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2008年8月27日 (水)

048『戦争と日本阿片史 ~阿片王 二反長音蔵の生涯』 二反長半 初版1977年

わしの作っている阿片は すべて薬用としてや
わしは毒になる阿片は作ってへん
瀕死の重病者の生命をよみがえらせる阿片 モヒ
わしはそれを作っているのや

その阿片を このように悪用し利潤を得る者があることが事実とすれば
それは民間人であろうと 官吏であろうと わしの敵や

20080826

・・・・・ 概要 ・・・・・

ケシの品種改良、採取法、製造法改良に取り組み、ケシ栽培奨励に全国をかけずり廻っている内に、明治の終わりには「阿片王」と呼ばれるようになっていった一農民の二反長音蔵(1875 - 1950)の生涯を、息子の小説家・児童文学作家である二反長半(1907 - 1977)が書き記したものが本書になる。

音蔵が活躍した時代の背景には、日清戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争などの戦争がある。明治の精神で生きる農民の音蔵が、そんな時代にどうケシ栽培に取り組んでいったか。私財をなげうってまでケシ栽培奨励に務めた音蔵は、敗戦のとき戦犯同様にMPに調べられたが、何の罪もきなかった。 。。

著者は本書を完成させるも、1977年8月20日の出版を目前にした7月5日、狭心症のため死去している。

・・・・・ 読むきっかけ&目的&感想 ・・・・・

少し前にNHKで『調査報告 日本軍と阿片』という番組を見た。実は結構知られた事実であるらしいが、日本軍が組織的に阿片を管理売買し戦費に利用していた事を、あたしはこの番組で初めて知った。もう少し詳しく知りたいなと思ったので、ケシの栽培と阿片採取を奨励して廻った「二反長音蔵」、満州の国策である阿片ビジネスでリーダーシップをとった「甘粕正彦」、関東軍と結託しアヘン取引組織を作った「里見甫」について書かれた本を探して読んでみる事にした。その一冊目が本書になる。

さくら好み ★★★☆☆

NHKの番組では、日本軍と阿片を俯瞰して見た全体構成になっていて、戦争における阿片の姿を現代的な客観視でもって描いていた。翻って本書は二反長音蔵の伝記であるがため、個人の視線を通しての阿片の姿が描かれていて、当事の空気を知る上でとても興味深かった。

著者は、父音蔵が栽培採取した阿片がどう流通したかに多大なる関心を寄せているが、中々その全容を知る資料は手に入らなかったようだ。苦心して手に入れた資料に基く話も盛り込まれているが、やはり全容が茫洋としたままなのは、戦後30年が経った本書執筆時でさえ、日本軍と阿片の関係は闇に葬られた事実であったからだろうと思った。

そういえば、本書にニューヨーク・タイムズの記事からとして、 「支那でモルヒネ供給の主要機関の役目をなすのは、日本郵便である。モルヒネは小包郵便として輸入される。在支日本郵便局の管理する小包郵便については、支那税関は検閲を行うことを許されない。」 という文があった。これにもビックリした。
 

・・・・・ 覚書 ・・・・・

◆まえがき

阿片、そして、その阿片から精製されたモルヒネ、それらは麻薬の王者として、今では日本のみでなく、アメリカ、その他先進国、後進国の区別なしに恐怖の的となっている。ベトナム戦争のおり、米兵が東南アジアから持ち帰る阿片の密輸基地が、沖縄であったことは、誰知らぬ者はない。

清時代の中国を亡国の一歩手前まで陥れたイギリスの用いた戦法は、四億の人間を阿片によって廃人化することであり、とともに膨大な利潤を得ることであった。清国政府は、それに反抗して立ち上り、それの激突が阿片戦争となったわけだが、清国はイギリスには勝てなかった。

中国はひきつづき阿片亡国の道をたどっていく。日本はその清国と日清戦争を起こして勝った。開国二十数年後の日本人が胸張った。その気持ちはうなずけるが、清国から領有した台湾に阿片中毒患者は充満していた。日本政府はこの実態につき当たって、どのような方針をとったか。大風呂敷とのあだ名をとっている後藤新平と一農民であった私の父二反長音蔵 *、そして「薬は星」の星一とが手を組み、その打開策を実行した。

