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2008年10月25日 (土)

057-060『ゴヤ(全四巻)』 堀田善衛 初版1974-77年

Yo lo vi. (私がそれを見た)

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おれはまだ学ぶぞ。 フランシスコ・ゴヤ

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概要

ゴヤの生きた時代との関連におけるゴヤの評伝。

夏は灼熱に喘ぎ、冬は寒風吹きすさぶ不毛の土地に、庶民の子として生まれたフランシスコ・デ・ゴヤ。やがて、スペイン王家の首席宮延画家となり、絵師として栄達の頂点を極めるが…近代絵画の先覚者ゴヤの、苦悩にみちた複雑な82年の生涯をえがく評伝。大仏次郎賞・ロータス賞受賞《全4巻》。

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読むきっかけ&目的&感想

ちょっと前に映画『宮廷画家ゴヤは見た』を見たんだけど、ゴヤの生きた18世紀終盤から19世紀前半のスペインに俄然興味が湧いてきてしまった。ゴヤが絵を描くモチベーションの変化が読み取れればいいなぁ・・・なんて思いながら読んだ。

さくら好み ★★★★☆

18世紀のヨーロッパにおいて主流になっていた啓蒙思想の影響を殆ど受けず、内面的に「中世人」から「近代人」へと転換する兆しさえない遅れてしまった国スペイン。産業社会の形成も他のヨーロッパの国々よりも2世紀ほど遅れてしまっていた国スペイン。そんな精神的条件も物質的条件も遅れた状態で、革命が起こり人権宣言をしたフランスに誕生したナポレオン独裁政権軍に侵攻され、産業革命の起こっているイギリスの進軍を受ける、という様な外圧による社会変化を促されても、上手く時代の要請に応えていけるはずもなく、スペインは混乱の極みを晒す。

そんな中でゴヤは、今でいうジャーナリズムの根源的な意味での精神でもって観察し、自分が見た無名の人々の身に起こった事を描いていく。絵といえば「肖像画」や「宗教画」だったこの時代にあって、それがどれだけ「進んだ事」だったか・・・。平均寿命35歳の当事にあって82歳まで生き、最後まで精力的に絵を描き続けた画家ゴヤが見たモノが、社会背景を踏まえながら客観的に書かれた本だった。

年代順ではないため、時代背景をその都度思い出しながら読む必要があり、ざっとしか歴史を知らないあたしには読み難かった。それもあって、あたしはとても早読みなんだけど(というか、理解できなくても読み進めちゃうから早いだけ)、読むのにそれなりに時間が掛かってしまった。

けど、ゴヤとゴヤの時代は、ホントに面白かった!! 映画『宮廷画家ゴヤは見た』で疑問だった色々にも納得できるようになったので、ホント読んでよかった。^^♪

 

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覚書

◆ゴヤの生きた年代

1746    フランシスコ・デ・ゴヤ、スペイン北東部に誕生
1774    マドリードに移住

1775 アメリカ独立戦争   1776 アメリカ独立宣言
1786    40歳で国王カルロス3世付き画家となる
1789    新王カルロス4世の宮廷画家となる

1789-94 フランス革命   フランス人権宣言
1793 フランス国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネット処刑
1794    不治の病で聴力を失う
1799    首席宮廷画家に任命される

1804 ナポレオン即位
1807 ナポレオン軍、スペインに侵攻 ホセ1世の治世 *異端審問所廃止
1808-14 半島戦争(スペイン独立戦争) 
1814-20 フェルナンド7世の絶対王政 *’14 異端審問所再設置
1820-23 ディエゴ・リエードの自由主義革命 *異端審問所廃止
1823 フランス進軍 *フェルナンド7世の絶対王政復活 *異端審問所再設置
1824    フランスへ(表向きは湯治、形としては亡命)
1828    82歳 フランスで死去

 

<一巻 スペイン・光と影 初版1974年>

◆内側からの力が歴史を形成しないスペイン

何かが起こるようでいて、たしかに何かが起って、しかもなお結果としては、あたかも何事も起らなかったかのような結果になるのは、スペイン史の謎とでも言うべきものであろう。と先に、まことに曖昧かつ意味不明のようなことを書いたのは、地理的、歴史的なスペインというものの位置、またスペイン内の諸地方の地理的、歴史的な意味というものを、とにもかくにも一応要約しようとした、筆者の側の、いわば苦しまぎれというものであった。

たとえば、つい近頃のことに一つ例をとるとして、スペインは、たとえ内戦中の短時日にすぎぬとはいえ、世界史のなかで無政府主義者、それもバクーニン系のアナーキストが政府閣僚として政府に招じ入れられた唯一の国であるが、いったいそこまでのことをやっておいて、一閃光ででもあったかのように、それがほんのそのときだけに限られ、いかなる意味においても持続をしない、すなわち、歴史を形成しないのである。

本当にスペイン史の勉強をしていると、いったいこの国に独自な、内在する歴史というものがあるのだろうか、と疑いたくなって来ることがある。

◆ゴヤは“貧しい生まれ”か?

父はホセ・ゴヤ、母はドーニヤ・グラシア・ルシエンテスと呼ばれた。父のホセ・ゴヤの職業は鍍金師で、祖父は公証人であった。祖父が公証人であり、父が鍍金師であるということは、ゴヤ自身が、貧しい生れであるということにはならないであろう。

ここで問題になるのは、サラゴーサでの鍍金師という、当事での世渡り、職業としては決して卑賤なものではない仕事に従事していた父が、なぜいったい、たとえ一時的にもせよ、フエンデトードス村などという寒村へひっこんだものであったか、ということである。

ともあれ、こういうややこしい戸籍調べのようなことに首を突っ込んだのは、多くの伝記作者が、ことさらにゴヤの生まれを貧しいものにしたがり、そこから後年のゴヤの、まったく我武者羅と言うべきか、なりふりかまわずと言うべきか、ともかく無理無体に上流階級ぶろうとする、成り上がり者根性のふんぷんたる俗っぽさ加減を説明しようとするからである。

鍍金師は誇り高い職業である。客筋は主として教会、修道院、異端審問所、官庁、貴族などであった筈である。さればこそ氏素性のはっきりした下級貴族の家から持参金つきの嫁をもらうことも出来たのである。

◆“遅れた”状態にあったスペイン

ゴヤは1746年にこの村で生れ、1753年にはもう両親ともどもサラゴーサへ引き揚げている。将来の画家は、5人兄弟姉妹のうちの次男で、六つ年下の末弟カミーロは、後に聖職につき、マドリードにほど近いチンチョンという町の司祭になる。

厳格な長子世襲制度が実行されていたスペインでは、次男坊や三男坊は、坊主になるか、兵隊になるか、街頭に物乞いするか、それとも植民地へ出て行くしか、生きる方法がなかった。産業社会の形成が、ヨーロッパの他の国々に比べて二世紀も遅れていた。

18世紀の末、1787年―フランスの革命はもう目の前に迫っている―のスペインでは、なお17の都市と2358の町、それに8818の村が領主支配の下にあり、三つの都市、402の町、1280の村が、各種の教団の支配下にあったものであった。領主も聖職者も、また支配下の人民たちもまた同様に、ピレネー山脈の向こうから密輸されて来る新しいものはすべて嫌いであり、これでは産業が発展するわけがなかった。

この国は、歴史を通じて、どうにも近代化、資本主義形成へと他のヨーロッパ諸国がとりえた道を歩むことが出来なかった。そうして逆説的に言えば、そうした“遅れた”状態、たとえば異端審問に象徴される、近代の眼から見てまことに理不尽なことのまかり通るところの、中世がいつまでも生き続けている社会において、人間のやらかすこと、すること為すことについての透徹した認識を、ついに持たされた芸術家が誕生しえたのであった。たとえ、方法的にはほとんど無意識に近かったとはいえ、上は王侯貴族、枢機卿から、下は乞食や、ラ・ブリュイエールの言い方によれば「野生の動物」である百姓までが描き切られた。

◆ゴヤの書簡が公開されない理由
(↓1974年、今→2008年はどうなのかな~~???)

