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2008年9月27日 (土)

052『コーヒーが廻り 世界史が廻る』 臼井隆一郎 初版1992年

近代市民社会の黒い血液
20080926

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概要

コーヒーという商品の歴史をその最初から現在まで辿ってみようなどと考え始めた直接のきっかけは、1977年秋、ベルリンで開催された「ワイマール共和国展」で見たブラジルのコーヒー豆を燃料に走る機関車の写真であった。もともとコーヒーというテーマが連想させる話題は多岐にわたっている。それやこれやでコーヒーの歴史を調べ始めたのであるが、気がつくとドイツを遠く離れ、妙なオフ・ロードにはまり込んでいた。

東アフリカ原産の豆を原料とし、イスラームの宗教的観念を背景に誕生したコーヒーは、近東にコーヒーの家を作り出す。ロンドンに渡りコーヒー・ハウスとなって近代市民社会の諸制度を準備し、パリではフランス革命に立ち合い、「自由・平等・博愛」を謳い上げる。その一方、植民地での搾取と人種差別にかかわり、のちにドイツで市民社会の鬼っ子ファシズムを生むに至る。コーヒーという商品の歴史を、現代文明のひとつの寓話として叙述する。

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読むきっかけ&目的&感想

あたしは2004年まではどちらかというと紅茶党だったけど、2005年1月から(すっごくミーハーなきっかけで)コーヒー党に変わった。それ以前から持っていたエスプレッソ・メーカーに加えコーヒーメーカーとミルを購入し、フレーバー・コーヒーも含める色々な豆を試したり、旅先でコーヒー豆を買って帰るようにもなった。あたしはすっかりそのアロマと味のファンになった。まぁ、コーヒーはクセになるから、単にそのせいもあるけど・・・(笑)。

そんなあたしは、時々、コーヒーについて書かれた本も手に取るようになった。コーヒーそのものについて書かれた本も、コーヒーのあるシーンについて書かれた本も、とても面白い。なので今回は、コーヒーの歴史について書かれた本を読んでみる気になった。

さくら好み ★★★★☆

あたしはイタリアに行った時、とびっきり甘いケーキを食べるのと同時に、たっぷり砂糖を入れてエスプレッソを飲む人たちに辟易した覚えがある。現地に住んでいる知人に「なんで?」と聞いたところ、「イタリアでは料理に砂糖を使わないから、糖分をまとめて取るからじゃないかな」なんて言われたっけ。 。。。タンザニアに行った時、チャイのような紅茶は幾度となく出てくるのに、キリマンジャロ・コーヒーのお膝元であるにもかかわらず、コーヒーって出てこなかったけどなんでだったのかなぁ・・・。 。。。とか、色々と思い出しながらとても楽しく読んだ。

それに、文章自体がとても面白かった。それは、コーヒーのある情景が、頭の中で像を結ぶ語り方になっていたからだと思う。

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覚書

Sufi_3◆スーフィーの詩

右画像は、コーヒーを飲みながら語らう4人のスーフィー〔レンブラント・ファン・レイン。アムステルダム、1642年。ロンドン、ブリティッシュ・ライブラリー蔵〕。

  
13世紀の高名なスーフィー詩人で、踊るメヴレヴィ教団の開祖であるジャラール・ッ・ディーン・ムハマド・ルーミーは深夜、輝く星座のもと神性の訪れる時間を次のように歌っている。

眠るな 稀人 わたしの思想よ 今宵は
  そのやさしい励ましの言葉に感謝しよう 今宵は

汝 天使の息吹 天から降り落ちるようにわたしに立ち昇る
  汝は医者 わたしは病夫 今宵は

まどろみを追い払え 秘密が聖域をいで
  われらが血に立ち入らんがために 今宵は

明るく旋回せよ 天体の星たちよ 光へと
  渦巻きながら魂が昇らんがために 今宵は

宝石よ お前たちの墓所から輝き出て
  甘美ないさかいとなって星に向かえ 今宵は

羽ばたき上がれ 我が鷹 太陽へと向かえ
  闇のなかでためらうことはない 今宵は

ありがたい みなは眠っている 神とわたしだけが
  この仕切られた場所に立っている 今宵は

夜が 太陽のように明るくやさしく輝く
  わたしが目をそらさぬようにと 今宵は

なんという賑わいが明るい星の広場に目覚めていることか
  すらりとした黄金の琴が鳴る 今宵は

獅子と牡牛と山羊 それにきらきら光る
  オリオンの刃が光を競って輝く 今宵は

さそりと蛇は逃げ 冠が合図を送り
  乙女は美酒で華やかに元気づける 今宵は

黙して舌を縛ろう 喜びに酔い
  舌を動かさず 語れ 思想 今宵は

(フリードリッヒ・リュッケルトのドイツ語訳による)

