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2008年7月13日 (日)

039『忘れられた日本人』 宮本常一 初版1960年

夏のはれた暑い日の稲を見ると、ゴクリゴクリと田の水をのんで、
稲の葉が天をさしてのびていくのがわかるような気がするという。

秋になって田に入れた水をおとしてやると、
その水がサラサラとさも自分たちの役目を果したように
さっぱりして流れていくのがわかるという。

20080713

***** 概要 *****

昭和14年以来、日本全国をくまなく歩き、各地の民間伝承を克明に調査した著者(1907‐81)が、文化を築き支えてきた伝承者=老人達がどのような環 境に生きてきたかを、古老たち自身の語るライフヒストリーをまじえて生き生きと描く。辺境の地で黙々と生きる日本人の存在を歴史の舞台にうかびあがらせた 宮本民俗学の代表作。

***** 読むきっかけ&目的&感想 *****

何がきっかけだったか忘れてしまったけど、あたしはこの一年ちょっと『~NHKアーカイブス~新日本紀行ふたたび(2005 -)』を録画して見ている。『新日本紀行(1963 - 82)』の取材地をふたたび訪れ、当時と現在の映像を対比しながらその地域の風土や暮らしを見つめなおす番組だ。つまり、日本の地域を扱った番組なんだけど、芸能人が出てくるわけでもなく、都会から来た人の小洒落た田舎暮らしを紹介するでもなく、旅行(観光)やグルメ番組でもない。『新日本紀行』当時は子供だった人が『新日本紀行ふたたび』現在では大人になっていたりして、風土や暮らしの変遷がとても如実に伝わってきて面白い。メディアが伝える情報は都会中心だけど、こういう番組もいいもんだなぁ~、なんて思いながら見ている。

で、民俗学の面白そうな本があったら読んでみたいな、なんて思うようになって探した本の一冊が本書。

さくら好み ★★★★☆

あたしは今年の初めにDS文学全集にはまって、そこに収録されていた明治から昭和初期にかけての文学を読み直したけど、同じ時代の話であっても、まったく別世界が広がっていた。

著者が話を聞いた老人たちの話は、当時(昭和前期)のみならず、過去(明治、大正)にも渡っていて、とても面白かった。その話しに、時に笑わせられ、涙し、考えさせられた。そして、貧しくても不幸せじゃなかったんだ、なんて当たり前の事を実感した文章もあった。あと、歌合戦で女性に体を賭けさせたり、若衆たちの夜這いの話しなど、性にルーズだった頃の話しも興味深かった。

著者も、老人も、自分で見た事を話しているので、その場に一緒に居て話を聞いてるような臨場感があった。

 

***** 覚書 *****

◆寄り合い制度

この寄り合い制度がいつ頃完成したものであるかは明らかでないが、村里内の生活慣行は内側からみていくと、今日の自治制度と大差のないものがすでに近世には各村に見られていたようである。そしてそういうものの上に年より衆が目付役のような形で存在していた。ただ物のとりきめにあたって決定権は持っていなかった。と同時に寄り合いには、お互いの間にこまかな配慮があり、物を議決するというよりは一種の知識の交換がなされたようであり、個々の言い分は百姓代や畔頭たちによって統一せられて成文化せられたのである。

◆今昔話し

ほんに、楽をしようと思うて隠居したんじゃないんだから。

そりゃァ、今の若いもんは働きませんで・・・・・。

あんたの息子は働き者で評判だが。

なんの! おやじにくらべたら半分も働きゃァしません。おやじにくらべたら道楽もんです。しかしそれでも食えるんじゃから、昔より楽に食えるんじゃから、わたしは文句をいいません。わたしらの若い時は今の倍はたらいても食えなかった。

そうよのう。やっぱり今の若い者の方がえらいんじゃから。

えろうなった、えろうなった。昔はあんた、田植を五月にするなんど、考えてみた事もなかった。その上耕耘機なんど、くわえ煙草で田がすける。それで米が倍もとれる世の中じゃ。これで戦争さえなけりゃァええ世の中です。

