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2008年9月13日 (土)

051『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』 落合莞爾 初版1997年

「佐伯祐三の絵」に潜む 近代日本史の暗部

20080913

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概要

ニュース番組以外は滅多にテレビを見ない小生なのに、たまたま見てしまった番組と一本の電話から、武生市の佐伯祐三真贋騒動と吉薗明子さんの苦境を知り、尊父吉薗周蔵の実像把握を引き受けるはめになりました。

第一部の前半は、マスコミ報道の記録を基にして、武生市の佐伯真贋騒動の経緯を整理しつつ、小生の推理と解説をほどこしたものです。後半は、吉薗周蔵の閲歴と佐伯祐三との関係について要約しつつ、武生市美術館準備室なぜ誤断に陥ったのかを明らかにしました。

第二部には、周蔵と交流のあった人物のうちから薩摩治朗八と貴志彌次郎を選び、周蔵との関わりを述べることで、周蔵の一面を髣髴させようとしました。

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読むきっかけ&目的&感想

ちょっと前に甘粕正彦について書かれた本を読み、ネットで彼について色々と流し読みしていて知った本。「美術業界の闇」という単語に惹かれて読んでみる事にした。

さくら好み ★★★★★

武生市に佐伯作品を寄贈した吉薗明子は、何故そんなに大量の佐伯作品を所蔵しているの? それを何故今になって寄贈する気になったの? 寄贈と購入を抱き合わせて数億を騙し取るのが目的? 経済効果が狙える箱モノを欲しがっている地方に付込んだ詐欺? 真(作品と作者の一致) or 贋(作品と作者の不一致)、どっちなの? ・・・・・ええ~、佐伯祐三って××だったの!? うそっ、佐伯作品にそんな‘噂’があるの!? ひゃ~、吉薗周蔵って表の顔以外にそんな・・・(絶句)、甘粕正彦と繋がるはずだ、戦争と芸術ってこんな風に繋がるのねぇ。 。。

なんて事の他にも、メディアが伝える行間を読みつなげる著者に唸りながら、面白く読ませて貰った。佐伯祐三の絵はもともと好きじゃないせいもあってか、本書を読んでも彼に対しては興味が湧かなかったが、「吉薗佐伯作品」と「吉薗周蔵」と「上原勇作」にはむくむくと興味が湧き上がった。

良い作品は誰が作者でも良い作品なんだろうけど、作品背景(=時代の特性や作者の思想)によって絵というのは随分違って見えてくるから、当たり前の事なんだけど真贋(作品と作者の一致)をハッキリさせるのは大事だ。美術作品は「読んで」から「感じる」、あるいは「感じて」から「読む」と面白いけど、正しく「読め」なかったら面白さは半減してしまう。 。。。本書のおかげで「佐伯作品を読む」ことが少し出来るようになり、あたしの主観では佐伯作品の価値(面白さ)が倍増した。

今、大阪市立美術館で『没後80年記念 佐伯祐三展 -パリで夭逝した天才画家の道-』(会期:2008年9月9日~10月19日)をやっている。この美術展を見に行った人のブログを数十流し読みしたけど、佐伯作品の真贋(作品と作者の一致)にふれているブログは無かった。単なる詐欺事件だったとして忘却の彼方なのかな・・・。というか、あたしも知らなかったけど、知らない人って多いんだろうな。

この美術展には、大阪市立近代美術館建設準備室所蔵の「郵便配達夫」が展示されている。大阪市立近代美術館建設は、大阪市政100周年(1989年)の記念事業のひとつだったけど、財政難で頓挫している。Wikiには、「2007年新年度予算案に約500万円を調査費として計上し当初の事業計画を見直した上で、約5年ぶりに建設に向けて事業が再開される事となった」とあるけど、建設されるのかな。・・・・・新美術館に展示される頃には、「郵便配達夫」の作者名はどうなっていて、どういう背景説明がされるのかな~。個人的には、大阪市準備室所蔵「郵便配達夫」よりも、吉薗佐伯「郵便配達夫」の色使いやタッチの方が好きだ。大阪の画商が買い取ったという吉薗佐伯「郵便配達夫」、、、二枚の「郵便配達夫」が並んで展示されたトコロを、ぜひ観てみたいものだ。

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著者

落合莞爾(おちあいかんじ

昭和16年 和歌山市生まれ
39年 東京大学法学部卒。住友軽金属工業入社
42年 経済企画庁調査局部員
47年 野村證券入社、事業法人部業務企画課長を経て
53年 落合莞爾事務所設立。株式会社新事業開発本部社長

*本書発行時(1997年)のもの

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覚書

◆佐伯祐三 

Saeki 佐伯 祐三(さえき ゆうぞう、1898年4月28日 - 1928年8月16日)は、大正~昭和初期の洋画家。大阪市生まれ。

佐伯は画家としての短い活動期間の大部分をパリで過ごし、フランスで客死した。作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。佐伯の風景画にはモチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色である。作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画等もある。

佐伯は1898年(明治31年)、大阪市・中津の光徳寺という寺に、男4人女3人の兄弟の次男として生まれた。1917年(大正6年)東京の小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)を卒業した後、1918年(大正7年)には、Yoneko_2東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し、引き続き藤島武二に師事、1923年(大正12年)に同校を卒業した。東京美術学校では、卒業に際し自画像を描いて母校に寄付することがならわしになっており、佐伯の自画像も現存している。鋭い眼光が印象的なこの自画像は、作風の面では印象派風の穏やかなもので、後のパリ滞在中の佐伯の作風とはかなり異なっている。なお、在学中に結婚した佐伯の妻・米子(旧姓・池田)も絵を描き、二科展などにも入選していた。

佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し、代表作の多くはパリで描かれている。第1回のパリ渡航は 1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在であった。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともにユトリロの影響が明らかである。佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが、彼の健康を案じた家族らの説得に応じ、1926年にいったん日本へ帰国した。パリでの友人である前田寛治、里見勝蔵、小島善太郎らと「1930年協会」を結成する。2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかった。佐伯は旺盛に制作を続けていたが、1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となった。同年8月16日、入院中のセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院で死去した。  ( Wiki )

