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2008年9月 4日 (木)

049『甘粕大尉』 角田房子 初版1975年

甘粕にとって天皇と国家と我とは一体であった

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概要 (本書あとがきより引用)

私が甘粕伝を書いた目的は、大杉事件の謎解きではない。“忠君愛国”を日本人の至上の目標として教え込まれた時代の、まっ正直な日本人の典型と思われる甘粕正彦の軌跡を追いたかったのだ。“忠君愛国”を、うむを言わせずたたきこまれたのは軍人だけではなく、日本人全部が、これに従順であるにせよ、反発するにせよ、この堅い土台の上でさまざまな反応を示してきた。

その中で、甘粕は迷わず生きた男である。私は、その生き方が最も正しいと信じられていた時代の中で、甘粕をとらえていった。今日、彼の生き方は否定するほかない。しかし今日の目で、愚かだの、哀れだの、間違っていたのといったのでは、実体は所在不明になってしまう。甘粕はあくまで、彼が自決した昭和二十年八月までの人間である。時代もまた同様で、それらの条件は動かせない。

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読むきっかけ&目的&感想

少し前にNHKで『調査報告 日本軍と阿片』という番組を見た。実は結構知られた事実であるらしいが、日本軍が組織的に阿片を管理売買し戦費に利用していた事を、あたしはこの番組で初めて知った。もう少し詳しく知りたいなと思ったので、ケシの栽培と阿片採取を奨励して廻った「二反長音蔵」、満州の国策である阿片ビジネスでリーダーシップをとった「甘粕正彦」、関東軍と結託しアヘン取引組織を作った「里見甫」について書かれた本を探して読んでみる事にした。その二冊目が本書になる。

さくら好み ★★★★☆

読む前にざっと目を通して見ると、初版が昭和50年(1975年)という事もあってか阿片関係の資料は手に入らなかったようで、特に阿片取引については触れていないようだった。当初期待した阿片云々については書かれていなかったが、読んでみると、関東大地震が起きた大正12年(1923)から、敗戦そして甘粕自殺の昭和20年(1945)まで、日本、フランス、満州と移りながらも、甘粕の過ごした濃密な時間が淡々と語られており面白かった。

中でもあたしが興味を引かれたのは、甘粕や当事の人たちの「感覚」だ。考え方、家族や他者との関係性、国民目線、それらに深く影響する忠君愛国の精神・・・、たった85年前から63年前に過ぎないのにまるで別の国のようだ。本書が執筆された今から三十数年前の筆者の感覚には違和感を覚えない事を思うと、敗戦によって日本人はリセットされたんだなぁと改めて感じた。そしてリセットされたのは日本だけで、中国、北朝鮮、韓国はリセットされていないんだろうって考えたりもした。

それと「情報の在り方」にも怖さを感じた。関東大震災の時、朝鮮人が暴動を企て襲来してくるというデマが流れ、朝鮮人の虐殺が起こったりとか他諸々・・・。今現在は便利になったのだから、情報と上手く付き合いたいと思わずにいられない。 。。

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覚書

◆甘粕正彦(あまかす まさひこ)

甘粕 正彦(1891年1月26日 - 1945年8月20日)は、日本の陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件(大杉事件/無政府主義者大杉栄らの殺害)を起こしたことで有名。短期の服役後、日本を離れてフランスに渡航(その費用を軍が出している)、その後満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満州国建国後は、初代民生部警務司長(満州国における警察機構のトップ)、満州協和会総務部長 (満州国における統一政治組織、戦時の日本の大政翼賛会と同じような組織)、満州映画協会理事長を務め、終戦直後、服毒自殺した。

津中学校(現・三重県立津高等学校)・名古屋陸軍幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、1912年5月に陸軍士官学校を卒業する。士官候補生第24期として卒業(同期には岸田國士がいる)した当初は歩兵科であったが、1918年7月中尉の時に転科し、憲兵中尉となる。歩兵から憲兵への転科は膝の怪我が理由とされ、転科に迷っていたところを上官東條英機と相談し積極的な意見を受けて憲兵となったという。