ゴヤの書簡はかなり多数にのぼっているのであるが、その全体はいまだに公表されていない。もしこれが全部公表されたとすれば、多くの伝記は訂正されざるをえなくなるであろう・・・・・。

非公開、あるいは未公開の理由はいろいろあるであろう。がしかし、主たる理由は、おそらく貴族制度が現存してい、かつ教会がいまだに、事実上政権と密接な関係をもっていることとの、この二つに求められるものであろう。伝統に深く根差して爵位なるものに一族の存在理由を見出している連中にとって、先祖の具合のわるい所業や批評がしるされているかもしれず、しかも宮廷と貴族社会の事情にだけは深く通じていた自由人の内輪の書簡などが公表されてはならないのであった。

◆「私はそれを見た」(Yo lo vi.)

ゴヤは1828年、82歳で彼自身の死を迎えるまでに、約11点の自画像を描くのであるが、それらは、まことにその時期時期の彼自身の在り方、内面も外面もを表現し切っていると言ってよいものである。

彼の眼が見ているものは、われわれ自身であり、かつ彼自身でもある。肖像画における眼は、つねに二つ、あるいは三つのものを見ている。その眼は、まず第一に画家それ自体を見ている。ついで絵の鑑賞者自体を見ている。さらに、モデルがモデル自体を見ている。

彼がこれから生きていく人生と世界は容易なものではない。世間も、たとえば宮廷といえども、バロック風でもロココ風でもありえないであろう。醜い、残酷な人間の世界なのである。「私はそれを見た」(Yo lo vi.)として見て行かなければならぬ・・・・・。

版画集『戦争の惨禍』 no44 私がそれを見た44_yo_lo_vi_2

 

<二巻 マドリード・砂漠と緑 初版1975年>

◆ゴヤの時代の異端審問所

ゴヤの時代の異端審問所は、すでに昔日の面目を失っていた。いちじるしくその力は弱まって来ていたのである。官房長官が痛烈に批判的な審問所史を書くほどである。しかし死刑はなかったものの、審問の件数はかなりのものにのぼっていた。人々はつねに怯えていなければならなかった。高位高官といえども大審問官は容赦しなかった。

◆罪状「地球がまわっている」

鉄槌は彼の友人で、ホベリャーノス同様に大知識人であると同時に財政家でもあったパブロ・ホセ・デ・オラビーデに対して振りおろされた。この人は、セビリーヤ近辺のシエーラ・モレナ山脈中に政府出資の模範農場をつくって、スイスとドイツから農民を呼び、それによってスペイン農業の向上に貢献しようとした人であった。彼は理想に燃えていた。

このオラビーテが断罪されたときの罪状は、「ミサをないがしろにし、証人の前で、地球はまわっている、と確言した。」というものである。コペルニクスが死んでから二世紀半、ジョルダーノ・ブルーノが死んでからでも、もう二世紀近い。

マドリードの最高異端審問所へ出頭を命じられてセビリーアを発ったときに、「たとえ無罪が立証されても一生汚名をきせられて暮らさねばならぬことが心配だ」と語っているが、種々審問の末の判決は怖ろしいものであった。

◆最高異端審問所の「警告」

この判決に際して、約70人の貴顕紳士が呼び集められた。そうしてこのうち60人が審問所の内偵をうけていた。そのなかに言うまでもなくフロリダブランカ伯爵もが含まれ、メキシコ戦争の英雄リカルド将軍、カスティーリア評議会議長のカンポマネス伯爵、大知識人ホベリャーノスなどの姿もあった。要するにこの呼集は警告であった。彼らの地位が高すぎて審問所といえども手をつけることが出来なかったからである。

◆「被告は完全に異端である」

オラビーデ氏は、例のおぞましいとんがり帽子をかぶせられ、上半身には罪状を書かれた黄色い紙の胴衣を着せられて、裸足、手には、火のついていない緑色のローソクをもたされている。特旨をもって首に藤製の綱をまくことだけは免ぜられた(被告が女性の場合は、この上に乳房を露出させられた)

判決文の朗読に三時間かかった。・・・・・被告は完全に異端である。・・・・・全財産没収、競売処分。・・・・・禁止事項、馬に乗ること、剣を携えること、絹あるいはラシャの下着・服を着ること、宝石、金、銀、真珠等の貴金属をつけること。・・・・・五代後までの子孫は公職、聖職につくこと禁止。・・・・・8年間の拘禁処分。

判決朗読がおわると、被告はその判決文に署名をさせられ、ここで緑色のローソクに火をつけられ、このローソク火の明りで牢獄の階段を下って行く。

◆パリに亡命

オビラーテ氏はマドリードからバレンシア付近の田舎の牢獄に移送され、そこから脱獄をしてフランスに逃げ、パリで平穏に生きていたものであった。彼はフランス派として、啓蒙派としてパリの革命的知識人とまじわり、幸福であった。自由、平等、博愛・・・・・。

しかしその幸福は長くつづかない。スペインで夢見ていたフランス革命は美しいものでありえたであろう。けれども、やがて革命そのものが血のなかに溺れて行ってしまうのである。スペインにいたあいだに、彼が次々と翻訳をして、それが訴因にもなったヴォルテールルソーディドロのフランスではなかったのである。マラであり、ロベスピエールであり、ダントン・・・・・ギヨチンであり、恐慌時代(テルール)である。嫌疑は彼自身に及び、逮捕されてギヨチンの間近まで連れて行かれたが、タリエンという男に救われた。

裏切られた哲学

オラビーテ氏はギヨチンのすぐそばまで連れて行かれ、スイスに逃れて『裏切られた哲学』という小冊子を書いた。この“哲学”という言葉を、革命と言い直したとしても同じことである。「裏切られた革命」―どこかで見たことのあることばである。この著作のせいでスペインに帰国を許され、財産も一部返還された。

1802年に彼は死ぬのであるが、もしもう10年か15年生きていたとしたら、スペインの政治的大混乱と戦乱に巻き込まれて、三たび、果たしてどういうことになったか。フランスもスペインも、まだまだ二転も三転もしなければならぬ。人々はその度に転がりながらでも生きて行かなければならぬ。

◆大知識人兼法曹家兼財政家兼外交官たちの肖像画を描くゴヤ

革命は人を罰するについて異端審問所よりも一層残酷であった。革命が血のなかに溺れて行って、その血のなかからナポレオンという独裁者があらわれ、何を革命したのだったかわからなくなる。しかもこのナポレオンの影が色濃くスペインにおちかかって来、さらに軍隊が侵入してきた来たとき、スペインの知識人たち―彼らは同時に政治家であり、法律家であり、財政家である―の運命がいかなることになるか。

ゴヤは彼らのほとんど全部の肖像画を描きながら、つぶさに、わが身にこたえて観察し、苦悩し、しかも彼は宮廷画家として生きて行かなければならぬ。人生に素通りは許されない。

前記オラビーデ氏だけは、その人生の転変があまりに激しかったために、ゴヤのカンバスの前に立つことがなかったが、その他の大知識人兼法曹家兼財政家兼外交官たちは、ほとんど例外なくゴヤのアトリエを訪れている。たとえ画料はそう高くなくても、ゴヤもまた喜んでそういう人々を迎えていたと思われる。

