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2008年10月13日 (月)

055『阿片王 満州の夜と霧』 佐野眞一 初版2005年

「阿片王」と呼ばれた里見は
一般常識なるものから大きく逸脱し
社会的モラルの埒外を思い通りに生きてきた男だった

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概要

昭和30年代からはじまった高度経済成長は、われわれ日本人に何をもたらし、何を失わせてきたのか。高度経済成長というテーマは、いつしか私のライフワークとなっていった。これまで私は、高度経済成長下の日本人の物語をいくつも書いてきた。そうした作業を続けながら、私の中に次第にふくれあがってきたのは、それではなぜ、日本はかくも簡単に高度経済成長を成し遂げる事ができたのか、という根本的な疑問だった。その疑問の行き着く先に蜃気楼のように浮かび上がってきたのが、満州だった。

満州については、これまで万巻といってもいいほどの書物が書かれてきた。しかし、満州体験のない私にとって、それらの多くは「向こう側」の世界の物語といった感が、どうしても否めなかった。ただいま現在と、どうつながっているかが見えにくいのは、なぜなのだろう。

先入観や固定概念という捕虫網を使わず、満州という巨大な蝶々を、というより巨大な毒蛾を、自分の素手のなかにつかみとりたかった。言葉をかえるなら、誰の胸にも突き刺さる「小文字」だけで、満州を等身大に描きたかった。それを保証するのは、唯一、そこに生きた人間を、人間だけを徹底的に描き出すことである。これは、私が素手でつかまえた人間たちが、手の中でうごめくままにまき散らした鱗粉の模様がのぞかせた人間喜劇の物語といってもいいだろう。

偶然手に入れた里見遺児の奨学基金募集名簿を基に、取材による証言によって紡がれる里美甫という男と、里見をとりまいてきた下半身が闇に溶けた男と女たちの探索行である。

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読むきっかけ&目的&感想

今年8月にNHKで『調査報告 日本軍と阿片』という番組を見た。実は結構知られた事実であるらしいが、日本軍が組織的に阿片を管理売買し戦費に利用していた事を、あたしはこの番組で初めて知った。もう少し詳しく知りたいなと思ったので、ケシの栽培と阿片採取を奨励して廻った「二反長音蔵」、満州の国策である阿片ビジネスでリーダーシップをとった「甘粕正彦」、関東軍と結託しアヘン取引組織を作った「里見甫」について書かれた本を探して読んでみる事にした。その三冊目が本書になる。

さくら好み ★★★☆☆

本当は、二反長、甘粕の二冊に続いて読むつもりだったんだけど、ズルズルと後回しにしてる内に遅くなってしまった。

著者が里見甫関連の人物に取材を重ねるやり取りから、里見がとても魅力的な人物だったことが伺える。ただ、いささか読み難い文章構成だったので、読んでいて気がそがれる処が多々あった。

というものの、同著者が書いた(以前から読みたいと思っている)「旅する巨人~宮本常一と渋沢敬三」以外にも、「甘粕正彦乱心の曠野」も読んでみたいと思った。

*里見甫(左)と甘粕正彦(右)
Sano04_2 Amakasu

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覚書

◆戦中の上海にいた美貌の女スパイ

Tenn 当事の上海を象徴する有名人に鄭蘋茹(テイピンルー)という女スパイがいた。中国人司法官の父と日本人の母の間に生れた鄭蘋茹は、人並み外れた美貌の持 ち主だった。鄭蘋茹はその類まれな容姿で、時の日本国総理大臣・近衛文麿の息子で、当事、東亜同文書院に留学中だった近衛文隆に近づいていた。長身 でハンサムボーイの近衛文麿は、ブリンストン大学留学中からプレイボーイとして知られていた。鄭蘋茹と近衛文麿の美男美女カップルが夜な夜な上海の 盛り場を遊び歩く姿は、日本政府を慌てさせた。二人の仲が日中関係悪化の原因となることを恐れた近衛家では、文隆を急遽帰国させる強硬手段に出た。