その後日本は、第一次世界大戦で勝ち組となる。中華事変から太平洋戦争―、農民二反長音蔵は、阿片を採取する原植物ケシの栽培と生阿片製造の役割まで受けもち、いつの間にか阿片狂から阿片王と言われるまでになり、満州蒙古まで、その栽培製造の指導奨励に出かけて行った。

だが、バカの一つ覚えか。これがお国のためと思って作っていた薬用阿片を、裏で誰がどのように動かしていたのだろうか。中国大陸での戦勝には、阿片と弾丸が決定打といわれていた時代だ。アメリカだって、イギリスだって、フランス、ソビエトまでが日本への鋭い非難を繰り返しつつ、自らも大量の阿片を動かしていた。

日本の大陸浪人、密売買業者、中国名の日本人を頭領とする緑林の馬賊、また阿片将軍と称せられる中国人軍閥の活躍、それらをあやつった日本軍、関東軍の力、―列強に負けじとする日本の阿片史は、そのまま極東の近代史の大きな裏面史となる。

それらを私は戦後三十年たった、今となっては歴史だからと、十数年あたためてきた構想のもとに、門外不出、極秘の文書を使って二年を費やし書きあげたのが本書である。

阿片はしょせん麻薬でしかないのだろうか―。

昭和五十二年六月             二反長 半

....................
<台湾の阿片中毒患者救済のはず>

◆日清戦争勝利で割譲(明治28年/1895)された台湾に充満する中毒患者救済のため

音二郎(後の音蔵)がケシの栽培を思いついたのは、新聞で台湾島民の吸飲阿片を輸入する金額の莫大さに驚いたからで、そのために国費の海外流出が国の経済にまで影響すると書いてあったことによる。

五里南の大阪には、道修町という薬品商のみが軒を並べている町があって、そこでは許可を受けてケシの種を売っていた。音二郎はそこから薬品として売られている種子を買いこんできて播種したのだ。

青年農民音二郎は、紋付羽織の村長たちが、ただ平頭している後藤衛生局長に、自分のケシ栽培阿片製造の決意が、あくまで日本国家を思ってのことであり、放置すれば死を迎えるばかりの、台湾でいう阿片癮者すなわち中毒患者救済という人道的立場からであることを強調した。

◆阿片吸飲厳禁は台湾島民にとっては生殺し同然

日本軍が台湾に上陸し出した告諭には、住民の財産を保障する旨は記してあったが、阿片吸飲については何の条約も入っていない。そのため吸飲者中毒患者だけでなく島民全体が疑心暗鬼に包まれてしまった。

そして立ち上がったのが、清国残兵であり匪賊たちである。その文は、日本人を倭奴と呼び、倭奴は「弁髪を切れ、阿片吸飲をしてはならぬ、纏足もしてはならぬ、また夜も門を閉めてはならない」その他の過酷な政治を断行するものだと決め付けていた。そうして一般民衆までがゲリラ隊に参加、日本軍、台湾総督を悩ました。

オランダに領され、清国に領され、今また日本に領有された島民たちの怒りは、天を衝いている。険峻の山岳で日本軍を迎撃、要塞の原始林の占拠を許さなかった。

彼らには統治国がオランダであろうと、日本であろうと、どこの国でもいっこう問題ではなかった。阿片吸飲さえ許可してくれれば、それで満足なのだ。生命がつなげる。

ところが今度の統治国家日本は、大砲弾丸に続いて阿片吸飲厳禁という直撃弾をうってくる形勢にあることがわかったのだから島民には脅威であった。台湾島民にとって阿片をたたれることは生殺し同然であるからだ。干からび、悶転につづく悶転のはてに息絶えた骨と皮だけの死体が累々と台湾全島に重なるだろう。

