« 025『<食>で読むイギリス小説』 安達まみ/中川僚子・編著 初版2004年 | トップページ | 027『<インテリア>で読むイギリス小説』 久守和子/中川僚子・編著 初版2003年 »

2008年5月20日 (火)

026『<衣装>で読むイギリス小説』 久守和子/窪田憲子・編著 初版2004年

たとえば、テクストの中に置かれた一枚の衣服や、ひと皿の料理、一脚の椅子の意味をめぐって、テクストから漂流し、ある歴史的な文脈のなかにそれを追跡すると同時に、読み手の文化と照合する。再びテクストに立ち戻った時には、テクストが新たな相貌で動き出している。

20080518_3

・・・・・ 概要 ・・・・・

イギリス小説では衣装をどのように表象してきたのだろうか。紳士の国イギリスはジェントルマンにふさわしい衣装を考案し、背広の由来はロンドンのセヴィル街からきている。女性の衣装もエリザベス1世にみられるように長い間、歴史の表舞台を歩いてきた。自己を明確に表すメディアであると同時に、時代のメディアともなる衣装をイギリス小説の中に追っていくと、文化と文学の豊かな鉱脈がみえてくる。

・・・・・ 読むきっかけ&目的&感想 ・・・・・

ファッションを好きな女子は多い。かくいうあたしも好きだ。。。好きなファッションと似合うファッションと必要なファッションは微妙に違うので、いつもジレンマと闘いながらも購入計画を立てる。時に衝動買いもあるけどね。今のファッションばかりでなく、過去に遡ったファッションも好奇心をそそる。あたしのワードローブにあたしの好みや生活が見えるのと同じように、過去のファッションにも当時の流行や生活が透けて見えるからだ。

さくら好み ★★★★☆

女性の下半身を無いものにする(隠す)ための膨らんだロングスカート・・・、理想のウエストサイズが約42センチ・・・、鏡が一般的に普及するにつれてお洒落に目覚めていった・・・、女性の膝を美しいと思っていなかったシャネルのスカート丈・・・、登場したばかりのハイヒールが表現した女性像は頼りなさだった・・・

社会道徳が求める姿、社会的地位を誇示する姿、服装が与えるジェンダー感、社会情勢がもたらした機能性・・・など等、現代に通じる感覚もあるけど、現代以上にそれらが顕著なのが興味深かった。ファッションは楽しむもので、個人的センスの表現、という捉え方をあたしはしているけど、それに近い感覚は歴史的に見ると比較的新しいものだということもよく分かった。

・・・・・ 覚書 ・・・・・

聖書にみる<衣装>の誕生

エデンの園のアダムとエバ。禁じられた樹の実を食べ、裸であることが恥ずかしくて、それを隠すために<いちじくの葉>でつくった腰布が人間の最初の<衣装>だったことを聖書神話は語っている。そして、堕罪の罰としてエデンの園から追放するにあたって、神はアダムとエバに「皮の衣を作って着せ」た。

<いちじくの葉の腰布>はアダムとエバが腰を覆い隠すために自らつづり合わせて作ったもので、裸であることを自覚した者の羞恥心の象徴である。それに対して神の授けた<皮の衣>は、楽園を追われたアダムとエバが直面する自然の過酷さから守るための身体保護の防具と考えられる。

人間には二種類の身体経験があって、一つは生理的身体の経験であり、もう一つは社会的身体の経験である。この二つが一人の人間のなかで錯綜していることを指摘したのは人類学者のメアリ・ダグラスであるが、アダムとエバが身に纏ったという二種類の<衣装>は、<皮の衣>が生理的身体のためのもの、そして<いちじくの葉の腰布>が社会的身体のためのものということになろう。一方が身体保護、もう一方が「恥」の象徴だからである。

裸体像が表現する「naked(はだか)」と「nude(ヌード)」の違い

ブレイクが描く人間の「裸体像」が彼の生命主義の象徴的表現であることは確かであるが、彼の場合、本来着ているべき衣装を剥がされてとまどう「はだか」の肉体ではなく、始めから着衣を必要としない理想的人体、つまり「ヌード」なのである。このような裸体は、日常性を越えた理想美であり、すでにキリスト教公認以前、紀元前5世紀にギリシア人が発明した芸術形式であった。肉体というものは、それを正確に写生してそのまま芸術となるような主題ではなく、詩人の心、想像力の働きの中ではじめて完全な形をとることのできる形式であるということを、ブレイクはミケランジェロから学んでいた。

<衣装>というペルソナ(仮面)

われわれも社会のなかで生きていく際に、自分の裸の真実、つき動かす欲求、感情、衝動といったものを、多少とも覆うことのできるペルソナを必要とする。個人と社会との相互作用には、われわれのもっとも親密なものを隠す<いちじくの葉>が不可欠なのである。心理学的に言うと、ペルソナとは個人が社会から期待される「役割」にふさわしい仮面である。したがって個人が自分のまわりの環境に合わせるための個人装置と言ってもいいが、そこには恥と自尊心に関わる側面、人間の実存に関わる機能も含まれている。

衣服を替えることで、19世紀中流以上の家庭生活の一日は成り立っていた!

