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2008年6月12日 (木)

032『日本語文法の謎を解く』 金谷武洋 初版2003年

「文法は文化や価値観・発想の違いを反映している」

20080612_5

***** 概要 *****

日本人の英語下手は言われて久しい。しかし、単語やイディオムの暗記だけでは上達に限界がある。それよりもずっと大切なのは、日本語と英語の「発想法」の違いを正しく把握することだ。日本語が「自然の勢い」を強調するのに対して、英語は「より人為的・意図的」な表現を選ぶ。本書では、日英両語の基本文の比較に端を発して、地名と人名、人称代名詞、主語・主題、自他動詞と受身・使役などをわかりやすく、かつ大胆に解釈しなおす。目からウロコが音を立てて落ちる、新しい日本語論を提唱する。

***** 読むきっかけ&目的&感想 *****

日本語の個性って何だろう、と思って読んだ本。日本語の個性が、性格形成にどんな影響を与えているのかに興味がある。そしてその延長線上で、他言語の個性が、性格形成にどんな影響を与えるかにも興味がある。軽い興味に過ぎないけど、ね。

さくら好み ★★★★★

本書は日本語論でもあるけど、カナダの大学で外国語としての日本語と言語学を教えている著者の日常が、閑話休題(といっても本文に関係する内容)的に書かれていて、単純に読み物としても楽しくて面白いモノだった。

肝心の日本語論も、ちょっと変な言い回しになるけど“すごく腑に落ちる”ものだった。自分では言葉で上手く説明できないことを他人が上手く説明してくれて、「あ、そうそう、そういう事!」と思う時の様な感覚を読みながら覚えた。

もちろん、「そうなんだ!?」って目からウロコが落ちる話もあり、今回は貸し出し中で借りれなかったこの著者の他の本も読んでみたいと思った。^^

***** 覚書 *****

◆発声が違う 

発声法が英語と日本語とではまるで違うことが、あまり指摘されないのはなぜだろう。日本人の声は遠くへ届かないことをまず知って欲しい。それと較べると、英語話者の声は実に遠くへ届く。金属的な音色とでも言おうか、声を響かせる身体の位置が違うのである。「骨音響学」的にも、英語は頭部に響き、日本人が響かせるのはそれより身体のずっと下方で共鳴自体がはるかに弱いらしい。

日本語の音声は周波数で1250から1500ヘルツの間に収まるが、英語ではそれと隔絶した2000から8000ヘルツである。

* 雑踏の声の集合音(つまり言葉の判別は出来ない)が言語によって違って聞こえるのは、このせいなんだと思った。

◆発想の違い。
「する言語」だと I see Mt.Fuji !、「ある言語」だと 富士山が見える。

日本語は現実を「人間の積極的な行為」として表現しない。それよりも「何かがそこで自然発生的に起こる」、あるいは「ある状態で、そこにある」という発想を基本として言葉を組み立てているのである。そのために、日本語は行為を起こす人間よりも場所、空間にこだわる。英語はその反対で、現実を可能な限り「人間の積極的な行為」として表現しようとする。だから人間そのものの表現にこだわる。歌舞伎のイメージで言えば、日本語は「舞台」を、英語は「役者」を表現する傾向がとても強いのだ。

本書ではこうした両者の違いに注目して、英語を「する言語」、日本語を「ある言語」と呼ぶ。

◆同一の子どもでも、使いこなす言語によって性格が変わるのは、文法が発想を変えるから!?