人間の嗜虐的虐殺だ。台湾は幽鬼の島になる。―と、彼ら島民は思った。

阿片吸飲は中毒になる前に、吸飲中止をすれば、苦悶の中にも健康体にもどれる。しかし、いったん中毒患者になった以上は、吸飲の続行以外に生命の存続方法はないのだ。

◆台湾の阿片問題で紛糾する伊藤内閣になされた後藤新平の建白

ケシ栽培阿片製造を限定許可し、阿片の国内生産をはかること。阿片吸飲者に対しては、厳禁主義をとるのではなく、まず「生きる屍」の阿片中毒患者に阿片を与え、新規の阿片吸飲はみとめない。そうすれば阿片吸飲患者は、逐次減退していくに違いない。―という漸減主義をとることにしたのである。その具体策としては、阿片を政府の専売とし、自由貿易を許さないことだ。

“衛生警察案施行の内に入るものにして、政府の威信を示すに於て一著地歩を占むるものなり。” 

“阿片の売買は内国現行制度の如く台湾島内に阿片特許薬舗を置き、薬用阿片の外は売買を許さざること。”

“阿片喫煙の壁習ありて之を中止すること能はざるものは、全く阿片中毒症に罹りたるものなるが故に、毒を以って毒を制する他に道なきなり。故に医師の診断に依り、既に中毒症に罹るものに限り之を許し、毎年期日を定め、政府より発行の一定の通帳を交付し、阿片特許薬舗より随時之を買求め喫煙することを許可す。若し医師なき地方に於いては、所轄警察署若くは、町役場の保証に拠り通帳を交付し、之を売渡す等便宜実際に適当なる方法を設け、権宜の処置を全し、且つ之より生ずる幣を防ぎ漸次改習に至らしむること。”

“阿片輸入税は八十万円に上れりと言ふを以て其の需要の巨額なるや知るべしと雖も、之を政府の専売となし、禁止税の意味を以て此の輸入税額に三倍の価格を加へ、阿片特許薬舗に於て政府より発行の通帳持参のものに喫煙用として売渡さしむることとせば漸次其の需要減じ、青年子弟をして此の悪習癖に陥ることを防ぐの効を見るべく、国庫は更に百六十万円の収入を増加することを得べし。”

明治二十八年(1895)十二月、後藤新平は時の台湾総督児玉源太郎陸軍大将に乞われて台湾総督府衛生顧問となっていた。新平はこうしていよいよ台湾阿片に直接取組むことになったわけである。音二郎(後の音蔵)が、内地でケシをつくり阿片を採る必要性を感じ許可を求めて内務省に建白したのは、このような時点であった。

台湾阿片問題はもみにもんだ。そうして幾多の難関を経過して台湾総督府評議会の議決をへて「台湾阿片令勅裁を得て玆に之を発布す」となった。明治三十年(1897)一月二十一日である。時の総督は、男爵陸軍大将、乃木希典であった。

◆阿片収入に眩惑した政府だと訴える新民会

昭和五年(1930)四月、新民会から『台湾阿片問題』というパンフレットが発行された。(新民会とは、既に日本領地となって40年、すっかり日本化している在東京台湾住民の団体である。)

日本政府側では漸禁主義の効果を上げていると言っているが、新民会は、これを日本政府の欺瞞だときめつけてこう述べているのだ。それによると、明治三十年(1897)に確立された阿片漸禁政策―これこそ、後藤新平によって実行に移されたものであり、音蔵は、ケシ栽培製造で、その片棒をかついだものだが―それが根拠はなはだ薄弱として、阿片吸飲の急激禁止も、適当な療法があること、また、厳禁断行が新島民の統治上不可というのも一片の口実に過ぎないとし、明治三十五年(1902)以後、全島から匪賊掃滅民心安定した時をもって、厳禁断行の時だったとしている。

だのに、政府はそれとウラハラに、明治三十七年(1904)に三万人余人、四十一年(1908)に一万六千人の吸飲者を特許しているというのだ。新たな吸飲者には許可しないといいながら、事実はそうではなかった。もしそれを実行するならば、明治三十年(1897)に調査網羅した五万人で打ち切るのが当然だったとしている。