◆モデルたちから学んだ判断力 ~観察者としての眼を培う

モデルとして静座、あるいは静止しているあいだに、彼らがどういう会話をしたか。仕事が終って、他の著名な知識人をもまじえての議論は、どういう主題のものであったか。当面の政治情勢の分析にも、多くの時間がさかれたものであったろう。

ゴヤが多くのことを学んだことだけはたしかである。彼は40代に入ってはじめて知的社会層とでも言うべき人々のなかに受け入れられたのである。彼が肝に銘じて、おそらくは無意識に学んだものは、政治的危機に際しての、それを語ってくれた友人たちよりももっと深いところでの、判断力であったであろうと思われる。やむにやまれぬ時を除いて、何をしてよく、何をしてはいけないか。彼は政治家ではない。

政治家たちは、政治家であるが故に、政治的危機に際して判断を誤らねばならぬ。それが政治家の行動というものであり、宿命である。

歴史は、ゴヤの深いところでの判断力にのりうつるようにして宿り、そこからの光源を彼の仕事に与えてくれるであろう。

◆伝統的にほとんどの人々が手話法を知っていたスペイン

ゴヤが働きざかりの47歳(1794年)にして聾者となったという不幸に際して、一つの不幸中の幸は、彼がスペイン人であったということである。というのは、スペインでは長く若い女性が付き添いなしで外出することや男性と二人だけで話すことを許されていなかったので、恋人たちのうち男の方は、たそがれ時に女の家のバルコンの下に立ち、聾者そっくりの手話法を用いて愛を語ったものであった。

大抵の国では、手話法は聾者同士のあいだでしか通じない。あるいは手話法を学んだ家族か通訳にしか通じないのである。けれどもスペインでは、特に18世紀、19世紀には如上のような事情があって、伝統的にほとんどの人々が手話法を知っていた。だから、コミュニケーションに関しては、スペインの聾者は他の国々の聾者よりは比較的に恵まれていたと言えるであろう。

しかしゴヤもまたこの手話法を学び直さねばならない。

◆爆弾的な無署名の文書「擁護論」という名の弾劾文

『カルロス4世治下のスペインの光輝ある状態についての擁護論』、別には『パンと闘牛』と呼ばれていた。この「擁護論」は、しかし、擁護論とは名のみで、実はスペインのありとあらゆる事象事態に対する、徹底的な弾劾文であった。当事としてのもっとも革命的なパンフレットであり、1807年のフランス軍の侵入の時まで、各地で写本をされて広く知識階級の間に読まれていた。

生真面目な英国人や変わり身の早いフランス人たちは、日も夜も彼らの不逞な研究や危険な政治的競り合いに費やしている。彼らは何ヶ月も議論をしてからはじめて一つの法を立法する。無頓着なスペイン人たちは、お気に入りの呑気さ加減と気晴らしの見世物を見ているようなつもりで日を過す。しかもいささかの反論もなしで千もの法律が制定されていることに突如として気付く。

前者(英仏人)は、彼らの宮殿を一個のオムレツでさえが堅いものと思われるほどにまで洗練をした。しかるに後者(スペイン人)は、アザミをさえ痛いとも何とも思わずに呑み下すほどのところまで来ている。

前者は、密を盗まれるときの怒れる蜜蜂のようなものである。しかる後者は打ち倒され食い潰されるのを辛抱強く待っている羊だ。

前者は、豊かさと繁栄を飽くまでも求めている、商売稼業の奴隷だ。後者は、貧しさと誅求にどっぷりつかって何の懸念もなしにつまらぬたのしみ事と暇さ加減に身を任せている。

前者は、自由に酔い、抑圧の鎖のどんな小さな一環でも耐え難く思う。後者は、自由とは何かを知りもせずに奴隷の鎖をひきずっている。

前者では貴族とは稀にしかいない人のことを言うのだが、われわれのところでは、貴族どもは玉ネギかニラネギのように列をつくって押しくら饅頭だ。

おお、幸福なるスペインよ、幸福の国よ! 世界の他のあらゆる国々からかくもかけ離れたる国よ!この栄光と成功の道を辿りつづけよ、汝があるがままのもの、すなわち永遠の盲信の最前線でありつづけよ。心やましい外国人の言葉などに意を留むるなかれ。革命的諸理念には軽蔑をもってせよ、思考の自由を禁止せよ、“聖なる机”(教会)によって承認されざる書物を禁止せよ。かくて平安の裡に眠れ、君を嘲笑う者の囁きを快き子守唄として。

◆過誤と悪徳に対する批判は絵画の主題にもなりうる

ゴヤはおそらく1793、4年の恢復期の頃から『気まぐれ』(銅版画集)の用意をはじめたものと推定される。男女交際や、女の浅墓さ加減、結婚などについての風刺や、教会、医師、貴族、国家社会の指導者(ゴドイ)などについての、今日でもその「普遍」性を失うことのまったくない、その「言語」は、集中的にばらしてあるものをテーマ別につなぎあわせてみると、劇的な連続性をもって強く人に迫り、人々をしておそらくはモデル詮索をさせる可能性を充分にもっていた。

1799年2月6日付の『マドリード日報』という新聞に、広告、というよりは公告がのった。その文章はホベリャーノスの手になるものとも、ベルムーデスのそれとも言われている。彼らがあらかじめゴヤの相談に乗っていたことは明らかである。

過誤と悪徳に対する批判は、主として修辞学と詩の機能に属するものであるが、絵画の主題にもなりうるものであることを確信し、画家はあらゆる社会に共通する狂態と愚行、また習慣によって容認されている偏見や欺瞞、無智、利害などのうちから、映像として忌憚なく、かつ人をして激発せしむるものを選んだのである。

まことに堂々たる宣言である。

フランス革命前後(1789-94年)のこの時代は、全ヨーロッパ的に、いわばパンフレットの時代であった。東のロシアからフランスは言うまでもなく、イギリス、ドイツ、スペインも例外ではなかった。政治、宗教批判、人身攻撃、誹謗等はしばしばこの種の風刺、檄文作者たちの手によって行われた。印刷が出来ない場合には、生原稿が次から次へと書写されて行った。そうして版画はその中でも鋭利な武器の一つであった。

◆生きている限りは無限に相対的

たとえゴヤが前記と同じ広告文のなかで、「この作品集中に描かれた主題のほとんど全部は、純粋に虚構のものである故に、過度に敏感な人々は(自己の判断の)誤りについて寛大であるべきである」と断り書きを書いたとしても、それを素直に信ずるほどに民衆は甘くはない。

『気まぐれ』に描かれた社会の「過誤と悪徳」、「狂態と愚行」、「偏見と欺瞞」、「無智と利害」―しかしゴヤは道学者ぶって、一方的に自分の方から酷評を加えているのではない。彼自身、アラゴンの曠野から攻めのぼって現在の地位―ゴヤは1786年宮廷画家に、1799年10月31日首席宮廷画家に任命せられる―画家として位人臣を窮めるにいたるまで、いったいどれほどの策略や狂態、愚行、偏見、欺瞞等々を働き、何人の人間の足をひっぱったことか。振りかえってみれば、カッコのなかの対話はすべて自分自身とのものである。

生きている限りは無限に相対的であって、絶対的なものが排された“近代”への入口にあって「社会」は、カルロス4世とマリア・ルイーサの王室と異端審問所に代表される古い中世的なとまで言うべき上層部と、社会生活の物質的条件からしても変革を必至とするにも拘らず、スペインは歴史的時間の惰性にその歴史をゆだねている。

『気まぐれ』 43 理性の眠りは妖怪を生む43_2

世にしたがえば 身くるし 

したがはねば狂せるに似たり

いづれの所を占めて

いかなるわざをしてか

しばしもこの身を宿し

たまゆらも心を休むべき

~ 鴨長明 『方丈記』 ~


   