一日に7回着替えていた夫人の例 ①朝起きると花模様のドレッシング・ガウンに着替え、朝食をとる。 ②10時にはきっちりとした仕事着を身に着け、買い物にでかける。 ③帰宅して、日常着に替え前掛けをして、昼食の準備など家の仕事をする。 ④前掛けをはずし昼食。 ⑤午後は訪問のため良い服を着る。 ⑥帰宅するとティーガウンなどでリラックスする。 ⑦正餐のために着替える。

正餐には、家族どうしであっても着替えて食卓につくというのは、絵画や映画でもよく見かける場面である。

このような衣装生活が背景にあるので、衣服はその場にふさわしいものを身に着けることが重要だというTPOの観念が発達する。と同時にまた、時と場合によって変わる衣装にともない、人格や性格も変わりうる、という考え方が生まれる。

ファッション紹介ページが始まり人々は・・・ 今にも通じるビジネスモデル

19世紀英国は物資が出回り始めた時代であったとはいえ、衣服はまだまだ高価であった。衣装を新調するのは今よりもずっと大きな出来事であった。その際の手引きになったのがファッション・プレートである。雑誌やファッション関連商品の図録に掲載されたファッション紹介ページを指す。

今日に伝えられているファッション・プレートの始まりは、18世紀終わり頃にまで遡ることができる。版画に手彩色の時代は経費もかかったので、挿入される枚数も多くはなかった。情報はファッションの中心地パリ発信が重んじられた。当初は雑誌自体が高価であっただけに、発行部数も多くはなかった。

より多くの女性たちがファッション・プレートを目にすることになったのは、連載読み物や実用記事、書評・劇評などの教養記事も多い夫人総合雑誌『英国婦人の家庭』(1852-79)にファッション・プレートが挿入されるようになってからのことである。

発行者サミュエル・ビートンは、『ビートン夫人の家庭読本』の出版社として有名だが、それよりおよそ10年前から婦人雑誌『英国婦人の家庭』を発行していた。実は『ビートン夫人の家政読本』は、この雑誌の購読者層にむけて出版したのだ。1860年にリニューアルした際、ファッション・プレートを毎号1枚載せることになった。あわせてパリから送られるファッション通信を掲載した。この雑誌はパリ発の流行を手の届きそうなものに演出した。すなわち、パリに仕立てに行くことはできないし、パリの洋装店に注文することもできないが、パリ風のおしゃれに憧れる人々の願望を充たすことになった。

ファッション誌にもうひとつ重要なものとして、付録の型紙があった。ファッション・プレートは、型紙によって、眺めて楽しむもの世界から所有可能な対象に転換する。ある時期には、ファッション・プレートの洋服を作るための生地も提携店で販売し、生地代金も雑誌に掲載した。ファッション・プレートに刺激された読者が材料調達に苦労することのない周辺環境を整え、人々の流行意識を刺激することになった。

ファッション・プレートは現実の衣服見本ではない

ファッション・プレートは現実の衣服見本ではない。むしろ人が衣服にこめた願望をよりよく映し出すととらえるべきである。なかには着用不可能なものもあるし、また、実際の衣装に実例を見出せないファッション・プレートもある。

やがてファッション・プレートが既製服の宣伝広告に取って代わられる運命にあったのも、現実に着用する既製服の宣伝広告の方が、圧倒的に強く消費者の購買欲に訴えたからだ。

風邪が大流行するなどして衰退したファッション

ジェイン・オースティン(1775-1817)が小説を執筆していた1800年代前後には、芸術における新古典主義の影響やナポレオンの南欧遠征の影響などから、古代ギリシアやローマを意識した自然な身体のラインを利用したファッションが流行した。オースティン作品の映画などで登場するため、比較的よく知られているが、極端な薄着だったために風邪が大流行するなどして、まもなく衰退していった。
20080518_4b

