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2008年6月10日 (火)

031『死刑』 森達也 初版2008年

人は人を殺せる。

でも人は、人を救いたいとも思う。

20080608

・・・・・ 概要 ・・・・・

僕の結論は、きっとあなたに共有はできないと思う。なぜなら人が百人いれば百通りの死刑がある。僕は彼らに会った。そしてあなたはこの本を読んだ。だからあなたの中に、何かが生まれることを願っている。

最後にもう一度書く。みんなが願っている。遺族も、死刑囚も、廃止派も、存置派も、刑務官も、教誨師も、元裁判官も、元検事も、弁護士も、そして僕も、きっとあなたも。願いはかなえたい。かなえよう。今よりも少しでも良い社会にすること。それはきっと、いや絶対に不可能ではない。

・・・・・ 読むきっかけ&目的&感想 ・・・・・

「死刑廃止派」の人が、何故そう考えるのか知りたくて読んだ一冊。

「国家による殺人=死刑」を認めないというのが近代国家のあるべき姿、EUの加入条件の一つに死刑執行停止がある、死刑を存置しているいわゆる先進国は日本以外はアメリカしかない、らしい。でもあたしは、「死刑廃止」というのがシックリこない。どれだけ人を殺しても無期懲役、つまり、国家に命を守られ、税金で日々の暮らしを保障され、20年もすれば仮釈放される、そんなのってありなの???、なんてあたしは思う。仮に、文字通りの終身刑が導入されても、そう思う。死刑は廃止すべきだ!!、と考える人は日本にも少数ながら存在するし、どうやら世界的に見ればそう考える人の方が多数みたいだ。何故? そんな疑問の答えの糸口になればと思って手にした一冊。 。。

さくら好み ★★★★☆

「死刑存置or死刑廃止」の狭間で、著者が迷って悩んでいる姿には共感できた。ただ、著者の言葉の端々からは、「納得できる死刑存置の理由」を探してる事が感じられ、あたしが「納得できる死刑廃止の理由」が知りたいのとは、基本が逆だ。情緒的にしっくりくる考え方が著者とあたしでは違っているんだな、とか、しっくりくる考え方があたしと違うのは「死刑」に関心を寄せるようになった過程がそもそも違っているせいもあるんだな、とか思いながら読み進めた。

いくつか取り上げられている事件は、古いものもあるが近年のものも多く、現在に即した内容になっていた。本村洋さんの返信メールの一部も載せられており、色々と考えさせられた。

この本を読んでスッキリした!という事は無かったけど、「死刑」について考える第一歩として、この本を読んで良かったと思う。来年からは裁判員制度も始まるし、少しずつでも自分で考えていきたい。

・・・・・ 覚書 ・・・・・

◆死刑とは何か

廃止論者の多くは、これを「国家による殺人」と定義する。つまりベンヤミンが主張するように、戦争と並んで死刑は、国家がア・ブリオリに内在する個人への暴力の発動であるとの考えかただ。これに対して存置論者たちの多くは、死刑を「共同体の規範を維持するためのシステム」だと主張する。つまりは犯罪への抑止力。遺族に代わっての国家による仇討ちだと存置の理由を口にする人も多い。これに対して死刑廃止を主張する人たちは、犯罪抑止効果への疑問と、誤判や冤罪の可能性を指摘する。その意味ではとても明確だ。

◆死刑確定後に生きられる時間

確定してから死刑囚が拘置所で過ごす時間は平均7年と11ヶ月(法務省調べ 1997~2006年の平均)。10年以上の人も多い。それだけの長期にわたって日光を浴びず、どこにも行けず、誰にも会えない。そんな生活をあなたは想像できるだろうか。

◆死刑囚が死刑を知らされてから与えられる時間

「たとえば、処刑を知らされるのが当日の朝であるということ。つまりその日の朝にいきなり言い渡されて、その1、2時間後には処刑されるわけですよね。・・・・・想像するしかないけど、朝起きて、刑務官の足音が近づいてくる。それがちょっといつもと違って、どこかのドアの前で止まって・・・・・もし自分のドアの前で止まったら、もうそれで人生が閉ざされる。その恐怖は凄まじいと思うんです。そんな日常が続くわけですから、これだけでも死刑に値するぐらいの重い罰じゃないのかなって感じてます」 ~漫画『モリノアサガオ』の作者・郷田

