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2008年7月 5日 (土)

038『英語にも主語はなかった』 金谷武洋 初版2004年

英語は「神の視点」 日本語は「虫の視点」

20080630

・・・・・ 概要 ・・・・・

日本語に「主語」はない。それどころか、英語における「主語」の概念すら、実は歴史上遅れて発生した特殊なものなのだ。「主語」は普遍性を持たない文法概念なのである! 千年の言語史を遡行して、「天」の言語と「地」の言語を解き明かす比較文法論。

・・・・・ 読むきっかけ&目的&感想 ・・・・・

「主語」という文法概念がなぜ英語に誕生したか(金谷氏風に言えば、英語が「する言語」化したのはなぜか)、に興味があって読んでみた。

さくら好み ★★★★☆

どういう読者層を想定して書かれているかは知る由もないが、あたしにも分かり易い言葉と表現で書かれている事から、学問のための学問をする人向け(のみ)では無いんだろうなぁ・・・と思った。しっくりくる言葉が見つからないんだけど、「素人でも無理なく理解できる」内容だった。

これって、実は凄く難しくて大変で、そして大切な事じゃないのかな・・・、なんてあたしは思ってる。

本書冒頭で、日英語における基本的な「視点」のあり方の違いを、川端康成『雪国』の原文と英語訳文から、読み手の脳内で展開される景色の違いを例にして説明していた。その視点論もさる事ながら、分かり易い説明の仕方にグッと惹きこまれた。こういう例えが理解しやすい本だと、「ああ~、あたしはこの本の対象読者だ♪ 書き手はあたしの事を考えてくれてる♪」と勝手に思い込んで、楽しく面白く読み進める事が出来る。例えがあればある程分かり難くなってくる本は、興味があってもゲンナリして読み進める事になってしまう。ま、その原因は、自分の無知による場合も多々あるんだけどね。

で、本書に立ち返って・・・。本書に記されている日本語と英語の「視点」の違い、英語に主語が表れた歴史的・地理的背景など、その理解しやすい表現の仕方も含めて、大部分はとても興味深かいものだった。物足りないと感じる章もあったけど、それはあたし個人の今後の課題という事で、新たな好奇心の種を貰ったと思っている。

 

・・・・・ 覚書 ・・・・・

◆クイズ:「風○窓○開○た」

日本人なら「風で窓が開いた」が一番自然な答えだと思う。ところが、カナダの学生にこう答える者はまずいない。それは、彼らが文頭の「風○」を直感的に主語だと予想するからだ。従って必然的に他動詞・目的語となるから、答えは「風が窓を開けた」である。

つまり日本人は自動詞文「風で窓が開いた」を好むが、カナダ人は他動詞文「風が窓を開けた」を好む、ということになる。そしてそれを学習中の日本語にも当てはめる、というわけだ。母語の外国語への干渉と言ってよいだろう。

◆英語と日本語の「視点」の違い ~英語は「神の視点」・日本語は「虫の視点」

「神の視点」の方は不動である。言語化されようとしている状況から遠く身を引き離して、上空から見下ろしている。そしてスナップ写真のように、瞬間的に事態を把握する。時間の推移はない。

「虫の視点」はその反対で、状況そのものの中にある。コンテキスト(文脈)が豊かに与えられている。そしてこの視点は時間とともに移動する。あたかも虫が地上を進んでいくように。あるいはトンネルを走る列車の乗客や、家の周りを行きつ戻りつしている人のように。

◆再帰表現

英語をはじめとする西洋語でも、再帰表現の発生は比較的新しい。例えば、ラテン語にはほとんど見られず、フランス語やイタリア語などでもラテン語から分化した後に発達したものである。英語においてはさらに遅く、15世紀までは自殺も他殺も、例えば「He killed him.」と言っていた。その混乱を避けるために再帰表現の「He killed himself.」が構文として定着したのは、近代英語の17世紀になってからである。17世紀と言えば、日本ではすでに江戸時代になっていた。

◆日本人の「赤い太陽」とカナダ人の「黄色い太陽」

名詞のペア「赤/黒」には、それと同語源の「形容詞のペア」があることはよく知られている。それは「明暗」を表す「明るい/暗い」だ。「明るい」が「赤」に、「暗い」が「黒」につながっていることはよく知られた事実で、辞書にもそう書いてある。ak-/kur-というような共通の語源が考えられよう。つまり、和語の「赤」の本来の意味は「明るい色」、「黒」もまた「暗い色」だったのだ。これは要するに「光の出現/消失」という反意語である。

こうして見ると、日本人の子供が太陽を赤く塗ることは、実に深い意味があると言わねばならない。日本の国旗、日の丸はかくも赤い円だ。カナダの子供に太陽を描かせると、赤は決して選ばない。英語系でも仏語系でも黄色、オレンジである。

つまり、古代日本人の和語の世界においては、黒の反対は白ではなく赤だった、ということになる。

◆英語学習は地球環境を破壊する?