  • 大杉栄殺害事件 大正12年9月16日 (1923年) 31歳
  • 軍法会議 大正12年10~12月 (1923年)
  • 獄中 大正12年12月~15年10月 (1923~26年)
  • 出獄 大正15年10月 (1926年) 35歳
  • フランス時代 昭和2年8月~4年1月 (1927~29年)
  • 満州へ渡る 昭和4年7月 (1929年) 38歳
  • 満州建国 昭和7年3月 (1932年) 41歳
  • 満映理事となる 昭和14年11月 (1939年) 48歳
  • 敗戦 昭和20年8月15日 (1945年)
  • 服毒自殺 昭和20年8月20日 54歳

◆甘粕に対するイメージ

「あの大震災の時、どさくさ紛れに乗じ、大杉栄と細君伊藤野枝母子三人を絞殺したという、これこそ鬼畜のような暴悪漢を軍部(陸軍)は何とか庇って 刑罰をごまかし、何年かフランスへ亡命させた挙句、誕生した満州国にそっと呼び戻し、彼はそこの黒幕の大立者になっているという規律秩序を踏みにじった話 には、何という腐敗のし方かと腹の底から腹が立っていた」という甘粕に対する先入観は、日本から渡満する知識人一般のものでもあった。

・・・・・

関東大震災が起った大正12年9月、8歳だった私(著者・角田房子)はいま思えば“甘粕大尉”の官舎からほど近い、当事下渋谷といわれた地域に住ん でいた。大杉栄ら三人が虐殺された事件は、幼い私の耳にもはいった。父の「なんともイヤな事件だ」と、にがにがしくいった言葉が、意味もわからぬまま私の記憶に残った。

それから十数年後、今度は“満州国のボス”として甘粕正彦の名を私は聞いた。関東軍が支配する満州国とは、粗暴で残忍な元憲兵が大手を振って闊歩するような、暗い無法な世界なのであろうと、おぞましさを感じた。

その後“甘粕大尉”を思い出すこともなかった私が、突然彼の名を聞いたのは、昭和47年(1972)の暮、防衛庁戦史編纂官であった故稲葉正夫氏(元中佐)から関東軍参謀時代の思い出話をうかがっている時であった。

「違う違う、全く違う」と、稲葉氏は私の甘粕像をまっこうから否定された。「甘粕はそんな男ではない。第一、大杉事件の真相は謎だ。甘粕は自分の意思で大杉を殺したのではない・・・」満州時代の甘粕と面識もあり、職務がら資料にも精通している稲葉氏の話は、何もかも私にとっては意外だった。

<甘粕 日本時代>

◆裁判で先祖が語られる時代

大杉事件(大正12年、アナキストの大杉栄・伊藤野枝とその甥の計3名が憲兵大尉・甘粕正彦らによって憲兵隊に強制連行・殺害された事件)第一回公判、事実審問を終った法務官から弁護人へ「被告に質問はないか」と声がかかると、待ち構えていたように塚崎弁護士が立ち上がった。「被告の先祖について、知っているだけのことを述べて下さい」これが甘粕に向けられた第一問である。

「私の祖先は新田義貞から出たものであります。川中島の戦いのとき、上杉謙信の部下となって・・・」これに続いて、なお二人の間で甘粕の先祖についての問答が続けられてた。川中島の戦いは1555年で、大正12年(1923)からは約370年の昔である。大杉ら3人の殺害事件を審理する軍法会議の法廷で、被告の遠い祖先が語られたことに、大正の人々の生活感情がうかがわれる。それは50年後の今日よりも、過去へ50年さかのぼった明治初期に近かった。現代人の間で3、400年も前の祖先を話題にするのは単に座談であり、閑話であって、もしそれ以上の意味や誇りをもって語れば滑稽といわれよう。