日英語バイリンガルの子どもが、日本語を話している時は大人しく、英語に切り替わった途端に人が変わったように自己主張をするようになる、とあちこちで観察・報告されるのも実は当然のことなのだ。同じ子どもなのに、使いこなす言語によって声の出し方、相手を見る視線、そして何より文の組み立て方を無意識のうちに変えている。英語は人間の行為が中心の「する言語」、日本語は物事の自然な生起・存在が中心の「ある言語」の文法を持つ。その文法は結局、文化(発想や世界観)が違うということに由来しているのだ。

◆日本語の「主語」には、ひとつもあてはまらない英語の主語の特徴。

多くの印欧語、なかでも現代英語における主語の特徴で特に重要と思われるものを列挙すれば、

い) 基本文に必ず要る
ろ) 動詞に活用を起こさせる
は) いつも主格で現れる

の3つである。強調したいのは、これら3点全て「客観的に観察出来る特徴」だということである。英語の構文論で主語が自明のこととして展開されているのはそのためだ。ところが、日本語、特に学校文法で「主語」と言われているものには、これら3点がひとつもあてはまらない。

◆「主語・主題・主格」とは? 日本語に「主語」は無用!

三上章は日本語に「主題(Topic)」はあると言った。あるどころか、日本語にとって極めて大切な概念であり、それの標識が「は」であるとした。次に「主格(Subjective)」もあるとした。これは格助詞の「が」が目印である。ただし、主格は補語である。つまり文の成立に不可欠な要素ではない。なぜなら日本語に「主語(Subject)」はないからだ。

主語を日本語から無くすと、日本語の基本文は述語一本立てとなる。それが名詞文(好きです)、動詞分(笑った)、形容詞文(楽しい)の3種類だ。それに対して、主語がないと動詞の形が決められない英語は主語・述語の二本立てである。

英語などでは「主述(Subject-Predicate)関係」というものがある。つまり、文は主語と述語の2つに分けられて、主語が述語全体と独占的に対応している。三上は、日本語の「名詞+が」は単なる主格補語であって、必要がなければ無くてもよく、主述関係はないと主張した。その代わりに日本語によく見られるのが「題述(Topic-Comment)関係」である。主題は述部の言い切りと呼応して一文を完成する。つまり、文を閉じるのである。「は」は系助詞なのだから、古文の「係り結び」を想起すればいい。

◆「『は』と『が』の違いは何か」は、「天使の羽の重さは何グラムか」と同じこと。

「は」と「が」を比べる従来のやり方は如何にも陳腐で、そろそろ卒業したいところだ。私はこれ以上「『は』と『が』の違い」を巡る考察にケチをつけるのは止めよう。それよりも、この問題が、そもそも「擬似問題」(Pseudoproblem)ではないのかと疑ってみたい。擬似問題とは、前提が間違っており、そもそも問うことに意味の無い問題のことを言う(例えば私にとっては「天使の羽の重さは何グラムか」は擬似問題だ)。

「は」と「が」とばかり比べられる真の理由は、やはりわれわれの潜在意識にある「主語」のせいなのだと思う。多くの文法研究者や日本語教師にとって、「は」と「が」のふたつが未だに根強く「主語を表す主要助詞」という刷り込みがなされているのである。われわれは未だに主語という文法概念を、西洋文法から導入した明治維新の精神構造から抜け出せていないのである。

◆ピリオド越えとコンマ越え

三上章は、助詞「は」の働きは節を越え(コンマ越え)、文さえ越える(ピリオド越え)ことが出来ると主張する。それは、文を越える「は」の、「が」以下の格助詞とは明らかにパワーが違うことの表れなのだ。三上がその証明に使うのは、誰もが知っている文学作品「我輩は猫である」の冒頭である。

我輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶して居る。

三上は、冒頭の題目「我輩は」の文はピリオドを3回にわたって越えている、と分析する。つまり、以下のような形で示せるのである。

我輩は
→ 猫である。
→ 名前はまだ無い。
→ どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。
→ 何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶して居る。

こう説明されると、「は」のスーパー助詞ぶりは明らかだろう。それぞれの述語との文法関係とは一切無関係のまま、「は」はひとつの文に係っては結び、その勢いを次へ次へと及ぼすことが出来るのだ。「は」が、文を越えるとは!

