく。

◆「祝南京陥落」と湧き立つ内地の国民

なぜ、日本軍が南京大虐殺というような蛮行を引き起こしたのか。直接的な原因は、上海から南京までの戦闘が、現地軍の暴走追撃戦であったことによる。

内地の参謀本部は上海付近のみの限定戦と早期停戦の計画であったため、兵站補給などはその予定で実施されていた。ところが、現地軍が命令を無視して戦線を拡大したために補給が追いつかず、前線部隊は強制徴発(日本軍が「徴発」、「接収」と呼んだ行為は中国側から見れば略奪であった)で食料などを調達した。当然、捕虜用の食料まで手がまわらないため、投降してきても捕虜は捕えずに処刑せよとの方針ができあがる。また上海戦以来の極度の消耗戦が生み出した中国兵に対する見境のない憎悪や、たび重なる強制徴発、捕虜や便衣隊の処刑などのために、軍内部の網紀や倫理が麻痺し、非戦闘員に対してまで残虐行為が日常化してしまったのである。

軍内網紀解体の根本的な原因は、命令無視の暴走をしても、勝ちさえすれば責任を問われたことがないという陸軍内部の悪弊にあった。それは中国への侵略戦争を指揮した軍部独裁体勢そのものが胚胎していた狂気であった。

そして、真偽はともかく「百人切り」といった蛮行が武勇談として新聞をにぎわしたにもかかわらず、内地の国民は虐殺とは気にもとめぬまま、「祝南京陥落」の提燈を手に町を練り歩いたのであった。

◆当事から責任問題が議論されたと見られる南京虐殺問題

南京虐殺問題については、欧米世論の対日非難が続出した結果、当事から、陸軍内部でもその責任問題が議論されたと見られる報道管制のあとが残っている。

南京陥落の直後には問題とされていなかった南京入城式の写真が、後に出版物などに掲載される場合は、松井石根中支方面軍事司令官以外の主だった司令官クラスの将官の顔がすべて消されて判明しないようにされてしまうのである。つまり、南京陥落に立ち会っていたことになるとまずい将官がいたということになる。

筆者の推理では、写真の修正処置は、南京虐殺問題が朝香宮という皇族将官に波及するのを避けるための処置ではなかったかと考えるのだが。また、総司令官であった松井石根大将が南京陥落という戦功があったのに、早期に再度予備役に編入させられたのは、虐殺問題の責任をとってのことだとする説が戦前から流布しており、軍内部では南京虐殺事件は事実として受け止められていたはずである。

◆許可しなかった外国報道陣の従軍

中国側の前線には欧米人ジャーナリスト、カメラマンたちが数多く従軍していた。日中戦争は、中国に権益を持つ欧米各国でも関心の高いニュースであったから、新聞社、通信社、雑誌社などから多くの特派員が派遣されていたのである。

日本軍も日露戦争などの過去の戦争では外国人報道陣の前線での取材を積極的に受け入れていた。戦争報道というものは、一般的に弱小国側、負けている側の方が積極的なケースが多いものである。日本軍は、満州事変以後、日本に対する批判が続発したためか、国際都市上海での戦闘は別として、以後の作戦には外国人報道陣の従軍申請を許可しなかった。

◆「バターン死の行進」の責任を問われ

従軍看護婦の部隊と一緒にリンガエン湾に上陸して、すぐ、バターン攻略戦に従軍しまして。山の中をまたずいぶん歩きました。二ヶ月も経たないうちに米軍が降伏しまして。米軍だけだと思っていたら、民間人も米軍と一緒に逃げていましたから、7万人だったですが。一度に降伏してきたんですね。「バターン死の行進」なんて言われた写真がそのときの撮影です。

戦後の戦犯裁判のときに横浜のBC級裁判に呼ばれまして。バターン死の行進の件につながることだと言われたもんだから、私は写真撮っただけで関係ないと思ってたけど、出頭せよというので、心配になって行きましたら、弁護側の証人とうことで。あのときの捕虜輸送を担当した輜重部隊の連隊長だったですが、あの炎熱下を歩かせたために、何千人も死者が出たんだということで責任を問われて裁判にかけられたんです。

で、証言で言ったんです。「我々、日本軍の兵隊もトラックなんかないから、同じ道を歩いたんです。勝った日本軍でさえ歩いたのに、なんでアメリカさんを車で運びますか。だいたい、攻めているときから、バターンのジャングルの中に民間人があんなにいるなんて日本軍も知らなかったですから」と。弁護役の日系のGIからよく言ってくれたと感謝されて、携帯食糧かなんかもらって帰りまして。