◆アメリカの情報公開

西側先進諸国としては日本と並びほぼ唯一の死刑存置国であるアメリカは現在、50州のうち38州が死刑を存置している。しかしアメリカの情報公開は、日本とは比べものにならない。たとえばノースカロライナ州矯正局のホームページでは、死刑囚の名前、年齢、人種、誕生日、有罪判決の日付、拘置所の名前、有罪判決の履歴、さらに顔写真までが掲載されている。略。またこのホームページでは、死刑囚の日常や生活の様子なども写真入で紹介されており、ノースカロライナの処刑方法である薬物注射についても、その詳細な手順や、死刑囚が最後に横たわる車輪付きベッドの写真などが掲載されている。

執行は通常、金曜の午後2時に行われる。その週の火曜日に死刑囚は執行室隣の監房に移される。区画内は自由に出入りできるし、外部に電話も自由にできる。処刑の日時は死刑囚の家族にも連絡され、最後の面会が行われる。

略。処刑の際の立会人は16人。内訳は刑務所長と弁護士や警察官など公的な立会人4名に加え、被害者遺族や死刑囚の親族立会いも可能であり、さらにはメディア関係者5人の枠もある。特にノースカロライナだけが情報公開が進んでいるわけではない。

◆日本の情報公開

そもそも法務省は死刑の執行予定を公表しない。執行後に法務省記者クラブにファックスで伝えられるには執行の事実と執行された人数だけで、死刑囚の氏名や罪状、どこで執行されたかなどの情報は秘匿されている。死刑囚の家族に報せるのは処刑後だし、被害者家族にいたっては公式には報されない。新聞やテレビが死刑囚の名前を伝えるそのニュースソースはリーク情報だ。名前さえ秘匿されているのだから、刑場公開などありえない。

◆確固とした存置への理念がこの国にあるのなら、他国に迎合する必要などない。

1989年12月、国連は死刑廃止条約を採択した。アムネスティ・インターナショナルによると、2007年10月2日現在、あらゆる犯罪について死刑を廃止している国は90ヶ国、戦時の犯罪など例外的な犯罪を除いて死刑を廃止している国は11ヶ国、廃止はしていないが過去10年以上にわたって死刑の執行を停止している国は23ヶ国となっている。実質の死刑廃止国をこの総数とみなすなら133ヶ国。これに対して、死刑を実施している国の総数は64ヶ国。実施国の内訳は、アメリカを例外にすれば、ほとんどがアジアと中東、そしてアフリカの一部の地域だ。

先進国では例外的な死刑存置国として日本とよく並列されるアメリカだが、近年の傾向としては明らかに減少している。略。死刑廃止が世界の趨勢であることは確かだろう。また廃止によって凶悪な事件が増えることがないことも、廃止国のデータからは充分に検証できる。

ただし、だからどうしたと思う気持ちも僕にはある。たとえ世界中が死刑廃止をしたとしても、確固とした存置への理念がこの国にあるのなら、他国に迎合する必要などない。胸を張って執行すればよい。しかし今のところ、そんな理念や哲学は見つからない。

◆「近年の治安の悪化は凄まじい」のか?

「日本は犯罪の防止や抑止に成功した国です。少年犯罪の再犯率も世界的に見れば低い。でもその事実の認知が広がらない。『体感治安』という造語がひとり歩きし、『犯罪大国』と思い込んでいる」

そもそも少年犯罪は大きく減少している。殺人事件もそうだ。戦後の統計においては、殺人事件の認知件数が一番多かったのは1954年の3081件。略。「近年の治安の悪化は凄まじい」とのフレーズをよく耳にするが、略、(殺人事件の認知件数は)この20年近くはほぼ横ばいだと思っていい。ちなみに殺人事件の場合の検挙率も、戦後はずっと96から97パーセント前後を推移していて、2006年は96.8パーセント。これも決してダウンなどしていない。

◆「(殺人事件の遺族が持つ)報復感情の延長にあるのが戦争」?