◆子供をさがす

TVを買って欲しい云々で母親と喧嘩をして家を飛び出した一年生の男の子が、夕飯時分になっても帰って来ない。心あたりをさがしても、どこにも居ない。もしものことがあってはならぬからとて、警防団の人に出てもらうことにして、何十人というほどのものがさがしてくれた。

家の戸袋の隅に隠れていたんだけど、騒ぎが大きくなって出られなくなっていたところ、父親が帰ってきた声が聞こえて、ひょっこり出てきた。

さっそく探してくれている人々にお礼を言い、また拡声放送機で村へもお礼を言った。子供がいたとわかると、さがしにいってくれた人々がもどってきて喜びの挨拶をしていく。その人たちの言葉をきいておどろいたのである。子供の行きはしないかと思われるところへ、それぞれさがしにいってくれている。これは指揮者があって、手分けしてそうしてもらったのでもなければ申し合わせてそうなったのでもない。それぞれ放送をきいて、かってにさがしにいってくれたのである。警防団員以外の人々はそれぞれその心当たりをさがしてくれたのであるが、あとで気がついて見ると実に計画的に捜査がなされている。

とうことは村の人たち、子どもの家の事情やその暮らし方をすっかり知りつくしているということであろう。もう村落共同体的なものはすっかりこわれ去ったと思っていた。それほど近代化し、選挙の時は親子夫婦の間でも票のわれるようなところであるが、そういうところにも目に見えぬ村の意思のようなものが動いていて、だれに命令されるということでなしに、ひとりひとりの行動におのずから統一ができているようである。

ところがそうした村人が真剣にさがしまわっている最中、道にたむろして、子のいなくなったことを中心にうわさ話に熱中している人たちがいた。子どもの家の批評をしたり、海へでもはまって、もう死んでしまっただろうなどと言っている。村人ではあるが、近頃よそから来てこの土地に住みついた人々である。日ごろの交際は、古くからの村人と何のこだわりもなしにおこなわれており、通婚もなされている。しかし、こういうときには決して捜査に参加しようともしなければ、まったくの他人ごとで、しようのないことをしでかしたものだとうわさだけしている。ある意味で村の意志以外の人々であった。いざというときには村人にとっては役にたたない人であるともいえる。

◆甲斐性のある女の条件

女たちは自分たちの仲間の中に半可通や愚か者を仕立てつつ、それを嘲笑の対象にして、一方では自らのいましめにもしたようである。そしてそれらの話の中にはすっかり笑話化したものも多かった。そのうち笑話の対象となる素材の多くは言葉づかいであった。村へ戻って来ては村の言葉をつかわねばならぬが一方では場所言葉も十分心得ていて、出るところへ出ればちゃんとした物言いのできることが、甲斐性のある女としての条件であった。

◆「じいやァ」 「おーい」

この祖父は夜一緒にねてくれるだけでなく山へも一緒につれていってくれた。ものを背負うオイコにテボをのせて、そのテボの中へ私を入れて背負っていくのである。ゆらゆらゆれていくのはたのしかった。山へいくと一人であそんだ。石をひろって来て積みかさねて見たり、木の葉をとって見たり、ときには山の奥の方までいったものである。さびしくなると大きい声で「じいやァ」とよぶ。「おーい」と返事があると安心する。

こうして五、六歳ごろになると畑の草ひきをさせられはじめた。「あまえが一本ひいてくれるとわしがそれだけらくになる」といわれる言葉についついつられる。はじめ頃は一うねもとるとうんざりしたものだが、ほめられるうれしさから、だんだん仕事に根気がでるようになった。草とりの御ほうびといえば、ツバナ、スイバ、イタドリ、イチゴ、野葡萄、グミなどのように田畑のあぜなどに野生しているものが多かったが、それで十分満足したのである。

◆文字を持つ人々

文字を持つ人々は、文字を通じて外部からの刺戟にきわめて敏感であった。村人として生きつつ、外の世界がたえず気になり、またその歯車に自己の生活をあわせていこうとする気持がつよかった。

