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2008年11月 9日 (日)

065『セラミックロード 海を渡った古伊万里』写真・白谷達也/文・上野武 初版1986年

江戸時代に焼かれた古伊万里や柿右衛門様式の日本磁器が
ヨーロッパ各地に多数存在している
そして アフリカやインドネシアにも・・・

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wave 概要

① ヨーロッパ(田舎の宮殿に18世紀が眠っていた、シノアズリーと古伊万里、柿右衛門に熱中したシュタルケ王の夢、海辺に町に東インド会社の栄光をたずねた) ②アフリカ(インド洋を運ばれた磁器) ③インドネシア(南海の島々を結んだ海上の道) ④日本(東シナ海につながる磁器のふるさと)

wave 読むきっかけ&目的&感想

ちょっと前に読んだ小学館コミック『ギャラリーフェイク(11)』の第8話/伊万里の道(イマリ・ロード)が面白かったので、その参考文献になっていた本書を読んでみたくなった。

さくら好み ★★★★★

すごく面白かった。あたしは古伊万里が好きでないにもかかわらず、掲載されている各国の古伊万里の写真に魅入られてしまった。日本と遠く離れた国とが結ばれていた証だと感じるから・・・、浪漫だぁ~~~。^^♪

wave 覚書

◆古伊万里とは

肥前(佐賀県)の有田で焼かれたやきものを、江戸時代には隣接する伊万里津から海運で各地に運んだので伊万里焼と呼んだ。同じものを現在は有田焼と称している。伊万里焼は日本で最初に焼かれた磁器である。

ひとくちにやきものというが、陶器と磁器は別のものである。英語でも陶器はポタリー、磁器はポースリンと区別していて、両者をあわせた「やきもの」をセラミックといっている。

陶器は粘土を原料とし、800度から1000度くらいの比較的低い温度で焼いたもので、不透明な吸水性に富む肌をもち、叩くと鈍い音がする。

それに対して磁器は陶石(磁土=石英粗面岩)を砕いたものを原料とし、1300度くらいの高温で焼く。吸水性のない、やや光を通す程度の透明度のある光沢の強い白い肌をもっていて、叩くとチンチンと金属製の澄んだ音がする。端的にいえば、磁器とは白く硬い焼き物である。1300度もの高温を必要とする磁器の焼成には陶器よりはるかに高度の技術がいる。

◆広義の古伊万里と狭義の古伊万里

中国で1世紀ごろ青磁が、6世紀ごろ白磁が発明されたが、その製法は永く秘密とされ、中国のみが作りだせる神秘的なやきものとされていた。

日本では17世紀の初頭、朝鮮と中国の影響下に、有田で磁器焼成に成功する。それが伊万里焼で、江戸時代の伊万里焼をとくに古伊万里呼んでいる。有田とその周辺で焼かれた磁器は、古伊万里の他に柿右衛門様式と鍋島藩窯様式もある。この2つも大きくみれば伊万里焼に含まれる。

だからいささかややこしいことになるが、広義の古伊万里のなかには、①狭義の古伊万里、②柿右衛門様式、③鍋島藩窯様式の3つがあることになる。

*本書で古伊万里というときは、おおむね江戸時代に有田で焼かれた磁器という意味で使っていて、この場合は広義のほうだが、柿右衛門様式との対比で古伊万里といった場合は狭義で使っていると承知していただきたい。

◆古伊万里が渡っていった道をこの眼で確かめてみたい

海外にある古伊万里には日本には伝世していないタイプのものもあり、現在、日本の美術館で見る古伊万里の逸品の多くは、実はヨーロッパから買い戻されたものであるという。それらを見るたびに私は、輸出された古伊万里の素晴らしさに感嘆すると同時に、東西交渉史の視点から深い興味を覚えた。

―これらの古伊万里は、オランダ人が単に珍奇な土産として個人的に持ち帰ったものではない。貿易品として大量に海を渡っていったのだ。とするなら、従来、セラミックロードは主として中国陶磁に関して問題にされてきたのだが、古伊万里もまたセラミックロードを運ばれたといってよいのではないかと思ったのである。