しかし大正時代には、先祖がまだ人々の意識の中に生きて直接の影響力を持っていた。旅館に泊まれば、宿帳の「身分」という欄に士族か平民かを書く時代であった。この裁判の尋問調書にも甘粕は「族称は士族、重太郎従弟」とあり、森は「族称は平民、喜八長男」と書かれている。

◆支那政府に嘘の証言をした日本軍部

関東大地震(1923)からすでに3ヶ月余がたち、平静をとり戻した社会の中で改めてふり返ると、この短期間になんと多くの不法行為が行われたきたことか。朝鮮人の大量虐殺、9人の社会主義者を殺した亀戸事件、王奇天斬殺事件―そのどれもが、真の責任者の処罰もなく葬り去られようとしている。それらが迷宮入りの事件であったわけではない。

震災後の支那人誤殺事件について、支那政府は日本政府の調査、報告に満足せず、王正廷を調査員として日本に派遣し、真相究明に当たらせていた。戒厳司令部に呼ばれた遠藤は王奇天殺害の真相を述べ、これに基いて軍は対策を練った。その結果―遠藤が天奇天に「保護するから亀戸警察に集まれ」というふれ書きを渡したが、王は渡米を希望したのでそのまま放した。その後のことは知らない。渡米したことと思うが、あるいは震災時のドサクサの中で間違いが起こったかもしれない。しかし軍はいっさい無関係―これで押し通そうということになった。警察は斬殺のいきさつをよく知っていたし、王の身柄を引き渡したとき将校が書いた受領書も持っていたが、真相を暴露する気などなかった。結局、事件はウヤムヤに終った。

「当事はこういう雰囲気だった」と遠藤は語る。また兵の朝鮮人虐殺については「・・・・・悪いとはわかり切っているが、しかし当事の兵隊は朝鮮人を一人でも多く殺せば国のためになり、勲章でももらえるつもりだった。それを殺人で裁いてはいけない。責任は、兵隊にそんな気持ちを抱かせ、勝手にやらせておいた者にある。

◆甘粕が背負った多額の借金

刑の確定と同時に甘粕に対する同情が各方面から寄せられ、物心両面の援助の申し出が相次ぎ、「甘粕母堂後援会」として発足した。東條英機、永田鉄山などの先輩から醵金があり、財界人の中にもこころよく寄付に応ずる者があって、間もなく目標額が集ったが、ここで同期生たちを驚かせたのは甘粕が多額の借金を背負っていることであった。調べてみると借金はすべて9月以降のもので、職務上の所轄館内の罹災民救助や、家を焼かれた部下たちの当座の費用に当てられていることがわかった。それを誰にも語らず、個人の借金でまかなっていたことを、同期生たちは「いかにも甘粕らしい」と語り合って、醵金の一部をその返済に当てた。

◆甘粕にとって天皇と国家と我とは一体であった

甘粕はいつの時代も「君国に尽す」ことだけが生き甲斐であり、「斃れるまでご奉公」することが念願であった。獄中日記に彼は次のように書いている。

生き甲斐は、民族の長たり、政治の首長たる皇室、皇室の有たる日本国に、凡てを空して仕ふること・・・・・

陛下を大御神の顕現をみる私には・・・・・

今日は乃木さんの日だ。乃木さんのしりへに従つて乃木さん凡ての基礎たりし天皇教に向かって、私も向上の道を追ふ

甘粕自身が“天皇教”と書いているように、天皇崇拝の念は彼にとって理屈ぬきの信仰であったろう。弟・二郎は「兄は現実的な、合理的な男だったが、その天皇崇拝は、民間人の私には滑稽と感じられるほどだった」と語っている。これは終世変わらなかった。

軍人は一般に、青少年時代にたたきこまれた皇室崇拝の念を、生涯そのまま抱き続けるが、大正以前に教育を受けた軍人には特にその傾向が強かった。甘粕は大尉で軍籍を剥奪されたが、自ら“天皇教信者”と称した彼の精神は、生涯を通じて軍人であった。他の多くの軍人と同じく、甘粕にとって、天皇と国家とは一体であった。