 

 

 

 

◆2月に『気まぐれ』発売 10月に首席宮廷画家に任命

1799年12月31日、アランホエース離宮において首席宮廷画家の任命式があった。年俸5万レアール(約1万2500ドル)と相当額の支度費つきである。宮廷画家に任命されて10年目である。この人の運命、あるいは機会は、つねに二重性をもって彼に訪れて来る。開明派、フランス派ともっとも近くなり、もっとも痛烈にスペインそのものについて批判的になったときに、その腐敗と堕落の根源であり、核心である宮廷の、その首席画家に任命される。

異端審問所は、しかし、それでも追及をやめなかったようである。そうしてマドリード市中には、『気まぐれ』の一つ一つについてのモデル詮索がずっとつづいていたようでもある。

1803年7月7日、ゴヤは宮中の式部長官ミゲール・ソレール氏に手紙を書く。

 閣下、
 小生の作品『気まぐれ』は、わが手によって銅版に刻されて刷られたる80枚の版画よりなるものに候。公に販売されたること二日間のみにて、27部頒布されしものに候。(銅版より)5千ないし6千部刷りうるものに候。
 諸外国人においてはこれを入手せんものとの熱意きわめて高きものあり、小生死後にこれが外国人の手に落つることを恐れ、拙者儀、これを王立銅版工場のために、わが主、王に捧献したしたく存じ候。

二日間しか売ってない、まだまだ5千部も6千部も刷れるのだが、王よ、これをあなたにさしあげる・・・・・。その理由がまた振るっているであろう、外国人が、とは・・・・・。

捧献は受け入れられた。

◆芸術家に政治的中立があるうるか?

時代の一大転換にあたって、王様が三度も入れ替る事態にあって安閑としていられたわけではなかった。がしかし、首席宮廷画家という称号は、いわばパスポート、安全通行証のような役割を果たすことになった。事実、ナポレオン軍に対しての独立戦争中にも、彼はこの安全通行証を手にしてナポレオン軍の軍営を通過してスペイン・ゲリーリャ軍地帯へ入ったり、またその逆を行ったりもしているのである。芸術家に政治的中立性がありうるか?

この問いに、精確な答えはありえない。

そうしてゴヤは、最終的には1826年に80歳の高齢にもかかわらず半亡命のかたちでボルドーへ脱出せざるをえなかったものの、彼は結局4代の王、カルロス3世カルロス4世ホセ1世(ジョセフ・ボナパルト)フェルナンド7世の4人の王に画家として仕えるわけである。

 

<三巻 巨人の影に 初版1976年>

◆着衣のマハ・裸のマハ(1803-06年)

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時代は決してこのようなむき出しのエロティズムを要求してなどいなかった。むしろ徹底してそれを禁圧していた。特にスペインにおいては、まだまだ異端審問所が健在であった。その力は弱まっていたとは言え、芸術家をいじめることくらいは朝飯前であった。

だから、こういう徹底してのエロティシズムを描き切るためには、それを描く芸術家の側において、たしかな安全保障がなされていなければならない。絵柄は、それほどにも当事としても現在でも大胆不敵、あるいは不謹慎千万なものである。二枚ともに、全体の雰囲気は、否定しがたく猥藝である。

この横長な(95cm x 190cm)、ほとんど両者同寸の絵は、一対として、二枚重ねて開き扉かカーテンの下の壁か、キャビネットのなかに納められていたもののようである。開き扉、あるいはカーテンを引きあけると、まず着衣のマハが出て来る。ついで、絵の傍のボタン、あるいは何等かのハンドル様のものを操作すると、絵は交替して、今度は裸のマハがあらわれる。そういう仕掛けになっていたと推定される。オスーナ公爵家のアラメーダの別邸に、これと同じ仕掛け絵があったことが確認されている。

従ってこの二枚の絵を、注文主以外で見せてもらえる人は、特権的な、あるいは特別な内輪の人、ということが考えられて来る。

第一は、この絵と特殊装置のそなえつけられた邸館そのものに入れてもらえる人、第二にその部屋へ入れてもらえるほどの人、第三には、開き扉、あるいはカーテンを引きあけて着衣のそれを見せてもらえる人、そうして最後に、裸のそれを窮極的に開帳してもらえる人、である。

見る人、いや、見せてもらえる人についてさえこれだけの段階が想定されるとすれば、注文主のスペイン社会内における地位は、ほとんど最高のそれでなければならない。加えて、これだけのものを注文するとなれば、注文主自体、相当以上の好き者でなければならぬことにもなる。

またその上で、こういう“艶画”についての噂がたとえ巷に流れたとしても、異端審問所から本人自身と、画家の双方を守り切れる人でなければならない。

当事において、そういう安全保障を与え、かつ自任しうるほどに強力無比な権力者とは誰であろうか。それは言うまでもなく青年宰相にして、同時に、上は王妃から下は総理大臣私室に寵を求めてくる庶民の娘にいたるまでを相手にしうる、好色にして精力にみちたマヌエル・ゴドイその人以外にはありえないであろう。

◆ゴヤはゴヤ自身のなかへそっと身を引いて行く

1807年12月にナポレオンが入城して来、ホセ1世の治世がはじまり、モランティンやリョレンテ氏などのフランス派の彼の友人たちが生き生きとして仕事をはじめた。これらのリベラリストたちの思想と活動は、おそらく画家に大きく働きかけたであろう。彼らがフランス人の王の下でなしとげようとしている祖国の改革、その夢と希望もまた彼に深甚な印象を残した筈である。

しかし彼が宮廷画家としてこれまでに見て来た政治は、それはまさに流砂そのものであった。親仏派の友人たちの活動もが、ひょっとして彼の眼に、性懲りもなく、というふうに見えていたとしても不思議はないであろう。彼らのほとんどがみな一度や二度はゴドイやフロリダブランカ伯爵の手によって投獄されていたからである。

そうして一般民衆はスペイン人には親身なものである宿命論によって、次第に諦めて行く。宿命論は、暗黙の同意と服従を呼び戻す。

けれども、この暗黙のくらやみのなかには、1808年5月の2日のあの蜂起の記憶が埋み火のようにして埋め込まれているのであり、またゴヤにあっては、近頃彼自身が目撃をして来たサラゴーサの廃墟の景観もが埋め込まれている。

いつこの埋み火がめらめらと燃え上がるか。それは誰も知らない。
彼は彼自身のなかへそっと身を引いて行く。
彼自身とは何か。
丁度よい機会に、生れのフェンデトードス村へも行って来た。
フェンデトードス村とは何か。
激しい労働と飢餓である。

厳しい気候の下での、アラゴンのごろた石だらけの野ッ原や灰色の丘陵での百姓の辛さは、彼が見に滲みて知っているものである。そうして、その実り少ない労働と飢餓のスペインこそが彼がこれまで拒否をして来たものである。

◆呪縛が解かれゴヤが「ゴヤ自身」となる しかし・・・

ここにまた一つの大いなる転機が来ているのである。

ゴヤはマドリードの巷を歩き、人々の日常生活情景をアトリエへ持ち帰る。それは誰のための仕事でもない、主題そのものが彼に自由を与え、自らを解放するために貸してくれるであろう。そうして、解放された彼自身と彼の手は、やがて従来とは別種の、大いなる世界を現前させて行くであろう。

王室と貴族社会の呪縛は、ここにほとんど解き放たれる。異端審問所もなくなった。(皇帝ナポレオンがスペインに雪崩れ込んで来て、様々な布告や命令を下した。異端審問所も廃止した。)