◆イスラームにおけるコーヒー

歴史に残るコーヒー弾圧事件「メッカ事件(14世紀初頭)」は一件落着した。コーヒーが大手を振って人々の前に現れることになれば、コーヒーがワインとは別物であることの承認は時間の問題であった。確かにコーヒーがワインに似た陶酔作用をもち、人にメンタルな変化を与えるのが事実であったとしても、コーヒーは葡萄の房から作られるものではない。イスラームの食事作法に違反するコーヒーの飲み方は次第に特例とされていく。

意外に長く尾を引いた問題は、コーヒー豆が炭ではないかという疑念であった。コーランにはもちろん、コーヒーに関する記載はない。しかしコーヒーにとって不利なことは、コーランが炭を食することを禁じていたことである。コーヒーに異を唱える人々はこの点に論拠を求め、コーヒー禁止を求め続けたのである。この議論に終止符が打たれたのはようやく17世紀に入って、アハメッド1世の下で宗教的権威たちが、コーヒー豆は炭と呼ばねばならぬほど強度に焼かれていない、という統一見解をまとめ上げることによってであった。

コーヒーは炭とは違うという差異の確立によって、コーヒーはイスラーム世界で公的認知を受け、ひいては世界的な商品となる障害を乗り越えたのである。

ベイの弾圧をはね返したメッカは、コーヒーのメッカになった。メッカは全イスラーム世界の中心である。一生に一度はメッカ巡礼を行うイスラーム教徒たちは、カーバ神殿の黒石に接吻し、ザム・ザムの聖水を飲み、そしてもう一つの「黒いザム・ザムの聖水」を飲む。イスラーム世界。それはオスマン・トルコ帝国がスレイマン大帝の治世(1520 - 66)を迎えてますます強大化し、膨張の一途を辿っている。16世紀は世界史的に「トルコの世紀」であった。つい先ごろアラビア半島の南端に出現したコーヒーは、「イスラームのワイン」として世界への伝播に向かうべく、スタート・ラインのセンター・ポジションに位置を占めたのである。

◆「コーヒーの家」の魅力

エジプトのカイロで、イエメンのスーフィーたちのコーヒーを飲む姿が見られたのは16世紀の初頭であった。オスマン・トルコ帝国の首都イスタンブールには1554年、ハクムとシャムスというシリア人によって二軒の「コーヒーの家(トルコ語 カーヴェハーネ kahvehane)」が建てられた。その数はたちまち増え、スレイマン二世の治世下(1566 - 74)のイスタンブールにはすでに600余り「コーヒーの家」があった。そこには、ある意味ではコーヒーの本来性とは矛盾する事態が進行していたともいえる。あの現世否定の権化で非社交的なスーフィーによって生み出され、命名されたカフワが、社交の場を形成していたのである。

もともとコーヒーは、コーヒーを飲む特別の空間を必要としているわけではない。コーヒーの本来の「使命」はモスクワや宿坊で夜、聖人や在俗の信者たちが神に祈りを捧げる聖なる時刻に飲んで眠気を払うことにこそあった。しかし、アラビアに生まれた「コーヒーの家」という、コーヒーとともにヨーロッパの市民生活に重要な彩りを与えることになる制度もまた、極めてイスラーム的な制度である。

「コーヒーの家」に行くのは、コーヒーを飲みたいからとは限らない。家を離れ、公を離れた気楽なひとときを1人であれ、仲間と一緒であれ、好きに過ごし、人を見、人に見られ、話しかけ、話しかけられ、自由に語り、楽しければ楽しみ、つまらなければ帰ればよい。そのような場所の持つ魅力が人々を引き寄せたのである。

もちろん、コーヒーの生みの親である、禁欲的で反社交的なスーフィーたちは「コーヒーの家」に反感を示していた。当然である。コーヒーは神との合一を促進するものであり、のんべんだらりと人間相手に慎みもなく暇をつぶすのは、「欲望を払い、世の虚飾を慎む」カフワの本義に反するであろう。