<甘粕 満州時代>

◆満州国承認を否定され烈しい反感を表した日本の一般大衆

リットン調査団による6週間にわたる調査の報告書が日中両政府に交付されたのは昭和8年(1933年)9月30日、それが東京で公表されたのは、国際連盟本部のあるジュネーブと同日の10月2日であった。

報告書の内容は、日本側が予期したとおりきびしいものであった。満州事変の発端となった柳条溝事件(1931年9月18日)については「9月18日夜の日本側の軍事行動を正当防衛と認め得ず」、建国の経緯は「満州国は純粋かつ自発的な独立運動の結果として生れたものとは考えられない」と判断されていた。満州の特殊事情を認めて「単に9月18日以前の原状に回復することも何らの解決とはなり得ない」としながらも、結論としては、日本側の解決案である満州国承認を全面的に否定した。

公表されたリットン報告書に対し、日本人は一斉に烈しい反感を表した。一般大衆がこの膨大な量の報告書全文を読むはずもないし、日本人の感情は今さら満州国誕生の経緯を問題にしていなかった。日本は昭和7年(1932年)9月に満州国を承認し、日満議定書に調印したばかりであった。

すでに建国(1932年3月)の翌月、4月には三井三菱が満州国に2000万円融資の契約を結び、企業は先を争って大陸進出をもくろんでいた。一旗組は続々と海を渡り、8月末の議会では「満州試験移民費(第一次移住費)」が承認されて、どん底の不況にあえぐ農民も満州に活路を与えられようとしていた。印象としては確かに明るい夜明けのような満州国の出現を根本から否定するリットン報告書に、大衆はこぶしを振り上げた。

◆新満州国政府と日本人に対して痛烈に敵意を示した満州住民

リットン調査団は、建国に対する満州住民の民意を重視した。日本側は各省の民衆代表18人を集めて調査団と会談させ、また多くの陳述書を提出した。だが調査団は、これら日本側が選んだ人々の“民意”だけを基にして報告書を作成するほど怠慢ではなかった。調査団は各国領事館を督励して調査資料の収集を行い、非常な困難を排して日本側とは無関係に各界の人々と話し合い、また農民、商人、労働者、学生などから彼らの意見を述べた手紙を集めた。こうして入手した手紙1550通は、2通をのぞき、総てが「新満州国政府と日本人に対し、痛烈に敵意を示していた」と書かれている。こうして「満州濃商民は、満州国のできたことを嫌悪している」という結論が引き出された。

◆侵略意識のない侵略

“満州国の創立者たち”には、侵略という意識はなかった。当時の情況は、東支鉄道の沿線はソ連の支配下にあり、中国本土は二つの政権に分かれて混乱し、満州の張学良政権の腐敗は甚だしかった。その学良政権追い、清朝末裔の溥儀を元首とする国を建て“五族協和の楽土”を実現しようとする日本の計画は、必ずや満州住民に喜び迎えられる―と彼らは自負していた。甘粕もその一人である。

民衆が学良政権の悪政に苦しんでいたには違いない。だが、その前提があったにせよ、中国人が日本の勢力下で、日本人の都合に合わせて提供する“王道楽土”に満足し安住する―と決めるのは独善である。「自由国は表面に支那人を立て」と、とりつくろっても、所詮は関東軍支配下という束縛の中である。

このひとりよがりの裏には、中国人に対する、理由のない、それゆえにいっそう根強い蔑視があった。相手は自分と同じく誇りも感情も意思もある人間だと、確かに認識していれば、歴史も伝統も生活感情も違う中国大衆が、日本製の“善政”をありがたるだろうか―という疑問が生れよう。すでに力強い流れとなって、現に日本に激突していた中国人の民族意識を、どう理解していたのだろうか。