しかし、如何に彼が彼自身となり、呪縛は解かれたといっても、彼がいまだに公式の画家であることに変りはない。首席宮廷画家などという異な衣装は、彼自身の中ではもう脱いでしまっているのであるが、世間はそうはさせてくれないのである。

◆「時代の証言者としての芸術家」が全的に成立

戦争という、最大規模での人間狂気の快出にあたって、従って版画集『戦争の惨禍』を構成するについて、ゴヤは並の作家以上の、細心の配慮と根廻しをしてかかっている。これが公表されるという見通しがほとんどなかったにも拘らず、である。

先の版画集『気まぐれ』にあれほど頻繁にあらわれていた聖職者批判が、今回の『戦争の惨禍』においてはここにはじめて、しかも一層強烈な、現実の目撃証拠として描き出される。聖職者といえどもいのちが惜しいことに変りはないであろうが、そのあまりな周章狼狽振りが癇にさわったものであろう。

なおこの第五群中の42434445番の4枚は、おそらくフェンデトードス村への帰郷中に敵軍の接近を伝え聞いた村人たちの避難を「私がこれを見た」(44番)、「これもまた」(45番)として描き出したもののようである。

この「私がこれを見た」という詞書は、この版画集全体の副題であってもよく、またこの画家、ゴヤの全生涯のそれであってもふさわしいものである。

時代の証言者としての芸術家、という存在のあり様は、ここに全的に成立しているのである。(*彼の生きた時代との関連における伝記として最初のものであるアントニナ・バレンティン氏の著作の英訳本は“Goya,This I saw”という標題をもっている。)

◆「無名の群集」を意識的に画面に登場させた最初の人

『5月2日』の場合に、加害者であるのは、無名の群集(マス)であり、マドリードのプロレタリアートであった。個々の顔が描き分けられてはいるものの、本質的には顔のない群衆である。そうして被害者は、皇帝の軍隊であった。

ゴヤはおそらく絵画の歴史のなかで、無名の群集を意識的に画面に登場させた、ほとんど最初の人であった。

フランス革命以後の現代史は―現代史と呼ぶのが気に入らぬ向きには近世史と言い換えてもいいが―、無名の、顔のない群衆が、歴史の舞台の中央に乗り出して来る時代である。群衆、民衆(マス)を無視しては如何なる政治も経済も成立しない。ゴヤは民衆不在のマドリードのヴェルサイユ風宮殿から、巷の群衆蜂起までの、その全サイクルを全的に生き、かつ描いたただ一人の画家であった。また彼一人が、この新しい社会的存在の現前とその盲目的な力を予感し、表現をしたものであった。

◆「顔のない近代組織」

しかし群衆とは果たして誰のことであろうか。ばらばらに切り離された、よく言って独立した個人としてのあなたや私は群衆ではあるまい。それは、一つの、あるいは複数の目的をもつものでなければならないであろう。しかも群衆は無定型である。

群衆に英雄は不要である。少なくともその運動の初期にあっては。

そういうまったく新しい社会的存在を描くためには、従来の如何なるアカデミックな方法や手段なども通用はしない。従来の方法は、要するに英雄を、ひたすら英雄を描くためのものでしかなかった。

5月2日の白昼にフランス軍を襲った群衆は、夕刻にはすでに群衆ではなくなっていた。ミュラ将軍は全軍を動員して、この群衆の逮捕にあたった。逮捕されたもののなかには、その場で、太陽の門広場やプラド大通りなどで、即刻処刑されてしまったものもいた。処刑され、死んで行く者は群衆ではない。死んで行く人は、個人である。人は個人にかえって、個人として個々の死を死なねばならぬ。如何にそれが大量死であったとしても。

そうしてここで、無名の、顔のないものになるのは、組織としての処刑者、フランス軍の側である。『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘における処刑』は、まさにこの顔のない近代組織―それは近代国家そのものである―が、群衆から個人に帰された人々を処刑する図である。

◆1808年『5月2日』と『5月3日』に描かれた“真実”

歴史的に見て、たとえばイタリアの美術史家ヴェントゥーリが「古代の詩がホメロスに発するように近代絵画はゴヤに始まる」と言うように、ここに描かれているものは、“5月2日”ともどもに、いわゆる“美”とは何の関係もないということについてである。それは美であるどころかむしろ醜であり、絵画でありながらも正視するに堪えない“真実”である。

つまりは、美と芸術の離婚がここに開始されているという歴史的事実が、この2枚にもっとも明白にあらわれているということでもある。そういう意味では、文学への近接が開始されていると言ってもよいであろう。

従って、それはまた美術史の折り返し地点であると同時に、ヨーロッパの人間の魂の在り様が全的に変革されてしまう、その時期の開始点でもある。ニーチェもドストエフスキーも、エミール・ゾラも、ベートーヴェンもまたこの折り返し地点以後の人間である。

それは、ヨーロッパにおいての人間が人間を見るについての不信から発したリアリズムの時代のあけぼのなのである。それはまた、絶望からの出発でもあったのだ。この銃殺隊と被処刑者たちの双方を、たとえば神の目から、双方ともをひとしなみの人間、あるいは人類そのものとして見るとするならば、われわれのこの現代なるものが、いわば自殺しながら誕生しているものであることを思い知らされるのである。

◆『5月2日』と『5月3日』が示す眼の構造の変革

ゴヤのこの二枚が、プラド美術館の調和のとれた古典作品の群れとは截然と異なり、美術館の壁に音のない爆発と揺れを与えている所以である。ヨーロッパの人間の、人間を見る眼の構造に、ある根本的な変革が訪れているその現場に、われわれはいるのである。

それまでのヨーロッパの美術・芸術なるものの在り様をここで簡単に振り返ってみるならば、事態は一層はっきりするであろう。

ヨーロッパの美術は、まず何よりもキリスト教美術として出発をしたものであった。そうしてキリスト教美術は、この宗教が含む様々な観念を象徴的に伝達する必要性から生れた。従って中世時代を通じて画工職人の仕事は、この宗教及びその周辺にある人間の諸観念、夢を描くにあり、それを人間の様々な形態を描くことによって成就して行った。そうしてルネサンス期が来て、すべては人間化され、キリスト教に加えて神話が描かれた。人間を描くことが根本的テーマとなり、そこで肖像画が誕生する。偉大な人物と、その行動が描かれ、そこに歴史画が胚胎する。偉大な人物の偉大化、歴史画は英雄を描くこととなる。

しかしもはや偉大化も英雄化も出来ない時代が来ているのである。主人公は無名の民衆であり、民衆はそれ自体偉大化や英雄化をされる必要もなければそれを要求もしない。そうしてこれを画家の側から見れば、おのれの判断、印象をじかに画布にぶっつければよいということになる。かくては主題のなかに当然、美のみならず、人間の醜悪、獣性の表現などもが入って来ることになる。

歴史画を描くにしても、描かれるべきものは画家自体の判断であり印象・感情である。

ゴヤはこの2枚によって明白にそれまでの美術史の扉を閉ざして現代絵画の扉を開け放ったのであった。それは絵画史上の革命であった。

『1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘』(1814年)180852

『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺』(1814年)Goya180852

『巨人』(1808-1812年頃) 2009/1/22追記:アセンシオ・フリオ(ゴヤの弟子)の作品かも。調査中。El_coloso_2

 

<四巻 運命・黒い絵 初版1977年>

◆1808~14年にわたる独立戦争の後にやって来たもの

歓喜に逆上し、陶酔し、泪を流し、絶叫する市民に迎えられたフェルナンド7世は、まず1814年5月4日にサラゴーサで王としての第一声を放った。それは「寛大にして中庸をえた」政治を行うであろうという約束であったが、憲法の話などはどこにもなかった。