しかし、そうはいっても、その「コーヒーの家」が、たとえば回教歴の9月、イスラーム教徒が日の出から日没まで断食する月に特に活況を呈したとなれば、「食欲を払うカフワ」は「コーヒーの家」でもその本来の「使命」を果たしていたともいえるのである。やがて「コーヒーの家」には宗教界や政界の顕職にある人々も出入りし、また学者や詩人の参集する「認識の学校」となって、イスラーム社会の中で疑う余地のない正当な制度としての位置を占めるのである。

◆コーヒー文明は「ムッシュー資本とマダム大地」の正嫡

コーヒーの木は年間を通じて霜のおそれのない温暖な気候と、年間1200ミリの降雨量を必要とする。この条件を備えた谷間や傾斜面は、幸福なアラビア、イエメンといえども限られていた。イエメンのコーヒー栽培の規模はほとんど牧歌的な家庭菜園といった程度であり、産出量はその最盛期においても年間1万トンを超えなかった。しかし、ここにはすでに将来、世界中のコーヒー栽培で大規模に繰り返されるであろうものが原型的に印されている。畑を開拓し、十分な灌漑施設を作り、強過ぎる日光や害虫から守るためにコーヒーの木の周りには背丈の高い木を植える庇護処理を施す必要もある。コーヒー生産の工程は複雑なだけではない。金がかかるのである。

さらに決定的なのは、コーヒーの木が植えてから実を植えてから実をつけるまで5年ほどかかり、その間、収益が見込めないことである。コーヒー栽培は一定の資本の蓄積を前提にしてはじめて可能であり、その意味ではコーヒーという商品は最初から資本と歩みをともにする必然性が刻印されている。コーヒー文明は「ムッシュー資本とマダム大地」の正嫡である。

コーヒーを飲む習慣はたちまちのうちにアラビア、ペルシャ、トルコのイスラーム世界をはるかに越えて、南アジア、そして南東アジアへと広がる。「コーヒーの家」(カフェ)もまた、アラビア世界に広まるのとほとんど同時にヨーロッパに普及し始めている。増大の一途を辿る需要に対して、コーヒーの唯一の供給源は依然、イエメンだけである。イエメンは世界市場に独占を誇った。コーヒーは高値を呼び、イエメンは潤う。幸福なアラビアの楽園時代である。

◆コーヒー交易は最初から豊かな国際性に彩られていた

「アラビア・モカ」という名称は、コーヒー文明の持つ独特な問題を如実に示している。アラビアで採れるコーヒーが、その積み出し港の名をとって「モカ」と名乗ることになったということだけであれば、格別の不思議はない。「モカ」がイエメンのコーヒーを代表することになったのはひとえに、ヨーロッパ中心主義の歴史観による。というのは、モカの特殊性はこの港だけはイギリス、オランダ、フランスなどヨーロッパの船舶が直接寄港を許され、買い付けを許可されていたことにあるからである。

コーヒー交易は最初から豊かな国際性に彩られていた。商品交換は共同体の果てるところに生じ、それを取り持つのは商人である。初期のコーヒー交易を司っていたのは、モカやアデンといった南アラビアの小都市の商人であった。それは必ずしもアラビア人である必要はない。アラビア世界に古来住みついて、商業活動に携わっている人々といえばユダヤ人である。

たとえば、今日に残されたおそらくは最古のコーヒーの歌も、17世紀、イエメンのユダヤ人商人の間で歌われた『コーヒーとカート』という、アラビア文字で記されたヘブライ語の歌である。ちなみにボブ・ディランも『ワン・モア・カップ・オブ・コフィ』で、旅立ちの前に飲む一杯のコーヒーをイスラエル旋律を思わせる節廻しで歌っている。アメリカ、ミネソタ州にユダヤ人商人の息子として生れたロバート・アレン・ジンマーマン(本名)の血には、ことコーヒーを歌う以上は「嘆きの壁」を前にした祈りのような旋律に乗せなければ気がすまない何かが流れ続けているかのようえある。