そうなると、江戸時代に日本とヨーロッパはセラミックロードで結ばれていたということになる。私は古伊万里についてまるで門外漢だが、鎖国下の日本から輸出された古伊万里というモノを通して、江戸時代の日本を当事のヨーロッパではどのように見ていたのだろうかと、いたく好奇心を刺激されたのである。

そんなことを考えているうちに、興味はさらに広がっていった。セラミックロードというからには“ロード”のこと、すなわち古伊万里が運ばれた経路についても知りたいと思うようになった。古伊万里はどんなルートで運ばれたのだろうか。現在、そのルート上には、かつて古伊万里が運ばれていったあとを示すものは残っていないのだろうか。

いつしかセラミックロードを旅して、古伊万里が渡っていった道をこの眼で確かめてみたいと思うようになった。

◆ヨーロッパを風靡したシナ=中国趣味

シノアズリーとは17世紀後半から18世紀に、美術史上の後期バロックからロココの時代のヨーロッパを風靡したシナ=中国趣味である。西ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿のポースリン・キャビネットが同時にシノアズリーで装われたチャイニーズ・ルームであるように、シノアズリーと古伊万里を含む東洋の磁器は密接な関係にあった。

中国の物産への西洋の人々の憧憬といえば、ギリシャ・ローマ時代からシルクロードを経てもたらされた絹があまりにも有名だ。しかし陸路のシルクロード遠く危険で、絹をはじめとする軽量の貴重品が少量運ばれたにすぎない。だが、大航海時代が始まり16世紀東アジアとヨーロッパが海路で結ばれるようになると、中国の陶磁器や各種の家具調度品がヨーロッパにもたらされるようになる。とりわけ17世紀の初めにオランダが東インド会社を設立して東洋貿易にのりだすと、中国製品の輸入は飛躍的に増えた。

オランダ船によってヨーロッパにもたらされた中国の美術・工芸品は、おりからヨーロッパを風靡していたバロック美術の、動性・装飾性・曲線などを好む感覚にマッチし、バロック建築の室内空間を飾る材料として用いられた。

◆磁器は東洋の高貴なやきものとして憧憬の的となった

中国製品の購入に最も熱心だったのがフランスで、王侯、貴族、高級官僚、富裕な商人はあらそって中国の美術・工芸品で身辺を飾り、ここにシノアズリーの風潮がおこった。その際、シノアズリーはまず中国磁器への熱狂として始まった。薄くて硬く、やや光を通す透明度のある光沢の強い白い肌をもち、叩くと澄んだ金属音のする磁器は、ヨーロッパ人の知っていた厚ぼったい陶器と比べるとあまりにも異なった東洋の高貴なやきものとして憧憬の的となり、サロンの飾りとして欠かせないものとなった。

そして17世紀の後半にオランダで、磁器を一つ一つ鑑賞するのではなくマスとして用いて部屋を装飾することが始まった。

この風潮は、ドイツへはブランデンブルグ大選帝候フリードリッヒ・ヴィルヘルム(在位1640-88)によってベルリンへもたらされた。彼の息子で最初のプロシア王となったフリードリッヒ1世(在位1701-13)もフランス・オランダの文化に憧れ豪奢な宮廷生活を営んだから、プロシアのシノアズリー熱はさらにたかまった。

ドイツにおける東洋の磁器への熱狂はさらにザクセン地方に波及し、ドレスデンを王都としたザクセン選帝候フリードリッヒ・アウグスト1世(在位1694-1733)で頂点に達し、多数の古伊万里・柿右衛門様式を含む東洋の磁器の膨大なコレクションとして今日に伝えられている。

◆ポースリン・キャビネットは野暮ったい?

20081106_5_2 当事のドイツは後進国だったから、東アジアの磁器を収集することはフランス・オランダの先進文化への憧れそのものであり、王侯の富と力を誇示するものだったのだろう。しかし、部屋全体を磁器で装飾するポースリン・キャビネットは、シノアズリーの先進地であるフランスではあまり歓迎されず、ドイツ・オーストリアというゲルマン民族の地域で異常なまでに発達した。

その理由を三上次男氏は、先進地域からの文化を受け入れる際、後発地域では先進の装飾技法に誇張の度を加えたり、変形や硬化することがよくあることに求めておられる。そういえば西ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿のポースリン・キャビネット(東洋の磁器で壁面をうめつくした部屋)には、どこか野暮ったさが感じられる。