そして実際は、明治三十一年~四十一年(1898 - 1908)に合計十七万人の多数にのぼる吸飲者を特許していることで、これこそ弁解の余地がない主義の自殺、政策の矛盾だと指摘している。主義とは漸禁主義をさしているのにちがいない。しかも政府はこの数字を指摘されると「調査漏れ」という言葉を使ったらしいが、これは当局が阿片断禁の理想を没却して阿片収入優先に走った政策に外ならないと実に厳しく書いている。そして、阿片吸飲特許―無為無策―密吸者簇出―追加認可―無為無策―密吸者簇出―追加認可―の悪循環に過ぎぬといい、阿片排除絶滅は、百年河清を待つにひとしいと断言している。

したがって阿片絶滅は、吸飲特許者死亡という自然の力で実績をあげる外なく、これこそ追求すべき自由放任主義だとさけんでいる。そしてその吸飲特許者死亡の数字は、大正元年 八万七千三百七十一人、大正十年 四万四千九百二十二人、昭和三年 二万六千九百三十二人、と低減していると記し、しかも、これは結局政府が土匪掃滅、陰謀検挙と同じような努力を阿片に払わず、阿片収入に眩惑した不可避なものだといっているのだ。

そのうえ阿片相場を、大正五~八年(1916 - 19)の間に、一等烟膏百匁につき二十四円、二十八円、三十五円、四十円と、四回にわたって値上げをし、それは倍価になっているとしている。これに対し、もし専売局が営利を目的としているのでないならば、阿片烟膏の品質を統一(じつは降下)したことから生じた副産物の増収は、年平均八十万円以上の巨額があるはずだといい、だから、阿片定価の値上げは、営利以外の意味の何ものでもないときめつけているのだ。

そのうえ警察国をもって世界にほこる台湾で、阿片密吸飲犯が、一年にわずか千人あまり、密吸者の五%ににすぎないとのことは、誰も信じられるものでない。それは、これが賄賂と黄金のもとに、公然と警察官吏が動いているからだとやっつけていることが目に付く。

これを「外面如菩薩内面如夜叉」といい、それは当局が、これら阿片密売を公然黙認しているからだともいい、昭和四年(1929)当事、阿片吸飲特許出願中の二万余人に対しては、絶対に吸飲を許可してはならない。従来の吸飲特許二万七千人とともの、行政処分による強制治療の方法をすべし―と声明している。

1898年から1906年にかけて民政長官を務めた後藤新平は自らの特別統治主義に基づいた台湾政策を実施した。この期間内、台湾総督は六三法により「特別立法権」が授権され、立法、行政、司法、軍事を中央集権化した存在となっていた。これらの強力な統治権は台湾での抗日運動を鎮圧し、台湾の社会と治安の安定に寄与している。

また特筆すべき政策としては阿片対策がある。流行していた阿片を撲滅すべく、阿片吸引を免許制とし、また
阿片を専売制にして段階的に税を上げ、また新規の阿片免許を発行しないことで阿片を追放することにも成功した。(阿片漸禁策) wiki 日本統治時代(台湾)

*新民会のパンフにあるように、阿片漸禁策が効を奏しているというのは、政府のプロパカンダに過ぎなかったのかな? 阿片が撲滅されたのは、阿片漸禁政策によるものでは無かったのかな? それともwikiにあるような一般認識(?)通りなのかな? 

少なくとも、新規に阿片吸飲特許を発行し続けていた事は事実のようだ。で、台湾における中毒者の人数は・・・と。 。。。調査当初(1897)に網羅したのが50、000人の中毒患者、上記パンフ発行時(1930)で吸飲特許保持者27、000人+阿片特許出願中20、000人=47、000人の中毒患者、つまり、33年間で3、000人減。中毒者数は3、000人減とさして変わっていないように思えるが、正規特許保持者の数は50、000人から27、000人に減っていて、漸禁政策が効を奏しているように見える。(といっても、33年間で半減さえ出来ていないが・・・。)特許保持者数が減っても、その分阿片を値上げしているから、政府には当初と同じくらいの利益があるというわけだ。

で、この中毒患者は完治することなく、死んでいくんだよね。で、年に数万人もそれで死んでいくから、あっという間に阿片撲滅となりそうだけど、密吸飲者が死亡者数と同じくらいいるから、実際はなかなか阿片撲滅に至らない、という事だ。それを、政府の無為無策だ、阿片収入に眩惑されたんだ、と書き立てている分けだ。