「しかし遺族の報復感情を国家権力の行使という形でやるべきではない。・・・・・そんな報復感情の延長にあるのが戦争です。ブッシュがそうですね。9・11の報復感情だけでイラクに侵攻してしまった。憎しみはわかります。憎しみはわかります。わかるけれども、遺族が全員応報を求めているわけじゃない。自分の親しい、愛しい人が殺されたことで、やはり人の命は大事なんだと、犯人の命までとることは求めないという人も実際にいるわけですからね。略」 「死刑廃止議員連盟は終身刑導入を訴えます。」 ~国民新党代表代行・亀井静香

亀井が口にした終身刑導入は、死刑廃止を論じる際の要点のひとつだ。法律上は最短10年で仮釈放が可能な無期懲役と死刑とでは差があまりに大きすぎるとの観点から、死刑と無期とのあいだの刑罰として終身刑を導入することを死刑廃止議員連盟は主張している。つまり死刑廃止のための前段階だ。

◆無期刑受刑者の平均在所期間

「矯正統計年報」によれば2006年度における無期刑受刑者の仮釈放者数は3人で、その平均在所期間は25年1ヶ月に及んでいる。さらには仮釈放されない囚人も多数いる。

諸外国には終身刑があるのに日本にはないともよく聞くが、多くの国の終身刑は、日本の無期懲役と同様に仮釈放のある終身刑だ。つまりは運用上は大きな違いはない。仮釈放のない終身刑を採用している国は、アメリカ(一部の州を除く)やオーストラリア(一部の州を除く)、中国、オランダ、スイス、ハンガリーなど、むしろ少数派と言えるだろう。

◆「死刑囚の命であろうと人間の命を大事にする」心・・・

「今ちょっとね、オウムの事件もあったし凶悪犯罪も多いから、死刑を存続せにゃ駄目だというような短絡的な考えかたが続いているけどね、凶悪犯罪が多いからこそ死刑を廃止すべきなんだ。死刑囚の命であろうと人間の命を大事にするということ。そういう心が芽生えることによって、凶悪犯罪はなくなっていくと思いますね」 ~国民新党代表代行・亀井静香

◆民意を押し切って死刑廃止を実現したフランス

フランスで全面的な(死刑)廃止が実現したのは、死刑制度廃止を大統領選挙の公約として掲げたミッテラン政権が誕生した1981年だ。法相に任命されたロベール・バダンテールは、死刑廃止法案を国民議会に提案したとき、議会の演壇で以下のように宣言した。

自由の社会は人間が他人の命に対して絶対的な権限を保持することを認めることができるだろうか。罪人の死で犠牲者の死は償えるものなのか。こうした問いに対してわれわれの社会が解答できるのは死刑を廃止することによってのみである。人を殺すことが正義ではありえない。皆さんのお陰でフランスでは明日から人を殺すことが正義ではなくなる。夜明け方の刑務所でこっそり処刑するというわれわれの恥もなくなる。皆さんのお陰で明日われわれの正義の血にまみれたページは閉じられるのです。心からありがとうと申し上げたい。

翌日、議会は死刑廃止を可決する。このとき世論調査では、フランス人の62パーセントが死刑廃止に反対していた。いわば民意を押し切ったわけだ。そして四半世紀が過ぎた現在においては、死刑復活に賛成する国民は42パーセントで復活反対が58パーセント(2006年9月)。民意はほとんど逆転した格好だ。

◆冤罪元死刑囚

戦後日本において、冤罪元死刑囚は4人いる。そのうちの一人が、「免田事件」の免田栄だ。自らを死刑判決に追いやった警察や検察関係者の無罪確定後の反応を、免田は以下のように記述している。

濡れ衣をはらし、社会に帰った私は、当時の熊本県人吉署捜査係長福崎良夫氏に会って感想を求めると、「俺たちは仕事でやった」と言う。私を起訴した熊本地検の野田英夫検事は「今さら非難するな」と言った。最初に死刑の判決を言い渡した熊本地裁八代支部の木下春雄裁判長は「ご苦労さん」とだけ言った。

◆「教誨師(きょうかいし)」とは?