◆古伊万里のデザインはヨーロッパの嗜好に応じて出現した

それにしても、シャルロッテンブルク宮殿のポースリン・キャビネットの中に置かれた古伊万里は、この部屋を構成している過剰なまでに濃密なドイツ・バロックの装飾とじつによく調和しているようにみえた。日本で見ると、ときにはグロテスクにすらおもえる染錦手のけばけばしいデザインが、バロック・スタイルの「装飾集合体」のなかではところを得て、いきいきと精彩をはなっている。

日本の美的伝統のなかでは異端ともいうべき絢爛たる装飾性に富んだ古伊万里のデザインは、輸出用としてバロック時代のヨーロッパの嗜好に応じて出現したものだという、従来から指摘されている説が素直に納得できた。

◆森鴎外が見たポースリン・キャビネット

かつてザクセン王国の宮殿(たぶんツヴィンガー宮殿とおもわれる)のポースリン・キャビネットを見た日本人がいる。森鴎外である。若き日にドイツに留学した鴎外は、明治18(1885)年から翌年にかけて、ドレスデンでザクセン軍医監ロオトについて軍隊衛生学を学んだ。帰国後、この時のザクセン体験をもとに『文つかひ』を書いたが、そこにドレスデンの王宮のポースリン・キャビネットが描かれている。鴎外の流麗な描写で、ありし日のザクセン王宮のポースリン・キャビネットを偲んでおこう。王宮での舞踏会で、日本人士官が女官となったイゝダ姫からはなしかけられる場面である。

 『かしこなる陶物の間見たまひしや、東洋産の花瓶に知らぬ草木鳥獣など染つけたるを、われに釈きあかさむ人おん身の外になし、いざ』といひて伴ひゆきぬ。
 こゝは四方の壁に造付けたる白石の棚に、代々の君が美術に志ありてあつめたまひぬる国々のおほ花瓶、かぞふる指いとなき迄並べたるが、乳の如く白き、瑠璃の如く碧き、さては五色まばゆき蜀錦のいろなるなど、陰になりたる壁より浮きいでて美はし

◆ドイツのマイセン磁器の創業におよばした日本磁器の影響

江戸時代における日本とヨーロッパの文化交流といえば、マイセン磁器の創業におよぼした古伊万里・柿右衛門様式の日本磁器の影響はあまりにも有名である。

東アジアの磁器に熱中したアウグスト・シュタルケ王は、収集の一方でザクセンでの磁器焼成に意欲をもやした。それはもちろん、東洋でしか作れなかった神秘的なやきものを自らの王国で再現したいという夢から生じたのだが、同時に高価な磁器を生産することによって利益をあげようとの経済的理由もあったことはいうまでもない。

シュタルケ王のもとで最初、錬金術の実験に従事し、失敗してケーニッヒシュタイン城に閉じ込められていたフリードリッヒ・ベトガーは、シュタルケ王から磁器の開発を命じられていた鉱物学・数学・化学に通じていたワルター・エーレンフリート・フォン・チルンハウスの指導を受け、1708年にまず「ベトガー炻器」とよばれる高火度焼成による暗褐色のストーンウェアの制作に成功する。

白くて薄く硬い磁器の秘密は、原料に陶石(石英粗面岩)を用いることと、1300度もの高温で焼くことだが、ベトガーは、まず高温焼成に成功したわけである。

ついでベドガーは、ドレスデン西南90キロにあるエルツ山脈中のアウエで陶石を発見し、それを使って1709年3月28日、ついに白磁の焼成に成功する。白く薄く硬いやきものという東洋の秘密は錬金術師ベトガーによって破られた。錬金術が近代的な化学を生む母体となったことは有名だが、ヨーロッパの磁器創業にも錬金術が大きな役割を果たしたのである。

よろこんだシュタルケ王はさっそく企業化をはかり、マイセンのアルブレヒツブルグ城に窯を設けた。窯を城内に設置したのは製法の秘密がもれるのを防ぐためで、職人たちは城内に隔離されて住まわされた。そのあたりの事情は日本も同じで、有田の窯場は佐賀藩の厳重な監視下にあった。