主な作品

    * 「オーヴェールの教会」(1924)(鳥取県立博物館)
    * 「セーヌ河の見える風景」(1924)(東京藝術大学大学美術館)
    * 「パリの寺院」(1924年)(大阪市立美術館)
    * 「パリの裏街」(1924年)(大阪市立美術館)
    * 「レ・ジュ・ド・ノエル」(1925)(和歌山県立近代美術館)
    * 「広告のある門」(1925)(和歌山県立近代美術館)
    * 「リュ・デュ・シャトーの歩道」(1925)(和歌山県立近代美術館)
    * 「ガス灯と広告」(1927)(東京国立近代美術館)
    * 「雪景色」(1927)(東京国立近代美術館)
    * 「オプセルヴァトワール附近」(1927)(和歌山県立近代美術館)
    * 「テラスの広告」(1927)(ブリヂストン美術館)
    * 「裏街の広告」(1927)(京都国立近代美術館)
    * 「リュクサンブール公園」(1927)(田辺市立美術館)
    * 「広告”ヴェルダン”」(1927)(大原美術館)
    * 「郵便配達夫」(1928年)(大阪市立近代美術館建設準備室)

左:自画像(1923年) 右:郵便配達夫(1928年) 下:ガス灯と広告(1927年) Saeki1923_5

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<著者が佐伯真贋事件にかかわることになったきっかけ>

平成7年(1995年)8月30日水曜日の夜であった。近くの小料理屋で一酌して麻生十番の自宅に戻った私は、何となくテレビをつけて、ベッドに横たわった。現代という大きな文字が、ブラウン管いっぱいに拡がった。女性キャスターの声がとぎれとぎれに聞こえる。

「こんばんは、クローズアップ現代です。今晩は、ある絵画のコレクションをめぐる真贋論争です。昭和の初めに活躍した、日本を代表する洋画家、佐伯祐三。その佐伯祐三のサインがある未公開の作品が、このほど大量に見つかりました。」

大発見か、偽作か?

・・・仕事の電話が番組放送中に入り、途中から見損ねてしまう。大森稔(岸和田市の真贋騒動で苦境に陥った私を助言してくれたり、いろいろ支えてくれた)とこの番組について電話で話す。

「丸きりの偏向報道・・・・・贋作扱いでしたねえ。根拠もないのに・・・」

「そうだったのか。しかし、はっきり贋作扱いしたんなら、NHKは何か強力な証拠をつかんでいるんじゃないか」

「いや、必ずしもそうじゃないんです。業者と学者が、真贋で対立していたんですが、学者側の大将の河北さんが倒れちゃったんで、連中が勢いを盛り返したということですよ、これは」

「君は何か知っているね、本件について?」

「えへへ、ご明察の通りです。でも今日はもう遅いから、明日にでも電話した上、近々、お願いに参上いたしますので・・・・・」

思いもかけぬ妙な事態になった。これが、私が佐伯祐三真贋事件に巻き込まれるきっかけであった。

<灰色決着させた武生市>

◆平成6年暮れ 画商と美術専門家の対立が報道される

・平成6年12月25日 毎日新聞
武生市に寄贈の佐伯作品 東京美術倶が鑑定 『1点は数年内の偽作』 絵の具未酸化 画布にテトロン含有

・三谷敬三・東京美術倶楽部会長の話
「武生市が公開した作品のうち、一点は我々の見識として偽作と判断したものと一致した。武生市が独自の判断で購入することは自由だが、我々は一連の作品は一切取り扱いません」

・「選定委は真作と・・・」戸惑う武生市
武生市の小泉剛康市長は「河北倫明氏ら選定委と相談して今後の対応を検討したい。ただ、権威ある五人の方でつくる選定委員会に『研究に値する』と判断していただいたのだから・・・」と戸惑い気味に語った。購入するとしていた作品に関しては「購入するかどうかは決めていない」と白紙を強調した。

事件は要するに、洋画家佐伯祐三の新発見の作品をめぐる、画商と専門家の対立である。この紙面構成からして、毎日新聞が贋作側に立ってキャンペーンを始めたことが明らかだ。

画商業界は業者間の真贋トラブルを防止し流通の円滑を保つために、鑑定機関を必要とする。作家の生存中なら本人で間に合うが、物故した著名画家にはそれぞれ鑑定機関が決まっており、佐伯祐三については、東京美術倶楽部(以下「東美」と略称)の鑑定委員会である。東美は株式会社の形態だが、実態は全国の有力美術商たちの団体で、毎月25日、定期的に鑑定委員会を開いている。写真を掲載した『モランの風景』は、平成5年4月の委員会で贋作と断定したもの、というのである。

河北倫明を座長とする武生市選定委員会が、平成6年12月18日に新発見の佐伯作品を本物と発表したのに対し、有力画商たちが本日異論を表明した。東美は、前年の鑑定委員会で贋作と結論したことを、会員にだけ内々で通達していたのである。しかし、武生市で専門家が本物だと公表するに及んでは見過ごせず、ここに公然と物言いを付けたというわけだ。

美術業界と美術専門家が対立したことを近来耳にしない。持ちつ持たれつの関係で知られている。両者が表立って対立したのだから画期的な大事件である。どうしてそんなことになったのか?

“佐伯祐三未公開作品 武生への道程” 福井新聞が特集記事を連載

~ 佐伯作品の寄贈は父の遺言に従ったもの ~

・寄贈者の父吉薗周蔵は昭和39('64)年に死亡する数ヶ月前、佐伯祐三に関して遺書を残した。それは「長男緑が死亡(平成4年10月死去)するのを待って、祐三の遺作を公表することを命じた」ものだった。

・これまでの佐伯の公開作品は400点近くあるが、戦火で焼けたものも多い。

・佐伯の北野中学の同窓生で、親友だった坂本勝(政治家・衆議員)の著書『佐伯祐三』には吉薗の名前は出てこない。現在、佐伯祐三研究の第一人者といわれる朝日晃(著書一覧)の『佐伯祐三のパリ』にも吉薗周蔵は紹介されていない。

・河北グループの匠秀夫(著書一覧)は、周蔵の日記や書簡を基にして研究した遺作『佐伯祐三の巴里日記』が、目下出版直前である。

・父の遺言に従い、吉薗明子は未公開作品の収蔵先を求めて、遠野(岩手県)、都城(宮崎県)、武生(福井県)を候補に選んできた。都城市と遠野市は、吉薗の寄贈話を受けて、受け入れ準備をしたが、やがて頓挫した。その理由は必ずしもよく分からない。