2006年12月末の時点で、全国の教誨師の数は総計1551人。そのほぼ七割は仏教系の僧侶で、残りの三割強を神道系とキリスト教系が占めている。「教誨」の意味は広辞苑によれば、

1.教えさとすこと
2.刑務所で受刑者に対して行う徳性の育成を目的とする教育活動。宗教教誨に限らない。

と定義されている。徳性の育成を目的とする教育活動。つまり受刑者の改悛や反省の手助けをして、社会復帰するときのために矯正することだ。でも教誨師の使命はそれだけではない。広辞苑には「刑務所で」と記述されているが、例外的に拘置所にも出入りする。死刑囚への教誨だ。

◆人が人を裁く以上間違いは起こる・・・冤罪は無くならない

現状においては、既得権益保持や組織防衛、さらには出世などの組織内論理が、当たり前のように事実の究明に優先していることがとても多い。調べれば調べるほどこれを実感する。

ならばこれ(冤罪)はシステムの問題なのか。冤罪が起きないよな創意工夫に努めればよいだけの話なのか。

人が人を裁く以上間違いは起こる。冤罪が完璧に起きないような創意工夫などありえない。死刑制度を考察する際に、どれほどに誤判と冤罪が多いかを知ることは、絶対に不可欠な要素のはずだ。

ただしこれは死刑制度の属性であって、本質そのものではない。でもならば仮に冤罪が絶対にない刑事司法のシステムが構築されたとき(現実にはありえないが)、僕は死刑制度をを支持するのだろうか。

◆この社会の本質は当時者性ではなく、他者性によって成り立っている

第三者が想像で当事者の心中を語ってはいけない。ならば当事者の言葉を聞くべきなのだ。でもひとつだけ言えること。この社会の本質は当時者性ではなく、他者性によって成り立っている。大多数の人にとって当事者性はフィクションなのだ。ただしフィクションではあるけれどとても大切なこと。でも同時に思うこと。人は当事者にはなれない。大多数の人が他者であり第三者だからこそ、この世界は壊れない。当事者の感覚を想うことは大切だ。でも自分は他者であり第三者であることの自覚も重要だ。だって当事者ではないのだから。

◆被害者や遺族は、相当に不合理な状況に置かれていた

日本の刑事裁判において被害者やその遺族は、傍聴席に座って裁判を見守ることしか許されていなかった。傍聴人が多い場合は、一般の傍聴希望者と一緒に抽選の列に並ばねばならなかった。そもそも開廷日についても、裁判官と検察と弁護側の三者だけで日程が決められる。遺族は蚊帳の外だ。法廷で証拠として採用された調書や物的証拠、起訴状や弁論要旨、論告要旨や判決文なども、被害者遺族は閲覧できなかった。

裁判への参加が認められなかっただけではない。犯罪被害者や遺族が受けた経済的な損害への公的な補償制度である「犯罪被害者等給付金制度」はとても不十分で、医療費なども含めてすべて自己負担が当たり前だった。殺害された家族が司法解剖されて警察から遺体を引き取るときの搬送費用まで、かつては遺族の負担とされていた(2004年4月からは都道府県と国の負担)。

加害者に対して損害賠償を請求するために民事裁判を起こすにしても、裁判が終わるまで刑事裁判の証拠を閲覧することはできなかったため、被害者や遺族は一から資料集めをしなければならなかった。さらに賠償が認められたとしても、支払い能力の無い加害者は多い。こうして被害者や遺族のほとんどは、実質的には泣き寝入りの状態だった。

2004年には犯罪被害者等基本法、そして2007年には改正刑事訴訟法が成立した。また被害者や遺族は検察官の隣に座って被告人へ質問することができるようになり、求刑の意見を述べることも可能になる。この制度は2008年12月までに開始される。

刑事裁判における被害者参加については、一部遺族からは法廷で二次被害にあう可能性への懸念が表明され、また日弁連や法務省内部などからは、法廷の審議が感情に流される危険性が指摘された。確かにその可能性はある。特にこれからは裁判員制度が始まる。略。

◆遺族は償いや更生など求めていない

彼女はその責任をとらなければならない。でも実のところ、責任を取る術はない。遺族は償いや更生など求めていない。だって命は戻らない。他の何ものにも代えられない。

◆僕は彼を死なせたくない 僕は彼を救いたい

死んで当然の命などない。どんなに汚れていようと、歪んでいようと、殺されて当然の命などない。僕は彼に会った。そして救いたいと思った。そこに理由はない。

目の前にいる人がもしも死にかけているのなら、人はその人を救いたいと思う。その気持ちが湧いてこない理由は、今は目の前にいないからだ。知らないからだ。でも知れば、話せば、誰だってそうなる。それは本能であり摂理でもある。僕らはそういうふうに生まれついている。だから改めて記す。