鄭蘋茹はその後も、敵国日本の情報をとるため、日本側諜報機関のジェスフィールド76号(重慶側のテロに対抗するため日本軍の肝いりで造られた「対重慶特工総部」の建物。 ジェスフィールド76号はその通称名で、本部がジェスフィールド路76号にあったためそう呼ばれた)のボスの丁黙頓(中国人でありながら日本人に協力するスパイ組織のボス)に色仕掛けで接触し、丁黙頓を危うくテ ロの凶弾に倒れる危地に陥れた。それから間もなく鄭蘋茹は逮捕され、ジェスフィールド76号側の館に囚われの身となった。その最期を見取ったのは、 上海憲兵隊長特攻課長の林秀澄だった。

死刑執行官は林子江という中国人官吏でした。林は監禁中の鄭蘋茹に「鄭さん、こんな屋敷にいつまでもおっても面白くないだろ。今日は特別に 君を映画に連れて行ってやろう。だから早く支度しなさい」と言って表に連れ出した。鄭蘋茹はおしゃれな女性でしたから、金色の靴を履き、めかしこん で林の用意した車に乗り込んだ。

車が上海の繁華街を抜け、郊外に差しかかると、さすがの鄭蘋茹も気がついて狂ったように泣き叫びはじめたそうです。車が赤土だらけの刑場に着 きますと、確かに鄭蘋茹の泣き声が聞こえました。鄭蘋茹は二人の支那人に両脇を支えられて車からひきずりおろされ、あらかじめ掘ってあった真 四角な濠の前に座らせられました。

執行する直前、顔を撃つのだけはやめて、と言ったそうです。鄭蘋茹を座らせた後ろで死刑宣告文を読み上げ、それが終ってすぐ、拳銃で後頭部を 撃ちました。ダーンという音が鳴ったと思うと、体が前に吹っ飛んで濠のなかに入った。ところが、完全には入りきらないで金色の靴を履いた足が濠の淵にひっ かかった。それを支那人たちが濠のなかに引きずりこみ、まわりの赤土で埋めて処刑は終りました。

Tenn02_2 その帰り、車の外を通る婦人を一人ずつ眺めるともなく眺めていたんですが、そのとき初めて、ああ、鄭蘋茹というのはたしかに美人だったんだな、上海であれほど美しい女はいなかったんだな、ということをあらためて確認したような気がいたしました・・・・・。

*映画『ラストコーション』(2007年)のヒロインのモデルといわれている。

◆軍事と民俗学は隣接領域

民俗学は、図書館の分類で軍事の項目に隣接して設けられている。ここからもわかるように、辺境地域に居住する民族を研究対象としてきた民俗学は、その成立時から、軍事、とりわけ植民地統治の隣接領域という宿命を負っていた。

◆日本の高度経済成長のグランドデザインは満州国が下敷き

日本は、敗戦後10年足らずで高度経済成長の足がかりをつかんだ。それは、わが国がいち早くアメリカの核の傘の中に入って、軍事防衛問題をほとんど、アメリカという核の傘の中に入って、軍事防衛問題をほとんど、アメリカという世界の警察国家にまかせっぱなしにし、経済分野に一意専心することができたからにほかならない。昭和25(1950)年に勃発した朝鮮戦争による特需景気は、その先駆けをなすものだった。

だが、そうした側面もさることながら、日本の高度経済成長のグランドデザインは、かつての満州国を下敷きにしてなされたような気がする。時の総理大臣として、高度経済成長に向け号砲を打ったのは、将来の総理大臣を嘱望される阿倍晋三の祖父の岸伸介である。その岸が産業部次長として満州に赴任し、満州開発5ヵ年計画を立て満州国の経済政策の背骨をつくって、後に「満州国は私の作品」と述べたのはあまりに有名である。

世界史的にも類をみない戦後の高度経済成長は、失われた満州を日本国内に取り戻す壮大な実験ではなかったか。そんな思いが私をきつくとらえていた。戦後高度成長の象徴である夢の超特急も合理的な集合住宅もアジア初の水洗式便所も、すべて満州ですでに実験済みだった。