◆日本が負けたのに朝鮮人が「万歳」といっているわけが分からなかった

(新京から奉天へなんとか移動、そして)三人とも、鴨緑江を渡って朝鮮へ入ればもう大丈夫だと思っていましたからね。ところが、鴨緑江の鉄橋を渡って新義州へ着いたら、いまの韓国の国旗がありますね。駅中に、あの小旗を持った朝鮮人が集ってまして、チョゴリで着飾った女の人なんかが我々の列車にもいっぱい乗り込んできまして、それでホームでも車内でも、みんな「万歳(マンセー)」「万歳」ってやってるんです。

こっちはわけがわからないもんですから。日本が負けたのにどうして「万歳」なんだと。安東から4人掛けの座席の相席になった人が、北支軍の通訳をしていた朝鮮人の軍属の人で、夏季休暇で京城の実家に帰るところだったんです。明治大学を出た日本語も達者な方で、その人が聞いてくれたところでは、その前夜に朝鮮の独立宣言がラジオで放送されて、その日(8月17日か)はお祝いだというんですね。

◆被害者意識だけを共有してしまった日本国民

一兵卒や一軍属に過ぎない小柳たち一般国民がどうこう考えたところで、当時の日本の軍部独裁体制が「日中戦争継続、聖戦勝利」を唱え続けていた以上、そうすることもできなかった問題であるが、太平洋戦争で敗れたために、その直接の戦争原因であった日中戦争を検証する作業を日本人は放棄してしまった。本土空襲、沖縄戦、広島長崎への原爆投下、ポツダム宣言受諾、そして占領と、敗戦の過程で、日本国民全体が敗戦国の被害者意識を共有してしまったために、日中戦争段階における侵略者と被害者はどちらであったのかについて、日本人は考えることもやめてしまったのである。

戦前世代にとって、日中戦争に勝つことは、満州国問題をはじめ日本の中国での既得権益の拡大を意味した。ただし、日本にとっての既得権益は、中国側から見れば、積年の侵害にほかならなかったのであるが、そのことに日本人の多くは気づいていなかった。

日中15年戦争の発端となった満州事変は、関東軍の謀略によって始められたにもかかわらず、戦前の日本人には、中国側の謀略で日本はやむを得ず応戦したという偽りの情報が流され続けた。そして、国家としてその偽りを公言してしまったために、国際社会からはじきだされたのである。

◆「敗戦」を「終戦」とニュアンスをぼやかせて

日本の戦中世代は戦争を直視するのが苦手だった。「敗戦」を「終戦」、「占領」を「進駐」、「侵略」を「進出」と、常にニュアンスをぼやかせて言い繕ってきたように思う。果して、日本人の個々人がそのように受けとめていたのかどうかは、戦後世代の筆者から見れば疑問であるが、歴史意識のその曖昧さが、敗戦直後の国家制度や社会制度のドラスティックな変革を受動的に機能させていったともいえよう。戦前戦中の日本の軍国主義、全体主義が国家そのものによるポジティブなナショナリズムだったとすると、戦後には、ネガティブな敗者のナショナリズムとでも呼ぶべき、寡黙な被害者的連帯意識が残ったのではないか。

もちろん、「戦中派」とひとまとめに呼ばれる世代も、軍隊経験のある世代と、そうでない世代では戦争観は大きく異なる。

◆日本の平和運動の発想の基点は敗戦意識のみ

余談であるが、筆者は7年ばかり前、ある昭和史の全集のために、小柳の撮影とは知らないで、バターン戦の写真を『LIFE』から取り寄せてもらったことがあったが、その半年後には、『LIFE』から小柳の口座に、その原稿料が相変わらず送金されていた。

歴史的な写真記録の保存とは、実は、『LIFE』の編集部がいまだに維持し続けている、このような良識あるシステムを含むのではないだろうか。また、この話は、小柳に写真の整理と保存を働きかけたのが、日本の研究者や平和運動の人々ではなく、『LIFE』の記者であったことも興味深い。

なぜ、日本の戦後の平和運動がイデオロギー分極化していったのか。原水禁止運動をはじめ、その歴史的意義は評価すべきものの、日本の平和運動の発想の基点は、敗戦意識から抜け出していなかったのではないか。戦争そのものをその発生原因から再検証する姿勢を持ってはいなかった。

◆進まない「日中戦争」の検証作業

昭和50年代以降も、教科書の記述としての「侵略」か「進出」かという論争や、「南京大虐殺」の真偽についての議論は残されたが、大勢としては、日中戦争が日本の軍国主義による侵略戦争であったというとらえ方は一般的な見解になりつつあったと思う。日中戦争が侵略戦争であることを認めようとしなかったのは、現在にいたるまで一部政治家と文部省と司法当局だけではなかったか。