5月4日の第一声には、古い、専制的、というよりも総督の私領的性格をもたせた地方政府の復活を宣し、5月20日と23日の勅令では、廃止されていた全修道院と女子修道院が復活することになった。

5月27日、封建的な、というよりも19世紀ヨーロッパとしてはすでに考えられもしない、立法、行政、司法のごった煮のようなカスティーリア評議会なるものが復活した。

6月23日、領主代理人による徴税制が復活し、近代的企業活動の自由がなくなった。

6月24日、聖職者は一切の納税を免除される。ということは、坊主か尼さんにさえなっていれば食いっぱぐれないがないということである。ただでさえ働くことが嫌いなのに、これでは労働者などになる莫迦はいないということになる。

7月21日の異端審問所復活が来て、ここに絶対専制政治体制が完成するのである。

言論の自由も人権宣言もへったくれもあったものではない。要するにフェルナンド7世にとっては、1808年から1814年までの、流血と苦闘の6年間はなかったも同然なのである。あるいは、カルロス4世の治世のそれなりのスペイン近代化もなかったことにして、18世紀のカルロス3世の時代、いやそれ以前のハプスブルグ王朝体制にまで戻してしまったようなものである。

◆海外植民地の独立運動! 船の無い植民地大帝国スペイン!?

国内がかかる有様であってみれば、海外植民地の独立運動は一層さかんになり、メキシコ、エクアドル、ヴェネスエラ、パラグァイ、アルゼンチン、ヌエバ・グラナーダ(後のコロンビア)などが次々と、本国に愛想をつかして独立宣言を発表しはじめる。当然の推移ではあるが、フェルナンドとしても放っておくわけにも行かない。

港町のカディスに軍隊を集結させると、今度はこの軍隊のための銃砲弾薬、兵糧などが宮中党の汚職のタネとなる。それにかてて加えて、この国には外航に耐える船がなかった。植民地大帝国に船がない!

外航に耐える船は、独立戦争(実はフランスvsイギリスの代理戦争)中に、援助のカタとしてすべて英国に接収されてしまっていたのである。その英国が、植民地弾圧に反対であったにも拘らず、船を売ってやろうかと図々しくももちかけたのであったが、フェルナンドはこれを断ってしまった。恐らく王へのリベートが少なすぎたのであろう。

そこへ神聖同盟の一員であるロシアの大使が登場して来て、革命運動や自由主義弾圧ではヨーロッパの西と東で覇を競っていた感のあるツアーと話をつけ、おどろいたことにロシアから8隻の戦艦を買うことに定まった。海洋国家スペインが、大陸国のロシアから軍艦を買う! 8隻で5440万レアールという高値であり、この取引のリベートは、王と大使と国防大臣と、王のお気に入りのお茶坊主の4人で山分けにした。

ところがこの軍艦なるもの、引き渡し期日にずっと遅れてカディスへ到着しはしたものの、外洋航海用の装備は一切なく、大西洋の波にはとても耐えられた代物ではなく、試験航海1回だけで沙汰やみとなった。なかの1隻などは荷物を積み込んだだけで、底が抜けてしまった。

◆1814~20年までのフェルナンド政権の後にやって来たもの

フェルナンドによる6年間の悪政、弾圧と迫害、全国規模の私闘と汚職の間を通じて、さもあらばあれ自由への戦いが死んでしまっていたわけではなかったのであることも、スペインの名誉のために明記しておかなければならない。

しかし、いくつもの企図が潰され、未然に潰えた。

そうして1820年1月1日、セビーリア県のカベサスで44歳のラファエル・デル・リエーゴ大佐の率いる1500名の大隊が、中国風に言うならば“起義”に成功した。リエーゴ大佐はアンダルシーア地方を行進し、いたるところで憲法を布告した。1月27日から3月11日まで起義行進に費やし、部隊も疲れはじめ補給も困難になって来たところで、この起義もまた失敗におわるかと思われたとき、反乱の火が北方に飛び、やがて全国に及んで行ったのであった。

いわゆるリエーゴの反乱である。

リエーゴ大佐の挫折寸前に、マドリードの市民が蜂起してフェルナンドに憲法への忠誠を誓わせたのである。1820年3月9日である。

この反動、弾圧、迫害、それに考えられる限りの愚政の6年間のあいだ、憲法は実にスペイン民衆希望の火であり、魔力にみちた護符のようなものでさえあった。いまや憲法が公布されたのであってみれば、あらゆる牢獄、留置所、強制収容所、異端審問所の地下牢の門がひらかれ、囚人たちが一挙に解放された。

◆待ちに待たれた自由

1820年の5月2日記念祭は、フェルナンドの帰国を迎えたときの、裏切られた昂奮とは事変り、それは真に民衆のものであったと言えるであろう。

このときの人々の歓喜と希望を、もっともあからさまに、またもっとも具体的に伝え、表現し切っているものもまた、われわれの芸術家の手になるものであった。

それはゴヤの500枚近いデッサン中のもので、専門的にはC画帳と呼ばれるもののなかにある。このC画帳は、133枚からなっていて、その内容は貧苦、宗教的愚昧、囚人の苦しみに集中している。

そのうちの代表作は、「聖なる自由」とゴヤによって詞書されているものである。

ここに一人の男が跪いている。当事のブルジョアの服装をしているが、跪いているのは、祈るためなどではない。それは空から降り注いで来る、明るい「自由」の光を身いっぱいに浴びて、身体全部で喜びを表現している。その顔の明るさは、スペインが実に長く知らなかったものである。実に長く、待ちに待たれた自由であった。

ゴヤにしても、かくまでに手放しでの喜びを表現したことはなかった。

1820年、ゴヤは74歳の老人であるが、国家社会の在り様には以前にもましてのはげしい関心を示している。

◆観察・記述・批評  ・・・・・ジャーナリスト精神!?

C画帳においてゴヤは、彼の従来の例にもまして、この時代の画家としてはありえない、つまりは造形美術の仕事に従事する人としての枠をほぼ完全に抜け出てしまっている。

私がこの章のための章題を、観察・描写・批評としないで、観察・記述・批評とした所以のものもそこにあったからである。彼は、その“観察”を、連作の形で、ほとんど文筆家における“記述”のようにして描いて行き、つまりは、描写をする、あるいは描写をするにとどまらずして、自らが描いた―記述をした―ものの意味を飽くことなく追求をするのである。

意味を求める―とは、つまり批評の入口であり、その第一歩である。それは入口であり第一歩であると同時に、批評そのものでもある。

私たちはここに、画家用のブルーズを着てパレットを持ち、高位の男女のモデルを横目で睨んでカンバスに立ち向かっている大画家を、ではなくて、仕事机の上の白紙を前にしている文筆家、そのことばのもっともオリジナルな意味でのジャーナリストを見るのである。

◆1820~23年しかもたなかったディエゴ・リエードの革命

マドリードでの状況はまことに絶望的であった。「聖なる自由よ」、「闇からの光」は、ほんのひととき、ほとんどかりそめに射し込んで来たにすぎず、「徒刑囚の政府」、自由主義者たちはセレクトに分裂して争い、そこへ守旧派、絶対王政派からの、またそれへの復讐と暗殺は日常化し、スペインはふたたび血の内戦状況におちて行っていた。

◆他人に見られないための『黒い絵』

1820年から22年にかけての3年間、彼の生活に関する情報はほとんど完全に欠如していて、その他の仕事も、ほんの3件くらいしかないのである。この間の時日を、ゴヤは、そのほとんどを、新しく得た別荘の主要な二間―階下の食堂と二階の応接間―の壁面を、全部で15枚、―まことに驚くべし、合計で33平方メートル以上―、独創ということばを持ち出すことがいささかならず気がとがめるほどの、独創的かつ創造的な作品で塗りつぶしたのであった。