◆極秘特務機関「昭和通商」

昭和14(1939)年4月に設立された昭和通商は、軍部のなかば強制により、三井物産、三菱商事、大倉商事の三大財閥に各500万円ずつ出費させ、1500万円の資本金でスタートした一大マンモス商社だった。

同社は最盛時には3000人近い社員をかかえ、ニューヨーク、ベルリン、ローマ、バンコク、マニラ、シンガポール、北京、南京、広東、そして満州の首都の新京などに支店網を張りめぐらせた。

昭和通商は、表向きは陸軍の旧式となった武器を中近東などの第三国に輸出する一方、タングステンなどの貴重な軍需物資を現地調達していた。だが、その実態は諜報活動とアヘン取引を両輪とする、陸軍の完全コントロール下におかれた極秘特務機関だった。

◆日本人にとって満州は、戦後の高度経済成長を約束する壮大な実験場という側面をもっていた。

満州がそうした暗い面を夥しく内包していたことは確かである。しかし、少なからぬ人々が満州の上に見果てぬ夢を思い描いていたことも、またゆるぎない事実である。

満州の曠野を驀進する超特急「あじあ号」のスピードは、東京オリンピックが開催された昭和39(1964)年開業の新幹線「こだま」の速度と同じだった。満州国の首都の新京には上下水道が整備され、東洋ではじめての水洗便所の敷設も新京からはじまった。大連には東洋一を誇る病院があり、市街地はアスファルトで舗装され、主だった住宅にはセントラルヒーティングが施された。主要都市のデパートには、日本内地でも入手できない高級舶来品があふれていた。

◆満州の「聯合」と「電通」を併せて「国通」設立

里見の関東軍第四課での最大の仕事が、国通設立に向けての工作活動だった。

ことの発端は、新聞聯合専務理事の岩永祐吉が関東軍に提出した「満蒙通信社論」だった。その要旨は、満州にすみやかにナショナルエージェンシーを設立すべし、外国通信社や営利目的の通信社の乱立による誤ったニュースの流布は、満州の国際的地位を低下させ、いたずらに人心の混乱を招くおそれともなる、というものだった。

この「満蒙通信社論」が、まもなく一国一通信社論となり、電通と聯合の合併、すなわち電聯合併に発展することになる。この流れについて、里見は満州暦の康徳9(昭和17)年に出版された『國通十年史』のなかで、次のように述べている。

<一国一通信社、この観念は常時の日本の情勢から言って一の国策になって来た。英のルーター、佛のアバス、獨のトランスオーション、伊のステファニー、露のタス、僅かに米国のみAP、UPの両通信社、日本は聯合通信社と電報通信社即ち「聯合」と「電通」の両社であった。

日本の事が外へ出る場合、時によると二つのルートによって左右のニュースが出る。例えば国際連盟脱退という強い日本の意思の表示と一方は左迄もないというニュース、これが対外的に響く影響は中々甚大である。

それに加えて国内のニュース供給も時ともすると右と左の二つの形で現れる場合がある。対外的にも対内的にも日本の意思の凝結を要するは無論の事であるが、その頃は一層痛切に感ぜられた。

然るに「聯合」これは半官的の存在であり、一方「電通」は民間の経営である。国に対するに変わりはないが、組織と立場の相違は色んな隙を生ずる。

一国一通信社、日本の通信社統一は小磯陸軍の頃一度議があったが、未だ常時の国内情勢はともつれば政治問題と迄はならず進むべくして進まなかったと聞いて居る。ここに起ったのは先ず満州だけを先に統一すべしとの議である。これは今はなき「聯合」の岩永祐吉氏によって提議させられ板垣さんの裁断によって決したと記憶する>

関東軍第四課に派遣された里見の役割は、この岩永論文を火急のうちに現実化することだった。国通設立にあたって最大の難関は、いかにして電通を説得するかであった。当事の電通(日本電報通信社)は、広告専門に特化した現在の態勢とは違い、広告の分野に加えて世界的ネットワークをもつ通信社の機能を兼ねそなえた一大情報機関だった。電通と聯合は日本を代表する通信社として各地で覇を競っていた。