後世では女性抑圧の象徴として捉えられがちだが発売当時は・・・

20080519 これまでのシルエットを保ったまま衣装の軽量化を可能にした金属性の「スケルトン・ペチコート」。軽くて弾力性のある金属をフープ状にして重ねた「下着」は、1856年に登場するや爆発的な人気を得て、瞬く間に労働者階級の女性に至るまで広く普及していった。

その鳥かご状の形からも、後世にはヴィクトリア時代の女性の抑圧の象徴として捉えられがちな「スケルトン・ペチコート」だが、発売当時は女性を重い下着から解放する革新的な発明だとして、おおいに歓迎された。

女性誌『英国婦人の家庭』にも、この金属製フープのおかげで「何枚ものペチコートの重さから解放され、またそれらが歩く時に脚に絡まりつくことの不自由からも解放された」と、賞賛の声が寄せられている。

*「スケルトン・ペチコート」もやがて「クリノリン」と呼ばれるようになる。

↓エリザベス1世(1592年ごろ)この頃に「クリノリン」は存在しない。。
Elizabethi

「クリノリン」が作る巨大なスカートは女性を殺す!?

女性たちの外出が頻繁になるとともに巨大なスカートによる交通事故や、引火事故など怪我人が続出し、1860年代に入ると死亡事故も起こるようになった。こうした事態を受けて、ヴィクトリア女王までもが事態を憂慮する声明を発表している。

1867年にはクリノンを原因とする怪我人は年に2万人に、死者も3千人にのぼっているとして、『英国婦人の家庭』でも「ロングドレスは女性を殺す」と報告されている。

モラルという視点からも懸念の声が高まっていく。当時のイギリスは現代の基準に換算すれば年間30%ともいわれる高度経済成長を誇っていたが、女性達のファッションへの狂奔は、資本主義の発展がイギリス女性の美徳である「利他」の心を失わせている顕れであるとして憂慮する知識人も少なくなかった。

数年にわたり様々な方面から物議を醸したクリノンだが、1867年を期にあっけなくその姿を消してしまう。なぜこれほど急速に衰退したのか、当時の人々にも謎だったようで、新聞や女性誌でも、一様に疑問が持たれている。一般誌『ワンス・ア・ウィーク』は具体的に要因を指摘し、若い女性たちが新しいファッションを持ち込んだと指摘している。

理想とされたウエストサイズは17インチ(約42センチ)!? お洒落は我慢?

「クリノリン」と入れ替わるようにして「タイトレイシング」、すなわちコルセットでウエストを過剰に締めるという習慣が定着していく。服飾史家の一般的な見解では、これまでは巨大なクリノリンによって相対的に細く見えていたウエストが、その衰退とともに太く見えるようになり、その結果、コルセットによる極端な緊縛が始まったとされている。

クリノンが下火になる1867年に、当時最大の部数を誇っていた女性誌『英国婦人の家庭』にコルセットによるウエストの緊縛(タイトレイシング)の是非を問う投稿がなされている。問題の投稿を行った女性は寄宿舎に娘と面会したところ、青白い顔に蜂のようなウエストをして別人と見まごうようだ。驚いて教師に事情を尋ねたところ、当の教師が「タイトレイシング」を強要していた。教師は母親の心配をものともせず、こう主張する。

いまだかつてないほど細いウエストが流行しているんですよ。田舎女みたいな粗野で不恰好なウエストをした女性が、立派な方々とのお付き合いに加わることなどできるわけがありません。

投稿の反響は一般誌や医学誌にも飛び火し、ヴィクトリア時代を通じて続く国民的な「タイトレイシング論争」を巻き起こした。ヴィクトリア時代に発足した郵便制度を背景にして、全国各地の読者からの意見が各誌を賑わせている。

興味深いことには女性達が自らすすんでタイトレイシングを行っているという点だ。他方で医者や知識人はもとより、一般の男性にもこうした風潮に眉を潜めている者は少なくなく、彼らからの投稿もしばしば見受けられる。

タイトレイシング支持派に理想とされたウエストのサイズは17インチ(約42センチ)で、女性たちの文字通り血の滲むような努力が綴られている。「はじめの数日の苦痛は大変なもの」であるが、細いウエストを手に入れる喜びはそれを補ってあまりある、と成功の喜びを語る女性が毎号のように登場する。

いづれにせよ、マスメディアの発展や大衆消費社会の本格的な展開のなかで女性たちがはじめて、身体や下着について公然と語り始めたこと自体が注目されよう。身体を否定してきた西洋女性の美意識は、社会全体の急速な変化とともに崩れ始めたのだ。