この国の主権者は、僕やあなたも含めてすべての国民だ。そしてすべての行政手続きは、主権者である僕たちの合意の下にある。僕やあなたが同意しているからこそ、死刑制度はは存続している。もっと直裁的に書けば今、僕やあなたは罪人を殺すことに加担している。死刑囚については第三者なのに、死刑制度については当事者なのだ。だからそのうえで思う。

冤罪死刑囚はもちろん、絶対的な故殺犯であろうが、殺すことは嫌だ。
多くを殺した人でも、やっぱり殺すことは嫌だ。
反省した人でも反省してない人でも、殺すことは嫌だ。
再犯を重ねる可能性がある人がいたとしても、それでも殺すことは嫌だ。

◆死刑問題の本質

死刑問題の本質は、「何故、死刑の存置は許されるのか」ではなく、「何故、死刑を廃止できないのか」にあるのだと思います。換言するならば、「何故、権力は死刑という暴力に頼るのか」、「なぜ、国民は死刑を支持せざるをえないのか」です。 ~本村洋さんからのメールより抜粋

・・・・・ 著者 ・・・・・

森達也 wiki

森 達也(もり たつや、1956年5月10日 - )は、日本のドキュメンタリー映画監督、テレビ・ドキュメンタリー・ディレクター、ノンフィクション作家。

1998年、映画『A』がベルリン国際映画祭に正式招待される。2001年、続編『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭にプレミア出品され、市民賞・審査員賞受賞。『A』によるオウム真理教へのひと味異なる密着取材、超能力者、放送禁止歌謡への取材など、独自の切り口などについて高い評価を受けている。

20080607

▼2011年8月追記 ノルウェー連続テロ事件について

◇森達也 MORI Tatuya Official Websight http://moriweb.web.fc2.com/mori_t/index.html

ノルウェーで生まれ育ち、たまたま今は大阪にいる19歳のS.M.さんに、ウートイヤ島で起きた今回の事件について、思うことを書いてもらった。僕は彼女に会ったことはないし、どんな内容になるのかはまったく想像がつかなかった。でも読み終えて、できるだけ多くの人に読んでほしいと思ったので、了解を得て以下に全文を引用します。

ノルウェーには死刑がない。人間は苦しみを与えられてはならず、その命が他の目的に利用され る存在であってはならないと考えるからです今も死刑を行っている国は、(幼い子供たちも含めて)すべての 国民に、「殺人で問題は解決する」というメッセージを与え続けていることになります。これは間違っています。。 犯罪者の命を奪っても犯罪は撲滅できません。残された憎しみと悲しみが増えるばかりです。ノルウェーに死刑がないことを、私はノルウェー人として誇りに思っています。

ノルウェーで死刑復活を望む人は多数派ではありません。もし誰か、たとえばウートイヤ島の若者たちを攻撃した テロリストが、私たちのこの価値観を脅かそうとしたら、そのときには私たちは、共に手をとることで応えることを 望みます。憎しみで応えてはならないのです。

事件後にストルテンベルグ首相が、ノルウェー在住のイスラム系の人々と共にモスクで「多様性は花開く」と語ったとき、 そしてこの民主主義の核心への攻撃がかえって民主主義を強くするのだと語ったとき(http://www.vg.no/#!id=42543, 2011年7月31日)、 私は本当に誇らしく思いました。これこそがノルウェーだ、これは忘れてはならないこと、そして変えてはいけないこと、そう思ったのです。

首相の姿勢は、大多数、いえ、ほとんどのノルウェー人の思いの反映です。ノルウェー国民は今、なによりも共に手をとり、 互いの肩にすがって泣き、こんな攻撃に連帯を弱めさせまいとしているのです。被害者の母親の一人は、事件後にインタビューで、 「「一人の人間がこれだけ憎しみを見せることができたのです。一人の人間がそれほど愛を見せることもできるはずです」と 語っています。私の友人たちも知り合いも、みな同じ態度で臨むと言っています。

この事件によって、ノルウェー社会を変えてはいけないのです。犯人が望んだのは、まさに私たちの社会を変えることなのだから。 彼の望みを叶えさせてはいけない。これが重要なのです。だから死刑復活などあってはならない。これはノルウェー人の一般的な見解です。

ノルウェーの法律では禁固21年が最高刑となっていますが、アンナシュ・ベーリング・ブライヴィークはきっとそれ以上の長さの 刑を受けることになるでしょう。特別な場合には例外的にそうされることがあるのです (注:出所前段階でのチェックで、まだ社会に出る準備ができていないと判断された場合には、延長可能)。