~ 吉薗佐伯絵画38点の寄贈契約とその受け取り ~

・平成6年1月6日、市内の実業家・山本晨一郎から武生市に寄贈話が持ち込まれ、歴史資料館に改造中の旧公会堂を美術館にしないか、と打診された。

・武生市は、平成6年6月2日美術館転用を表明し、7月9日寄付受け入れを表明。8月26日寄贈契約書を取り交わす。8月29、30日に作品38点と明細を受け取り、武生市図書館で保管。

~ 吉薗佐伯11点の購入計画と疑惑の声 ~

・武生市は美術館に転用するに当たり、東京国立博物館の指導を受けたが、展示スペースの関係で、常設展示数は50点と決まる。

・市長も助役も、力んで不退転の決意を表明したので、政治問題化する。

・常設展示必要数と寄贈数の差を埋めるため、11点の購入予算を組もうとした。購入費は文化振興基金5億2千万円を充当することとした。佐伯作品の市価が号2千万であることから、購入費算定根拠をめぐって、紛糾発生。

・吉薗と市の寄付契約後、吉薗と山本晨一郎との間で、民間レベルのビジネス(注・佐伯絵画11点の売買)が交わされていたことが判明し、疑惑の声が上がった。(平成6年9月ごろ)

・吉薗の条件は「ゆっくり研究して平成8年3月までに開館」ということだったが、市は「7年10月の鯖江市の世界体操選手権大会に開館を合わせたい」と短絡思考に傾いた。

・武生市議会では、11点の購入費の計上に、否定的な雰囲気になる。

◆吉薗資料(寄贈者明子の父・周蔵の日記や書簡)の真贋

平成7年9月2日、東京のホテル・ニューオータニ・インで、武生市調査審議委員会は密かに開かれていた。席上、小林頼子学芸員の「(吉薗が保管していた佐伯関連の)資料に疑問」という報告書に接した委員会は、直ちに寄贈作品の公開中止の答申を固めた。

いずれにせよ、公開中止の発表に勢いづいた贋作派は、吉薗明子が父・吉薗周蔵と佐伯祐三について記した『自由と画布』の内容を大嘘だらけと指摘し、「明子は虚言壁のある悪女」という噂を大々的に流し、攻撃は『巴里日記』と『自由と画布』の丸写しの域を脱しない匠秀夫の遺作『佐伯祐三の巴里日記』にも及んだ。平成7年9月21日号に始まる週刊新潮の一連キャンペーンもその一つだった。

平成7年9月26日、武生市議会本会議は寄贈絵画の返却方針を承認した。「資料は本物、絵画は偽者」とする画商側(東美)に対して、「絵画は本物、あとは資料が証明する」としてきた市側(河北倫明ら美術専門家による選定委員会)が、ここへきて市側(武生市美術館準備室設立と同時に臨時職員として迎え入れられた小林頼子学芸員)の調査報告書に基いて「資料は怪しい、だから絵画もおかしい」と言い出したのだから、狐につつまれたような灰色決着である。

武生市の市民運動側は黙っていない。平成7年9月27日「佐伯祐三美術館問題を考える市民の会」が武生市文化センター小ホールで、顛末報告会を開いた。市民150人が出席、会員が経過を説明したが「寄贈者の女性や、佐伯作品を所蔵していたとされる寄贈者の父親の経歴、佐伯作と“お墨付き”を出した美術の専門家と寄贈者の関係などについて、『市民の会』が調べた内容を示し、偽物である可能性が強いと指摘した」(中日新聞)。たとえ市政明朗化を望む純粋な運動にしても、吉薗佐伯の排斥工作に関する限り、特定の政治勢力の影があり、遠野市の寄贈反対工作とも微妙に繋がっている政治性が感じられた。

<落合事務所の調査>

◆「真偽はどちらでもいいのです」

平成7年9月19日午後1時、吉薗明子は大森稔のほか山本と名乗る中年女性に伴われて、麻布十番の落合事務所にやってきた。

「お気の毒な事情は、すっかり分かりました。これから調査をするにしても、わたしは黒を白と言うことはできない。この資料がほんとに偽造だったりしたら、どうしますか?」
「真贋などはどちらでもいいのです。よしんば偽物だったとしても、一体これは何なのか、誰が何のためにこんなことをしたのか。それを先生に究明していただきたいのです」

そのことばを聞いて、私はかねてから用意していた準備質問を後回しにし、先に真贋究明を引き受けると決めた。

◆デッサンは現場で佐伯祐三、仕上げはアトリエで妻・米子?

「おいおい、君は修復師がどんな地位にあるのか、知らんのじゃないか・・・・・実際は、美術評論家などより、絵そのものについては詳しいんだ。ことに、この杉浦という人は、ベルギーに留学して王立文化財研究所で絵画修復に関する理論と実技を磨いてきた人だ」
「えーっ。そんなに偉いんですか?」(←落合の秘書である中尾)
「ベルギーは油絵発祥の地だ。その地で勉強してきた杉浦さんは、わが国でトップの修復師なのだ。」

平成7年10月15日、私は絵画修復家の杉浦勉に会うため、京都に向かった。翌16日、杉浦はわざわざロイヤルホテルのロビーへ来てくれた。3時間ほどの間、杉浦は見解を披瀝してくれた。

どの作家にも、若い頃の習作とかデッサンが無数にある。中には駄作も混じって当然で、後に大家となる作家にも下手な若書きの時代がある。それが佐伯祐三の場合「どこにもない、実家の寺にもない」というのが不自然だった。佐伯は25歳で美術学校を卒業し、翌年パリに留学した。現代では大学院生という時期に、30歳で死んだ。天才画家だが、勉強中の画学生ともいえる。画風を確立して売れ筋の絵をせっせと描く前に、忽然と亡くなった。固有の画風を形成するに到る前だから、今日はゴッホ、明日はアンソールと、毎日のようにいろんな試みをしていても当然ではないか。

以前、杉浦が佐伯祐三の作品を修復したとき感じたのは、根底は激情型の太い線で荒々しく描かれているが、その上に面相筆のような極細の線で、細かい仕上げがなされている。「もし、これを1人で描いていたら、佐伯祐三は極端な二重人格に違いない。そんな二重人格が居るんかいな、かねがね、そう思って不思議だったんですが、今回の吉薗さんのものを見て、『ああ、やはり出るべきものが出てきたな』と納得できたんです」。杉浦1人が、新聞紙上で二度も「これが人の手の入っていない佐伯だ」と言った意味は、これだった。

杉浦によると、佐伯の現場制作説は、昔はあまり強調されていなかった。昭和40年代に入って佐伯作品が暴騰しだし、それと時を同じくして「現場で一気呵成に描きあげた」という佐伯祐三伝説が生れた。その背景は、他の画家と違い、下書きやデッサンがごく少ししか見つからなかったことを、合理的に説明しようとして、現場説に行き着いたのかもしれない。

Kabe_saeki_1925 「これは壁の絵ですかね・・・この壁の文字は斜めに描いていますが、こんな字を、イーゼルを立てたままで現場で書くことは、物理的にもだいいちムリです。誰でもアトリエで床に敷いて落ちついて描く。これもそうして書いたものです」。

*佐伯の絵は、佐伯の妻・米子の手で仕上げられたモノだという噂が、業界にはあった。
*佐伯の妻・米子(旧姓・池田)も絵を描き、二科展などにも入選していた。
*右画像 『壁』 1925年

◆吉薗資料にある佐伯祐三、米子書簡の筆跡鑑定は真筆!