う~ん・・・、阿片撲滅は、敗戦の色が濃くなっていき阿片供給が行き渡らなくなって禁断死、あるいは戦争に巻き込まれて死んだからなのかも? この情報だけでは判然としないので、他の文献も当たってみよっと。  

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<台湾総督府と星製薬の癒着>

◆医薬が開けるにつれ増えるモルヒネ需要

日本では、安政五年(1858)の日英条約中に組み入れられたのを皮切りに明治維新後、実に厳しい阿片厳禁主義がとられていた。しかし厳禁主義であるといっても、生産が全然禁止されていたというわけではない。まことにモコとした状態にケシ阿片阿は存在していた。

近代化が進み、医薬が開けるにつれて、その需要は増してくる。外国からの輸入制をもうけて、それにあてた。しかし、これらはもちろんすべて一応衛生局へ納めさせ、医師の処方により売買を許可したわけである。

モルヒネ含有量の少ない内地産までも、政府は買い上げたが、需要には追いつけず、輸入量は増える一方で、明治後半には内地産の二十倍を超える結果となってきていた。

◆星一への独占許可となったモヒ製産

阿片から抽出されるモルヒネは、大正三年(1914)までは、主にドイツからの輸入に頼っていた。それが第一次世界大戦の勃発と同時に、生阿片の輸入途絶となったのだからぴたりと止まった。日本の医薬界は大騒ぎとなった。

阿片採取のほうは、音蔵が台湾総督府管轄から内務省管轄になったのをきっかけに、積極的に国内生産の一大奨励をはじめていたからよかったものの、高度の化学技術を要するモルヒネ抽出に関しては、農民の音蔵にはどうにもならないこと当然だった。人任せだ。

そこへ目をつけたのが星一である。星の強みは、その時すでに、台湾台北にりっぱな製薬工場を持っていたということだ。というのは、当事の阿片法では、民間人は、モルヒネ製造は許されていない。たとえ許されても内地ではやれなかったからだ。したがって日本でのモヒ製産は、星一への独占許可となったわけだ。それに、生阿片を直接民間人に専売しているのは、台湾総督府だけだったから、その中から星は、モルヒネ精製用の払い下げを受けたのであった。

胃腸薬が表看板の星製薬だが、モヒを扱うようになってから、たちまち「薬は星」と言われるほどの最大の製薬会社にのしあがってしまった。あっという間だ。

◆星製薬の大株主であった夫人慈善会

大正八年(1919)、原敬内閣の第四十一議会において、突如として、星製薬への生阿片払い下げに関する問題提起が行われた。それは生阿片払い下げが、モヒ製造という美名のもとに星製薬と台湾総督府専売局との間に、暗い関係をもって結ばれているという実証をめぐってであった。

星一は、星製薬を安泰に続けるためには、なんとしても、直接の官僚、総督府専売局を掌中に入れておく必要があった。それには彼らにも利潤を与えることだった。その方法として株主にしておけば、堂々と利潤の配当が行く。利潤さえ行けば阿片払い下げ、モルヒネ製造売却の権利を、いつまでも他の製薬会社に回すことはなかろうし、したがって星のモヒ独占は続くのだ。

婦人慈善会―なんというりっぱな名称であろうか。新領地台湾に、総督府官吏夫人たちが結集して、台湾人、新日本国民に、慈善事業を行うということは、戦勝国日本のよき宣撫でもあり優越的な誇りでもあった。そうして星は、この慈善団体を、高等官吏夫人たちに作らせ阿片での儲けを、大量にバラまくことでますます確固たる地位を保つとともに、よりいっそうの権利の確保につとめたというのだ。

国会は湧いた。こうしてこれらの真疑がいちいち厳しく土屋議員の鋭鋒につつかれるにつれ、立花専売局長は、今は反論の余地もなかった。

婦人慈善会は、各製薬会社が阿片独占払い下げの不可をとなえ、払い下げの利潤獲得に狂奔している大正三年(1914)一月に、星の工作で結成され、星製薬の大株主となっている。そのため星独占は、たんに星が台北に工場を持っているだけが唯一の理由でなかったことが、この第四十一議会で判然したのだった。