里見はこのとき、まだ36歳の若さだった。満州における聯合と電通の通信網を統合した国通は、関東軍司令部が奉天から満州国の首都・新京に移駐して一ヶ月後の昭和7年12月1日、その新京で呱々の声をあげた。

*蒋介石(右手前軍服姿)と新聞記者時代の里見甫(白い中国服姿)
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◆一国一通信社 国内の「聯合」と「電通」を併せて「同盟」設立

政府はこれ(国通設立)を強力な援軍として、日本国内の通信統制に本格的に乗り出していった。反骨の言論人として知られる菊竹淳(筆名=六鼓・福岡日日新聞社副社長兼主筆)をはじめとする新聞人たちは、「国内の通信社を聯合一社とすることは、新聞の自由を失わせ、国民を盲にする言論報道の抑圧にほかならない」と反対の声をあげたが、そうした反対論を尻目に、政府、連合側の新通信社結成工作は着々と進められた。

そして、二・二六事件が起きる1ヵ月前の、昭和11(1936)年1月、電聯合併による同盟通信の発足をみることとなった。通信網を聯合に奪われた電通は、これ以降、広告取次専門会社として生きるほかなかった。

電通社史の『電通66年』(昭和43年12月)の電聯合併にふれた記述は苦渋にみちている。

<満州での国策遂行という大義名分のもとに、満州国通信社は設立され、電通、聯合両社の存満各支局と、通信人員のほとんどがこれに移った。

国通の出現を契機に、政府は国内の通信統制に乗り出した。逓信省が国際放送電報規制改正の手段に出たことは、ナショナル・ニュース・エーゼンシーを1日も早く作り上げることになった。すなわち国家代表通信社の設立であり、国策遂行のための文字通りの非常手段であった。これにより「同盟」、すなわち聯合は生気を取り戻し、電通は死命を制せられたのである>

その後、電通と同盟の間で、電通は通信とニュース写真に関する事業を同盟通信社に委譲する、電通は広告専業会社となり、同盟の広告部門を引き継ぐといった内容を主旨とする契約が取りかわされた。

◆戦後日本に延びる満州の地下茎

戦後、同盟は共同通信と時事通信に分割された。一方、広告専門会社となった電通には里見の息がかかった元国通の社員たちが戦後、大挙して入社し、今日の電通の隆盛を築く礎となった。国通を立ち上げた里見は、現在の日本メディア体制の基本的枠組みを満州でつくったともいえる。

「阿片王」といわれた里見の業績は、アヘン販売による独占的利益を関東軍や特務機関の機密費として上納する隠れたシステムをつくりあげた点に目を向けられがちである。だが、現在への影響力でいうなら、それよりもむしろ、今日の共同通信と電通を発足させる引き金となった国通設立に尽力したことがあげられる。

見逃してならないのは、ここにも、満州の地下茎が戦後日本に延び、その上に現在の日本の通信、広告の帰趨をなす陣容のプロトタイプが築かれたことが瞥見できることである。

里見遺児の“芳名帳”には、国通設立の過程で里見が知遇を得た鈴木貞一、古野伊之助、松井太久郎といった男たちの名前が登場する。そしてその人脈は、里見が満州の中枢部に食い込むに従って、やはり“芳名帳”に名を連ねる岸信介、難波経一(満州国禁煙総局長)、古海忠之(満州国総務庁次長)などのエリート官僚から、阿片工作に密接にからむことになる楠本実隆、塩沢清宣、岡田西次、岡田芳政らの軍人に、不気味な翼を伸ばしていくことになった。

◆戦後の満州国通信社社員

里見に頼まれて満州国通信社(国通)の後輩を託された東亜同文書院後輩の大矢信彦は、終戦間際に帰国して、すでに手に入れていた鎌倉市笹目町の広大なお屋敷で、仕事らしい仕事につかずに過ごした。

大矢はかつて関わりのあった満州帰りの食い詰め者たちの面倒を見ることで、自分なりの戦争責任と戦後責任を果たそうとしたのだろう。元上海憲兵隊特攻課長の塚本誠が、戦後電通入りしたことは第7章で述べた。大矢が面倒を見た元国通マンたちも、電通や、その息がかりで戦後開局した民間放送局にかなりの数就職したはずである。