◆第三世界の食料不足が構造化

オランダのコーヒーの主流になるのはジャワである。1680年、バタヴィア総督ファン・ホルンがジャワにコーヒーを栽培する計画をたて、モカからコーヒーの苗木を取り寄せた。香辛料の島はコーヒーも繁盛させることになったのである。これがジャワ・コーヒーで、バタヴィアからアムステルダムへ産地直送。こうして1712年、最初の船荷、894ポンドのコーヒーがアムステルダムとミッデルブルクで競りに出された。アラビア商人の介在しない「植民地コーヒー」の誕生である。コーヒー栽培は急速にオランダ東インド会社の収入の一大源泉となり、バタヴィア総督は大いに称揚された。ジャワ・コーヒーの風味、色、アロマはヨーロッパで好評をもって迎えられ、たちまちのうちにスタンダード・コーヒーの地位を確立する。

しかしオランダの商人が、従来のようにコーヒーをできるだけ安くアラビア商人から買い受け、競争者を排除しながらできるだけ高く売るという方法に代えて、みずからの手でコーヒーを生産するという方法を取った時、コーヒーはヨーロッパの植民地主義の歴史を黒々と湛える商品となり、文字通り地球上の自然と人間を改造する近代の代表的商品となる道を歩み始めたのである。

ジャワは古来の米作地帯であった。そこに西欧人がやって来て、主食の稲作をコーヒー栽培に振り向ける。ヨーロッパの市場に向けて商品を生産する第三世界の食料不足が構造化される。私腹を肥やす土地の支配者がヨーロッパ的水準以上の豪奢な生活を楽しむ一方、食う米すらなく、一地域全体が飢餓のために死滅する。商品生産はみずからの使用を禁じられた交換価値の生産である。第三世界の基本的産業構造がヨーロッパの「消費欲望」に応じて形成され、しかもその商品は一面的に世界市場に依存し、国家の自律的経済に多大の困難を与えるという、今日の第三世界に残る問題の基礎が敷かれる。これが、やがてヨーロッパを華麗に彩るであろうカフェ・コーヒー文明にコーヒー豆を供給する生産者側の姿の原型である。

◆われらを自由で醒めた国民にする

コーヒーとコーヒー・ハウスを湛える詩はうたっている

意見を異にする人々の熱気にむせかえる場では
言論の自由は許されてしかるべきもの
それこそがコーヒー・ハウス なぜなら他のいったいどこで
これほど自由に談ずることができよう
コーヒーと共和国(コモンウエルス)とはともに同じコの字で始まり
改革のために手に手を携えて
われらを自由で醒めた国民にする

コーヒー・ハウスは新しきものの生まれ出るかいばおけであった。近代市民社会の多くの制度はそこで準備された。しかし、コーヒー・ハウスはまた、そこに出入りする人間を近代市民社会向けに改造する場所でもあった。コーヒーは人を醒まし、理性的にし、人をお喋りにする液体でもあるとされた。

無論、本当の因果関係は反対であり、人々を引きつけたのはコーヒーと呼ばれる苦い飲み物それ自体というよりは、新種の「公共の場」の魅力であり、真の商品は情報であった。ともかく午後6時ともなれば、コーヒー・ハウスの部屋は人で溢れ返る。人に会い、お喋りし、歓談し、仕事上の用件を済まし、そしてなによりもまず政治上のニュースを聞き、重要な出来事について話し合い、検討するためにコーヒー・ハウスに寄り集まってくる。

◆コーヒー・ハウスで磨かれた会話能力

コーヒー・ハウスが自由気儘な空間であるとはいっても、一つ重要な規制があり、それが前近代的庶民からある能力を搾り取るように引きだし、近代市民を形作るのに大きな力を発揮した。会話能力である。コーヒー・ハウスでは様々な人々が集って形をするとはいっても、17世紀のロンドン市民がすべて、いかに会話すべきかを心得ていたわけではない。

「規制と礼法」は、コーヒー・ハウスで避けるべき不謹慎な行いを数え上げている。トランプやさいころ遊びを禁じた他に、罵り声や叫び声を「悪魔の仕業」として戒めている。近代市民社会は、公共世論を担うにたる会話能力を備えていない人間を望まない。黙っているとバカにされる社会である。