平成7年10月19日、田北筆跡鑑定人から吉薗資料・筆跡鑑定の結果が出たとの知らせがあって、翌日『筆跡鑑定結果証明書』が落合事務所に届けられた。佐伯祐三、米子いずれも真筆だとのことであった。

正直いって私自身も、吉薗資料を見るまでは、やや贋作派寄りだった。しかし、吉薗資料を見た瞬間に真作派に転じた。それは多量の米子書簡が、本人でなくては知りえない「秘密の暴露」に満ちているからだった。その内容は哀願、誘惑、陳謝、加筆、不倫、堕胎、さらに遺作の所有権を巡る詭計・・・だが、これが世に晒されたら、一体佐伯祐三のイメージはどうなるか?

◆時間との戦い

武生市調査審議委員会による贋作発表は終ったが、残響が尾を曳いた。真贋問題の真相は時間が経てば、しだいに曖昧になる。新聞が当局の発表をそのまま報じ、社会のどこかに、その記事がそのまま記録されると、時間が経つにつれてお役所の言い分だけが残り、善男男女はそれを信じるだけだ。被害者にはなす術がなくなるから、これは時間との戦いでもある。この暴挙にどう対処したものかと考えながら、私は焦りを禁じえなかった。

結論は「佐伯祐三が親炙した吉薗周蔵とはどういう人物だったかを、中立的客観的な立場で解明すること」に到達した。それを発表しながら、社会の判断を仰ぐ他にない。急がば回れだ。

<吉薗周蔵と佐伯祐三の実像>

◆吉薗周蔵は特務(国事探偵)だった!?

平成7年12月12日、数通のギンヅル(明子の曾祖母、つまり周蔵の祖母)の書状が池田チヤ(明子の叔母)の荷物から見つかった。それから間もなく、ギンヅルの手紙は7通見つかった。チヤの着物の袂の中から、何度かに分けてそれは出てきた。その文面でこれまで調べたことを裏付けし、肉付けしていくことができた。

これらの手紙で、周蔵の実像がはっきりした。周蔵は特務(国事探偵)だったのだ。上原大将の命で、〔草〕の任務を果たした。それが周蔵の一生を決め、戦前戦後を通じて社会の表面に出ない特殊な人生を歩み通したのであった。ギンヅル書簡から佐伯をバックアップ出来るだけの吉薗家の資産の裏付けも出たし、海外渡航は事実だったが、留学というより〔草〕としての任務のためである。周蔵は武田内臓という名義でそれに就いた。

◆学校の先生とは正反対のことを話す父や叔母

周蔵の手記は何冊にも分かれていたが、チヤがあちこちに分散して蔵っていた。明子は、周蔵の手記を少女の頃一応見たことがあるが、全体の内容までは、頭に入っていなかった。巻(明子の母)の死後はチヤが預かったと称して、どこかへ深く隠匿してしまった。チヤの判断では、手記の内容は旧陸軍内部はもとより、国家の機密にまで触れていたから、戦後の社会では公開する必要もなく、また公開したときの影響も計り知れない。だから数十年の間、ひたすら隠匿していたのである。

幼少時、毎晩繰り返し聞かされた周蔵の言を、軽く聞き流していた明子は、チヤのことも変なことばかりいう叔母さん、と軽視していたのであった。それは、学校の先生や級友から聞く世の中のことと正反対だったから、明子は世の中に自分を合わせてしまったのである。

◆近代日本史の一端を曝す『周蔵手記』

周蔵の事跡は『周蔵手記』によって、しだいに明らかになってきた。周蔵の手記は、まだ全部は回収されていなかったが、そのうち続々と回収できるとの確信が得られた。その内容を発表していくことこそ最善の策と考えた私は、会員制の総合雑誌『ニュー・リーダー』の編集者と交渉し、連載の運びとなった。これはしかし別の問題を引き起こす。つまりその内容が、これまで暗闇の中に放置されていた近代日本史の一端を白日に曝すことである。問題は佐伯祐三の真贋どころではない。永い間、虚構の事実の上に安眠していた既存勢力の権益が、真実の暴露が進むに連れて深刻な危機に曝される。その勢力からの反作用は凄まじいものとなろう。

それに対抗するために私は二つのことに重点を置いた。一つは、解読結果の開示を現状の社会状況に照らして必要最小限に留めること。もう一つは解読結果とデータ、資料をすべてコンピュータに記録し、万一の場合には、インターネットを通じて全世界の通信社に配付されるよう予め準備しておくことである。さらに、まさかの場合には、検察庁などにもそれが渡るように用意しておくことに決めた。

◆〔草〕として育成するための学校入学!?

ギンヅルは京の薩摩屋敷時代に知り合った海軍の総師山本権兵衛にも強力なコネがあったが、思う処があり、大正元年8月、周蔵を陸軍大臣上原勇作中将に目通りさせた。ギンヅルは上原の叔母にあたり、10歳で実母をなくした勇作を励まし育て、成人した後にも送金した大スポンサーであった。

上原から「草ヲ命ズル」と言われた周蔵が、熟考の上引き受けると、東亜鉄道学校の土木課へ籍を置くよう指示された。同校の教育水準が低かったので、十日で通学を辞めた周蔵は、熊本医専の麻薬研究科の助手として、上原中将のもう一つの命であるケシの栽培を始めた。ケシ栽培は順調に進み、周蔵は急速に上原の信頼を得ていった。