実は明治維新の西洋文法を土台にした学校文法の導入以来、「は」の「文を切り、文を越えて聞き手の注意を喚起する」という真の機能は、現在に至るまで日本人に理解されていないのである。これが学校文法や外国語としての日本語文法に正論として受け入れられる日は必ず来るだろう。しかし私には、残念ながらまだその日までの道のりは遠いと思われる。

◆クイズ 次の□にどんな助詞を入れると、最もいい俳句になりますか。(で・に・を・へ)の中から選びなさい。

米洗ふ 前□蛍が 二つ三つ

◆日英地名比較

英語では「地名(つまり空間の名前)」に「人名」を付けたがる。「する言語」英語は「舞台よりも役者に注目する」からだ。これは明らかに「空間名詞で人間を表現する」日本語の傾向と正反対の傾向である。

「空間(=舞台)」と「人間(=役者)」をめぐるこの対照的な傾向は、白人「開拓者」がそれまでの先住民族の地名をわざわざ「改名」した時にさらに顕著になる。観光バスの車窓に流れる美しいロッキー山脈を堪能しつつ、ガイドさんの話を聞きながら「改名とはまた、自然中心の世界観が、その正反対の、人間中心の世界観へ書き換えられた歴史でもあったのだな」と、ほろ苦い思いが胸に溢れたことを思い出す。

日本の最高峰といえば富士山だが、どんなに国のために貢献したと言っても、例えば「昨日の閣議で『富士山』は今後『吉田茂山』と改名することが決まった」などと発表されることは、日本では永遠にないだろう。

◆アメリカ人の苗字ベストテンの特徴

1 Smith   2 Johnson    3 Williams    4  Brown    5  Jones    6  Miller    7  Davis    8  Wilson    9  Anderson    10  Taylor

まず職業だ。Smithは鍛冶屋、Millerは粉屋(製粉業)、Taylorは服の仕立て屋である。この種の苗字は行為者としての発想から生まれたものだ。

ベストテン・リストにはBrownという身体的特徴に注目したものもあるが、その他6つは全て「父称」である。「・・・の息子」という訳で、これには2通りある。まず父親のファースト・ネームに直接「息子(son)」を付けるタイプで、Johnson、Wilson、Andersonの3つがそうした例だ。二番目のやり方はファースト・ネームに所有格の -sを付ける。Williams、Jones、Davisの3つがそうだ。これでベストテンが出揃った。

日本語の苗字が場所にこだわるとすれば、英語を始めとしてインド・ヨーロッパ語では自分の出自にこだわるといえる。その表れが「父称」で、これにはさまざまな表現形式がある。スコットランドではMac/Mc- がよく知られている。ハンバーガーのMcDonaldはson of Donald という訳だ。

◆「起きる」と「自分を起こす」

ちなみに仏語では、再帰動詞の多様という点では「する言葉」志向が英語以上に徹底されている。他動詞に目的語「・・・自分/自分」をつけて自動詞とする方法が一般化しているのだ。つまり、仏語で基本の意味を持つのは他動詞なのである。かくて、日本語なら「起きる」は「自分を起こす」、「寝る」は「自分を寝かす」、「思い出す」は「自分に思い出させる」などと直訳できる例が何百にも及んでいる。

***** 著者 *****

金谷武洋(かなや たけひろ)

1951年北海道北見市生まれ。 函館ラサール高校から1年浪人の後東京大学(文科II類)に入学。教養学部教養学科フランス分科を卒業。 国際ロータリークラブ奨学生としてカナダ、ケベック市のラヴァル大学に留学。同大学で言語学修士号を取得。1984年から2年間、アルジェリアで通訳とし て間組に勤務。1986年よりドイツのマールブルグ大学に留学。1987年にカナダに戻る。モントリオール大学で言語学博士号取得。 専門は類型論、日本語教育。 カナダ放送協会国際局などを経て、現在、モントリオール大学東アジア研究所日本語科科長。

ブログ: 金谷武洋の『日本語に主語はいらない』 英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を論破する

20080607

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コメント

なるほど。
ということは、

nono1 は本当は、 英語型だよ。

それは主体性と責任性が理解出来て、なじめるから。

私は、英語の主語が明確でかつ絶対必要条件であり、その動詞が
能動態であれ、受動態であれ、対象(object)に働きかけるという
ことで文の構成が完結するいう世界観を好む。