ただし、公権力がそれを認めようとしなかったために、日中戦争の検証作業は当事者世代の死によってますます追跡が困難になり、中国や韓国など外国政府からの日本の教科書記述批判という外交問題が発生したことによって初めて政治問題として浮上したのである。家永教科書訴訟の経緯などを見ると、日本の司法当局はすでに半世紀過ぎようとする現在にあっても、明確な判断を避け続けている。

camera 写真の力

Dvc00004

『LIFE 1937年10月4日号』より。撮影:H.S.Wong(中国系アメリカ人)。日本軍機の爆撃で破壊された上海南駅で泣き叫ぶ赤ん坊。

あたしはこの写真を本書で初めて見て、1993年3月26日付のニューヨーク・タイムズに掲載された、ケビン・カーター(南アフリカの報道写真家)撮影の写真、ハゲワシが餓死寸前の少女を狙っている『ハゲワシと少女』を思い出した。

追記: 

写真は「やらせ」かもしれませんね。本書の話者(小柳)が直接その写真家に言っても、否定も肯定もなかったようです。ただ、日本の爆撃で親を亡くし、泣き叫ぶ赤ちゃんが居たことは事実だろうな、と想いました。どうだったんでしょうね。

ピューリッツァー賞を取った『ハゲワシと少女』の写真も、荒野の真ん中ではなく、食料供給所の列の近くで、母親が子供を地面に降ろしていた瞬間を撮ったもののようです。ただ、少女が飢えていたのは事実です。

「嘘」と「本当」、色々と難しいですね。

投稿: さくらスイッチ | 2010年1月28日 (木) 00時37分

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連日連夜の激しい攻防戦に、敵の攻撃が止んだわずかな時間を泥のように眠る日本軍兵士。ただし、左の二人は戦死体。撮影:小柳次一。同下。

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camera 著者

写真 小柳次一 (こやなぎ つぐいち)

明治40年(1907年)福岡県生まれ。東京学芸通信社、写真通信社などを経て、昭和12年に名取洋之助の日本工房に入社。日本工房から上海派遣軍特務部に派遣され、以後、敗戦まで、軍報道部の嘱託として従軍写真を撮影。戦後は『週刊サンニュース』やINP通信などで報道カメラマンとして活躍。隠退後は宮崎県在住。1994年没。

文・構成 石川保昌 (いしかわ やすまさ)

Ishikawa_p 昭和28年(1953年)愛媛県生まれ。早稲田大学卒業。海洋土木会社の駐在員としてリビアに2年間勤務。帰国後、農業、イベント・プランナー、コピーライターを経て、フリーランスの写真編集者に。専門は現代史とスポーツ。

 

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コメント

ここに掲載されている、赤ちゃんが泣き叫んでる痛々しい写真があるじゃないですか。あれ実は嘘っぱちっていう噂があるんです。

興味があったら、調べてみてください。

投稿: ぴんぷ | 2010年1月28日 (木) 00時20分

写真は「やらせ」かもしれませんね。本書の話者(小柳)が直接その写真家に言っても、否定も肯定もなかったようです。ただ、日本の爆撃で親を亡くし、泣き叫ぶ赤ちゃんが居たことは事実だろうな、と想いました。どうだったんでしょうね。

ピューリッツァー賞を取った『ハゲワシと少女』の写真も、荒野の真ん中ではなく、食料供給所の列の近くで、母親が子供を地面に降ろしていた瞬間を撮ったもののようです。ただ、少女が飢えていたのは事実です。

「嘘」と「本当」、色々と難しいですね。

投稿: さくらスイッチ | 2010年1月28日 (木) 00時37分

何となく見ていたら驚いてしまいました。
この小柳次一という人は、私の幼少期の写真を撮ってくれた人だったんです。
戦争の写真を撮っていた事は知っていたけど、本があるなんて知りませんでした。表紙の写真を見て「どこかで見た事あるな~」と思って名前を見たら、小柳!!
もしかして?調べると、私の知っている小柳のジイチャンでした。
表紙の写真は小柳のバアチャン(奥さん)が、私たちによく見せていたものでした。
ジイチャンが撮ってくれた写真は、今では宝物です!
私たち一族の日常を、そのまま切り取ったような写真ばかりで皆笑っています。いつも口癖は「いいねぇ~」そう言って写真を撮っていました。
戦地でもそうやって撮っていたのだろうな~と思うと、その姿が目に浮かびます。
他の人とは違う目線で、この本を見るのだと思います。

長々となりましたが、またジイチャンに会えたようで嬉しくってついつい…。
本当に開いてよかった、感謝しています。

投稿: | 2010年5月26日 (水) 13時03分

小柳次一さんの写真は、とても優しい眼差しを感じることが出来るものでした。写真は被写体を写すと同時にカメラマンの心も写すものなんだと、本書に載せられた戦中写真を眺めながら思いました。

「小柳のジイチャン」の写真も、優しい眼差しでその時間を切り取っているようですね。幸せの記録は人生を助けてくれると思います。

私の備忘録がほんの少しでも役に立って、私も嬉しいです。

投稿: さくらスイッチ | 2010年5月26日 (水) 21時10分

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