戦後、電通や民間放送局が驚異的な成長を遂げることができたのは、一つには、GHQの公職追放により、戦中の企業組織を牛耳っていた旧世代のボスたちが一掃され、それにかわる世代が若いうちから経営の第一線に立たされたからである。その大きな供給源の一つが、里見がつくった国通だった。

里見遺児“芳名帳”に名を連ねる元国通マンの青木啓もその一人だった。青木は満州から帰国後、カストリ雑誌の記者などを経て、誕生間もない神戸放送(現・ラジオ関西)に入社し、若くして同社の社長となった。

◆フィクサーの名をほしいままにした笹川良一

里見と同様、A級戦犯として巣鴨プリズン入りした笹川良一は、戦後、日本船舶振興会会長として、そこからあがる莫大な資金力をバックにわが国政財界に隠然たる力をおよぼし、日本のフィクサーの名をほしいままにした。

笹川は戦前、大阪府下に建設した防空飛行場を陸軍に献納する一方、国産機の大和号でローマに飛んでムッソリーニと会見し、自分が主宰する国粋大衆党の党員にファシスト党を真似て黒の国防服を着せるなど、金にあかせた軍への露骨な食い込みや、派手なパフォーマンスで、大物右翼への地歩を固めていった。

◆満州時代の里見の「秘書」だった梅村うた

― エッ、うたさんに子供がいたんですか。子供がいなかったから、淳さんを養女にしたんじゃないんですか。
「うたさんには一男三女の子どもがいました」
さらに驚くべき発言だった。
― うたさんは一度結婚して離婚しています。でもその相手との間に子どもはいません。その後、再婚したという記録もありません。誰がその4人の子どもたちの男親だったんですか?
「高木契壱という人だったと聞いています。高木さんという人は後に、資生堂の社長か重役になった人ですから、調べればおわかりになると思います」

梅村うたは、日本で結婚しないまま高木の子(一男三女)を儲け、高木と共にアメリカに渡るも別れることになる。帰国後、子どもを友人や知人に預け、単身満州に渡り里見と知り合うことになる。

*里見甫の最初の妻 相馬ウメ (左)
*里見の満州時代の「秘書」 梅村うた (中)
*里見の“片腕”となった「男装の麗人」 梅村淳 (右)
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◆戦後、里見に憧れて自分のほうから近づいていったガブリエル中森

戦前から戦中、そして戦後にいたる里見の広く深い人脈を網羅した“芳名帳”の顔ぶれのなかで、まだ接触していない人物がひとりだけいた。中森芳明と書かれたその人物は、ガブリエル中森のペンネームで時折、週刊誌などに軍事問題などに関するコメントを寄せていた。

里見とガブリエル氏の関係は、東京新聞の「話の肖像画」というインタビュー記事(1999年9月16日付け)のなかで、ガブリエル氏本人が語っている。ガブリエル氏は(国際問題に関わるようになるきっかけとしては)どういう人の弟子になったんですか、という記者の質問に、次のように答えている。

<ひとりは里見甫。当事「民間特務機関財閥三人男」と呼ばれた人がいて、一番が里見甫、二番目が坂田誠盛、三番目が児玉誉士夫。三人とも上海の民間特務機関で財閥になった男です。里見は里見機関の機関長で東條内閣のときの隠し資金をつくった>

ガブリエル氏がほとんど誰からももともに相手にされなかったのは、おそらく、東西冷戦構造に支配された戦後世界をすべて謀略史観で解釈しようとする陰影のなさと、粗雑な思考ゆえだった。

◆現在の貨幣価値に直すと30兆円

里見とペルシャ産アヘンの関係については、戦後の東京国際軍事裁判で、里見自身が驚くほど正直に告白している。里見はそのなかで、安済善堂の手取りマージンはアヘン取引額の8パーセントだったことを明かしている。