大正6年8月初、上原から「一度 築地本願寺ニ行ッテ 話聞イテホシカ」と言われた周蔵は、築地に出かけたが、そこでおかしなことを頼まれた。「大阪の寺の次男が美術学校に入るために上京して来るが、入学できるよう取り計らってもらいたい」というのである。周蔵は若松安太郎(実名境誠太郎、島田商会の支配人をしながら陸海軍の密名を果たしていた)を通じて、元首相の山本権兵衛に頼んでもらったら、簡単に承諾された。

その受験生は佐伯祐三といい、本願寺派の中でも格の高い光徳寺という寺院の子であり、北野中学出身の秀才として前法主の大谷光瑞西本願寺22世門主)が目を掛けていた。「その人物をこれから〔草〕として育成する。ついては裏付け(バックグラウンド)を作ってほしい」とのことだった。

〔草〕として社会動静を探るためには、世間に通る表看板が必要で、佐伯の場合それは一流画家でなくてはならない。周蔵は、佐伯が一流画家に育つよう配慮するとともに、佐伯との交友関係を示す表の状況を作る役割を負った。

◆周蔵の収入源 買い上げた佐伯の絵

美術学校生の佐伯祐三は、周蔵に会うたびに金銭を借りた。それと並行して、佐伯は救命院の動向を偵察するという名目で、本願寺からも活動費を受け取っていた。その金はおそらく仲間に酒飯を振る舞うためであった。それは画学生仲間との交遊のためでもあり、情報収集のための環境作りとも言えた。

ケシから採取した純質アヘンはすべて上原勇作に届けたが、その見返りとして、上原の差し金で、政商久原房之助から久原鑛業関係の売店にタバコを納入する利権をもらい、帳簿操作だけで毎月500円(今日の物価にして500万円)を超える純益があった。各地のケシのうち、周蔵の権利の属する分が物納され、それを製薬会社に引き渡して代金を得ていた。その他にも、ギンヅルの作ってくれる浅山丸が通信販売でよく売れた。これは、大正元年に肺壊痕にかかった上原の命を救った、アヘン入りの薬剤であった。

周蔵が佐伯に際限なく金銭を与えるのを憂慮したのが、当事周蔵の経理係をしていた池田巻(のちの周蔵夫人)であった。商才に長けた巻は、「佐伯に返るアテのない金を少しずつ貸すより、一生の賭けとして、佐伯の描いた作品を何であれ買い取ってやれば、本人も励みにもなるし、負担を感じさせない」と進言した。巻はそれを実行し、佐伯が美校で描いたデッサンや水彩などを、まとめて買ってやった。

◆甘粕大尉と知り合う

大正9年1月30日、周蔵は上原の大森邸で旧知の満鉄幹部鎌田彌助と会い、同席の憲兵隊副官甘粕大尉を紹介され、後に二人の間には深い因縁が生じる。

◆海軍関係の諜者だった米子との結婚

佐伯祐三は大正9年秋、米子と結婚した。

佐伯祐三と米子の結婚の真相は、まだ明らかではない。米子が海軍関係の諜者だったことを考えると、大谷光瑞が何かの目的で二人を結婚させたものとも察せられる。

◆祐三は結核で死んだのではない

昭和3年6月18日、「佐伯祐三ハオワッタ」というメモの二日後、祐三は自殺を計り、精神病院に入れられる。食事を断った祐三は8月16日病院で死に、同30日には娘・弥智子も後を追った。

周蔵が2月にパリで会ったとき、佐伯は健康そのものであった。従来の佐伯の伝記が、この頃より結核が進み、密室に閉じこもって『郵便配達』や『ロシアの少女』を描いたと説明するが、それ自体が米子の追想話を基にした創作なのである。

佐伯祐三の急死には事情があると睨んで、周蔵が米子に疑惑の目を向けたのは当然である。後日、パリから帰国した藤田嗣治の説明で、ある程度のことが分かった。周蔵と別れた後、佐伯の奇妙な行動に、一画学生が気がついた。佐伯が仲間のことを探って記していたメモが見つかってしまったのである。直ちに画学生仲間に触れ回られ、佐伯は問い詰められる。やがて暴力沙汰に発展し、査問された佐伯は、縄で首を絞められたのか、あるいは自殺を強要されたのか、危うく逃げ出した。精神病院に入れられた祐三は食物を拒否し、ついに餓死した。以上が真相だと思うが、その詳細な考証は、別に一書を起こすつもりである。

◆「秀丸(祐三の幼名)そのままの絵では、誰も買っては下さらないのです」

昭和3年10月、佐伯祐三と弥智子の遺骨を抱いて帰国した米子は、夫の遺作を売って生計を立てようとした。そのため周蔵から、佐伯の原画を分けてもらおうと考えた。

周蔵は米子の懇請に負け、藤根大庭に頼んで昭和4年1月20日、大八車に一杯の佐伯の絵を芝新幸町六に居た米子に届けてもらった。さらに24日、藤根が背中に背負って、20枚の絵を届けた。

周蔵は米子の加筆に関し、共通の知人である画家の山田新一を介して、警告した。米子は「秀丸そのままの絵では、誰も買っては下さらないのです。私が手をゐれてをりますのよ・・・・・」と、グアッシュを用いた加筆法を明らかにし、山田新一は嘘ばかり言うから信用しないようにといいながら「この頂いた絵、よく見て下さいませ、どんなにかよくなりましたでせう。あなたのお手元にあるもの、私が仕上げれば、すぐに売れる絵になりますのよ、すべての絵を手なをしして、きちんと画会をしたいのです あなたと私とで 致しませうよ」と持ちかけたが、周蔵はもとより、そのような誘いに乗らなかった。

グアッシュを用い、上からリンシード油を垂らす方法は、修復家の杉浦勉が指摘した、まさにそのとおりであった。佐伯祐三の原画に米子の筆が加わって、近代日本を代表する名画と讃えられる作品が生れた。たしかに、祐三が到達したフォービズムの荒々しさに、東洋風の細かい筆が加わると、一種独特の混淆的雰囲気が生まれ、日本人の嗜好にことにマッチする。それが要するに、われわれが従来、佐伯と聞けば直ちに連想した画風である。その手は、山発コレクション(大阪の実業家・山本發次郎の蒐集)にことに多く、名品と讃えられて絵画ファンに親しまれてきた。

*グアッシュ: 不透明な水彩絵具、またはそれをもちいて描いた絵。水彩顔料に白色をくわえてつくられる。グアッシュは、透明な水彩の繊細な明るさには欠けるが、油彩に似た濃密さをもつ。グアッシュの色彩はかわくと明るくなるので、真珠に似た光沢やパステルに近い効果などがだせる。