また受刑期間の一部は、精神病院で強制治療を受けることになる可能性も十分にあります。ノルウェーでは精神的に問題のある犯罪者を、 刑務所での禁固に加え、あるいはその一部として、治療を受けさせることはよくあるのです。私はこれもノルウェーの刑務システムでは 重要な特徴だと思うのですが、刑務所のような厳しい環境に適応できたり利用できたりできる犯罪者ばかりではないからです。 ベーリング・ブライヴィークについては、私は情報も知識も不十分なので、判断はしないでおきます。 が、裁判でそれが適切とされれば、彼は刑期の一部を精神治療として強制されるでしょう。

犯人の政治的姿勢についですが、彼はノルウェーの政策の中でも、特に移民政策に反対する極右思想の持ち主です。 ノルウェーの移民政策は非常にリベラルで、毎年数千もの市民権申し込みが承認されています (http://www.udi.no/sentrale-tema/Statsborgerskap/)。 そのために私たちの社会は、複数文化社会となっています。私も、また他のほとんどのノルウェー人も、これをよいことと思っています。社会の多様性は、他者や異文化に対しての 寛容さを作り出します。イスラム教はノルウェーではキリスト教に次ぐ大きな宗教で、信者は7万9000人といわれます。

今日のノルウェーで、レイシズムはほとんど問題になっていません。私自身、もう何年も、レイシズムによる暴力行為や 偏見差別について誰かが口にするのを、聞いたことがないくらいです。私の通っていた学校でも、多くの民族の子供たちがいながら、 まったく問題はありませんでした。この点も私がノルウェーを誇りに思うところです。 だからこそ、今の政策を変えるべきではないと思うのです。

民族的にノルウェー人ではないノルウェー国民も、同じノルウェー人とみなされています。私が子供の頃は、それに対して特に何も 考えてはいませんでした。ノルウェーに住んでいる人はみなノルウェー人だと、当たり前のように思っていたのです。 今になって、ノルウェーはやや特異な立場にあるのだとわかってきました。特に日本はこの点において、 ノルウェーよりはるかに遅れています。市民権を得ることはとても難しいし、取れたとしても、同じ日本人としてはなかなか扱ってもらえません。

ノルウェーでは移民たちの習慣や日常を、できるかぎり尊重します。たとえばイスラム系の生徒が望めば、 学校給食にハラルを使うことが普通です。ベーリング・ブライヴィークのように、こうした政策に反対する人も、 (きわめて少数派ですが)存在します。こんなことを許し続ければ、しまいにはノルウェーの社会や文化が 変わってしまうと彼らは主張します。でもこれは完全に間違っています。出自が異なる文化の人たちに、 多数派である私たちが合わせる努力をすべきなのです。ノルウェー国民は決して器用ではありません。 だからこそ私たちは努力しなくてはならないし、この制度を大切にしていかなくてはなりません。 そして移民としてやってきた人々も、私たちの社会に溶け込めるように努力しています。これは相互の責任です。

実はノルウェーでも過去には、少数民族を同化させようとしたこともありました。ノルウェー北部に住むサーメという先住民族です。 サーメ語を話すのを禁じ、サーメ宗教の儀式を禁じる規則ができました。学校ではこの規則に違反すると、 サーメ人の子供は罰されたのです。サーメの子供たちは、民族的ノルウェー人の子供からも大人からも苛められました。 もちろん私たちは今、絶対にこんなことを繰り返すべきではないと思っています。1800年代、そして1900年代にアメリカに移民したノルウェー人とその子孫は、今に至るまでアメリカでノルウェー文化や ノルウェー語の一部を守っています。ルーツを忘れたくないというのは、人間の自然な気持ちなのです。

ノルウェーはとても小さな国です。今回のテロ事件の衝撃や影響はが、とても大きいことは確かです。 でもノルウェーは変わりません。こんなときこそ支えあい、テロに対抗するために連帯を強め、 民主主義を確固なものにしていかなくてはなりません。システムは効果的に動いていて、 ほとんどの人々がその恩恵を受けています。これを変えるなど、あってはならないことなのです。