顧客の層が多様であることがコーヒー・ハウスの魅力であり、そのことによってのみ、社会情勢や政治動向、商売の成り行きから文芸に至るまで、変化に富んだ、予想もしない顚末を備えた会話や討議が可能となったのである。宮廷社会的なまだるっこしいバカ丁寧さは無用であった。ここでものをいうのは、情報の内容であり、会話のスピードであり、コミュニケーションであった。コーヒー・ハウスは、忙しいビジネス社会にふさわしい会話技術を教える話し方教室でもあったのである。

会話は思考に跳ね返り、新たな時代の精神を目覚めさせた。時代の精神に表現を与える作家たちがコーヒー・ハウスに通ったのはいうまでもない。何軒かのコーヒー・ハウスは、著名な詩人たちの出入りする場所として有名になった。

17世紀から18世紀にかけて、コーヒー・ハウスは文学者の生活の中心を占めると同時に、近代市民社会の住民を、判断し批判する公衆に押し上げる一翼である「読者層」を創りだす拠点でもあった。この「読者層」とはなによりもまず、「自分の家でよりも多くの時間をコーヒー・ハウスで過ごす立派な市民」のことである。彼らは簡潔な文章で意見を表明する技術を学ぶ。というのも、「耳は目のように長い文章を追うことができない」からである。コーヒー・ハウスは彼らに異なった意見を交換することから、彼らの公的見解を形成する技術を習得させたのである。

自分の意見をもっぱら他人の意見を拝聴して作り上げた人間が、おのれの判断能力をもっぱら読書を通して養った人間よりも優れているとは、本来とても言えないはずである。しかし前者が柔軟性に富み、敏捷性に優れ、社交性に溢れ、一言で言えば、時代にフィットするタイプであることは疑いない。

◆ドイツの代用コーヒー

1763年2月、東西奔走の7年間を終えて、ベルリンに帰ったフリードリッヒ大王を待ち受けていたのは、戦禍に荒廃した領土を復興させる大事業であった。プロセインは軍国である。軍国というのは強大な軍隊組織の維持のために経済が圧迫される国のことである。戦争によって確保した権利も、国土に産業を育成しなければ無に等しかった。フリードリッヒ大王の経済政策は重商主義である。輸入を抑え、輸出を増やすことがまずもっての要諦である。しかし愚にもつかない輸入品があった。コーヒーである。

ともかくコーヒー消費は徹底して抑えなければならない。この基本的施政方針の中で急成長を遂げるのが、代用コーヒー産業であった。

チコリの葉はサラダに、根は代用コーヒーに。これこそ質実剛健をもって鳴る「プロセイン社会主義」の精神に合致するものであった。以後、プロセインの化学工業は競って代用コーヒーの開発にいそしむのである。麦芽、大麦、ライ麦、サトウキビ、いちじく、イナゴ豆、南京豆、大豆、ドングリと、およそ陸の幸一切からコーヒーを作り出すのである。陸の幸ばかりではない。海の幸だって使う。海草から作ったコーヒーが出廻っている。健康に良いとばかりはいえなくなる。健康に害のある原材料からコーヒーを作るのを禁じる法律も整備される。ともかく化学産業を誇るドイツの熱意は凄まじく、「ドイツのコーヒー」といえば長い間「代用コーヒー」の総称である。

Blmchenkaffee ちなみに本物のコーヒーを飲もうとする庶民の対抗策はただ一つ、少量のコーヒーを最大限に薄めて飲むことであった。「コーヒーのお湯割り(Kaffepantsch)」である。焼酎と一緒にするなと怒ってみても始まらない。優雅な言い方をすれば「小花コーヒー(Blümchenkaffee)」。当事、底に小さな花模様を描いたマイセン焼きのコーヒー・カップが流行していたが、コーヒーの透明度があまりに高いために、底がきれいに透けて見えるからであった。

ところでナポレオンは、今やコーヒーの流通を一切禁じるというのである。西インドからもジャワからもコーヒーは来ない。海が封鎖された(大陸封鎖)のである。本当に封鎖できているかどうかのバロメーターはコーヒーであった。たまに密輸入のコーヒーが市場に現れたとしても、フリードリッヒ大王の昔と同じようにふたたび庶民には手の出ない高値をつけていた。庶民の手元に残ったのはふたたび「ドイツのコーヒー」だったのである。なんでもいい。一つとして持続的に飲まれない以上、次から次へ発明と開発の手が加えられた。