◆米子が周蔵に宛てて出した書簡

吉薗周蔵は昭和39年の秋に他界した。それを知らない米子が、翌年か翌々年、周蔵に宛てて出した書簡が1月4日、多数の新聞紙上で公開されたが、そのなかに、次の文言があった。

「(前略)実は今日お手紙したのは 残っている絵をいただきたいのです。まだ たくさんあるのでせう。今なら佐伯の美術館をつくれますし、私も まだ手を入れるくらいは 出来ますから 間にあいます。それに先日いやなことを聞きまして 気になって お手紙致しました。あなた方が 私の描いたの 買っていらっしゃると そして 佐伯と違い過ぎると おっしゃってる(中略)
今になって あなたが 申しませんはねえ。単なる をどかしと 思ったのですが。
 (中略)
ご存じのやうに 私が描いたものも有りますし 友達のものもありますし その他 画廊もいろいろ 世の中 思い通りには行きませんもの・・・・・
あなたは佐伯のもの まだ百枚から おありでせう。あまりせびると 佐伯がおこる と思って 自分で描いて をりましたのよ それが今では 気になってをります。
 (中略)
今また 絵をかくようにと 先方から きつく言われていますけど 私はこの頃 佐伯の絵が描けませんの(後略)」

<武生市美術館準備室 vs 落合事務所>

◆佐伯の真作とされてきた作品の大半が米子の加筆である以上・・・

いよいよ、吉薗側から積極的に反撃する段階にさしかかった。それは二つの方法がある。

第一は、吉薗佐伯そのものを真作と立証することで、直接それを行うには既公開作品と比較するしかない。比較項目には、画風技法などソフト面と、画布や絵の具などのハード面がある。

従来佐伯の真作とされてきた既公開作品の大半は、米子が仕上げたことが明らかになった以上、それらを対照資料として吉薗佐伯の真贋を論ずることは、目盛りの狂った物差しで計ることになってしまう。ハード面での比較はともかく、こればかりは既成コレクターの協力がなければできない。

日本でそれが難しいのは、武生市の経験でも明らかである。したがって、現状で作品の側から、吉園佐伯の真作性を立証するなら、むしろ贋作説すなわち「吉園佐伯は・・・・・の理由で、佐伯の真作ではありえない」とする仮説を立てたうえ、その根拠を明確に否定していく。その積み重ねで立証するしかないのである。

第二は、資料から立証する方法である。吉園周蔵の実像が解明できれば、佐伯祐三との関連がはっきりする。そこに歴史的、社会的合理性が認められれば、吉園佐伯の存在が合理的に説明できる。

◆落合反駁報告書

平成8年4月12日『準備室報告書(平成7年9月2日、武生市調査審議委員会で報告された小林頼子学芸員のもの)』は武生市長名をもって、落合事務所に正式に送達されてきた(吉薗は、落合を受託者として信託契約を結んでいるため、落合が市側やマスコミと対応)。想像を超えたどぎつい内容だった。その内容と反駁を対象表にして以下に示そう。

①海外渡航

準備室報告書: 記録なし

落合反駁報告書: 一回目は武田内蔵丞名義、二回目は小山健一名義で申請、共に外務省の公式記録確認済み。

④周蔵の学歴と医学歴

準備室報告書: 帝国医学専門学校に裏口入学、ケルン大学留学とあるが、前者は存在せず、後者はありえない。東亜鉄道学校へ大正元年10月1日入学、同3年9月25日卒業、それだけが唯一の学歴か。

落合反駁報告書: 熊本医専の予備試験を通過して合格入学し、女性問題で中退後、上原の命令で東亜鉄道学校へ入る。10日通学した後、熊本医専麻薬研究科の無給助手となる。その後上京して東京帝大で呉秀三教授の講義を聴講。ウイーン大学で血液型理論を探索。帰国後、帝国針灸漢方医学校で中国人周居應に漢方と針灸を学ぶ。

⑤周蔵の職歴

準備室報告書: 戦後、千葉で食品のよろず屋をしていた。

落合反駁報告書: 昭和初期まではケシ栽培と純質アヘンの採取を基本にしており、久原鑛業へのタバコ卸で安定的高収入を得ていた。世情探索のため市電運転手や洋傘の修繕、さらに天麩羅屋をしたこともある。戦後は千葉に隠棲。昭和29年まではケシ栽培をしていた。食品屋は一種の仮装であった。

⑯吉園家の財政状況

準備室報告書: 周蔵の戦後は食料品をあつかうよろず屋。実家は中規模の農家だったから、佐伯のパトロンとなりえない。

落合反駁報告書: 周蔵の実家は大正7年阿久津製薬創立に関し、田地山林を四分の一売って三万円拵えたという資産数十万円の豪農であった。周蔵自身は久原鑛業へタバコを卸すだけでも毎月数百円の純益があり、その他の収入もあり、かなりの高所得者だった。

◆公式公表

私は、でき上がった反駁のためも報告書を、武生市長に送付した。平成8年4月19日付で発送したそれは、4月23日の受付印が押捺されていた。武生市が『準備室報告書』を公表するときには、これを市側と吉薗側とで、共同の形で発表させて欲しい、というのが市長に対する私の要望であった。それがかなえられれば、外見的にせよ両論併記という形になる。幸い武生市はこれを、曲がりなりにも受け入れてくれた。

遅れはしたが、平成8年6月28日、武生市役所の市長会議室で市側が『準備室報告書』を発表し、その後になって隣にある生涯学習センターで私が『反駁報告書』を発表した。

メディアとしては朝日、読売、産経、福井の各紙、NHK、福井放送、福井テレビが名刺をくれた。私は毎日新聞と共同通信の名刺がないのが、いささか気になった。

◆公式発表翌日の報道

読売: 武生市やっと調査結果公表 / 寄贈者側「不十分」と反論

朝日: 「資料の信憑性に疑義」佐伯祐三作品 真贋問題調査 研究員の報告発表 / 寄贈者側は報告に反論

福井: 最終結論も“クロ” 吉薗資料に矛盾点 系図に人物誤認 / 吉薗側反論

中日: 寄贈の佐伯作品 偽者 真贋問題 武生市が報告書発表 寄贈者と“縁切り” 佐伯作品真贋論争 小泉市長が強調

東京: 武生市の“佐伯絵画”『贋作の可能性高い』市が最終報告書

毎日: 「真作でない」 佐伯真贋問題で最終報告

◆『吉薗資料』の波紋

吉薗家から出てくる資料が示唆する佐伯祐三の実像は、従来の佐伯研究家が作り上げてきた虚像とはまるで違う。『吉薗資料』により、富山はじめ選定委員の何人かが繰り返し言ったように、佐伯像の修正が迫られてきたのである。