安済善堂がペルシャ阿片であげた2000ドルという金額は、当事の為替レートで換算し、現在の貨幣価値に直すと30兆円近くにのぼる。

*A級戦犯として東京裁判に出廷した里見甫
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◆東京裁判の審理が、阿片戦争までさかのぼって審理されたら・・・

「阿片はアングロサクソンの代わりにわしがやっとるんだ」という里見の台詞は、東條英機が東京裁判の尋問が終わったとき、弁護人の清瀬一郎に語ったといわれる心境を想起させる。東條は清瀬に、「もし希望を言うことが許されるならば、この裁判は昭和3年来の事柄に限って審理しているが、阿片戦争までさかのぼって審理されたら、この戦争の原因結果がよくわかると思う」と述べたという。

◆満州に翻る日の丸国旗

元陸軍中将の池田純久が書いた『陸軍葬儀委員会』(日本出版協同・昭和28年3月)。池田は、謀略と宣撫工作部門を所管した関東軍第四課嘱託時代の里見と一緒に机を並べた男である。

<(満州)事変当事日本で喰いつめた一旗組が、中国の奥地に流れ込んで、阿片の密売に従事しているものが多かった。彼等は治外法権を楯に日の丸国旗を掲げて公然と阿片を売っているのである。

だから中国人の内には、日の丸の旗を見てこれが阿片の商標だと間違えているものが少なくなかった。時々日本の国旗陵辱事件が起り外交問題に発展する ことがあったが、よく調べると中国人はそれを国旗とは知らず、阿片の商標だと思っていたという。全く笑い話のような滑稽談さえあった。

戦前に或る日本の名士が中国奥地を旅行した。車窓から山間の寒村に日の丸が翻っているのを見て「日本の国威がかくも支那の奥地に及んでいるのか」と随喜の涙を流したという話がある。何ぞ知らんそれが阿片の商標であることを知ったら彼は何といって涙を流したデあろうか。

兎に角、日本人の阿片密売者は中国人から蛇蝎の如く恐れられていた>

◆「大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん」 「其の逝く処を知らず」

里見とともに満州国建国を裏側で策謀した甘粕正彦は、ソ連の満州侵攻の報を聞いて、「大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん」という辞世の句を残して青酸カリ自殺を遂げた。それは潔い自己処罰というより、ある意味、きわめて身勝手な自己清算だった。

Sano02_2 里見は甘粕のような自死の道も選ばず、さりとて岸や児玉のような復活も願わず、「戦後」を拒否して沈黙を守ったまま、それから20年もの長い「余生」を生きなければならなかった。里見の戦後の経済生活は、人もうらやむ上海での大尽生活とは比べ物にならなかった。里見は再婚相手の湯村治子の部屋に転がりこんだ。再婚後は、三部屋しかない借家に住み、家計はもっぱら治子夫人の端唄の出稽古代で支えられた。(*右画像は晩年に生れた長男と)

夫人は生前、私の取材に対し、こんな証言をしている。

「よく見ず知らずのところから、新聞紙に包まれた現金が送られてきました。でも里見はそれには指一本ふれず、目の前を素通りするだけでした。私なんか、少しぐらいいただいてもいいのに、と思いましたけどね(笑)。里見は、よく『児玉(誉士夫)くんや笹川(良一)くんはいかんなあ。オレはあんなみっともないことはできんよ』と言っていました。

里見の葬儀から一週間ほどした頃、税務署が税金の取り立てに来たことがあります。でも家には払うお金がなかったので、家財道具にベタベタ赤紙を貼られたときは悔しかったですね。私の商売道具の三味線もろくに買えなかった時代もありました」

*「其の逝く処を知らず」と記された里見甫の墓
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著者

Sano 佐野 眞一(さの しんいち、1947年1月29日 - )は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家。

東京都出身。都立墨田川高校、早稲田大学第二文学部卒業後、勁文社の編集者となる。組合問題で同社を退社してからは、業界紙記者を経てフリーのノンフィクション作家となり精力的に作品を発表している。1997年、「旅する巨人─宮本常一と渋沢敬三」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。

 

 

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*学生時代の里見甫(左端)
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