20080518_5

新しい病気「拒食症」

極端なタイトレイシングが流行するなかで、まもなく女性の健康に深刻な問題が生じるようになる。1872年にはロンドンとパリで相次いで拒食症が新しい病気として注目されている。「脇腹が切れた」、「気絶した」といった事故はもとより、貧血やヒステリーといった慢性病や、ついには死亡事故まで発生するようになった。

容姿への関心が高まった背景には自己客体化の手段の普及がある

ヴィクトリア時代になぜこれほどまでに容姿への関心が高まったのだろうか。その背景を考えると、第一にマスメディアの発展が挙げられる。

第二に、自己客体化の手段の普及が挙げられる。1845年に鏡税が撤廃されるまで、私たちに馴染みの平面ガラス鏡は大変な贅沢品であり、誰もが持てるものではなかった。1839年にフランスのダゲールによって発明された写真のインパクトも大きい。その後、写真館が増大し、肖像写真が普及する一方、女優のブロマイドなどが容易に手にはいるようになった。

こうして女性たちは自身の容姿をはっきりと客観視するとともに、美しいとされる身体の基準をも認識した。長く「内面の美しさ」が外見と密接に関係していると考えられていたが、こうして「外見の美しさ」が、内面から独立して評価されていくのである。

20世紀の身体意識へ・・・

タイトレイシングは20世紀にはいってもなお一部で続けられていたが、「正しい」身体教育を受けて育った少女達が成人するに従って、現代に繋がる拘束の少ない衣装や下着が着実に定着していった。

第一次世界大戦中には、シャネルが、膝下までの丈のスーツを発表し、20世紀ファッションの原型を提示する。シャネルは女性の膝は美しくないと考えていたため、パリのクチュリエたちも長くこれに従っていた。膝上のスカートが登場するのはミニスカートが旋風を起こす1960年代になる。

下着においても、拘束は確実にゆるやかになっていき、コルセットの上部が分離するような形でブラジャーが登場するなど、1930年代になると、現代女性の馴染みとなる下着の一式が定着した。

第二次世界大戦を経て女性の社会進出がいっそう進み、また住環境などの整備が進むなかで、アウターウェアとも変わらないくらいのファッション性を備えた下着が登場し、現代に至っている。

脚線美は男の属性だった!?

ルイ14世(1638-1715年)の肖像画を見てみたい。63歳(1701年)になった王が装飾的なハイヒールをはき、太ももまであらわにして、ポーズをとっているのは、決して倒錯的な狙いがあったわけではなく、王の気品と威厳とを見せるためのものなのである。
Louis_xiv_of_france_4
↑18世紀初頭    ↓19世紀初頭
20080518_4a_2

ハイヒールは中国でいう纏足!?

20080518_5a ハイヒールは1616年ごろ、まずフランスで一般に目につくよになったようだが、前のめりの小さな足どりで腰をふりながら歩かざるをえない高いハイヒールは、中国の纏足と同様、「女は無力な存在であって不安定で自立できない存在だから、男に頼らなければ生きていけないということを示す装置」にほかならない。

・・・・・ 著者 ・・・・・

江河徹 1926年生まれ フェリス女学院・立教大学名誉教授

岩田託子 1958年生まれ 中京大学国際英語学部教授

戸矢理衣奈 1973年生まれ フェリス女学院大学講師

坂井妙子 1964年生まれ 日本女子大学人間社会学部助教授

久守和子 1942年生まれ フェリス女学院大学文学部教授

太田良子 1939年生まれ 東洋英和女学院大学国際社会学部教授

窪田憲子 1946年生まれ 都留文科大学文学部教授

鷲見八重子 1941年生まれ 和洋女子大学人文学部教授

青木剛 1956年生まれ 明治学院大学文学部助教授

北条文緒 1935年生まれ 東京女子大学名誉教授

鈴木ふさ子 1970年生まれ 日本大学講師

中村邦生 1946年生まれ 大東文化大学文学部教授 作家

☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:*

<食>で読むイギリス小説』 安達まみ/中川僚子・編著 初版2004年
<インテリア>で読むイギリス小説』 久守和子/中川僚子・編著 初版2003年

20080510_2

|

« 025『<食>で読むイギリス小説』 安達まみ/中川僚子・編著 初版2004年 | トップページ | 027『<インテリア>で読むイギリス小説』 久守和子/中川僚子・編著 初版2003年 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 025『<食>で読むイギリス小説』 安達まみ/中川僚子・編著 初版2004年 | トップページ | 027『<インテリア>で読むイギリス小説』 久守和子/中川僚子・編著 初版2003年 »