経歴くらいのことなら、専門家が既述の著作を書き直せば済む。しかし、実際には佐伯の公開を巡っては、多額の金銭問題が絡んでいた。佐伯像の見直しは、米子の加筆説を確定するから、公開作品の全部に対して徹底的な再検討を要求する。

それを業界が深刻に受け取らない訳がなかった。つまり、昭和40年代の初頭に1億6千万プラス2千万円で納入されたと噂される国立近代美術館の『ガス灯と広告』。山発コレクションから31点の寄贈品の外に、合計数億円で大阪市立近代美術館が購入したという山発コレクションの9点。さらに昭和63年、匠秀夫が茨城県立美術館長に就任したとき、4億円弱で日動画廊から買い入れたといわれる例の靴屋の絵(『コルドヌリ』)など、莫大な金額の各美術館の購入作品が、検討の俎上に載せられることになる。

それらの佐伯作品について、納入時の事情を洗い直されることを嫌う人々が、この世に多数存在していることは間違いない。それでなくとも元値で買い戻しを迫られれば、画商は経済的破綻に瀕することになる(ニセとわかれば元値で買い戻す、という一札を業者は入れている)。それを未然に防ぐには、吉薗佐伯よりむしろ『吉薗資料』を抹殺しなければならない。

狼の攻撃はこれから本格化するだろうが、どうせ乗りかかった舟だ。気を取り直した私は、書物によって、その経緯を後世に残そうと、ワープロを叩き始めた。

<無冠の庶民>

◆周蔵の人間関係

一切の公職につかなかった無冠の庶民にして、各界の重要人物とこれほど関わった人は外に居ない。ただしそれは、裏側だけのつきあいであった。

上原勇作(陸軍参謀総長・元師)、大谷光瑞(西本願寺門主)、山本権兵衛(首相・海軍大将)など日本を代表した人物と関係が深かった。久原房之助(政友会総裁・幹事長・逓信大臣)とは、上原との関係から経済的に深く繋がっていた。甘粕正彦(満州映画理事長)、貴志彌次郎(陸軍中将)、荒木貞夫(陸相・陸軍大将)、石原莞爾(陸軍中将)に対しては周蔵側から手伝ったことが多い。甘粕が紹介してくれた辻政信(陸軍大佐・参院議員)とも親交があり、甘粕中尉に頼まれて、潜伏中の伊達順之助(満州軍上将)を匿ったこともあった。

芸術家では藤田嗣治(画家)と関係が深く、その関係からジャン・コクトーと連絡が絶えなかった。国内画壇では熊谷守一と親しく、佐伯祐三との間には御存知のような複雑な関係があった。少年時代には、白樺派の作家武者小路実篤(作家)、志賀直哉(作家)と遊び、浜田庄司(陶芸家)とはその後も交流があった。薩摩治朗八と知り合い、その紹介で徳田球一(共産党書記長)も訪れてきた。

市井に隠れた無冠の人物としては、石光真清(陸軍の諜報機関長)、牧野三尹(医師)、若松忠次郎(財界人)、若松安太郎(本名境誠太郎)、布施一(無職)、落合朝彦(音楽評論家)が知己であった。いずれも秘かに国事に尽力した人物である。

さらに藤山愛一郎(外務大臣)、武見太郎(日本医師会会長)、岸信介(首相)、前尾繁三郎(議会政治家)らとも、関係があった。変わったところでは、渋沢敬三(元日銀総裁)とは秘かに助け合いしたことがあった。

・・・・・
貴志彌次郎を従来の史家は田中儀一派と理解しているが、実は上原派だった。上原派は「栄誉なんて関係ない。日本の行く末をきちんと決めるのがワシの仕事だ」と唱える総師上原勇作元師の下に、石光兄弟、貴志彌次郎、甘粕正彦、鎌田彌助など一騎当千の強者が、上原の命であることを隠したまま働いていた。周蔵もその一人だった。

<美術業界の気風>

◆起るべくして起きた佐伯真贋事件

わが国の美術業界が、うわべはともかく、実際には真贋の研究を疎かにしているのは事実です。美術業界の原点はどこにあるのか知りませんが、どうも伝統的な茶道具屋の気風を受けたフシがあります。茶人が自己の好みで眼前の一品に着目し、その茶趣を愛して茶席に用い、また珍蔵するものが茶器ですから、流通市場で求める時にも自己一個の嗜好と茶識のみによるべきもので、また名物を求めるのも先人の風格を慕うためですから、いずれにしても器物の真贋を問うのは筋違いになります。つまり、「自分が気に入ったら、それでいい」のを原則とする茶道具の取引においては、真贋問題は本来起りえない筋合です(実際はそうでもないが)。

ところが、絵画とくに近代洋画はそうはいきません。絵画は単なる物質的表現として鑑賞すべきものではなく、作者の個性や背後の社会相、時代性との関係において制作動機や精神を「読むべき」対象とされますから、「誰がいつ描いたか」が本質的に問題とされるのです。言い換えれば、絵画はその作者との関連において鑑賞され、作者は帰着された作品集によって評価されるのですから、真贋(作品と作者の一致)はたしかに、最も重要な要素となります。

わが国の洋画業界は、永らく茶道具屋精神に影響され、真贋を曖昧にする習いから抜け出なかったようです。真贋の科学的な研究よりも、蒐集家の嗜好を尊重する礼儀の方を重んじれば、それに便乗して倣造品や贋作を売りつける手練者が出てきても当然ですが、いったん流通場裡に投じられ、美術館に収まった贋作を、この世界はいまだに排除しようとしてきませんでした。ところが、近年洋画の国際交流が深まるとともに、贋作の吟味が始まり、つれて真品と贋作の正面衝突も避けられなくなりました。贋作や倣造作が大手を振って通ることにより、真作が却って偽作の誹りを受けているからです。

武生市の佐伯真贋事件は、そんな中から起るべくして起きた事件であります。

◆吉薗佐伯は「真作」

本書中では吉薗佐伯の真贋には敢えて触れませんでしたが、小生の結論は言うまでもなく「真作」です。したがって、いわゆる山発佐伯を中心とする公開品の大半は「祐三原画・米子加筆」であり、なかには「他人原画・米子加筆」も多いことを断言して憚りません。それについては近々、詳細に分析して証明した別書が刊行されるはずです。