文字に縁のうすい人たちは、自分をまもり、自分のしなければならない事は誠実にはたし、また隣人を愛し、どこかに底ぬけの明るいところを持っており、また共通して時間の観念に乏しかった。とにかく話をしても、一緒に何かをしていても区切のつくという事がすくなかった。「今何時だ」などと聞く事は絶対になかった。女の方から「飯だ」といえば「そうか」と言って食い、日が暮れれば「暗うなった」という程度である。ただ朝だけは滅法に早い。

ところが文字を知っている者はよく時計を見る。「今何時か」ときく。昼になれば台所へも声をかけて見る。すでに二十四時間を意識し、それにのって生活をし、どこかに時間にしばられた生活がはじまっている。

◆百姓の暮らし

「自然の美に親しみつつ自分の土地を耕しつつ、国民の大切の食料を作ってやる、こんな面白く愉快な仕事が他に何があるか。年が年中降っても照っても野良仕事と云ふけれども、百姓ほど余裕の多い仕事が他に何があるか。一旦苗代に種を播いたら植付迄の約二ヶ月は温泉行、御本山参り、さては親戚訪問出来得るのは百姓ではないか。植付を終って朝草を刈り牛を飼ったら昼寝をゆっくり出来得るのは百姓ではないか、秋収穫を終へ、籾を櫃に納め置き炉辺に榾を燃やしつつ藁細工に藁履の二三足も作って其日を送り、又仏寺に参詣して作り自慢を戦はしつつ、殆ど三ヶ月の呑気暮しの出来るのは百姓でなければ真似の出来ないことではないか」

◆高木さんの批評

「・・・・・それにしても、あの大きな部屋にいて渋沢先生が小さく見えなかった。よほどえらい人ですなァ」

◆あとがきから

これらの文章ははじめ、伝承者としての老人の姿を描いて見たいと思って書きはじめたのであるが、途中から、いま老人になっている人々が、その若い時 代にどのような環境の中をどのように生きて来たかを描いて見ようと思うようになった。それは単なる回顧としてではなく、現在につながる問題として、老人た ちのはたして来た役割を考えて見たくなったからである。そのため、かなり不統一なものになっている。しかも書いているうちに、いくつかのあたらしい意図が 加わった。たとえばこの書の中には東日本の老人については高木誠一翁のことを書いただけでふれていない。つまり、中部および西日本の社会を背景にした年寄 りたちの姿である。

これは今の日本の学問では日本の首都が東京にあり、また多くの学者が東京に集うており、物を見るにも東京を中心にして見たがり地方を頭に描く場合に も中部から東の日本の姿が基準になっている。たとえば姑の嫁いじめが戦後大へん問題にされた。たしかに問題にしなければならないのだが、それは家父長制の つよいところにあらわれる。一方嫁の姑いじめはそれ以上に多いと思われるが、この方は大して問題にならないのである。姑がマスコミに訴える方法と力を持っ ていないからであろう。婚姻の問題にしても、明治中期以前親の言いなりに結婚したのと自分の意思の力で結婚をきめた娘の割合はそうであっただろうか。後者 の例は西日本では前者より多かったのではなかろうか。

一つの時代にあっても、地域によっていろいろの差があり、それをまた先進と後進という形で簡単に割り切ってはいけないのではなかろうか。またわれわ れは、ともすると前代の世界や自分たちより下層の社会に生きる人々を卑小に見たがる傾向がつよい。それで一種の非痛感を持ちたがるものだが、御本人たちの 立場や考え方に立って見ることも必要ではないかと思う。

(昭和14年~27年、昭和30年~35年に日本全国各地を見てまわる。)

それらの中からみちびき出して来た問題はいくつもある。が私の一ばん知りたいことは今日の文化を築きあげて来た生産者のエネルギーというものが、どういう人間関係や環境の中から生れ出て来たかということである。


***** 著者 *****

Miyamoto 宮本 常一(みやもと つねいち、1907年8月1日 - 1981年1月30日)は、日本を代表する民俗学者の一人。

山口県周防大島に生まれる。大阪府立天王寺師範学校(現大阪教育大学)専攻科卒業。渋沢敬三に見込まれて民俗学の道に入り、戦前から高度成長期まで日本各地をフィールドワークし続け(1200軒以上の民家に宿泊したと言われる)、膨大な記録を残した。