これが契機となってその後、生阿片払い下げは三社に増えた。しかも二十一代第一次加藤高明内閣が大正十三年(1924)六月誕生すると同時に、星製薬への払下げは中止されてしまった。

◆星製薬に取って代わった製薬会社

「薬は星」と、鉄道沿線にたちならんだ看板の塗り替えさえもできない。色あせ、かかし同然となっていくのと並行して、星製薬は、みるみる製薬界から蹴落とされ、代わって、大日本製薬、三共製薬等、やはり阿片モルヒネの売買を許可された会社が阿片によって太りに太っていった。

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◆特務機関の男装美女

軍費の調達が特務機関によって、阿片売買を主軸として公然と行われていた。特務機関と阿片、これは切っても切れない関係で、男装の麗人、美しい女性が、時には和服姿で、時には軍服を着用、乗馬姿で、満州国新京で今日いるかと思うと数日後には東京三宅坂の参謀本部、陸軍省、航空本部を闊歩していた。とは正に、非常事態だ。彼女らは、首相大臣にも堂々と意見を述べ、東京本部の弱腰を攻撃することさえできたのだ。

清王朝の血統で清王朝の王女であり、日本人として成長した川島芳子の活躍は有名だが、韓又傑との中国名をもった中島成子は、日本軍の華北婦女宣撫班の隊長として、華北の農村婦人の中で乗馬男装でかけめぐっていたのだ。彼女らが、多かれ少なかれ阿片と関係をもっていたことは推理してまちがいない。

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<阿片採取後の果実いわゆるがっぽの用途>

◆油絵具の材料

阿片採取後のがっぽを煮詰めて乾燥させ粉にしたものを、音蔵は衛生試験所へ持っていって分析をしてもらった。しかし、外見は生阿片そっくりだが、その成分にはモヒもコカインも、全くのゼロに近いものであった。

その成分表をもらって帰った音蔵は、油質の多いのに気がつき、こんどは油絵具に使用できないかと考えた。そしてさっそく東京神田鈴蘭通り某油絵具店に交渉し、それの原料に、ケシ果実がっぽが使用できぬかと問い合わせた。

実験してみると、優秀な油絵具の材料になることが証明された。

◆咳止め薬品

音蔵は、名古屋の某製薬会社に研究を依頼し、必ず何かの薬品の原料になる、生阿片の小粒でさえ、あの薬効と中毒の両作用を起こすのだからと、長い間の経験から咳止め薬品の製造をしてはと助言し、成功させている。

薬品会社はこれにセキトメールと名をつけて売り出した。するとその効能抜群で、たちまち咳止めの人気薬品となってしまったことはおもしろい。白い粉で一見モヒとまちがうは、粉薬だった。またパパリンという強壮剤の原料にもされていた。

絵具商も薬種商もたちまち大きな利潤をあげたが、音蔵は、これで廃物利用ができたとよろこんでいただけで、その利益の分け前など一文ももらおうとしなかった。

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<一般国民は知る由もなかった>

◆日本国家に尽くすことこそ誇り

私の父音蔵は、井の中の蛙だったのだろうか。世界五大強国の一国にのし上がったと宣伝する政府をウ呑みに信じ、日本国家に尽くすことこそ国民としての最高の道であり、誇る義務だと腹の底から思い込んでいたようだ。そしてそれは音蔵の場合にケシ栽培阿片製造に直進する以外の何ものでもなかった。

◆世界の列強と轡を並べるために

後進国日本が、わずか半世紀にして、世界の列強と轡を並べるためには、政治家、資本家たちは、人間をも生命をも、そして平和をも眼中に入れていなかった。これに反する者は非国民である。人民のがわにたった幸徳秋水は処刑され、大杉栄は関東大震災のドサクサまぎれに、憲兵甘粕大尉によって暗殺されている。その甘粕大尉は、表面上は軍法会議にかけられ処刑されたことになっていたが、満州に渡り、満州国独立に奔走、日本帝国主義の隠れた立役者として勢力をもっていたことが、第二次世界大戦後、はじめて、白日にさらされたではないか。