◆江戸時代に日本人が接した唯一の西洋国オランダ

16世紀のスペイン・ポルトガルと18世紀のイギリスの世界制覇の間にあって、17世紀はオランダの世紀だったといわれる。九州よりも狭い国土に人口わずか250万の小国オランダに繁栄をもたらしたのは、東インド会社による東洋貿易の利益だった。この会社は1602年は、アムステルダム、エンクハイゼン、ホールン、ロッテルダム、デルフト、ミッデルブルグの6つの都市の貿易会社を統合して設立され、近代株式会社の起源となったといわれる進んだ組織だった。

大航海時代におけるヨーロッパ人の東洋への進出は、1498年にポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマの船隊が喜望峰を回ってインドのカリカットに到着したのに始まる。スペインの支配に反逆して1581年に独立宣言をした新興国オランダの東洋進出は、ポルトガルより1世紀遅れて、1596年にコルネリウス・ド・ハウトマンの率いる船隊がジャワのバンテンに入港したのが最初だった。商業的才覚にたけたオランダ人は、東インド(現在のインドネシア)からたちまちのうちにポルトガルの勢力を駆逐し、新たな競争相手となったイギリスも押しのけて、1619年にはジャワ島のジャカトラを占領し、ここにバタビア城を建設して、以後3世紀半にわたって東インド経営の拠点とした。

日本とオランダの関係は、1600年、すなわち関ヶ原合戦の年に、九州・豊後にリーフデ号が漂着したのに始まる。この船はマゼラン海峡経由でアジアを目指し、暴風雨に襲われてちりぢりになった5隻の船団のうちの1隻だった。リーフデ号に乗っていたオランダ人ヤン・ヨーステンとイギリス人ウィリアム・アダムスは日本にとどまり、徳川家康に通商顧問として仕えた。ヤン・ヨーステンは現在の東京駅八重洲口付近に屋敷を与えられ。ヤン・ヨーステンの名前からヤエスの地名が残った。

リーフデ号の漂着をきっかけに日本とオランダの通商が開かれ、1609年には平戸に商館が開設され日欄貿易は本格化した。1641年、鎖国令とともににオランダ商館は長崎の出島に移され、以後、幕末にいたるまで日本とヨーロッパの間の貿易を独占した。江戸時代の250年間にわたってオランダは、日本人が接した唯一の西洋の国だった。

◆南アフリカのケープタウンに残されていた古伊万里

「わたしたちにはオランダ東インド会社の古文書がのこされていて、長崎やバタビアでの船積みやケープタウンでの荷揚げなどの記録があり、それによって確実なことがわかるのです。ケープタウンに大量の伊万里がもたらされるようになるのは、1720年以後のことで、その頃にはヨーロッパへの輸出は下火になっていました。ケープタウンへは東インド会社の公的な貿易ではなく、船員がプライベートな荷物として持ち込むものが多かった。ヨーロッパよりこちらの方が日本に近いこともあって、ヨーロッパにくらべると安く手にはいったのです。18世紀に1戸の家で700個もの古伊万里を持っていたケースもありますよ」
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◆古九谷は有田で焼かれた?

中に1枚、濃厚な緑と黄の釉彩があざやかな「青手古九谷」といわれているものが混じっていた。井村さんが、
「えっ、これがインドネシアに来てるとは・・・・・」
とおどろくと、進藤さんが、
「そうなんですよ、インドネシアに輸出されているところをみると、やっぱり有田で焼かれたと考えたくなりますね」
と応じた。

二人の話によると、従来は石川県の九谷で焼かれたとおもわれてきた古九谷が、初期の伊万里の色絵とさまざまな共通点があることから有田で焼かれたのではないかとする説が、近年有力になってきているのだという。九谷で焼かれたものが輸出されたとは考えにくいから、この青手古九谷は有田説の有力な資料となるかもしれないと思った。
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◆江戸時代の日中貿易

長崎に来航した清国船のなかには実は東南アジアの船も混じっていて、そのなかには咬留巴(留巴の二字には共に口偏有り)船、萬丹船などもいた。咬留巴はクラパすなわちジャカルタ旧港のスンダ・クラパだし、萬丹はもちろんバンテンである。オランダ東インド会社の船以外にもインドネシアの船が直接、長崎にきていたのだ。もちろんそうした船も古伊万里を積んで帰ったに違いない。さらに大庭教授は、江蘇・浙江・福建・広東などから来航した中国船もたんに出航地と往復していただけではなく、東南アジアの港へ回って貿易をしていたこと、すなわちいかに日本が鎖国体制をとっていようと、長崎は中国の東海(東シナ海)や南海(南シナ海)に広がっていた貿易圏のリンクの一つであったことも指摘されている。