人間一人あたりの消費エネルギー量が空前絶後の高さに至ってしまった、いわゆる「アメリカ人の生活様式」のせいである。言語学者・鈴木孝夫は「アメリカ的な生き方を人類50億が揃ってやりだしたら、地球の資源、環境すべてがあっという間に壊滅する」と予想する。私はまったく鈴木の意見に賛成である。そうしてこうした自己中心で独りよがりな「アメリカ人の生活様式」と「英語の言語様式」は、おそらく並行していると私には思えるのだ。

*この辺りはちょっとついていけなかったけど、「『英語も公用語とするカナダ』に住み、『言語学を職とする』『日本人』の著者が、『英語を公用語とするアメリカ』の現状を眺めると、アメリカがどう見えるか」という事が伺われて、興味深かった。複層したフィルター(それも、あたしの身近には無いフィルター)を持つ人の脳内を覗いた感じがして、面白いなぁ・・・と思った。「私には思えるのだ」という言葉から、あくまでも著者個人の視点であって、この件では著者の見方を普遍化しようとしていない、そう感じられる事にも私は好感を持った。

◆漢語と和語の使い分けから・・・

渡辺昇一が名著『日本語のこころ』で指摘した、日本語における漢語と和語の使い分けである。気持ちが外向きで攻撃的になっているほど、日本人は漢語を使うというのだ。つまり「ある言語」である日本語も、状況によっては「分かる」ではなく「理解する」を、「見える」ではなく「目撃する」を、「要る」ではなく「要する」を使うわけだ。言うまでもなく、これらはすべて自動詞が、漢語を使う「する動詞」で他動詞化される例である。

言語は思考や行動の型(パターン)に影響するが、同じ言語でも使い方によっては揺れがある、ということだろう。

*これは納得しながら読んだ。あたしはこのブログのように、タラタラと趣味の事を書き綴っている時(気持ちが内向き)は、漢語なんて殆ど使わないけど、仕事(気持ちが外向き)では、漢語を使い行為者を明確にした文章を書くようになる。意識していなくても自然にそうなる。

◆英語史の時代区分

古英語(Old English)  700 - 1100年
中英語(Middle English)  1100 - 1500年
近代英語(Modern English)  1500 - 1900年
現代英語(Present-day English)  1900年 -

◆漢文訓読から発生した「が・を」

日本語だって、最初はなかった格助詞「が・を」が漢文訓読を経て発生したぐらいだ。「が・を」が漢文訓読を経て発生したぐらいだ。「一体、誰が誰に対して何をするのか」を誤解されないように明示したい、という気持ちが語尾変化をする第二期を生んだのだろう。

◆日本語も主語を義務的に持つ言語にタイプを変えていくか?

果たして日本語も英語のようにいつしかタイプを変え、主語を義務的に持つ言語となるか、という疑問が残っている。私はそうならないと思う。それとは反対に、日本語はさらに「ある言語」の性格を強めていくとさえ思っている。

*おお~、そうなんだ!? あたしは今後、“「一体、誰が誰に対して何をするのか」を誤解されないように明示したい、という気持ち”が強くなる社会になるんじゃないかと思っていたから、「する言語」の性格を強めていくんだろうなぁ・・・と思っていた。(でも、主語を義務的に持つ言語にはならないと思っているけど。)

◆英語にも主語はなかった

前略。古英語から中英語を経て現代英語へと時代を下ることによって、英語が次第に「する言語」としての性格を強めて行ったことが論証できたと思う。その最大の変化は、古英語から中英語と変わるきっかけとなった1066年の「ノルマンの征服」によって引き起こされた。結局「主語」が発生したのはこの状況下であったと結論を下したい。そして16世紀中頃から始まったDoの文法化により、駄目押しの「する言語化」がなされた。3世紀にわたって英語が辛酸を舐める契機となった「ノルマンの征服」以前は、英語も日本語と構造上よく似た言語だったと思われる。何よりも、英語にも主語はなかった。

 

・・・・・ 著者 ・・・・・

金谷武洋(かなや たけひろ)

1951年北海道北見市生まれ。 函館ラサール高校から1年浪人の後東京大学(文科II類)に入学。教養学部教養学科フランス分科を卒業。 国際ロータリークラブ奨学生としてカナダ、ケベック市のラヴァル大学に留学。同大学で言語学修士号を取得。1984年から2年間、アルジェリアで通訳とし て間組に勤務。1986年よりドイツのマールブルグ大学に留学。1987年にカナダに戻る。モントリオール大学で言語学博士号取得。 専門は類型論、日本語教育。 カナダ放送協会国際局などを経て、現在、モントリオール大学東アジア研究所日本語科科長。

ブログ: 金谷武洋の『日本語に主語はいらない』 英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を論破する

20080628_1

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コメント

犬が
電信柱に
オシッコを
引っ掛けた

犬や猫や猿、ゴリラなら主語だ述語だ、動詞だ、助詞だ、とうるさいことを言わずに、一挙に眼前の、オシッコ引っ掛け行動を、悟るだろう。。。人間も、そうなのだが。。それを主語述語動詞。。に分解、組立しなければ理解できなくなったのはなぜか?誰かに出来事を伝えたり、記憶したり、再現したり。。という情報行動のためか?文字を発明したためか、やむを得ず文字の仕様方法マニュアル=文法もひつようになった。アメリカでは犬や猫は、バウバウ、ミウミウと鳴きます。

投稿: 古井戸 | 2008年7月11日 (金) 16時23分

★「国語文法」は何のために存在しているんだろう、なんてあたしも思いました。文法が後付である以上、全ての文章を文法という型にはめるのは不可能でしょうから、“文字のマニュアル”が何のために必要なのかを意識しないと、正しいマニュアルも作れないし、見極めも難しいですよね。

国語文法が、国語の理解、及び外国語の理解への架け橋のために存在しているとすれば、日本語文法は何とも頼りない気がします。日本語文法は、日本語母語話者の国語理解や外国語理解にも、他言語母語話者の日本語理解にも、あまり貢献していないように感じています。

だから、古井戸さんに教えて頂いた金谷氏の本は、とても面白かったです。英語文法ときちんと住み分けた日本語文法を目指しているし、言語間理解の架け橋となり得る文法に存在価値があると考えている事も感じられました。
 
 
動物の鳴き声が言語によって違うのは、面白いですよね。違う言語で育った耳の違いを実感します。擬音ではありませんが、

It's raining cats and dogs.

のように、天気を表現する言葉も面白いなぁ、と思います。

投稿: さくらスイッチ | 2008年7月11日 (金) 20時20分

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