柳田国男とは異なり、漂泊民や被差別民、性などの問題を重視したため、柳田の学閥からは無視・冷遇されたが、20世紀末になって再評価の機運が高まった。益田勝実は宮本を評し、柳田民俗学が個や物や地域性を出発点にしつつもそれらを捨象して日本全体に普遍化しようとする傾向が強かったのに対し、宮本は自身も柳田民俗学から出発しつつも、渋沢から学んだ民具という視点、文献史学の方法論を取り入れることで、柳田民俗学を乗り越えようとしたと位置づけている。

*宮本常一データベース

Miyamoto2

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コメント

私の田舎では寄り合い、をやっていますよ。共同で何か作業をやるとき。何か問題がはっせいしたとき。企業でヤル、打ち合わせ、のようなもの。農村だから共同作業がおおかったが、いまでは、減反のあおりをうけて稲作を止めた家が多いし、むかしのように盛んではないだろうが。

宮本常一が歩いたところを日本地図の上に、赤線で示したら、地図はまっ赤になったろう、といわれています。

宮本は家を留守にしたから、子供にも顔を覚えられなかった。外に女を作ったから奥さんとはおそらく死ぬまで、折り合いが悪かった。

NFライター佐野真一が宮本常一について沢山書いています。ETV講座で宮本常一をとりあげた。佐野+宮本、で検索してみてください。宮本は地方民芸も多く発掘した。

投稿: 古井戸 | 2008年7月19日 (土) 03時42分

★「寄り合い」、今でもあるんですね。村内部の事を話し合う事が出来る。良くも悪くも、村外からの文化を受け入れる、あるいは受け入れないという話し合いが出来、体制的な役割も果たす。「自治体」以前にも、そういう組織的なものがしっかり根付いていたという事を、とても興味深く思いました。

宮本氏は、そんな豪胆な人だったのですね。以外というよりは、さもありなん、という感じです(笑)。

佐野真一の本、借りて読んでみます。^^

投稿: さくらスイッチ | 2008年7月19日 (土) 20時31分

http://nakawaka.com/yougo/2007.htm
↑に<月番>というのがあります。寄り合いは部落(20~30軒のグループ)が集まるのですが、そのなかで人月単位で感じとなる家を持ち回りで決めます。これを<月番>といっていました。パソコンの半分くらいの板きれに
          月番
と書いた札を家の玄関脇に掲げておきます。終わったら次の家にもっていきます。この役をワタシラ子供がやっていたのです。(半世紀前のことですが。。。)。

宮本常一は、父が立派な人のようで、宮本が大阪に就職で旅立つとき、十箇条を紙に書いて渡したそうです。↓
http://blog.livedoor.jp/komuten/archives/24640376.html
リッパですねえ。。代々、教えてきたのだろうか。

地域の民芸にも熱心でした。佐渡の鬼太鼓座は宮本が起こしたものです。出身は周防の大島です。

スイッチさん、家庭第一ですよ^^。剛胆にならぬよう。スイッチせぬよう。

投稿: 古井戸 | 2008年7月20日 (日) 09時54分

★月番から、回覧板を連想しました。寄り合い組織、恐るべし!です。ある意味、排他的にもなるんでしょうが、こういう組織があるからこそ、新しいものを受け入れる事を可能にしたのかも。明治維新や戦後改革が上手くいったのは、個人ではなく共同体で受け止める事が可能だったからなのかもなぁ、なんてボンヤリと想いました。

宮本常一の父親の言葉には、感動しました。この言葉の贈り物は、生涯に渡る財産になったでしょうね。土地を感じる方法としても、親子のあり方としても、的確な指針になっています。心底、立派な父親だなぁ、と思いました。

家庭を持っても、豪胆にスイッチしないよう気を付けます。(笑)

投稿: さくらスイッチ | 2008年7月20日 (日) 20時46分

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