Line1

◆吉薗佐伯 真贋事件から4年経って・・・

落合莞爾 【佐伯祐三:調査報告】

 序論 佐伯祐三の画業

洋画の天才佐伯祐三の事績については、『周蔵の手記』『救命院日誌』のほか多くの資料が吉薗家に残されていた。いずれも極めて信憑性の高い一級資料である。私(落合)は平成八年三月以来、月刊雑誌「ニューリーダー」に連載中の「陸軍特務吉薗周蔵の手記」のなかでそれらを解読してきたが、佐伯の画業そのものには触れなかった。それは美術専門家の出現を待っていたからであるが、すでに四年に垂んとするのに、誰も名乗りをあげなかった。佐伯の画業に関する真相の究明をこれ以上放置することは、読者の期待を裏切るほか、社会の損失を招くものであるから、自らの浅学を知る身とはいえ、敢えて吉薗資料を整理して佐伯の画業を追求し、いわゆる公開作品と吉薗佐伯との関係を明確にしようと思う。
..........
田中・宮崎前掲は、「郵便配達夫」について「人物の足や壁の線の変更が認められる」とする。そのX線(参考写真)が示す原画は、確かに祐三自身の作と考えられる。その根拠は、この傾いた地平感覚こそ、祐三が持病メニエール氏病の症候を逆利用したものだからである。ところが、これでは一般鑑賞家の共感を呼ぶことが難しいと考えた米子が、日本人コレクターにアピールしようとして、念入りに修正したものと断言していい。

・・・続き  目次

◆‘二人の佐伯祐三’で引っかかった2ch過去ログ

221 名前: わたしはダリ?名無しさん?  投稿日: 02/10/13 03:24
   
今 武生のプロ市民が書いた多分自費出版だと思うが「二人の佐伯祐三」って本を読んでる いやぁ初めてプロ市民を見直したよ(w 落合さんにも一度読んでみて欲しい(プッ

ちょっとだけ抜粋
宮崎県在住の吉薗周蔵の甥・吉薗勝郎の話によれば

一、『自由と画布』に書かれている叔父の経歴は全くデタラメ。なぜこんな事を書くのか分からないし理解できない。吉薗明子に『自由と画布』の二号以下はいらないと断ったら、それっきり明子から連絡はない。

ニ、自分(勝郎)が知っている叔父周蔵は地元の小学校を出たあと、家で農作業をしていたうように思う。中学へ進んだという話は知らない。まして明子が書いているような留学の話など、誰からも(父やほかの親戚)聞いたことがない。嘘とわかる経歴を書いた本が出まわると恥ずかしいし迷惑だ。

三、周蔵は農業の傍ら国鉄吉都線の工事に従事、日雇労務者として働いていた。そのとき自分たちが汗を流して働いているのに、何もしないで突っ立ている人間がいる。先輩にあの人はなんだと尋ねると測量技師だと教えてくれた。それなら俺も測量技師になるといって、熊本の鉄道学校へ進んだという。 『二人の佐伯祐三』馬田昌保より

土方からスパイとは誰も気付かんわな(爆

227 名前: 落合 莞爾 NO.1  投稿日: 02/10/24 22:51

落合さんに 221の内容をメールしたら、返事が返ってきました。

普段は2chなるものは読んでいませんが、いろいろと情報が入ってきます。
真贋論争は大いに結構ですが、節度ある討論をお願いします。

まず、「二人の佐伯祐三」について。これは馬田という福井の地方作家が真贋事件の当に時出した本です。内容について、私は一応めくりましたが、内容は問題にする必要もないコジツケばかりですから、全部については目を通していません。しかし一点だけ興味を引いたのは、武生市に一旦寄贈した吉薗資料が返却されたなかに、返却されてこなかった葉書があり、そのうちの一枚で周蔵が書いた葉書が馬田の著書に掲載されています。馬田はそれを著書のなかで、吉薗明子の夫の正樹が偽書したと主張するのですが、これはむろん明らかな誤り、コジツケです。それより問題は、なぜその葉書が馬田の知る所となったかで、物的な証拠はないが「当時の反市長派の市役所職員が市役所から盗み出して、馬田に渡したもの」と推定するのが最も自然です。馬田のこの本は洋画商組合が3000冊購入して会員の各画商に配ったといわれており、当初から贋作宣伝を目的として誰かから請け負ったものであることが窺われます。

刊行の時期は私の著書と前後していたが、その内容たるや当時東京美術倶楽部側の依頼により吉薗攻撃を請け負っていた小林某が日向や遠野など各地を実地調査してこさえたものを利用した部分が多く、武生市役所さえ相手にしていませんでした(私が市の幹部に確認しました)。しかし当時の反市長派(現市長)は小泉市長を攻撃する絶好の材料として、確たる理由もなく吉薗佐伯贋作を主張していたので、利害打算の上で馬田とドッキングしました。つまり、画商・反小泉派・馬田が三位一体となって贋作説をぶちあげたわけです。その間の事情の一端は私の著作「天才画家佐伯祐三真贋事件の真実」に明らかですが、わたしが敢えて馬田の著書だけは無視し、その後も批判の対象に取り上げなかった理由は、小林某の悪意のリークを利用しただけで小林頼子よりも次元が低く、こんな著書を批判対象とすると当方も格が落ちてしまうことを怖れたからです。

吉薗の日向の親族については、「周蔵手記」で明らかなように、父の林次郎(つまり日向の親族の曾祖父)からの示唆で、儲けたカネは絶対に田舎に送るなと、きつく云われていました。周蔵が生前からまともに相手にしてくれなかったことを親族たちは恨んでいるらしく、また、吉薗明子が「自由と画布」を編むに際して電話で質問をしたところ「三千万なら用意したから」といきなり云われたとのことで、親族たちには地元に残された吉薗家の財産に関しても何らかのウラ事情があるようであります。それが周蔵に対する悪意や明子に対する警戒心となって、小林頼子や小林某の質問に対して、悪意ある発言をしたとしても不自然ではないでしょう。周蔵の行動はすべて「ニューリーダー」で明らかで、鉄道学校に入学した事情や、仕事の内容については前田治兵衛を通じて真相(ケシの栽培)を誤魔化す噂を流したことなどを読み返して下さい。 

吉薗手記の語る大正~昭和史

20080906

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