キク芋、ダリヤの球根、タンポポの根、ゴボウ、菊の種、アーモンド、エンドウ豆、ヒヨコ豆、カラスノエンドウ、エナゴ豆、トチの実、アスパラガスの種と茎、シダ、小判草の根、飼料用カブラ、トショウの実、アシの根、レンズ豆、ヨシの穂軸、野生のスモモ、ナナカマドの実。まだまだある。ヘビノボラズ、サンザシの実、クワの実、西洋ヒイラギの実。焼いてみて多少、褐色の焦げ目がつけばなんでもいい。文字通りやけくそである。カボチャの種、きゅうりの本体、ひまわりの種。これですべてではない。しかしもういいであろう。いかにもドイツらしいのを一つだけ付け加えておけば、ビールのホップからコーヒーを作る試みもある。大地の糧が、というよりは、大地そのものがコーヒーを名乗りかねないような勢いである。ドイツ語ではこうした代用コーヒーを「ムッケフック(Muckefuck)」といい、おおよその語源的意味は「朽ち果てた褐色の大地」である。赤面したくなる。しかし赤面してはいけない。この程度で赤面していては、この国とつきあってはいけないのだ。ともかく、これがナポレオンの大陸封鎖の結果であった。

◆コーヒーに砂糖

イスラム・スーフィズムのコーヒーは本来苦いものであった。砂糖を入れるようになったのはトルコにおいてである。さらにヨーロッパの甘ったるいコーヒー・ケーキ文化に決定的な影響を及ぼしたのは、ヴェネチアである。古来ヴェネチアである。古来ヴェネチアはヨーロッパの砂糖貿易の中心地であり、エジプト、キプロス、シリアなどから入る砂糖の玄関口であった。ここにはすでに1150年に砂糖菓子店が生れていた。そして他ならぬこのヴェネチアの聖マルコ寺院前の広場の一角に、イスタンブールを別にすれば、ヨーロッパ大陸で最初の喫茶店(1648年)が生れたのである。以来ヨーロッパのコーヒーが、砂糖およびケーキと分かち難い運命を荷うことになったのである。

事情はドイツでも同じである。ドイツ人のコーヒーの飲み方の特色を手っ取り早く知るためには、バッハの『コーヒー・カンタータ』(1732年)を一度聞くだけで十分である。娘役の歌手が「コーヒーは千のキスよりも甘い」とキンキン声でウンザリするほど繰り返している。要は、ドイツのコーヒーは砂糖がたっぷり入って甘く、かつ声部、つまりコーヒーを愛好する層は、ロンドンの「泥水をすする蛙」のテノールに代わって、もっぱらソプラノの受け持ちになったのである。

◆「コーヒーはポルトガル語を話す」

ナポレオンの出現と大陸封鎖がコーヒー文明に与えた世界史的規模の影響に比べた場合、ドイツだのベルリンだのはローカルな話題でしかない。「コーヒーはポルトガル語を話す」という。われわれは、コーヒーの発するポルトガル語の産声に耳を澄ます必要がある。

ブラジルという独立国家の存在自体が、すでにナポレオンの大陸封鎖政策を抜きには考えられない。1807年、つまりベルリン勅令の翌年の7月、ナポレオンは大陸封鎖の一方の要となるポルトガルに対して、そのすべての港をイギリスに使用させないよう要求した。そして11月、これに従わないポルトガルに対してジュノー将軍の率いる軍隊を送り、リスボンを占領。一方、ポルトガル王室は、イギリス海軍の保護のもとに海を渡り、植民地ブラジルに新たな王室所在地を求め、こうして1808年から14年間、リオ・デ・ジャネイロがジョアン6世のもと、ポルトガルの首都となったのである。

ナポレオンが去り、ポルトガル本国がブラジルをふたたび元の植民地に戻そうとしても、すでにこの間、支配的権力を手中に収めていたブラジルの大土地所有者や資本家が反対したのはいうまでもない。1821年にポルトガルに帰国したジョアン6世がブラジルに摂政として残した息子のドン・ペドロは、翌1822年ブラジルの独立を宣言し、ペドロ1世を名乗った。ヨーロッパ大陸で各国のコーヒー文化に圧迫を加え続けたナポレオンは、大西洋の彼方、優にヨーロッパに匹敵する広がりを持つ未開の大地に、やがてコーヒーと運命を共にする国家を誕生させたのである。