建国の理想の中には「五族協和」があり、建国宣言も「国籍のいかんを問わず各民族平等」の原則を打ち出している。だが、日本の軍人、官吏など指導層をはじめ、特に大挙渡満する一般人に、漢族、満族などに対する平等の意識を期待できたであろうか。日本人一般は満州国「日本の分家」と思い、自分は“本家の一員”という優越感を抱いて渡満した。本家と分家の関係だから、他人とは思わぬ。支援も保護もするが、そのかわり何でも日本に従い、日本のためとあれば犠牲的奉仕をするのが当然―と思っていた。

◆甘粕の財源

大東公司は莫大な利益をあげた。入満する労力から取りたてる手数料が主な収入源であった。一人当りの金額はわずかでも人数は膨大であり、殊に日支事変後は国家規模の土木工事が急増したため、入満苦力の数も増した。甘粕はこの収入を工作費に当てた。甘粕にはもう一つの財源があった。建国に奔走した功に対し、満州国から贈られた熱河の金鉱である。

このように建国後の甘粕はいくつかの財源を持ったが、その収入が彼の手許にとどまったことはない。甘粕の趣味は釣りと酒と、そして謀略だったといわれるが、この時代は収入のほとんどが情報収集や謀略に投ぜられた。

◆甘粕と親しかった官吏

満州建国と同時に、甘粕の名は一躍知れわたった。彼は警務司長となり、次いで宮内府諮議となった。だが甘粕はそれまでの“影の世界”から完全に脱け出たわけではない。その甘粕が、むき出しに出てくるのは協和会入りの昭和12年からである。その意味で、協和会総務部長就任は一つの転機といえる。

この時から甘粕と日系官吏との交渉が始まる。“満州の甘粕”といわれて各界に睨みをきかせた彼の政治力は、日系官吏主流との親交と無縁ではない。時期に前後の差はあるが、甘粕と親しかった主な人々は、岸信介、古海忠之、武藤富男、半田敏治、皆川豊治、飯沢重一、関屋悌蔵、藤山一雄、星子敏雄などである。

これら日系官吏は、初めからスラリと甘粕に好意を持ったわけではない。“甘粕”と聞けば、血なまぐさい事件が思い出され、握手をすれば、この手で大 杉を・・・と、おぞましさが背筋を走る。初めは官吏の大部分が甘粕との交際を嫌い、避けようとした。それでいて、みないつの間にか彼に積極的な好意を持 ち、信頼して、古海、武藤に代表されるように最後まで親交を続けることになる。

◆満映理事長に就任した甘粕

一般に“満映”と呼ばれる満州映画協会は資本金500万円の株式会社で、政府と満鉄が半分ずつ出資していた。日本や中国の映画は映画統制法によってすべて満鉄の手で輸入され、それを満州全域の映画館に配給して、配給料を取る。その利益で映画を製作するのがこの会社の目的であった。

しかし、映画製作の実績はいっこうに上がらなかった。統制権の上にアグラをかいた会社幹部は、関東軍報道部の一将校や弘報処(情報局)の役人などと宴会ばかりやっていると噂され、各方面から非難されていた。この種の“黒い噂”は満映関係だけではない。産業部にも日系官吏の収賄事件が起り、これが表沙汰になるなど、総務長官・星野直樹や総務庁次長・岸信介など指導層は、この対策に頭を痛めていた。満映を改革しなければならぬ―。

昭和14年11月1日、甘粕は満映理事長に就任した。48歳の時である。その後、敗戦までの6年間、満映の社員は甘粕の下でキリキリ舞いをさせられる。

理事長就任後二週間で甘粕は人事の詳細をつかみ、リストを作り上げた。「実力がないのに、日本の映画界から来たというだけの理由で高い地位を占め、高級をとっている者がいます。またその逆もいます。安い月給で大勢の社員を抱えていても成績は上がりませんから、他の会社にくらべて最高の俸給基準にしようと思います。どこよりも給与がいいとなれば、社員は必ず励みます。それでも怠けている者はクビにします」。