◆銃とともに阿片を持って進軍した日本

いったい誰が中国四億の民をこのようにしてしまったのか。政府も国民もこうせねば生きて行けない窮地に追い込まれていたのだ。そして、ここまで持ってきたのはイギリスをはじめ、そのころはアメリカ、ロシア、フランス、日本の列強である。隣国として、同じ東洋黄色民族としての日本が、たとえ第五番目に属するといっても、同じ東洋民族独立を維持するのにもっと他の方法はなかったのだろうか。

現在と違って、時代は、ファッショ、植民地主義第一である。今は軍事力を誇る日本は、ただ列強に負けじと銃とともに阿片を持って大陸へと進軍したのだ。

◆国内の需給不足に回らなかった阿片

大正時代に、中国政府顧問と称する日本人から日本内閣府にあてて阿片輸入を願出し、許可されている文書をあげておこう。

―略―

これは一例だが、これらの日本阿片が、国内の需要不足に回ることもなく、中国に渡ったこと自体が疑問符を投げかける何物かを胎んでいるのではないだろうか。音蔵も宮沢技師も、一般国民ももちろんこのようなことを知る由はなかった。

....................
◆あとがき

私は幼少時代をケシ畑の中で育った。まるで雪景そっくりの初夏の白花満開の風景は、今も私のまぶたの裏にやきついて離れない。阿片採取にも出かけ、ケシ果実がっぽに刃を入れることも、その傷口からにじみ出る液汁をこそげ取ることにも熟達していた。そのとき出る何とも言えない香が私を魅了していた。その匂いが私は好きで、すすんで仕事に出かけた。その液汁を乾燥し、薬研にかけて、粉末にする時に発散する匂いは、鼻が痛くなるほどでさすがの私もまいった。が、これこそが生阿片、密売買業者が「黒」と称するものであった。

私の家の畑には、私が中学のころには、「内務省委託罌粟栽培試験園」などとの棒ぐいがたてられ、五月二十日頃、阿片採取の時期になると、全国の農会、農科学校、薬科学校、大学、担当官庁などから講習生が講習を受けにきて、村はとたんに人口が増えた。

こうしてケシ畑の中で育った私には、ケシ、阿片はけっして珍しいものではなく、日本全国どこにでもある農作物と思っていた。それが私の郷里大阪平野の特産物であり、やがて全国にひろまって行ったのは、父が内務省嘱託の肩書きで栽培奨励にかけずり廻ったからだと、しぜんに知った。

中学の博物の教師が、私の父をケシ栽培の大功労者だと授業時間にしゃべり、私に父の改良した品種を何本か持って来いと言った。大阪府立茨城中学(今の高等学校)だが、これらのことが重なって、私には、父と阿片、ケシの結びつきがわかり、また父も、私に日本での薬用阿片不足、輸入による莫大な金の海外流出のことも話した。

父は養嗣子に来て二反長音蔵となったなったが、その前川端音二郎と呼んだ川端家の四男で、二十歳にも満たない頃から後藤新平との交流がはじまっていたのだ。最初は台湾総督府民政長官となった新平の後援で、日本では殆ど栽培製造不可能とされたケシ栽培阿片製造に成功した。父がはじめて日本でケシを作り阿片を採取した男と言われているのはこのことによる。

こうして作られた阿片だが、昭和の一大変動期には父はどのような生き方をしただろうか。いよいよ薬用阿片の不足をきたしたので、満州、蒙古にまで出かけている。しかし父は、それらの阿片が果たして薬用に使われていたかどうか、そこまでつきつめる余裕はなかったようだ。

後略―。

昭和五十二年六月             二反長 半

 
・・・・・ 著者 ・・・・・

二反長半(にたんおさ なかば)

1907年大阪生まれ。法政大学卒業後、教員、出版勤務などを経て、昭和10年ころから作家生活に入った。主として児童文学の創作、伝記、歴史小説などを手がけ、大きな足跡を残した。作家活動のかたわら日本児童ペンクラブ会長、日本青少年文学振興会財団会長代行などを歴任、児童文学の発展に尽くした。