でも この日本に生を受け暮すうちに この日本の あいまいな
境い目の無い陰影のような 世界も 悪くないな (生きやすいな)
と思うように なった ^^

投稿: nono1 | 2008年6月13日 (金) 20時37分

★nono1さん、コメントありがとう、読書スイッチも見てくれてありがとう ^^

思考や発想が文法に影響を及ぼすなら、この先徐々に日本語は、「主体性と責任性が理解」しやすい話し方に変化するかも、なんて思ったりする。外に開かれた世界になれば、否が応でも求められる発想だと思うから。

まだ読んでいないけど、同じ著者の本に『英語にも主語はなかった』というのがある。現代英語の文法になる前の事が書いてあるようなので、興味がある。

で、自分を振り返って、、、本書に倣うなら、あたしは本来「『ある』言語的」な発想をする人間だったと思う。それが、自分でコミュニティを選べる年齢になってからは、「『する』言語的」な発想のほうが楽というか、ジレンマが少ないと思うようになった。 。。^^

投稿: さくらスイッチ | 2008年6月14日 (土) 00時04分

例えば、わたしはドップリ倭人であるけれど、生まれてすぐ米国人にさらわれ、NYKで育てられたとすると、英語脳になるんだろうね。その逆もしかり。信濃国で育てられた青い眼、金髪のオジサンが俳人になって、虫の声を聞き分けたりする。
いったん和語が身体に染みついた後、カナダに渡ったと思われる金谷氏はどうだったのだろうか?
単数複数を分離する英文法で育てば、日本語や中国語は誠に奇妙に見えるだろう。 見聞きする、言葉だけが、脳に侵入してくるのか(多分そうだろう)。日本人脳、米人脳、などは何歳くらいに仕上がるのか?3歳ぐらいには完璧に鋳型にはめられているのだと思うが。。

投稿: 古井戸 | 2008年6月16日 (月) 17時45分

★金谷氏は本書のあとがきに、

“ 海外に長く住むと、それまで当然だと思っていた世界観が、次第に揺らいでくる。いわゆる『母語離れ』である。そしてその代わりに、外国語とその世界観が自己の中心に膨らんでくる。もちろん、何歳で日本を出たかにもよるが、私のように成人してからの移住であっても、海外生活が20年の大台を超えると2つの世界観のバランスはかなり外国語寄りに傾くと言っていいだろう。 ”

と書いています。著者の場合、カナダで言語学や通訳を仕事としている事から、日常的に日・仏・英語で話し考えているため『母語離れ』が早かっただろうし、また逆に『母語離れ』が少なかったのではないのかな、と想像しています。

 
いわゆる習うより慣れろ式に言語を習得するのは、3歳までがベストのようですよね。その後、だんだんと慣れろ式の習得は難しくなり、13歳以降になると慣れろ式ではかなり身に付き難くなるため、習う式のほうが効率がいいようです。と、以前読んだ本には書いてありました(笑)。

それからすると、日本人脳、米人脳は13歳頃までに仕上がるということなのかな。 。。昔は、外国語を使うのは「読む」ためだったけど、現代では「話す」事も重要になっているので、外国語習得の方法(年齢)も変わって然るべき、なのかもしれませんね。

投稿: さくらスイッチ | 2008年6月17日 (火) 06時00分

本書を書いた金谷です。大変好意的に取り上げてくださって嬉しく思います。これからも三上文法を応援して発信を続けていきますので、どうぞよろしく。

投稿: たき | 2008年7月 2日 (水) 14時01分

★まさか、著者御本人からコメントを残して貰えるなんて! コメント、ありがとうございます。

私は「文法に沿っていない言葉はおかしい」と思っていましたが、本書を読んで「そうか言葉に沿っていない文法はおかしいんだ」と思いました。先に言葉ありき、という当たり前の事を実感し、私にとっては目からウロコの内容でした。

本書に出会えて良かったと思っています。

投稿: さくらスイッチ | 2008年7月 2日 (水) 20時25分

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