大陸封鎖は「19世紀における砂糖とコーヒーの世界史的意義」に決定的な変化をもたらしていた。大陸封鎖は、従来海外からの輸入に頼っていた製品をヨーロッパで自給自足させる努力と不可分に結びついている。代用コーヒー開発の狂おしい努力については見た通りである。しかし結局、本物のコーヒーを凌駕する代用コーヒーはできなかった。しかし他方、ヨーロッパは従来、輸入に頼っていた砂糖の自給自足に道を開いていた。

ブラジルにコーヒーが入ったのは1727年だといわれている。しかしコーヒー栽培は必ずしも急速に広がりはしなかった。1500年にポルトガル人によって発見されたブラジルはその後、もっぱらヨーロッパ市場に向けて商品を生む典型的なモノカルチャー構造の経済を展開していた。初めがブラジルスオウ、そして砂糖、金とダイヤモンドと、それぞれヨーロッパにおいて珍重される商品の輸出は反対にヨーロッパ諸国の工業製品の輸入をもたらし、ブラジルに手工業の発展する可能性を押し潰すことになっていたのである。そして砂糖の雲行きが怪しくなった今、新たな輸出品目として注目を浴び始めたのがコーヒーであった。ブラジルは、北半球のヨーロッパが決して自給自足に成功しない商品、コーヒーの栽培へと大転換するのである。

1818年、ブラジル産の7万5000ポンドのコーヒーが初めてヨーロッパ市場に現れた。ブラジルのコーヒーは特に人目を引く量ではない。しかし、やがてヨーロッパの目をブラジルのコーヒーに向けさせる事態が生じた。スペインとフランスの間に戦争が予想され、もしそうなれば西インド諸島のコーヒーがふたたびストップする危険が生じたのである。世界の目はブラジル・サントスに注がれた。世界注視の中、ブラジルはやがて世界のコーヒー循環を司る中枢となるべく、逞しく心臓の鼓動を始めたのである。

◆キリマンジャロのコーヒー

キリマンジャロに最初にコーヒーを栽培したのはギリシャ人であった。しかし1903年頃からブーア人、イタリア人、イギリス人が定着し、1907年頃から、東ウサンバラに業をにやしたドイツ人も殺到した。キリマンジャロの南斜面には1909年には合計28プランテーションができ、そのコーヒーの木の全体は75万本であった。そこに隣接するメルにはプランテーションが6、木が20万本であった。1914年にはプランテーションの数は100、木は284万5700本であった。キリマンジャロのコーヒー生産は急速に発達し、今日でも10万の土地住民の高い生活水準の源泉となっている。

◆日本の日常世界を浸し切った黒い奔流

ニューヨークは第二次世界大戦後、ハンブルクに代わって世界のコーヒー取引の中心となっていたが、その一角、グリニッジ・ヴィレッジにもコーヒー・ハウスが立ち並び、新しい世代を発酵させようとしていた。

風に吹かれて上昇気流に乗ったのは、日本のコーヒー・喫茶店文明であった。「むかしアラブの偉いお坊さんが」に始まるコーヒー起源伝説がジャマイカ起源のルンバのリズムに乗って巷に流布し、アラビアとカリブ海に跨る世界史の長い世界史の長い物語を「恋を忘れた哀れな男」の小噺に置き換えて、コーヒーへの関心を引き立てた。と思う間もなく見渡す辺りは一面、コーヒー浸しの観を呈し始めた。

多少の賑わいを見せる通りには必ず喫茶店があり、朝に、仕事始めに、仕事の合間に、仕事仕舞いに、家に帰ればテレビでは数限りないコーヒーのコマーシャルがエキゾチックなコーヒーへと誘い、人通りの途絶えた夜の路地にも自動販売機が煌々と輝く。土着化も進む。「コーヒー風呂」に「コーヒー・ラーメン」、「コーヒー・ラッキョ」に「モカ煎餅」。かつて大洪水の治まったあと、ノアが降り立ったといわれるイエメンの山中から、いわば洪水以後の洪水として流出を始めた黒い奔流は、極東の日常茶飯(コーヒー)の世界を浸し切ったのである。

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著者

臼井隆一郎

1946年 静岡県に生まれる
1972年 東京教育大学文学部ドイツ語学ドイツ文学科卒業
1974年 同大学院修士課程修了
新潟大学教養部助教授を経て、現在、東京大学教養学部教授

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