12月から人事の大異動が始まった。高い地位から一挙に平社員に落とされる者、月給が倍にハネ上る者など、悲喜こもごもの大騒動が続いた。社員の5パーセントがクビになったが、学歴詐称などそれぞれ思い当たるフシがあり、そのうえ甘粕は彼らの転職に尽力したので、どこからも不平は出なかった。毎朝9時5分前には出社して、指揮刀を振りかざすような仕事ぶりを続ける甘粕には誰も歯がたたなかった。

◆“日満一体”というが・・・

昭和17年(1942)初め、満鉄から満映に移った浜崎真二は、慶応の名ピッチャーとして鳴らした人で、昭和4年(1929)の満鉄入社後は強豪・満州クラブの名選手として都市対抗などで活躍し、今なおオールドファンに記憶されている。

甘粕は浜崎に「“日満一体”というが、何か両国民をうちとけさせるよい方法はないか」とたずね、浜崎は「一緒にスポーツをやらせるに限る」と答えた。もともと古海忠之の影響で野球に関心を持っていた甘粕は、その場で野球のグラウンド、テニス、バレー、バスケットのコート、陸上競技場をつくることを決めた。だが経理部長は「この会社の資本金が900万円(途中、増資している)だということを知っているのか。社員のためのスポーツ施設に100万円を投じることは・・・」と、発案者の浜崎をにらみつけて、着手を渋った。数日後、彼は理事長室に呼びつけられ「やれといわれたら、やればいいのですッ」と甘粕の一喝をくった。こうして満映のスポーツ施設は完備し、野球チームもできて、毎春、盛大な競技大会が開かれることになった。甘粕はこのほかにも社員の親睦、健康管理に力を入れ、金もよく使った。

山口淑子(李香蘭、’74~’92参議院議員)は「甘粕さんは決して満州の人々に横暴な態度を示すことはなかったが、意識の点ではやはり他の日本人と同じではなかったかと思う」と語る。

中国人として通っていた山口は、彼女の友人、知己の間に深まる反日感情に悩んでいた。この問題に対する日本人の無神経、鈍感が、いっそう彼女を苦しめた。パーティの最後にはご飯が出るが、主催者が日本人の場合、日本人には白米、満州人には麦飯が配られた。「満州人の好みや習慣を考えてのことではなく、明らかに差別でした。全員に白米のご飯を出すことなど、その気になれば簡単にできたはずです」と山口は語る。彼女は自分から麦飯のほうを取り、誰かがこの差別をやめてくれることを期待し続けたが、最後まで変わらなかった。李香蘭はじめ満映の女優たちを酒席に呼んで酌をさせようなどという者には、眼をむいて怒鳴る甘粕だったが、彼もまた「みんなに白米を出せ」とはいわなかった。

それでも甘粕は、満州人の間で人気があった。日本人一人一人の意識を穿鑿(せんさく)したら、満州人のつき合える日本人、特に満州人が喜んで下につくことのできる日本人など、おそらく一人もいなくなってしまっただろう。満州の人たちにとって、日本人とはそのような民族であった。その中で、甘粕は最も彼らに好意的な、信頼のできる日本人だったのだ。

◆満州国の文化水準を向上させるために・・・

甘粕は本業の映画製作に力を入れただけでなく、音楽、美術、演劇などにも強い関心を示していた。協和会総務部長の時から交響楽団の編成を計画していた彼は、満映の業績があがると新京放送局にも呼びかけて、本格的に新京交響楽団の結成に乗り出した。満州を訪れる日本の画家とは進んでつき合い、頼られれば無名画家の作品を買い上げてもいる。また日本人が満人俳優を集めて組織した大同劇団に満映から補助金が出るようになったのも、甘粕の配慮であった。