1820年3月末で、彼は74歳であり、それも病後である。

職業的画家とは、他人に見せる、見てもらうために絵を描く人の謂いであるの。それが、アトリエならばともかくも、プライヴァシイそのものである自宅の食堂とサロンの壁に描くのであるから、これはもう持ち運びもならず、まして展示も不可能である。

ということは、他人様の誰にも見てもらう必要のない、つまりは先に言ったように、いわば見られないための絵画である。それは、美術のみならず、芸術一般が始原的に内臓している矛盾の極北であろう。しかも、そこに描かれるものの内容たるや・・・・・。

自身の食堂に、『わが子を喰うサトウルヌス』の血まみれな図を描くとは。それはもう狂気の沙汰である。

Saturno_devorando_a_sus_hijos

◆18世紀人ゴヤの絵を解釈するとき 最低限心得ておくこと

絵画は一つの存在であって、その存在と遭遇をした人が、そこに何を看取ることも自由であることはその通りであるけれども、それを描いた画家との関連においてこれを見る場合には、やはり画家自身の存在の条件を勘定に入れて見なければならないのである。

当事の美術作品の場合には、それが如何に近代的、現代的なテーマと内容をもつものであったとしても、そこに伝統的な図像学が必ずや、画家の肉体と合体をしたかのように守られているのである。この画家が、如何に自由に、自分自身だけのために描いたとしても、肉体と化した教養は、やはりそこにあらわに出ているのである。

図像学、観相学とほとんど同じほどに、ギリシャ・ローマの神話に彼らが相当程度に通暁していたものであることも無視出来ない。しかも、このギリシャ・ローマ神話と、占星術、あるいは占星学が深い関係をもっていて、この占星術・学が、この当事の人々の教養、常識からは考えられぬほどに大きなものであった。たとえば、われわれはすぐにもローマ神話のサトウルヌス=土星(大凶の星)とかかわりをもたなければならなくなる。

最低限のところを心得て行かないと、如何に解釈は自由とはいうものの、ひとり合点の文学的大演説を展開したりすることになりかねない。それは何もこの『黒い絵』についてだけとは限らないのであるが、とりわけてこのシリーズは、その種の誘惑と陥穽と危険に充ち満ちているのである。

◆現在見られる『黒い絵』は修復者の手が相当入ったもの

現在われわれがプラド美術館において見る『黒い絵』は、すでに1860年代の記録によっても相当に破損し、剥落もあったものを、1874年から78年にかけて壁から削り取って無理無態にカンバスの上に移されたものなのである。この当事、壁画を剥がす技術が完全なものではなかったことは言うまでもないことであり、修復者はプラド美術館での天才的修復者と言われた人ではあったが、この修復者の手が、数次にわたって、相当に入ったものなのである。

そして“家”そのものは、さまざまな人の手にわたり、19世紀末の鉄道建設に際して停車場用地とされ、壊されてしまっていまはない。その駅の名をはじめはゴヤ駅と呼んだ!

◆またしても反動・弾圧・迫害!

1823年。ルイ18世はパリで勅命を発した。彼はその前年の神聖同盟のヴェローナ会議において、自由主義革命主義者と絶対王政派守旧主義との内戦状態におちいっていたスペインに対する委任統治権を得ていたのである。その勅命に言う。「スペインの王位を保守するために、聖ルイの神の加護を祈りつつ、10万のフランス軍は進軍の用意がある」と。フランスはスペインへの干渉戦争を始める。フェルナンド7世はマドリードを去らせられてカディスに幽閉されていたのであるが、彼を救い出してマドリードの王位にもう一度つけることが、この軍の使命であった。

英国は、今回は、自由主義者たちを支援しようとしてロバート・ウィルソンなる者を指揮者として3000名の志願兵を送ったが、忽ち蹴散らかされて逃げ出した。

8月30日、フランス軍は大勝利を収め、干渉戦争はそれで終わったのである。

フランス軍の総指揮官のダングーレーム公爵は、フェルナンドがまたまた愚劣かつ残忍な弾圧と迫害を開始する―それが自由主義者たちの叛乱の原因であった―ことを恐れ、一切の政治犯を迫害しないこと、逮捕や処刑をしないことという協定をフェルナンドとマドリードで締結した。

しかし、われわれもすでに承知している通り、この王はそのような協定を守る人ではなかった。フランス軍がまだいる間から、逮捕、絞首刑、銃殺、流刑が開始された。またしても反動・弾圧・迫害である。今度は、もう法も憲法もあるものか絶対的絶対王制、である。

◆こうなれば危険は目に見えている

自由主義者にはもはや如何なる望みもないのである。異端審問官を議長とする秘密の査問委員会が設立され、次のカテゴリイに属するものは有無を言わさずに逮捕、処刑されることとなった。すなわち、

1.前新仏派
2.自由主義的言説を弄した者
3.良俗を破壊し 妾やその家族を擁した者
4.憲法に忠誠を誓った者
5.長年にわたり破壊的思想を鼓吹した者
6.逃亡中の被疑者に避難所を供した者

これは大変である。ゴヤはこの6項目の全部にいちいち該当する。第3項ではレオカーディアとその家族が該当し、第5項は版画集『気まぐれ』に相当し、もし家宅捜査をされれば版画集『戦争の惨禍』や数多のデッサン類がぞろぞろ出て来る筈である。第6項については、またまたレオカーディアとその家族が該当する。

こうなれば危険は目に見えている。「気まぐれ事件」のとき、ジョセフ退去後の粛清に際して、また2枚の「マハ」事件のときに、なんとなくいなされてしまった異端審問所や査問委員会の面々もまだまだ健在なのである。

◆“こいつらと一緒にいたくない” スペインからフランスへ

ゴヤは、1823年の9月頃から翌24年の5月頃まで、マドリードのどこかに身を隠したものと考えられる。この9ヶ月間で彼は、あらゆる方面に手をまわして、着々と用意を整えている。

そこには、おそらく宮廷画家としての公式身分から来る難問題があったと推察される。とりわけて、その当事の年俸5万レアールをどう確保するか、また宮廷画家としての体面を保持しつつ、つまりは普通の亡命者のようにただ逃げ出すのではなくて、合法的にマドリードを去るにはどうしたらよいか等のことについて心を砕いていたものであろう。

留守中の俸給の保証を願い出たのは、1824年2月19日のことであった。粛清裁判や査問が一段落した5月1日に恩赦令が出るということなども承知の上であったであろう。間髪をおかずに、5月2日、ゴヤは宮廷に対して「老躯を悩ませている病苦をやわらげるため、医師に(フランス北東部にある古代から有名な湯治場である)プロンビエールの鉱泉を飲むようにすすめられた」ことを理由に、6ヶ月の休暇を下しおかれるように、と要請をしている。

かくて、5月30日付でアランホエース宮殿からの許可証が来る。

収められたデッサンの一枚には次のような詞書がった。“Con estos no me meto.(こいつらと一緒にいたくない。)” それは、囲いのなかの無知蒙昧な乞食修道士たちの群衆であり、その詞書は、まさに彼自身の心境を物語るものであったであろう。

6月に入ってから、彼はマドリードを発って行った。

けれども、彼は前途不安な、再び帰国出来るかどうかもわからぬ亡命者として国を出るのではない。一人のブルジョアとして、財産の処理もうまくやりとげたし、宮廷画家としての公式称号はそのまま保ち、俸給も確保してあるのである。強い影響力をもった友人たちの画策のおかげがあるとしても、とにもかくにもしたたかな老人である。反動の側にも、その反対派の側にも、平素から親しい、信用の出来る友人がいなくてはかなわぬ事である。

◆マドリードを発ってパリへ!