鎖国体制下でオランダ船とならんで中国船も長崎貿易を許されていたことはもちろん知ってはいたが、セラミックロードを考える場合オランダ船のことしか念頭になかった私は、盲点をつかれたおもいがした。インドネシアで発見される古伊万里には、中国船でもたらされたものも相当数あったにちがいない。

そして中国船でインドネシアにもたらされた古伊万里が、さらにイスラム教徒によるインド洋貿易網にのって中近東やアフリカへ運ばれた可能性もあるのではないかとおもった。セラミックロードはオランダ東インド会社のみによる単線ルートではなく、複数のルートだったのだ。

◆九州と山口には朝鮮渡来の陶工の開いた窯が多い

同じやきものといっても磁器は陶器とはことなり、組織化された高度の技術を必要とするいわば近代以前におけるハイテク工業製品だった。長いあいだ中国のみが製法を独占しつづけたが、10世紀になって朝鮮半島でも磁器の焼成に成功した。

日本人が中国の磁器に接したのは5世紀ごろにさかのぼるともいわれ、平安時代以降はおびただしい量が輸入された。そして中国磁器を模倣した陶器は各地の窯で焼かれたが、それは表面的な器形の模倣に終わって、ついに磁器焼成にはいたらなかった。

江戸時代の初め、なぜ有田で日本最初の磁器焼成に成功し、それはたちまち海を渡ってヨーロッパに輸出されるまで大発展したのだろうか。

有田が日本磁器のふるさととなったのはまず、泉山で陶石が発見されたからである。泉山で陶石を発見し、有田で日本最初の白磁が焼成されたのは、通説では元和2(1616)年のことで、朝鮮から渡来した李参平、帰化しての日本名を金過ヶ江三兵衛という陶工によってであるとされている。

九州と山口には、唐津焼高取焼上野焼薩摩焼萩焼など、朝鮮渡来の陶工の開いた窯が多い。だがそれらの窯は、けっして自由な陶工たちの渡来による技術移転によって開かれたのではない。豊臣秀吉による「文禄・慶長の役」(1592・97)という朝鮮半島侵略の暗い歴史がもたらした結果だった。この戦争は「やきもの戦争 *」と呼ばれるくらいで、参戦した九州の大名たちは、陶業の先進地である朝鮮の陶工たちを連れ帰り、自分の領内に窯を築かせて陶業を興した。「連れ帰った」といっても実態は強制連行だったとみていいだろう。

◆それぞれの風土と文化のなかで

九州陶磁文化館で興味深い1枚の皿を見た。

江戸時代後期に焼かれた直径53センチもの染付の大皿で、日本を中心に東はアメリカ大陸、西はイギリスにいたる世界地図が描かれている。地図はむろん正確なものではないが、「日本ヨリ海上里数」と題して皿には次の国名と数字が書かれていた。(カッコ内は注)

唐南京エ二百三十リ(里)
南ハン(蛮)エ九千リ(里)
琉球エ三百リ
本ヲランダエ一万二千九百リ
新ヲランダ(インドネシア)エ四千五百リ
イギリスエ一万五千リ
北アメリカエ五千リ
南アメリカエ八千リ
朝鮮エ二百四十リ
小人国エ一万五千リ
一目国エ一万七千リ
黒人国エ七千五百リ
女人国エ一万四千リ
ヲロシヤエ三百五十リ
安南エ二千二百リ
天竺エ三千五百リ

一目国や女人国はご愛嬌だが、私はこの皿をみながら、セラミックロードの旅で訪れた国々と、それぞれの風土と文化のなかで大切に伝えられてきた古伊万里の栄光を、おもいかえしたのだった。

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wave 著者

白谷達也 1945年生まれ 朝日新聞社出版局出版写真部勤務(本書出版時)

上野武 1944年生まれ 朝日新聞社出版局図書編集室勤務(本書出版時)

20081106

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