“ことあげせぬ男”といわれた甘粕は、自分の意図をことさらに語ってはいないが、これらの行為の目的が、満州国の文化水準の向上にあったことは明瞭である。“軍国主義の本場”といわれた満州で、甘粕以外にこれと取組んだ者はない。“文化”はしばしば宣撫工作の道具に使われるが、甘粕は満州国に対する愛情と使命感から、文化そのものと彼なりに取り組んでいた。

◆北京の街路樹を守った甘粕の見識

昭和19年(1944)の初夏、大使館員と外出中、ふと車の窓から眺めた街路樹の幹に白い印がつけられているのに甘粕は気づいた。大使館員は「軍が、切り倒す木につけた目印」と説明した。日本の要請による石炭増産で坑木が不足したため、軍は街路樹の伐採を始めるという。

北京は、槐樹(えんじゅ)の緑が美しい。目抜き通り王府井に整然と並ぶ槐樹の下は、優雅な羅衣の女たちの散歩道である。

軍の意向を知った甘粕は「とんでもない愚行だ!」と鋭くいった。そんなことをしたら、地元民はもとより、世界中の中国人がどう思い、どのような反応を示すことか。古都の美しさを破壊した日本は、世界から軽蔑される―。

甘粕はその足で軍との交渉に出向き、「北京中の並木を切ったところで、どれほどの坑木が得られよう。そのくらいの量は、俺一人で何とでもする」と一歩も引かぬ態度を示して、ついに槐樹の並木を救った。

敗戦を見きわめていた甘粕は、その時に自分の生涯も終ると、早くから決意していたであろう。そして自分の死後の世界というものが、彼の日常の想念の中に入りこんでいたように思われる。北京の都市美を破壊した日本が野蛮国として世界の嘲笑、侮蔑を浴びることを、甘粕は自分の手で救っておきたかった。戦いに敗れた後も、日本の誇りは保たれねばならぬ―。悲しいほどの愛国心を、甘粕は抱いていた。

◆甘粕の遺書

第一の遺書には宛名がない。

理事長としての任略終れるを感じ自ら去る
民族の再起に努力せざるの卑怯を慚(は)づるも
感情の死を延すを許さざるものありて決す、
然れども極めて冷静なりき、
不忠不尽の者日本刀にちぬるを愧(は)ぢ自らをやく、

昭和二十年八月十八日 甘粕正彦

第二の遺書は、大園、古海あてで、第一の遺書よりくだけた文字で書かれている。

大園さん 古海さん 相済みません お許し下さい、理屈でないので理でをされては困ります、
私の思ふ通りにさせてくれたら最もあとの迷惑をかけずにすんだのに、また醜く死体をさらさなくともよかつたのにと思ひます 卑怯は重々わかつています それよりも死の前の感想でもきいて下さつたら 本でみたのとは違つたものを御参考にし得たと思ひますのに 我儘もののわがままを 一生のをさめにゆるして下さい 相済みません

第三は北村経理部長に約束した興銀総裁・岡田信あての金の依頼状である。

二百万貸して下さい。貸さないと死んでから化けて出ます。

八月十八日 甘粕正彦

この遺書を受け取った岡田は百万円を貸した。

以上3通の遺書の八月十八日という日付は、甘粕の自決予定日を示している。だが彼は古海の精根を傾けた説得に負けて「延期」を約束した。もはや無意味としか思われない生の延長は、甘粕にとって重荷であり、苦痛でさえあったろう。だが彼は最後まで約束をホゴにできない男であり、友の好意を“無”にすることのできない男であった。予定外の二日間の生は、古海、大園の友情に対する、甘粕の精いっぱいの“返礼”であった―と思われる。

これらの遺書のほかに、鉛筆の走り書きの二通が灰皿の下にあった。

拳銃の弾も抜かれているのを知った。いよいよなさけない死に方をせねばならぬ 然し何も考へない 私にはそれもよいだろう 死体はそのまま、此のまま手をつけずに 湖西会館の防空壕に埋めて貰ひたい、凡てを灰にしたかつたのだが その方が迷惑もかからなかつた
 時計は星子璋子へ
 本は皆でわけて
 刀は子供に
 知つた方々へのお別れは何れもしない