20080824

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コメント

アマゾンで<阿片王>を検索すると4冊ヒットします。その内の一冊がこれ。ふつう阿片王というと、NHKの番組になった里見甫、ですね。満州~中国で<活躍>し、岸信介や甘粕とつながりがあった。大金を扱ったが自己の財産にはしなかった(程度問題だが)らしいです。二反長音蔵はニッポンや朝鮮での栽培に係わったようですが。。阿片は大阪、和歌山を中心に栽培されました(10県くらい。国の指導)。

星一はSF作家星新一のオヤジです。真一はオヤジの伝記を書いているが阿片には触れていないはず。
http://www.elf-book.com/07-visitor/visitor.contents0504.html

投稿: 古井戸 | 2008年8月29日 (金) 21時14分

今は『甘粕大尉』をポツポツと読んでいる最中です。中々面白いです。おいおい里見甫の本も読んでみたいと思っています。NHKではこの番組以外にも『シリーズBC級戦犯(2)“罪”に向きあう時』が興味深かったです。古井戸さんのブログも、更新される度にいつも興味深く読ませて頂いてます。

星新一の父親である星一を、あたしは本書『~二反長音蔵の生涯』で知りました☆

投稿: さくらスイッチ | 2008年8月31日 (日) 00時33分

BC旧戦犯の番組は私も見ました。昨年からNHKは生き残り兵士の証言、を放映していますが。。何で今頃?と腹立たしい限り。生き残り兵士はことごとく90歳前ですよ。。敗戦直後に、記録をとって事実をなぜ明らかにしないのか。大本営発表ばかりオウムのように垂れ流し続けたNHKのせめての罪滅ぼしだろう。。と、オツムに血が上ります。

BC旧戦犯の番組ではまたしても飯田進さんが担ぎ出されていた。飯田さんはニューギニアで罪のない現地人を上官の命令により殺した。。。彼は戦後、日本兵がなにをしたか、をさまざまな本に書いています。番組では息子さん(お孫さん?)が障害児であることを明かした。飯田さんは現在横浜で福祉事業をやっておられる。
http://www.aoitori-net.com/director.html

投稿: 古井戸 | 2008年8月31日 (日) 03時41分

NHK以外では、

◆TBS:報道特集NEXT『女学生が作った謎の最終兵器と悲劇』和紙とコンニャク糊で作った風船爆弾でアメリカ本土を攻撃した話、R30『史上最大の極秘ニセ札作戦』日本軍が作ったニセ中国札の話、『歴史から抹殺された 三河地震』大被災したにもかかわらず被害最小限に防止と報道された話
◆日本テレビ:NEWSリアルタイム特集‘名古屋空襲’‘三菱軍需工場への爆撃’‘沖縄戦’‘沖縄集団自決’
◆テレビ朝日:テレメンタリー『最後の巡礼~元陸軍通訳の終わらない戦後』タイの“泰緬鉄道”建設工事で陸軍通訳をしていた永瀬隆さんのドキュメンタリー

など他数本を録画して見ました。今生きている人の証言も織り交ぜながらの構成になっていて、自己の戦争経験を現代の価値観でどう受け止めているかが垣間見え、あたしも色々考えさせられました。ただ、民間人の証言が殆どでした。軍人としては、戦中戦後直のタイで通訳をしていた元日本陸軍憲兵隊通訳の永瀬隆さん(88)、ニセ中国札を作っていた元陸軍登戸研究所配属の大島康弘さん(86)くらいでした。

生き残り兵士の人が、自己の戦争経験を現代の価値観でどう受け止めているか、とても知りたいトコロです。あるいは、飯田さんのようには戦争経験を受け止めきれず、近親者にも無言のまま亡くなった人が大半かもしれない・・・、とも想像します。

生き残り兵士の証言を集めるには、確かに遅過ぎるきらいがあります。このまま本当に時間の彼方に消えてしまうのでしょうね・・・。

投稿: さくらスイッチ | 2008年8月31日 (日) 11時52分

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