2011. 08.04. 大阪にて ノルウェーの19歳、S.M. 2011.8.10 森達也

●人間は苦しみを与えられてはならず、その命が他の目的に利用される存在であってはならない今も死刑を行っている国は、(幼い子供たちも含めて)すべての 国民に、「殺人で問題は解決する」というメッセージを与え続けている。しかし犯人を殺しても犯罪は撲滅できないから、このメッセージは誤っている。

●今日のノルウェーで、レイシズムはほとんど問題になっていない。だからこそ、今の政策を変えるべきではない。この事件によって、ノルウェー社会を変えてはいけない。犯人が望んだのは、まさに私たちの社会を変えることなのだから 彼の望みを叶えさせてはいけない。これが重要。

●テロに対抗するために連帯を強め、 民主主義を確固なものにしていかなくてはならない。(民主主義の)システムは効果的に動いていて、 ほとんどの人々がその恩恵を受けてる。これを変えるなど、あってはならない。テロ犯罪に対抗するには共に手をとることで応えるべきであって、憎しみで応えてはならない(←これはテロに暴力で対抗しようとするアメリカにも聞かせてやりたい)だから死刑復活などあってはならない。

死刑否定の要旨をまとめるとこんな感じでしょうか。これ、19歳の若者が書いた文章ですが、何度も読み返したくなる格調の高さがあります。そしてこれがノルウェー人の一般的な見解であって、決してごく一部の「サヨク」や「人権屋」の見解ではないというところにも注目です。

(余談ですが、この手記を読むと、テロに暴力でばかり対抗しようとするアメリカに死刑制度が残っているのもなるほど、と言う気がしますね。)

ノルウェーが誇りにしているのはレイシズムのない、多様性を認める民主主義社会。言い換えれば愛と寛容に基づく社会です。しかし犯人が望んだのはレイシズムはびこる非民主主義的な社会。言い換えれば憎しみに基づく社会と言えるでしょう。そういう社会をノルウェーは拒否します。そういう社会を実現させてはいけない、犯人の望みを叶えてはいけないと考えます。

テロ犯罪に対抗できる手段は憎しみではなく、愛と寛容を誇りにしてきた民主主義をより強固にすることです。ノルウェーの大多数の人々はそのことを知っています。死刑は憎しみに基づくものですし、民主主義社会が高度になればなるほど人権、生命に敬意が払われるようになりますので死刑制度はなじまなくなります。つまり、死刑は犯人が望むような社会にこそ親和性があるし、テロ犯罪の正しい対処とは正反対の手段です。死刑を復活させることはまさに犯人が望んだ社会の実現に近づくこと。だからノルウェーは死刑の復活を拒むのです。

これに対し、日本の大多数の哲学は、人を殺したら殺されて当たり前、犯人を死刑に処すことこそ被害者や遺族や社会感情に応える正義である、というもの。日本では、愛と寛容と民主主義をもってこのような極悪な犯罪に対処することは、馬鹿馬鹿しい偽善的なお花畑だ、こういう「人権屋」の自己満足は被害者や被害者遺族や社会全体に仇なす害悪だ、と捕らえているかのようです。

確かに、何でもかんでも自己責任、社会的弱者に手をさしのべることを血税の無駄遣いと敵視する今の日本は、「愛と寛容」が欠如した殺伐とした空気が蔓延してますね。

ノルウェーと日本、この哲学の違いはどこから来るのでしょう?

私が思うに、日本は、本当の高度な民主主義をまだ自分たちの手で実現していません。ノルウェーのように「(民主主義の)システムは効果的に動いていて、 ほとんどの人々がその恩恵を受けてる。」状態ではありません。日本はそういう高度な民主主義が実現した社会ってどんなものか、その良さをまだ実感したことがないので、基本的人権を何よりも尊ぶ愛と寛容に基づく高度な民主主義社会に発展することを拒み、逆行するかのような道(死刑維持もその一例)を進みたがるのではないかと思えるのです。

北欧民主主義体験ツアー、なんてのがあってもいいかもしれませんね。旅行会社の企画部の方、いかがですか(笑)?

さて、このテロの犯人は、 日本と韓国について「多文化主義を拒否している国」と言及。日本などを反移民、非多文化社会の模範のようにたたえていた。とのことです。思い当たる節は山ほどありますね。 http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20110724k0000m030131000c.html

極右レイシストにしてテロリストから讃えられる国、日本・・・トホホ

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