ゴヤは病後でもあり、もはや80歳に手が届こうとしている。それでも何でも、彼はフランスへ揺られて行く。西仏国境のフランス側バイヨンヌ県の役人は、6月24日、ゴヤが国境を通過してパリへ向かった、とパリの内務省に報告をしている。鉱泉などクソくらえ、という次第である。

パリへ! ローマはすでに芸術、学問の都としての資格をパリに譲っていた。

1824年のパリ。それは王党派のシャトオブリアンと若きヴィクトル・ユーゴーのパリであり、スタンダールは41歳ではあったが、それはまたアングルと若き日のコロオドラクロア、ドオミエのパリであり、ジェリコーはこの年に死ぬ・・・・・。

またモット(Motte)という出版屋は、『気まぐれ』中の数枚のコピイをも含むスペイン風刺版画集を出版しようとしてい、これが出されてから、またドラクロアなどの口から口への評価もあって、スペインから流入してき来ていた版画のオリジナルが高く評価され、全ヨーロッパ的に有名になる、その直前にあたっていたのである。

◆“言葉がかりの芸術”のパリ “言葉は既に背後”のゴヤ

ゴヤがパリに滞在した1824年の6月30日から8月31日までのあいだの、もっとも重要な出来事は、彼がパリを去る9月1日の、その5日以前に開催された展覧会“サロン”であった。ここに、アングルの『ナポレオン3世の請願』とドラクロアの『キオス島の虐殺』及び、同じテーマによる『墓地の孤児』が展示され、ロマンティスムの最初の力強い噴出を見たのであった。

ここで、しかしロマンティスムとは何か、何であったかについて、短く触れておくことはやはり必要であろう。「キオス島の虐殺」というのは、当事ヨーロッパの知的、政治的空気を遠くから辛駭させていたトルコに対するギリシャ独立運動に関連するもので、キオス島において多数のギリシャ人たちがトルコによって虐殺された、その事件の伝聞による絵画化であった。すなわちロマンティスムとは、特に造形美術において、いわば言葉がかりの芸術である。もう少し極端なことを言えば、文学にどっぷりと浸された作品群である。

ゴヤにおいての前ロマンティスム、あるいはその前兆のようなものについては、『巨人(1808-12)』(←2009/1/22追記:アセンシオ・フリオ(ゴヤの弟子)の作品かも。調査中。)『5月の3日(1814)』等について触れたときに少しのことを書いてきたのであったが、彼の近作、すなわち『黒い絵(1820-24)』の作品群にあっては、言葉は再び、あるいは既に、背後に後退して純絵画的表現が回帰して来ていたのであった。

この言葉がかりのロマンティシスムが行くところまで行きついたとき、再び純絵画的表現をめざす印象派が出て来るのは、きわめて自然な道行きであった。

*ロマン主義: 主として18世紀末から19世紀にかけての運動であり、その影響はヨーロッパ全域に広まり、世紀末から20世紀の初めころの後期ロマン主義にまで及んだ。

*印象派、または印象主義: 19世紀後半のフランスに発し、ヨーロッパやアメリカのみならず日本にまで波及した美術及び芸術の一大運動である。

◆パリを発ちボルドオへ

1824年9月1日に、ゴヤはパリを発ちボルドオへ行った。ボルドオでは、すぐにでもスペインの影響が感じられる。ゴヤにとっても、この町は別して外国にいると深刻に感じないでいられた筈である。友人知己もまた多くいたのである。

ゴヤは1824年の6月に、6ヶ月の湯治期間をえたいという次第でマドリードを後にしたものであった。とすれば、この年の末で期限は切れることになる。1825年1月7日付で彼は、今度は「バニエールの鉱泉を飲みに行きたい」という理由で延期を申し出た。同月13日付で延期の許可がおりた。

1825年6月になれば、国外居住許可の期限がまたしても尽きようとし、彼はマドリードの息子のハビエールを通して、今度は1年間の在外治療の許可を申請する。フェルナンド7世は7月4日付で許可を出している。

◆「私にありあまっているものは意思だけです」ゴヤ書簡

ゴヤはボルドオで制作したリトグラフ(印刷による複数制作品、当事の新技術)をパリで売りたかったが パリでの反応は殆どなかった。

意思、たくましい意思があれば、死に神もいくらかは遠慮してくれるであろう。けれども意思だけでは収入にならなかった。収入というものを気にしなければならぬ、ロマンティスム以後の、ブルジョア社会における芸術家の姿がここに現前して来ているのである。それ以前の芸術家たちは、要するに宮廷や教会のお雇い絵師であった。庭師や大工と大した差異はなかった。

◆マドリード(スペイン)に戻り 再びボルドオ(フランス)に戻る

1826年に入っての5月初旬、満80歳の老人ゴヤは、マドリード(スペイン)に立ち現れ、彼の意図する事務処理にかかる。5月30日、彼は宮廷画家の職を辞し、引退を王に願い出る。―但し、フランス滞在の許可と俸給5万レアールを終身しおかれたい・・・・・。

7月はじめ、モランティンによれば、「まったく無事で」ボルドオに戻って来た。

その翌年の1827年の夏に、もう一度マドリードまで往復をしている。この時の旅行の目的が何であったかはわからないが、おそらくは、そうしてやはり、何かの財産問題があったのであろう。この時に、21歳になった孫のマリアーノの肖像を描いている。そうしてボルドオに戻り、1827年は何事もなく暮れていったようである。

1828年3月28日、待ち望んでいた息子ハビエールの嫁グルメシンと孫のマリアーノがボルドオに到着。4月1日、マリアーノが父あてに祖父の容体を知らせた手紙の余白に、ゴヤは次のように書き加えた。

「愛するハビエール、長くは書けない。余りのうれしさに、少し具合がわるくなり、今床についている。神がお前にお前の家族に会いに来て私の幸福を完全なものにして下さいますように。」

4月16日、午前2時、永眠。

 

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著者

Hottasubimage_2 堀田善衛(ほった よしえ、1918年7月7日 - 1998年9月5日)は、日本の小説家。

富山県高岡市出身。生家は伏木港の廻船問屋であり、当時の日本海航路の重要な地点であったため、国際的な感覚を幼少時から養うことができた。旧制金沢二中から慶應義塾大学に進学し、文学部仏文科卒業。大学時代は詩を書き、雑誌「批評」で活躍、その方面で知られるようになる。戦争末期に国際文化振興会の上海事務所に赴任し、そこで終戦を迎え、国民党に徴用される。引揚後、一時期新聞社に勤務したが、まもなく退社し、作家としての生活にはいる。

1956年、アジア作家会議に出席のためにインドを訪問、この経験を岩波新書の『インドで考えたこと』にまとめる。これ以後、諸外国をしばしば訪問し、日本文学の国際的な知名度を高めるために活躍した。また、その中での体験に基づいた作品も多く発表し、欧米中心とはちがう、国際的な視野を持つ文学者として知られるようになった。

1977年、『ゴヤ』完結後、スペインに居を構え、それからスペインと日本とを往復する生活をはじめる。スペインやヨーロッパに関する著作がこの時期には多い。また、1980年代後半からは、社会に関するエッセイである〈同時代評〉のシリーズを始め、これは作者の死まで続けられた。

なお、堀田の愛読者である宮崎駿は、『方丈記私記』のアニメ化を長年に渡って構想していた。 *参考: 鈴木敏夫のジブリ汗まみれ 2008/10/19 乱世の羅針盤…堀田善衞を敬愛する宮崎駿のことば 神奈川近代文学館『スタジオジブリが描く乱世。堀田善衛展』 2008年(平成20年)10月4日(土)~11月24日

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20081015_2

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