もう一つは巻紙の先を裂いた小さな紙片に、一行の走り書きである。

みなんしつかりやつてくれ 左様なら

これは社員にあてたものだが、服毒後に書いたらしく、「みんな」が「みなん」と書かれている。

甘粕が死んだのは昭和20年8月20日午前6時5分、日本降伏の5日後であった。

◆参考になった‘ひろもと’さんのブログ『読書日記』リンク

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著者

Tunodaf5 角田 房子(つのだ ふさこ、女性、1914年12月5日 - )は、日本の作家。

東京府生まれ。福岡女学院専攻科卒業後、ソルボンヌ大学へ留学。第二次世界大戦勃発により帰国し、戦後に夫の転勤に伴って再度渡仏。1960年代より執筆活動を開始。精力的な取材と綿密な検証に基づくノンフィクション文学を数多く手掛ける。

日本人のあるべき姿を追い求め、歴史への問いかけを続けている。明治以降の苦難の時代を生き抜いた日本人と、日本人の遺したものに関する作品が多い。平和な時代に生きる日本人に、日本人としてのアイデンティティーを強く意識させるものとなっている。

20080824

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コメント

とても、とても、おもしろかったです。
甘粕、ってのは謎ですなあ。。
甘粕、と、白洲次郎。。にコネクションはあったのか、と検索してみたが。。
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50289741.html
それほど近くはないようだ。(↑このブログ、の白洲次郎連載は力作です)。

角田『甘粕』読んでみます。

投稿: 古井戸 | 2008年9月 9日 (火) 07時12分

‘白州次郎連載’、面白そうなのでぽつぽつ読んでみます。

あたしにとって白州次郎といえば、「初めてジーンズをはいた日本人」、「戦時中に食料不足になる事を見越して農業をしていた人間」、「サンフランシスコ平和条約での演説を英語から日本語&巻紙に変えさせた男」・・・です。未だに彼は女性にも人気がありますよね。

投稿: さくらスイッチ | 2008年9月10日 (水) 20時12分

初めまして。
ここで名前が書かれているうちの1人の孫です。
祖父は私が生まれるはるか前に亡くなっておりますから面識はありませんが、甘粕大尉の話は亡くなった父から何度か聞いてはおります。
「ラストエンペラー」を父と一緒に見た時には「甘粕さんはたかが満映の所長なだけで、こんなに悪く描かれるとはなぁ」とずいぶん同情をしていました。
今となっては青かったのでしょうが、祖父や父は「五族協和」を本気で信じ、そういう国家を作るのを理想としていました。
私が大人になってからは、縁あって長く中国に関わることになり、中国人や朝鮮族などの歴史観や考え方がわかるようになった結果、父は20年にわたって満州で育ったにも関わらず、中国人の考え方や習慣が大してわかっていなかったことに気づきました。おそらく、祖父も五族協和とか五民族平等と言いながら、上から目線なことをやっていたのではないかと推測します。もちろん、責めても仕方ないことですが。
結果、甘粕大尉も当時よかれと思ってしたことが後世になって「悪人」扱いされたのかもしれません。むずかしいですね。

投稿: 匿名 | 2017年8月15日 (火) 09時28分

コメントをありがとうございます。まさか血縁者さまからコメントをいただけるとは、嬉しい限りです。

おっしゃる通り、難しいですね。「時代」が個人の価値観に影響を及ぼすのは致し方ないことで、そういう意味では現代であっても同様です。そして、自分の価値観を超えて物事を観ることは至難の業です。後世の人たちが観る今の私たちに観えないもの、それが何なのか気になるこのご時勢・・・。^^

投稿: さくらスイッチ | 2017年8月15日 (火) 22時44分

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